第百二十九話「長州攻略編―蜘蛛の蜂起、功山寺の反転」
一
文久元年、五月。
梅雨の走りであろうか、下関の空は、朝から重く湿った雲に覆われていた。海峡を渡る風が、潮の匂いと、生臭い湿りとを運んでくる。遠く、関門の海では、北前船の帆が、灰色の空に、ぼんやりと霞んでいた。
関門の海峡を見下ろす一角に、越荷方の建物はあった。北前船の積荷を担保に金を貸し、あるいは委託で売りさばき、その手数料と利ざやで藩の裏の財布を肥やしてきた、長州の心臓部。だが今、その薄暗い帳場に満ちているのは、潤沢な富の気配ではなかった。
乾いた算盤の珠の音と――じわじわと首を絞められていく者の、押し殺した呻きであった。
越荷方の薄暗い帳場は、前日と変わらず、古帳簿の黴くさい匂いに満ちていた。
久坂玄瑞が突きつけた「裏帳簿」と冷酷な算盤の音が、すべてを洗い流してから、まだ一昼夜も経っていない。密貿易のからくりも、尊皇の寄進に見せかけた裏金も、藩士から掠め取った馳走米の闇流しも、すべては昨日のうちに白日の下へ引き摺り出されていた。
極めつけは、天朝物産による決済変更の報だった。洋銀とポンド手形が使えない椋梨の粗悪な綿花は、国際市場から瞬時に締め出された。
二
その様子を、一段高い座から、静かに見下ろす男がいた。
周布政之助。長州正義派の重鎮であり、藩政を動かす実力者の一人である。藩校・明倫館で槍も剣も修めた、堂々たる体躯の偉丈夫だが、その厳めしい眉根には、いまだ、ぬぐいきれぬ惑いが刻まれていた。
(……ほんとに、これでええんじゃろか)
彼は内心で、自問していた。
椋梨を追い詰めていく、この久坂たちの手並みは、確かに見事だ。だが、その背後で糸を引いているのは、江戸にいる公家の姫だという。世界の市場。異国の通貨。予見。
――そんな、絵空事のような力に、長州一藩の命運を、まるごと預けてよいものか。万が一、それが、よそ者の口車であったなら。長州は取り返しのつかぬ深みへと、沈むのではないか。
だが、彼の目の前で起きていることは、口車などという、生易しいものではなかった。
長年、この藩の闇を鉄の意志で握り続けてきた椋梨が――
一滴の血も流されぬまま、ただ帳面と算盤だけで、見る間に、無力な老人へと変わり果てていく。
あの、誰も正面から逆らえなかった俗論派の領袖が…だ。それは、周布がこれまで見てきた、いかなる政争とも…いかなる刃の争いとも、まるで質が違っていた。新しい何かが、古い何かを根こそぎ、塗り替えようとしている。その変化の只中に、自分は今、立っているのだ。
その確かな手応えだけは、彼の惑いの底に、ぬぐいがたく、横たわっていた。
その惑いを見透かしたように、久坂がすっと立ち上がり、周布の前へと進み出た。
「周布様。疑われるんはもっともなこと。ほいじゃったら…これを」
彼が両手で、うやうやしく差し出したのは、一つの茶壺であった。京の近衛家から贈られた、宇治の銘茶『鷹奥』。だが、周布の目を釘付けにしたのは、茶ではない。その壺を包む、組紐の「結び目」であった。
花を象り、幾重にも捻られ、複雑に絡み合った――見たこともない結び。
「これは……公家の結びか」
「その通りです。近衛家に代々伝わっちょる、秘伝の封であります。一度解きゃあ、二度と、同じ形にゃあ戻りませぬ」
久坂の声が、低く、しかし重く響いた。
「このきびり目が、寸分の狂いものう保たれちょる。そりゃあすなわち――この品が、京の近衛様の御手を発って以来、ただの一度も、誰の手にも触れられちょらん、ちゅう証。この背後にゃあ、朝廷の最高の権威――五摂家筆頭、近衛家が、まるごと付いちょるんです」
周布の喉が、ごくりと鳴った。
武士であればこそ、分かった。これほどの結びは、付け焼き刃で真似できるものではない。幼き頃から、その指に覚え込ませた者でなければ、決して結べぬ。言葉は、いくらでも偽れる。だが、この結び目だけは、偽れぬ。すなわちこれは、はるか頭上の天の意志が、確かに、この自分の手の届くところまで、降りてきたことの、揺るぎなき物証であった。
彼は震える指を伸ばし、その結び目にそっと触れた。固くそれでいて、どこまでも繊細な絹の感触。一度でもこれを解けば、二度と元へは戻らぬ。それはまるで――この企てそのものが、もはや、誰にも後戻りの許されぬ一本道に入ったことを、無言で告げているかのようであった。
長州の片田舎で、藩論の荒波に揉まれ続けてきた、この情熱の人。その厚い胸の奥で、長く渦巻いていた惑いが、すうっと…潮が引くように消えていく。
彼はおもむろに、その堂々たる背筋を、しゃんと正した。惑いは、もう消えていた。
「……分かった。この周布政之助、はー何も問わん。長州の先の世、この命、賭けさせてもらおう」
藩の中枢が今、椋梨ら俗論派の手を、完全に離れた瞬間であった。
三
その夜。
萩の城下の、人目を忍ぶ一軒家。俗論派の密議所には、煤けた行灯の灯が、陰気に揺れていた。雨戸は固く閉ざされ、外の雨音だけが、くぐもって聞こえてくる。畳は黴くさく、部屋の隅には、埃をかぶった古道具が、うずたかく積まれていた。かつて藩政を握った男が、今や、こんな吹き溜まりのような部屋で、密談を交わすしかない。それだけで、椋梨の凋落のほどが知れた。
経済の根を断たれ、藩政の中枢からも弾き出された椋梨藤太は、焦燥に駆られた獣のように、その狭い座敷で、向かい合っていた。一人は幕府から差し向けられた、能面のように表情を消した密使。もう一人は上海・長崎の経路で暗躍する、英仏系の貿易仲介人――胡散臭い笑みを絶やさぬ、異国の商人であった。
ことり…と。
その貿易仲介人が、机の上に、何かを置いた。
銀色に鈍く光る、貨幣の束であった。新式の紙の金などではない。東アジアの交易で、誰もが値打ちを認める基軸の通貨――メキシコ銀貨、すなわち「洋銀」である。約二十七匁の、まじりけのない純銀。それが、行灯の灯を受けて、ずしりとした重みとともに、椋梨の眼前で、妖しく輝いていた。さらにその傍らには、上海の商館が発行したという、為替手形の束が添えられている。
貿易仲介人が、その手形を指先で、とんとんと叩いてみせた。浅黒い顔に、人懐こい笑みを貼り付けた、抜け目のない男であった。流暢ではあるが、どこか歪んだ日本語で、彼は囁く。
「これは、ロンドンの、シティと繋がっておりますよ、椋梨様。世界の、金の流れ、ど真ん中です。これさえあれば、武器でも、軍艦でも、どこからでも、買えます。あなたの長州を、誰も、馬鹿にできなくなる」
"It doth connect directly with the City of London, Lord Mukunashi. Here lieth the very heart of the world’s golden tide. Possessing this, ye shall purchase cannons or warships from any quarter of the globe. No man shall ever again hold thy Choshu in contempt."
その言葉の一つ一つが、追い詰められた老人の、虚ろな胸の隙間へと、甘く滑らかに、染み込んでいった。
幕府の密使が、その後を引き取るように、ぞっとするほど低い声で、囁いた。
「正義派さえ一掃すれば、長州の藩政の復権は、幕府が黙認いたしましょう。その報酬が――この洋銀と、上海の商館が発行する、信用の手形にございます。これだけあれば武器も兵も、いかようにも整えられる。それに…この手形をお持ちになれば、いずれ、本物の金にも換えられますぞ」
甘い言葉であった。
だが、その実態は、銀の相場と、刻一刻と移ろう国際の情勢に、強く左右される、投機性の高い代物にすぎなかった。戦乱と、情報の操作次第で、その価値は、いつでも、音もなく崩れ落ちる。見かけだけの危うい富。蜘蛛の糸のように、頼りなくそして、絡め取るためのものであった。
四
しかし椋梨には、それが見えなかった。
いや、見えるはずもなかったのだ。
米の石高と、金銀の現物の取引しか知らぬ、古い感覚の武士。その彼の目には、目の前で鈍く光る本物の銀貨と、「大いなる外国の商会」が発行したという厳めしい手形が、それだけで、絶対の価値を持つもののように映った。
(これじゃ。これこそが……攘夷でも、佐幕でもない。藩を、真に救う、確かな財源じゃ)
彼は知る由もなかった。欧米が徐々に金本位制へと移り、銀の値打ちが、長い目で見れば、坂を転げ落ちつつあることを。そしてその手形とて、発行元の商館が、戦争か投機の失敗で一度傾けば、たちまち、ただの紙屑――不渡りの「インクの染み」に変わり果てることを。
目の前の銀は、確かに本物だ。だが、その「本物の銀」を裏付けに発行された手形は、もはや、本物の銀ではない。それは商館という、海の向こうの誰とも知れぬ者の「信用」という、危うい砂上に建てられた、見せかけの楼閣にすぎぬ。米の石高と、金銀の現物しか知らぬ古い武士には、その紙一重の、しかし致命的な違いが、どうしても見えなかった。彼の目には、ただ目に見える銀の重みと、手形に並ぶ厳めしい数字だけが、絶対の真実として映っていた。
奇しくもそれは、いつぞや糸子が以前、商人たちに語ったという警告と、寸分違わぬ罠であった。
――目に見える金銀の裏付けを持たぬ紙は、発行元の信用が消えれば、ただのゴミ。フランスの革命のとき、『アッシニア』という紙の金が、まさにそうして、紙屑になり果てた。
糸子の言葉は、本来、紙幣の信用崩壊への警鐘であった。だが、情報を持たぬ椋梨は、それをまるで逆さまに読み違えた。「外国の富こそが、常に正しい」と。「目に見える銀は、決して裏切らぬ」と。理解の格差が、国際の金融への無知が、今、一人の宿老を、静かに破滅の淵へと突き落としていく。
椋梨は、震える手で筆を執り、武器の密輸と武力による鎮圧の契約書に、自らの名を記した。
筆を置いたその瞬間、自分でも、得体の知れぬ昂揚が、胸の底から込み上げてくるのを感じた。これで、力が手に入る。久坂の算盤も、あの天朝物産所の行いも、所詮は刃の前では、ただの無力な存在にすぎぬ。鉄と血の前では、理屈など抗えないのだ――。彼は、そう、自らに言い聞かせた。否、言い聞かせねば、立っていられなかった。
(わしは……長州藩を救うのじゃ。徳川ちゅう、世界そのもののごとき巨大な仕組みに逆らやあ、毛利の家は、物理的に滅びる。あの若造どもの暴走を、ここで断たんにゃあ、長州は終わる。こりゃあ……こりゃあ、藩のための合理的な、正しい選択なのじゃ)
それが正気の沙汰か否かを問う者は、この老いた男の傍らには、誰もいなかった。
もはや後戻りはできぬ。
「……ふん。どねえせ、こんままじゃったら、切腹を待つだけのことっちゃ」
彼は低く吐き捨てた。その濁った瞳の奥で、追い詰められた者の狂気が、ぎらりと灯る。
「なら――高杉、久坂、吉田も…松下村塾に居る、わやな奴らも。なにもかもまとめて……この萩の闇の底に、沈めてやるけぇ」
五
時を同じくして、はるか東。
江戸、一橋上屋敷の奥御殿は、しんと静まり返っていた。
文机の前で、糸子は一つの懐中時計を白い掌の上に乗せ、じっとその秒針の動きを見つめていた。海の向こうから渡ってきた、精巧な舶来の品。カチカチカチ……と時を刻む微かな音だけが、雨の気配を孕んだ部屋に、静かに響いている。
あどけなさの残る面立ちは、行灯の灯を受けて、まるで精巧な雛人形のように白く、整っている。だが、その秒針を追う切れ長の双眸だけは――人形のそれとは、まるで違った。冷たく底が見えず、まるで張り巡らせた蜘蛛の巣の分かれ道を、一つずつ冷徹に吟味しているかのような、仄暗い光をたたえていた。
彼女はもう一方の手で、すっかり冷め切った緑茶を、こくりと啜った。茶が温かいか冷たいかなど、もはやどうでもよいことであった。彼女の関心はただ一つ。今この瞬間、はるか西の地で、自分が張った「いくつもの網」に、獲物が足をとられているか否か。それだけであった。
「……そろそろ、でございますね」
誰に言うともなく、糸子は呟いた。その傍らには、無言のまま、石像のように控える近藤勇の姿があった。
「下関の割替所で、椋梨たちがこっそりと進めておりました武器の調達。……近藤殿、人間というものは、逃げ道がいくつもあるうちは、決して博打を打たないものでございます。だから、道を狭めて差し上げました。久坂たちに監査の指示を出したのは、そのための最初の一突きに過ぎませぬ」
糸子は懐中時計を指先で弄びながら、小さく息を吐いた。
「もし、椋梨が大人しく監査を受け入れたなら、そのまま不正を暴いて失脚させればよい。……けれど、あの男の器量では、必ず裏で隠蔽に動く。そのための資金決済の線を、久坂たちがちょうど今ごろ、完全に凍結している頃合いでございます。資金を断たれ、退路を塞がれ、絶望した椋梨は……もはや合法の手段では立ち行かぬと悟り、こちらがわざと見逃した『武力決起』という、いちばん狭い泥沼へ飛び込むしかなくなるのでごさいます」
「……萩の日和は、雨だと宜しゅうございます」
近藤がぽつりと返した。現場の状況を思っての言葉だった。
「ええ。多分…姫様の願い通り、雨が降りましょう」
「姫様は日頃の行いが、宜しゅうございますからな」
「ありがとう存じます。近藤勇」
糸子は微笑んだ。その笑みには、狂気よりも、どこか冷徹な計算の美しさがあった。
「火縄もゲベールも、湿ればただの鉄の棒。あの者たちが頼みとする数の暴力は、その大半を、雨に殺されましょう。もっとも……天候ばかりは、わたくしにも操作できません。もし雨が降らねば、それはそれ。長州の地理を絞り、伏兵が挟撃できる狭路へと椋梨の軍勢が誘い込まれるよう、別の罠も仕込んでありまする。どれか一つが外れても、次の網が引っかかる。……現地の方々が、泥まみれで掴み取ってくださるはずでござります」
近藤は、答えなかった。ただ、その冷徹な目に、畏怖の色だけが、わずかに滲む。
彼は知っていた。この姫が、かなり前から、下関の監査を「いつ始めるか」の選択肢を、血を吐くような思いで泥臭く想定していたことを。
京の近衛忠房が、わずか三十名の供を連れて、朝廷の最高の上使として長州へと突入する――その「到着の予測の幅」に合わせ、敵がどう動き、どう破滅するか。糸子は、父の旅路に何日かの遅れが生じることも織り込み済みで、久坂への指令の日付を、幅を持たせて調整していたのだ。
決して、未来を予知しているわけではない。
人間が窮地に陥ったとき、どちらに逃げたくなるか。その心の動きを、執拗なまでに何度も予測し、すべての退路に先回りして罠を置いていったのだ。それは一日の狂いもない予言などではなく、敵の歩幅を無理やりこちらの都合に「合わせにいかせる」という、悪魔的な誘導であった。
近藤は、これまで数少ない修羅場をくぐり抜けてきた男であった。だからこそ、刀でも銃でもない、この姫君が振るう最も恐ろしい武器の本質がよく分かった。
――盤面のすべてが、追い詰められて、最後に選ばざるを得なくなる「刻」。それこそが、彼女の戦場なのだ。
「ふ、ふふ……」
ふと、糸子の唇から、堪えきれぬような、押し殺した笑いが漏れた。それは、少女のものとも思えぬ、底知れぬ凄みを含んでいた。
「幕府の密使たちが、泥縄で慌てて動く足の遅さを笑い、算盤の弾き出す『破綻の曲線』だけで全てを見通した気になっては、こちらが足元をすくわれまする。人は時にわたくしの想定を遥かに超えて愚かで、時に執念深く、恐ろしいほどに粘る……」
「こちらの描いた絵図など、彼らのむき出しの生存本能の前には、容易くへし折られる不確かなもの。だからこそ、一寸の油断も許されぬ底知れぬ存在として、わたくしは彼らを心の底から恐れております」
「――さあ、お父様。軍勢なぞ、一兵も要りませぬ、などと慢心してはなりませぬ。人間という予測不能なものを相手にするからこそ、あらゆる『もしも』を泥臭く考え抜き、幾重もの対策を血の滲む思いで積み上げるのです。千年の格式という、この国で『最も大きな看板』を動かすための万全の布石を、今こそ、長州の者たちの前に、完璧に敷き詰めて見せてやりましょう」
糸子にとって『太平洋の窓』は、もはや、ただの空白ではなかった。何が起こるか分からない人間の不確実さを、あらゆる『もしも』を想定し尽くした泥臭い思考の量で、力任せに塗り潰していくための――『時間という名の盾』であった
六
文久元年、五月下旬。
京から長州へ。
山陽道を、文字通り「疾風」のごとき速さで、西へ西へと駆け抜ける、一団があった。
砂塵を巻き上げ、宿場の替え馬を最優先で乗り継ぎ、夜明け前から日没まで、休む間もなく駆け続ける。その騎影は、わずか三十。軍勢を率いれば、幕府を無用に刺激し、何より、速度が鈍る。ゆえに、あえて選んだ「最小にして、最速」の布陣であった。
その先頭を、馬上で揺られながら駆けるのは、近衛忠房。
数刻も前から、伝令の早打ちが、行列に先んじて街道を駆けていた。「勅使、通る」――その先触れひとつで、宿場という宿場は、他の大名や旅人をすべて脇へ退かせ、最良の替え馬と人足を、即座に差し出す。関所すらも、朝廷の証印を見せれば、止まることなく、すり抜けられた。それは、武家には決して許されぬ、朝廷の使者だけが持つ、絶大な特権であった。一行はその特権を、限界まで使い尽くし、常軌を逸した速さで、ひたすら西を目指していた。
五摂家筆頭の当主にふさわしい、穏やかで品のある面立ち。だが、道中着に身を包んだその懐には、漆塗りの御箱が、しっかりと抱かれていた。中に収められているのは――御門、すなわち孝明天皇より直々に拝領した、一通の【綸旨】。娘・糸子に、長州の全権を握らせるための、恐るべき切り札であった。
その綸旨には、こう記されていた。
『――近衛糸子を以て、朝廷の使者として遣わすものなり。
長州藩においては、速やかにこれに随身し、事の大小を問わず、
全面をもって協力いたすべき旨、申し下だすものなり。』
たったこれだけ……
だが、この数行が持つ意味は、計り知れなかった。これが長州の地に下されたが最後、長州藩は今後、事の大小を問わず、「糸子の命令」を、そのまま「朝廷の意志」として、絶対に随わねばならなくなる。武力の一兵も伴わぬ、ただ一枚の紙きれ。それが、長州という巨大な藩を、丸ごと一人の少女の掌中へと収める――凶悪きわまる、盤面のひっくり返しであった。
考えてみれば、前代未聞の所業であった。
未婚の、それも、まだ姫君を、朝廷の全権の使者に据える。そのような無理を、御門に奏上し、首を縦に振らせる――それだけでも、本来であれば、近衛家千年の家格を、根こそぎ賭けるに等しい、危うい綱渡りである。一つ間違えば、朝廷内の他家から、いかなる讒言を浴びせられるか、知れたものではない。
だが忠房は、それを為した。娘の描く絵図のその途方もない先見を信じ、自らが矢面に立ち、泥をかぶる覚悟で。御箱に納められたこの一通は、いわば、父が娘のために差し出した、千年の家格そのものであった。
七
やがて、忠房の一行は、長州の国境――防府、三田尻の地を、その視界に捉えた。
道中、すれ違う諸藩の武士たちの、その反応こそが、千年の格式の重みを、何より雄弁に物語っていた。
たった三十騎。供回りも、ささやかなもの。それなのに――行列の先頭に翻る、近衛家の家紋を一目見るなり、屈強な武士たちが、顔色を変え、慌てて道の脇へと退き、深々と頭を垂れて平伏していくのである。中には、震える者すらいた。
ある宿場では、土地の代官が、転がるように飛び出してきて、泥に額をこすりつけた。沿道の村では、知らせを聞きつけた百姓たちが、総出で道を掃き清め、ひれ伏していた。武力では、決して測れぬ。金でも、決して買えぬ。ただ「家」というものに、千年の歳月をかけて染み込んだ、目に見えぬ権威。その圧倒的な力の前に、田舎の侍たちは、刀の柄に手をかけることすら忘れ、ただ、地に伏すしかなかった。
その光景を忠房は、馬上から静かに見渡していた。
穏やかなその横顔の内側で、彼は遠く江戸にいるであろう、愛娘の顔を思い描いた。
(糸子よ。お前の願い…この父には、ようっく分かっておるぞ)
彼の口元に苦笑とも、誇りともつかぬ、微かな笑みが浮かんだ。
(我娘を、朝廷の全権の使者に据えるなど――ハリス以来の…前代未聞の出来事よ。なれどその無茶を、御門様はお聞きくだされた。娘の進む道を切り開いてやるぞ。それが、父親の…そして五摂家筆頭の当主の役目というものよ)
彼は、御箱を抱く腕に、ぐっと力を込めた。
(見ておれよ。武力しか誇れぬ田舎大名にも、小賢しい幕府の使者にも。この近衛が背負う、千年の重みというものを――篤と、見せてくれよう!)
雨が、近づいていた。
西の空の彼方、長州の方角が、墨を流したように暗く沈んでいる。あの空の下で今宵、何かが起きる。忠房にはそれが、肌で分かった。娘の想いは、いつもこうして寸分の狂いもなく、刻を合わせてくる。
彼は、御箱を抱く腕に、いっそう力を込め、馬の腹を、軽く蹴った。三十の騎影が、砂塵と飛沫を上げて、なお速度を増す。京を発って幾日。
千年の格式という名の最も静かで、最も重い刃が――今、長州の喉元へと迫りつつあった。
八
その頃、萩の城下には、激しい雨が降り始めていた。
叩きつける雨脚が、軒を道を…容赦なく打ち据えている。
城下の片隅、うらぶれた旅籠の一室に、一人の旅商人風の男が、潜んでいた。変名を「田中弥次郎」。その正体は、糸子直属の守護組織・旭狼衛をね副隊長、土方歳三その人であった。彼は、江戸を発ってこの地に潜入し闇の中から、すべての糸を手繰っていたのだ。
窓の障子に雨の影が、幾筋も滑り落ちていく。土方は、その音に耳を澄ましながら、城下の各所で調べ上げた情報を、頭の中で冷徹に組み上げていた。椋梨が場末で異人と接触したこと。武装した藩士が、ひそかに集められていること。その狙いが松下村塾であること。――すべての点が、一本の線へと繋がった。
(読み通りだ。寸分の狂いもねえ)
彼はわずかに、目を細めた。感情を排した、この実務家の男ですら、認めざるを得ない。あの姫の描いた絵図は、いつも現実のほうが、後から追いついてくる。
(椋梨が動く。今宵だ! 間違いない)
彼の指令はただちに、雨の闇へと放たれた。
その指令を受け、三つの影が、音もなく動き始めた。
京支部から、この長州の地へと送り込まれた、旭狼衛の精鋭。山南敬助が「若き過激派どもの暴発を、内から抑え護衛する」ために、わざわざ選び抜いた、三人の手練れであった。
一人は、後ろで雑に結わえた白髪を雨に濡らし、隊服の羽織を片肩に引っ掛けた、中性的な青年――伊庭宗次郎。「京の白疾風」と呼ばれる、速さの化身。
「世直しだの、攘夷だの。……くだらないね」
彼は軒先で、感情の乏しい声で、ぽつりと呟いた。
「僕はただ、僕を、まっとうな給金で雇ってくれた、山南先生と、近衛様のために。この手を、血で染めるだけさ」
二人目は、見上げるような巨躯であった。二メートル近い背丈に、浅黒い肌。顔や腕には、数々の修羅場をくぐり抜けた傷跡が、生々しく刻まれている。蓄えた顎髭から、雨の雫が滴り落ちていた。権藤凱山――「鉄壁の凱山」。常人なら両手でも持て余す大太刀を、まるで木の枝のように片手に提げ、彼は、無言で、塾の表口へと回り込んでいく。その圧倒的な質量だけで、見る者の喉を、ひりつかせるような威圧があった。
「……ふん。攘夷だ尊王だと喚いて、町に火を放つだけのガキども、か」
彼は、ぼそりと呟いた。普段は、京の町人たちから「旭狼衛の大きな人」と慕われる、面倒見のよい兄貴分。だが、その瞳の奥には、力なき正義を無能と断じ、優しさなき力を凶器と切り捨てる、揺るがぬ一本の芯があった。
「守るべきものを違えた力は、ただの、災いよ。……今宵は、その違えた連中の、相手をしてやらにゃならんな」
そして、三人目は――そこにいることすら、定かではなかった。
猫背の陰気な影。長い前髪が、片目を完全に覆い隠している。死んだ魚のように濁ったもう片方の目だけが、夜の闇の中で、異様な光を帯び始めていた。黒い覆面で口元を覆ったその男――薄宿梟介、「薄暮の梟」。彼は闇に溶けるように地を這い、闇に紛れて移動する、椋梨の武装した藩士たちの足音を、その尋常ならざる聴覚で、一つ残らず、捉えていた。
「……ちっ。ぞろぞろと、湧いてきやがる。それに、この、湿った金属の擦れる音は……異国の銃か。なるほど、密議所の手土産は、これだったわけだ」
薄宿は濁った片目を細め、忌々しげに舌打ちした。元は裏社会の始末屋。綺麗事では人は救えぬが、金と裏工作なら確実に人を動かせる――そう嘯くこの皮肉屋にとって、雨夜の暗殺ほど、得意とする仕事はなかった。
「やれやれ。雨ん中、こんな数の泥仕事とは。手当は、たっぷり弾んでもらうぞ……山南の旦那」
三者三様であった。
速さを極めた白疾風は、軒から軒へと、音もなく跳び、屋根の上の闇へと溶けた。鉄壁の大男は、塾の表口に、巨木のごとく根を張った。そして、薄暮の梟は、床下の闇へと、ぬるりと身を沈める。誰一人、互いに目配せすら交わさない。だがそれぞれが、自らの持ち場を寸分の狂いもなく、心得ていた。
松陰の説く志も、高杉の燃やす炎も、彼らには、関わりのないことであった。彼らを束ねるのは、ただ一つ――「まっとうな給金」と、それに見合う「大義」。巨額な金を動かす、あの見えざる影。その手の平の上で踊ることを、彼らはむしろ、楽しんでさえいた。
雨は、なお、激しさを増していく。
その雨幕の向こうで、百人の藩士と、三匹の獣が――静かに間合いを、詰め始めていた。
九
その雨の音を、塾の内側で聞いていた者たちがいた。
萩の城下を外れた、松本村。
粗末な瓦屋根を、滝のような雨が、ばらばらと打ち鳴らしている。庭は、たちまち深い泥濘と化し、軒からは、幾筋もの雨垂れが、糸を引いて流れ落ちていた。墨を流したような闇の中、松下村塾の小さな窓だけが、ぼんやりと頼りなげな灯を滲ませている。
粗末な塾であった。
名のある藩校のような、立派な構えなど、どこにもない。土壁は剥がれ、畳は擦り切れ、書物だけが、所狭しと積まれている。だが、この、雨に濡れたみすぼらしい小屋から、やがてこの国の明日を背負う者たちが、次々と巣立っていく――そう思えば、ここに満ちる熱は、いかなる豪奢な御殿のそれをも、凌いでいた。今宵、その熱の灯を闇が呑み込もうとしている。
その灯の下、一室には、ぴんと張り詰めた緊張が満ちていた。
部屋の隅で、久坂玄瑞が、懐に分厚い帳簿を忍ばせ、一本の槍の穂先を、布で静かに拭っていた。越荷方で押収した、すべての不正を記した、あの証拠の帳簿である。
「算盤で、奴らを打ち負かした。じゃが奴らは、それを認めはせん」
久坂は、低く呟いた。その横顔に、もはや、かつての書生の青さはない。
「ならば、次はこの命で証明するまでよ。『新しき世の論理』は、刀でも決して消せぬということを」
彼は布を置き懐の帳簿に、そっと手を当てた。
この一冊のために、何人もの商人たちが、夜を徹して算盤を弾いた。この一冊のために、椋梨は理を失い、刃を抜いた。ならば、たとえこの身が斬り刻まれようとも、この帳面だけは、守り抜く。数字が、刀に勝つ。その一事を命を懸けて、この目で見届ける――それが、かつて「天そのもの」と仰いだあの姫君に、忠誠を誓った者のせめてもの務めであった。
(姫様。あなたが描いたものの、その最後の一手は……このわしが確かに繋ぎましょう)
雨音がいっそう、激しくなった。庭の泥濘を踏む足音がもうすぐそこまで、迫っている。
そして――その張り詰めた静寂を、ぽろんと、一つの撥の音が破った。
高杉晋作であった。壁にもたれ、片膝を立てて、三味線を抱えている。迫り来る何かの足音を、雨音の向こうに聞き取りながら、彼はおもむろに、弦を激しく掻き鳴らし始めた。その瞳にはすでに爛々とした、危ういまでの炎が燃えている。
「ふ……ふふ。おもしろき、こともなき夜に」
べべんと、ひときわ高く、撥が鳴った。
「面白い奴らが、ぞろぞろと、集まってきたのう」
その不敵な三味線の音に、若い塾生の一人が、たまらず、声を震わせた。
「た、高杉さん……こんな時になぜ……」
「なぜじゃと?」
高杉は、撥を持つ手を止めず、にやりと、口の端を吊り上げた。
「怯えて震えるのも、笑うて待つのも、どうせ同じ夜じゃ。ならば、わしは、面白いほうを選ぶ。……それにのう」
彼の瞳の炎が、ひときわ、強く揺らめいた。
「あの算盤侍――久坂が、命を懸けて守ろうとしちょる、その懐の帳面。あれがこの国の明日を、根こそぎ変える。そう思えばこんな夜ですら、悪うない。退屈するよりはよっぽどな」
怯える若い塾生たちが、身を寄せ合って、震えている。
その前に、静かに歩み出た影があった。吉田松陰である。
彼は、情熱を内に秘めた双眸で、その怯えた若者たちを、ゆっくりと見渡した。
十
その時。
雨の闇の向こうに、ぼうっぼうっと…いくつもの炎が、滲んだ。
松明であった。
雨をものともせず燃え盛る、無数の松明の炎。それが見る間に、松下村塾をぐるりと取り囲んでいく。炎に照らし出されたのは、桐油合羽を羽織った百を超える、武装した人間の群れであった。紙や布に桐の油を塗り込んだ、防水の合羽。それを通して雨に混じり、ツンと鼻を刺す独特の油臭さが、あたりにねっとりと漂い始める。
しゅしゅ…と。
雨の中で、無数の桐油合羽が、互いに擦れ合う、不気味な音。ぴちゃぴちゃと…泥濘を踏みしだく、重い足音。それらが、塾を取り囲む輪となって、じりじりと、近づいてくる。塾の中の者たちには、姿は見えぬ。ただ滲んだ松明の炎と、その無数の足音と擦れる音だけが、確実に死の包囲が縮まっていることを、告げていた。
その先頭に、馬上の椋梨藤太がいた。
雨に濡れた顔は、松明の炎を受けて、赤鬼のごとく歪んでいる。経済で去勢され、政治の中枢からも追われ、もはやすがるものは、この数の暴力しか、残されていなかった。雨水が白髪を伝い、頬を顎を滴り落ちていく。だが、彼はそれを拭おうともしなかった。ただ、ぎらぎらと血走った目で、塾の小さな灯を睨みつけている。
(あそこにおる。わしを、四十年かけて築いた銭の道もろとも葬り去った……あの算盤侍が。証拠の帳面が。あれさえ消えれば。あれさえ闇に沈めてしまえば……わしはまだ、やり直せるはずじゃ!)
それが、もはや成り立たぬ妄執であることを、彼自身、心の底では、気づいていたのかもしれない。だが気づいてしまえば、立っていられなかった。ゆえに彼は、考えることをやめた。ただ力を、振るうことだけを選んだ。
彼の傍らで、俗論派の軍監が、抜き放った刀を、雨空高く、振りかざした。
「不逞の浪人どもよ! 一人残らず斬り捨てい! 死体は川にでも、捨てておけ!」
怒号と喊声が、雨音を引き裂いた。
塾を取り囲む包囲の輪が、じりじりと狭まっていく。泥を踏みしだく、無数の足音。鯉口を切る、不気味な音。雨に濡れた百を超える殺気が、たった一棟の粗末な小屋へと、ひたひたと収束していく。
塾の中の塾生たちは、その気配に、声を呑んだ。障子一枚を隔てた向こうに、自分たちの命を刈り取ろうとする、百の刃がある。心の臓が、早鐘のように打つ。誰かの押し殺した嗚咽が漏れた。
塾の灯を狙って何人かの兵が、銃の引き金に、指をかけた。
だが――。
かちりかちり…と、虚しい音が鳴っただけで、銃口は、火を噴かなかった。
「……っ、不発じゃと!?」
一人の兵が、信じられぬという顔で、銃を見下ろす。当然であった。この豪雨である。火皿の火薬は湿り、点火の雷管にも、容赦なく雨水が染み込んでいた。火縄もゲベールもこの水の中では、ただの濡れた鉄の棒にすぎなかった。
十一
「チッ……火が、狂うたか!」
椋梨が、苛立たしげに、吐き捨てた。だが彼には、もとより頼みの「数」があった。
「構わん! 銃が駄目なら、刀じゃ! 斬り込めぇっ!」
その号令とともに、桐油合羽の群れが、いっせいに抜刀した。
雨に濡れた無数の刃が、松明の炎を弾いて、ぎらりぎらりと毒々しく光る。喊声を上げ、泥を蹴立てて、兵たちが塾へと殺到した。
だがその突撃は、早くも足元から乱れていた。萩の松本村の土は、雨を吸って、深い泥濘と化している。高下駄がずぶりずぶりと…泥に呑まれ、一歩ごとに足を取られるのだ。前のめりに転ぶ者、味方の背に折り重なる者。数を恃んだ突撃は、ぬめる泥の中で、たちまち無様な団子と化していく。
松明の炎に照らされた泥濘は、まるで沼であった。一人が転べばその背を、後続が踏みつけて越えようとしまた転ぶ。怒号と悲鳴と雨を弾く刃の音とが、入り混じる。桐油合羽の油臭さと、跳ね上がる泥の匂い。鯉口を切る金属音が、あちこちで鳴り、白刃が、松明の赤を吸って、ぬらりと光った。だが、足元を奪われた兵の踏み込みは、どれも浅い。腰が定まらぬまま振るわれる刃には、本来の鋭さの半分も乗ってはいなかった。
それでも数は、数であった。
塾の薄い障子が、めりめりと無残に破られる。土足のまま最初の数人が、室内へと雪崩れ込んできた。
「来たか」
久坂が槍を構え、ぐっと腰を落とした。穂先が、空気を裂いて、飛び込んできた先頭の兵の喉元へと、まっすぐに突き出される。ぐぶりと鈍い手応え。兵は声もなく、白目を剥いて崩れ落ちた。
だがその屍を踏み越えて、二人目が三人目が、刃を振りかざして迫ってくる。相手も退路を断たれた死兵。恐怖を怒りに変え、ただ数で押し潰そうとしてくる。
「ぐっ……!」
久坂は、槍の柄で一つの刃を払い、石突きで別の一人の鳩尾を、したたかに突いた。かろうじて若い塾生たちの前を守り抜く。だが額には、汗とも雨ともつかぬ雫が滴り、息はすでに上がり始めていた。
彼が一人を突き伏せる間に横手から、別の刃が、肩口へと振り下ろされる。避けきれぬ――そう思った刹那。
ばちんと、撥を投げ捨てる音がして、白刃がその兵の刀を、横ざまに弾き返した。高杉晋作であった。いつの間にか三味線を捨て、抜き身を提げて、嬉々として敵中へと躍り込んでいる。
「よそ見をするな、久坂! お前の後ろは、わしが見ちゃる!」
高杉の剣は奔放で、型破りであった。だがその一閃は、迷いなく敵の刀を撥ね上げ、返す刀で籠手を断つ。血が雨と泥に混じって、畳を黒く染めていく。むせ返るような血の匂いと、人いきれと、桐油の油臭さ。狭い室内は、足の踏み場もない白兵の地獄へと変わっていた。
刃と刃が噛み合い、火花が散る。鍔迫り合いになれば、高杉は、迷わず相手の鳩尾を膝で蹴り上げ、よろめいたところを、肩口から斬り下げた。骨を断つ鈍い手応え。
悲鳴。
倒れ込む兵の身体が、後続の足をもつれさせる。久坂もまた、槍を縦横に走らせ、突き薙ぎ石突きで殴りつけ、ただ一点――背後の塾生たちへと続く、その狭い通路だけは、決して通すまいと、踏ん張り続けた。二人の若き志士の足元には、見る間に斬り伏せられた兵の屍が、折り重なっていく。だがその一つ一つが、彼らの息を確実に削っていった。
それでも――数が違いすぎた。
一人を斬り伏せれば、二人がその屍を踏み越えて雪崩れ込む。久坂の槍さばきは、なお冴えていたが、その腕は確実に重くなっていた。高杉の額にも、玉のような汗が浮いている。背後では若い塾生たちが、互いの袖を握りしめ声もなく震えていた。
その隙をついた者がいた。
久坂と高杉の防ぎきれぬ死角から、一人の兵が、最も幼い塾生めがけて、刃を振り上げたのだ。怒号。振り下ろされる白刃。久坂が槍を返そうとするが、別の二人に阻まれ、届かない。塾生がぎゅっと目を閉じ、首をすくめる。
だがその刃は、振り下ろされなかった。
兵の手首が、宙でぴたりと止まっていた。否、止められていた。どこから飛んできたのか、一本の細い分銅鎖が、その手首にひたと巻きついている。兵が、けげんに振り返るより早く――軒下の闇から、ずるりと、信じがたい力で引き倒され、声を上げる間もなく、暗がりの底へと、呑み込まれた。あとには、ぽつりと、毒々しい黒い染みが、泥の上に残っただけであった。
誰も何が起きたのか、分からなかった。救われた塾生も屠られた兵も。ただ、雨音だけが何事もなかったかのように、降り続いている。
(……まず一匹。さて、あと何十匹殺ればよいやら)
軒下の闇で、薄宿梟介の濁った片目が、すうっと、糸のように細められた。
破れた障子からまた一人、また一人と…雨に濡れた殺気が、押し寄せてくる。
このままでは――押し潰される。
誰の胸にも、その絶望的な予感が、冷たくよぎったその時であった。
狭い室内は、たちまち怒号と、血の匂いと雨の湿気とが、どろりと入り混じった息詰まる修羅の巷と化していた。
十二
飛び込んでくる刃の数は、増えるばかりであった。
久坂の槍も高杉の刀も、この洪水のような人の波を、いつまで堰き止められるか――誰の目にも、それは、絶望的な数の差であった。怯えた塾生の一人が、たまらず悲鳴を上げる。
その震える若者たちの前に。
吉田松陰がただ一人、静かに、しかし岩のごとく、立ち塞がった。
彼は、刀すら抜いていなかった。ただ、まっすぐに、押し寄せる兵たちを見据え、そして、震える塾生たちを振り返ると、不思議なほど、穏やかな声で、言った。
「恐れるな!」
その一言が、修羅の喧騒の中で、なぜかはっきりと、若者たちの耳に届いた。
「我らの志は、もはやこの長州の片隅だけのものではない。既に――世界の地図と繋がっておるのだ。至誠を、貫きさえすれば。天は必ず動く!」
「至誠は天に通ずる!!」
かつて、ただ「攘夷」を盲目的に叫んでいた男は、もういない。冷徹な世界地図と、数字の論理に、その魂を作り変えられてなお――いや、だからこそ、揺るがぬ「至誠」。その不思議なカリスマが、怯えていた塾生たちの背筋を、一本しゃんと、伸ばさせた。
彼らの目から恐怖の色が、すうっと引いていく。代わりに灯ったのは、師とともに死地を踏むのなら本望だという、若き覚悟の光であった。一人が震える手で、傍らの刀を握りしめる。また一人がそれに倣う。たとえ刃に倒れようとも、ここで守るべきものがある――その思いが、絶望に呑まれかけていた塾の一室に、確かな熱を取り戻させた。
そして、その松陰の言葉に、応えるかのように。
破れた障子の、その向こうの、墨を流したような闇の中で。
ふっ…と――いくつもの「気配」が、音もなく立ち上がった。
雨に濡れた前髪の奥で底光りする、感情のない双眸。片肩に羽織を引っ掛けた、白い影。巨大な岩のごとき、影。そして、闇そのものと見分けのつかぬ、陰の中の陰。
彼らは声を発しなかった。名乗りもしなかった。ただ、ゆらりと雨の闇から滲み出るように、現れた。
先頭の兵が、その白い影――伊庭宗次郎に気づき、刀を構えた。だが構えた、その刹那。
伊庭の小柄な身体が、すっと沈んだ。傍目には構えたようにすら見えぬ。次の瞬間には、もうその姿が消えていた。否、目で追えぬほどの速さで、兵の懐へと…潜り込んでいたのだ。とん…と。まるで小鳥が地を啄むような、軽やかな一突き。それだけで、兵は声もなく白目を剥いて、泥濘へと崩れ落ちた。
「……邪魔」
白疾風が気だるげに呟く。雨に濡れた白髪が、松明の炎に、ちらりと光った。
迫り来る俗論派の兵たちは、まだ、気づいていない。
自分たちが、たった今、踏み込んだこの雨夜の闇こそが――旭狼衛という…本物の「死」の狩り場であったことに。数を恃み、刃を振りかざして雪崩れ込んだ百人の藩士が、これから、何に出会うことになるのか。情報を経済を、政治を制した者のその最後の刃が、今、雨の闇の中で静かに、抜き放たれる。
松下村塾を巡る、雨夜の死闘。
その戦いは雨粒の激しさと共に増していくのであった。
第百二十九話 了




