第百二十八話「長州攻略編―春蚕極純、毒を断つ」
一
文久元年、晩春。
江戸の空に、ごろり、と低い春雷が転がった。
昼下がりだというのに、雲は鈍く垂れ込め、一橋上屋敷の奥御殿には、雨の匂いを孕んだ生暖かい風が、障子の隙間からそっと忍び込んでいた。日本橋の方角からは、遠く荷揚げの喧騒が、潮の香とともに途切れ途切れに届いてくる。
奥御殿の一室は、しんと静まり返っていた。磨き込まれた黒檀の文机。床の間には、季節を先取りした菖蒲が一輪、涼やかに活けてある。火の気のない部屋に漂うのは、わずかな墨の香りと、上等な紙の匂いだけであった。
その文机の前に、糸子は、一通の書状を、食い入るように読んでいた。
透き通るように白い肌に、切れ長の涼やかな双眸。結い上げた黒髪が、薄暗がりの中で、艶やかに光っている。あどけなさの残るその面立ちは、しかし、年齢にまるでそぐわぬ静けさをたたえ、書状に落とした視線は、ぴくりとも揺らがなかった。
差出人は、遥か太平洋の彼方――メリケン、サンフランシスコの米駐総領事、中浜万次郎。彼女の世界の目であり、耳である男からの続報を伝える密書であった。
糸子の白い指が、文面の一点で、ぴたりと止まる。
メリケンにて南部が分離し、開戦はもはや刻限迫る…と。
その一行を読んだ瞬間、彼女の切れ長の双眸に、冷たい光が、すうっと灯った。
(始まる。……ついに、始まるのですね)
頭の中で、いくつもの歯車が、かみ合っていく音がする。
メリケンが、おのれの内側で血を流し始める。これからの四年――列強の目が、あの広大な内戦に釘付けになる、千載一遇の好機。糸子はそれを「太平洋の窓」と呼んでいた。
そして、その「窓」は、二つの巨大な富の流れを、同時にこの国へ運んでくる。
一つは、綿花。メリケンの南部が、世界一の綿の産地であるその輸出を止めれば、英国の織機は飢え、綿の値は天井知らずに跳ね上がる。
もう一つは、生糸。海の向こうの欧羅巴では、蚕が奇怪な病――微粒子病に冒され、養蚕業が壊滅しかけている。生糸はいまや白絹の宝石であった。
(綿の飢饉と、蚕の疫病。その二つが、ぴたりと寸分の狂いもなく重なる、奇跡の四年間。……天がこの日本のために、用意してくれた盤面)
ただし、糸子は知っていた。この好機を、放っておけば、果実をもぎ取るのは長州ではない。薩摩だ。
史実では、海の向こうへ綿を運ぶ術を持つのは、数年後…イギリスと手を結ぶ薩摩のみ。彼らは各地の綿を買い占め、長崎から上海へと流し、国内の四倍もの暴利を貪るだろう。そして、ゆくゆくは長州が関わってきた綿の商いの一切を、根こそぎ奪い去る――そういう未来も糸子には、はっきりと見えていた。
(同じ歴史は、踏ませません。薩摩に獲らせるくらいなら、その富をまるごと、こちらの蔵へ)
彼女の戦略は、単純な綿の売り買いに留まらなかった。長州という藩そのものを、世界の市場へ富を吐き出す、巨大な「からくり」へと造り替える。それこそが彼女の描く、無血の近代化への確かな一手でもあった。
「葵。松屋を、お呼びなさい」
糸子の声は、雷鳴の余韻の中でも、不思議なほど澄んで通った。
ほどなくして、するすると音もなく座敷に進み出たのは、二十代前半の、細身ながら目つきの鋭いの商人であった。松屋善次郎。
天朝物産会所の商いの一切を、糸子の手足となって取り仕切る、江戸仕込みの若狸である。柔らかな笑みの奥に、算盤珠のような鋭い計算の光を絶やさぬ、油断のならぬ男であった。
「お呼びにございますか、姫様」
「善次郎。仕掛けの刻が、参りました」
糸子は、ゆっくりと面を上げた。少女の顔に浮かんでいたのは――世界という巨大な市場を、一枚の将棋盤のごとく冷静に俯瞰する、実務家の微笑であった。
「長州を――丸ごと、わたくしたちの蔵に変えるのです。あの藩を、天朝物産の『生産の拠点』へと、造り替えまする」
善次郎は、すぐには言葉を返さなかった。ただ、その細い目が、わずかに見開かれる。
「……拠点、にございますか?」
「ええ。手始めに、生糸と綿花でございます」
糸子は、万次郎の書状を、そっと文机に置いた。
「ただし長州では、生糸の量はごくわずかしか取れませぬ。あの藩を支えてきたのは、古くからの『防長四白』。蚕は添え物にすぎないのです。……ですから、量で勝負してはいけませぬ」
「と…申されますと?」
「量がないのなら、質で、天下を獲るのです。世界の貴族が、屋敷を売り払ってでも欲しがるような――そう、もはや反物ではなく『芸術品』と呼ぶべき、世界最高の生糸を、たった一握り、造り上げまする」
「前から指示していた『春蚕・極純』を長州にも広げまする」
善次郎の喉が、ごくりと鳴った。商人として、それがどれほどの発想か、彼にはすぐに分かった。
「いいですか、善次郎。この戦さの肝は、『銘』です」
糸子は、ゆっくりと口にした。
「前も説明致しましたが『松屋が売る品だから安心だ』――そうではなく『春蚕・極純という名がついているから、中身を見ずとも安心して購入できる』。品物そのものに宿る、信用のこと。商いの名ではなく、商いの中身に、値打ちを刻みつけるのものなのです」
彼女は白い指を、一本ずつ折りながら、その施策を並べていった。
「やるべきことは、四つ。一つ、職人の手による、最高級の生糸を開発すること。二つ、横浜の拠点――天朝物産を、さらに大きく広げること。三つ、産地から横浜まで運び、検め保管する、その流れの一切を、よその手を借りず、天朝物産所だけで握ること」
「……長州全土を巻き込む壮大な、絵図にございますな」
善次郎は感嘆とも、ため息ともつかぬ声を漏らす。
「長州での職人による技術指導は大丈夫かしら?」
「姫様、それは大丈夫です。丹後・但馬に加え、信州、上州、奥州、武蔵、甲斐の優良農家を御所御用達の権威で囲い込む専属契約を拡大させたおり、熟練職人の座繰り技法習得者は増えております」
「それは宜しゅうごさいました」
糸子は、最後に一つ…念を押した。
「それから、善次郎。これは、何よりも大切なこと。代金は必ず、メキシコの銀貨か、ロンドン宛てのイギリスの手形でのみ、受け取りなさい」
「――もし、異国の者が、戦さの火事場でお上の刷り散らかす、見慣れぬ紙の金で支払おうとしても、断じて受け取ってはなりません」
「紙の金……? そのようなもの、聞いたこともございませんが」
「ええ。今はまだ…ね。戦さの最中に、金や銀の裏付けもなく刷られる紙の金は――古今東西、必ず暴落するのです。これは、経済の動かしようのない理。それだけは、現場の皆にも、よくよく言い含めておきなさい」
糸子の声が、ふと…低く沈んだ。彼女には見えていた。これからメリケンが、戦さの金欲しさに刷り散らかすであろう、後ろ盾のない紙幣の末路が。だが、それを「予言」として語るほど、彼女は愚かではない。
「昔、フランスの革命のとき、『アッシニア』という紙の金が刷られ、最後は、ただの紙屑になりました。戦さの最中に、金や銀の裏付けもなく刷られる紙の金は――古今東西、必ず暴落するのでございます。これは、占いや呪いではありませぬ。経済の動かしようのない理。それだけは、現場の皆にも、よくよく言い含めておきなさい」
「……かしこまりましてございます」
深々と頭を垂れる善次郎を前に、糸子は、ふたたび窓の外へと目をやった。
雷雲の切れ間から、一筋の光が差し込んでいる。その盤面は、もう、彼女の頭の中で、詰みまで読み切られていた。
二
時を同じくして、遥か西。
長州の南、瀬戸内の海に面した、熊毛郡のとある綿花の村。
初夏の陽が、水はけのよい砂まじりの畑を、白々と照らしていた。腰を曲げた百姓たちが、まだ青い綿の若木のあいだを、黙々と這うように進んでいく。潮風に乾いた土の匂いと、汗の匂い。この「◾️防長三白」の一翼を担う綿の畑こそ、長州の財を、何百年と支えてきた、つましくも確かな土地であった。
村は貧しかった。
藁葺きの屋根は、どれも傾き、軒は低く垂れている。畑のあちこちには、まだ十にも満たぬ子どもらが、親に交じって雑草を抜いていた。瀬戸内の穏やかな海が、すぐそこで、きらきらと初夏の光を弾いているというのに、この村に漂うのは、来年の年貢をどう納めるかという、重く湿った気配ばかりであった。豊かな海と、痩せた暮らし。その不釣り合いこそが、この地の、長年変わらぬ姿であった。
その畦道に、見慣れぬ一行が、ぞろぞろと踏み込んできた。
先頭を歩くのは、ぎらぎらと脂ぎった顔の、大坂の豪商であった。仕立ての良い羽織をだらしなく着流し、肉厚な指には分厚い金の指金を光らせている。一歩ごとに、扇子をぱちりぱちりと鳴らし、田畑を値踏みするように、その小さな目を、せわしなく動かしていた。供の者に荷を担がせ、まるで自分こそがこの土地の主であるかのような、傲慢な足取りである。
その背後には、薩摩の影がちらつく――そう、彼の懐を潤し始めていたのは、水面下でイギリス商人と関係を築き始めていた…薩摩の金であった。
メリケンで南北の戦さが始まり、世界の綿が、にわかに足りなくなった。
だが、その「海の向こうへ運ぶ術」を密かに手中に収めつつあったのは、長崎のイギリス商館と太いパイプを築き始めた、薩摩であった。彼らはイギリスの最新鋭蒸気船をチャーターし、長崎から上海への物資輸送を半ば独占し始めていた。
対する長州は、近江商人が古くから日本海に張り巡らせた「北前船」の巨大なネットワークを逆手に取り、下関から蝦夷地を経由して一気に横浜へと物資を迂回させる隠密航路を構築しつつあったが、資金力に勝る薩摩の買い占めの刃は、すでに長州の喉元へと突きつけられていた。
「考えてもみなはれや」
豪商は、畦に腰を下ろし、よれよれの手ぬぐいで額を拭く老百姓に、すり寄るように囁いた。
「お前さんとこ、去年も一昨年も、不作で年貢を納めるのがやっとやったそうやないか。子に、満足に飯も食わせてやれん。……それがどないや。この一年で、孫の代まで遊んで暮らせるほどの金が、転がり込んでくるんやで。藩への義理立てが、お前さんの腹を、満たしてくれるんかいな?」
ぐっ、と老百姓の手が止まった。
その言葉は、毒のように、彼らの胸の最も柔らかいところを突いた。痩せた頬。継ぎだらけの着物。藩のため、お国のためと言われても、目の前の飢えには勝てない。理屈ではなかった。
「いやぁ、皆さん、精が出まんなあ」
豪商は、わざとらしく揉み手をしながら、にたりと笑った。
「どないだす。こんな痩せ地で、汗水垂らして綿ぁこさえても、お代官に絞られて、手元に残るんは雀の涙でっしゃろ? ……わたいがな、その綿、ぜぇんぶ、まとめて買うたげまっさ。それも――お江戸の相場の、三倍で…な」
ざわり、と百姓たちがどよめいた。三倍。聞き間違いかと、誰もが顔を見合わせる。
豪商は、その動揺を見透かしたように、懐からずしりと重い絹の袋を取り出し、中身を手のひらにぶちまけた。それは、見たこともないほど分厚く、鈍い銀の光を放つ異国の巨大な銀貨――「洋銀」であった。さらにその上に、異国の細密な文字と、何やら禍々しいほどの朱色の印章が押された、一枚の手形をひらひらと重ねてみせた。
「これでっせ。長崎や上海の港を牛耳る、大いなるイギリスの商館が振り出した『為替手形』や。この手形を横浜のオリエンタル・バンク…ちゅう場所に持っていけば、いつでもこのまばゆい洋銀の山と換えてもらえまっさ。これ一枚で、おたくらの一年分の稼ぎ、いや、お釣りがきまっせ」
文字の読めない百姓たちの目が、鈍く光る銀貨と、異国の権威を放つ、洋紙でできた手形に、ぎらりと吸い寄せられていく。
彼らは知る由もなかった。その手形が、上海の本店から届くはずの「送付案内状」を持たない、あるいは責任者の署名を巧妙に偽造した、ただの不渡り前提の「空手形」であるなどとは。
藩への忠義よりも、今日明日の暮らし。目先の途方もない富の幻影に、彼らの心が、ぐらりと傾けかけた、その時であった。
「――待ちんさい!」
三
会所の戸が、勢いよく開け放たれた。
夏の白い光を背に、すらりとした影が一つ、土間に踏み込んでくる。庄屋の会所に集められていた百姓たちが、いっせいに振り返った。
久坂玄瑞であった。
その手には、藩の政務役・周布政之助から直々に預かった、御用操作の裏判が握られていた。その後ろには、算盤と帳簿を抱えた近江の買仲たちが、ずらりと続く。生真面目に引き結ばれた口元、理を求めて炯々(けいけい)と光る双眸。かつて松下村塾で「攘夷」を血のように叫んでいたこの男は、今や、まるで別人のごとき静かな迫力を、その全身にまとっていた。
その登場に、会所の空気が、一変した。
先ほどまで異国の銀や手形に浮き足立っていた百姓たちが、息を呑む。豪商の脂ぎった笑みも、すっと凍りついた。藩の若侍が乗り込んできた――というだけではない。久坂の歩みには、何か、抗いがたい確信のようなものがあった。土足のまま会所の中央へと進み出ると、彼は、豪商を一瞥もくれず、まずは集まった村人たちへと、静かに目を配った。
「お前さんが、噂の大坂の豪商じゃの」
久坂は、豪商の前まで歩み寄ると、冷ややかに見据えた。
「三倍で買う、ち言うたか。ほう。ずいぶんと気前がええことじゃ。……じゃが、その『三倍』が、どこから湧いて出た数字か、村の衆に、きちんと説いてやったかいの?」
「な、なんやお前は。横から口出しすな」
気色ばむ豪商を、久坂は一顧だにしなかった。彼が顎をしゃくると、買仲たちが、土間にどさりと、巨大な帳面を広げる。それは、左右が一対になった、見たこともない様式の帳簿であった。
久坂が、糸子から授けられた――「複式簿記」である。
(理想を叶えるためには、血と泥にまみれた金と、経済の力がいる。……かつてのわしには、それが分からんかった)
彼は、ちらりと、自らの過去を顧みた。
長州にいた頃、自分は「尊皇攘夷」を、ただ熱に浮かされたように叫ぶだけの、青臭い狂信者であった。異国を打ち払えと。だが、その叫びの根に、一片の数字も持たぬことを、あの姫君に、容赦なく暴かれた。
姫様が先生となって経済学の授業を受けたとき、軍艦は何隻いるのか。それを買う金は、どこから湧くのか。その問いに、一つも答えられなかった。あの自分自身の不甲斐なさを、彼は今も忘れていない。
天そのものと仰ぐあの姫君に出会って、彼は生まれ変わった。数字こそが、最も鋭く、最も冷酷な刃となる。それを骨身に刻んだ今の久坂は、もはや、ただ叫ぶだけの男ではなかった。
土間に集められた百姓たちが、固唾を呑んで、二人の対峙を見守っている。
左右一対の、奇怪な帳面。算盤を構えた買仲の一団。そして、何より、この久坂という若侍の、ぞっとするほど静かな眼差し。豪商の脂ぎった威勢のよさとは、まるで質の違う「迫力」が、会所の空気を、ずしりと支配し始めていた。
「ふん。算盤侍が、何を抜かす」
豪商が、強がって鼻を鳴らす。だが、その額には、もう、うっすらと汗が滲んでいた。
「ええか、皆の衆。よう見ちょけ」
久坂は、太い筆を執ると、豪商の申し出を、その場で、左右一対の帳面へと書き込んでいった。
「この帳面はの、一つの取引を『なぜそうなったか』ちゅう原因と『その結果どうなったか』ちゅう答えと――その両方を左と右に、同時に書き記すものじゃ」
「大福帳のように、ただ金の出入りを並べるんとは、わけが違う。利がどこから生まれ、それが現金に化けたか、綿に化けたか、それとも――ただの紙屑に化けたか。すべてが、一目で、白日の下に晒される」
久坂は大阪の豪商を、ひたと見据えた。
「この男が、お前らに三倍で綿を買う…ち言う。よかろう。じゃが、その代金が『上海の商館の手形』であったとき――その手形の真実の価値は、右の欄で、はたしていくらに化けるか。もしもこの手形が、上海の本店に照合の案内状すら届いちょらん不渡り前提の『空手形』であったなら、お前たちが命がけで育てた『綿』という資産は、左の欄から消え失せ、右の欄には一文の価値もない泥だけが残る! ……それを、これから、一文残らず、この帳面の上で明らかにしちゃろう」
四
会所の中の空気が、ぴんと張り詰めた。
久坂の筆は、休まなかった。彼は、豪商の差し出した為替手形の正体を、容泄なく数字で剥いでいく。
「ええか。この上海の商館の手形ちゅうもんはの、本物の金や銀が裏付けにない、ただの『空手形』じゃ。商館の人間と結託して、本物の用紙と印章を使ってこさえた、中身のまったくない偽りの約束よ」
久坂は、その手形を指先でつまみ上げ、虫けらでも見るような目で眺めた。
「手形ちゅうもんはの、発行した商館が『〇〇号の手形を発行した』ちゅう通知を、支払う側の銀行へ別便の船で送らねば、ただの落書きと同じなんじゃ。この男が持つ手形には、その命とも言える通知がどこにもない」
「まともな資本もない赤金商館が勝手に刷り散らかした、裏付けの一文もない空手形の類よ。横浜のオリエンタル・バンクへ持ち込んだところで、行員に一蹴されて終わりよ!」
「それどころか、責任者の署名の筆跡すら、イギリス商館の幹部のものとはまるで違う。要するに、最初から換金させる気のない、ただの不渡り前提の紙屑よ! 受け取ったが最後、数ヶ月後に上海の本店と帳簿が照合された瞬間に詐欺が露見し、お前らは綿を奪われた上に、不渡りの罪で居留地の役人に捕縛される。これが、この男の仕掛けた『三倍』の罠の正体じゃ!」
久坂は、懐からずしりと重たげな銀貨を取り出し、それを帳面の上にことり、と置いた。
メキシコの洋銀。およそ二十七匁の、まじりけのない純銀。表には蛇を咥えた荒鷲が、裏には自由の帽子が、誇らしげに刻まれている。夕暮れの光を弾くそれは、海の向こうとの商いで、誰もが値打ちを認める、本物の通貨であった。
「まやかしの手形が騙る三倍の数字と、この銀の確かな値打ち。表に出ちょる数字だけ見れば、手形のほうが、多う見えるじゃろう。じゃが――それは、富の錯覚という罠よ」
久坂は銀貨を指で叩いた。
「手形は、発行元の信用が消えれば、あるいは裏で糸を引く薩摩がへまをすれば、明日にもただの塵になる。さらに言えば、今や異国は金本位制へと移りつつあり、世界の銀の価値はいずれ大きく揺らぐ危険すら孕んちょる。じゃが、この銀貨そのものが持つ現物の重みは、一匁たりとも減りはせん」
「わしらは買仲の確かな人脈を通じ、ロンドンの銀行が確実に信用する本物の洋銀と、正当な為替経路をすでに握っちょる。つまり――海の向こうの本物の富と、本当に繋がっちょるのは、長州と近江が結んだこの帳簿のほうなんじゃ。どちらが、お前らの命を預けるに足る綱か。……さあ、己の算盤を、弾いてみんさいや」
「ぐ、ぬぅ……っ」
豪商の額に、脂汗が噴き出した。もはや、誰の目も、彼の方を見てはいない。先ほどまで手形とまやかしの銀に吸い寄せられていた百姓たちの眼差しは、今や、ありありとした嫌悪と怒りに変わっていた。自分たちは、危うく、孫の代までの暮らしを、ただの紙屑と引き換えに、薩摩へ売り渡すところだったのだ。
「い、いんちきや! こいつのほうが、いんちきや!」
往生際悪く喚く豪商に、ついに一人の老百姓が、土間の隅の塩の入った笊を掴んで、よろりと立ち上がった。
「いんでくれ……いねっ、薩摩の犬がっ!」
ばさり…と清めの塩が宙を舞う。それを皮切りに、若い百姓も、女房たちも、次々と塩を掴んで投げつけ始めた。
ばさり、ばさり……
罵声と塩つぶてを一身に浴びせられ、豪商は顔を腕で庇いながら、みっともなく羽織の裾を翻して、ほうほうの体で会所から逃げ去っていった。
その背を見送りながら久坂は、ふっと息を吐いた。塩を投げさせたのではない。数字で目を覚まさせれば、民は自ら正しい道を選ぶ。それが、あの姫君に教わった、戦わずして勝つということであった。
五
霧の深い山間。
長州のわずかな養蚕を担う、貧しい農家の納屋。
湿った藁と、蚕の餌である桑の葉の、青くむせ返るような匂いが、薄暗い空間に満ちていた。竹を編んだ蚕棚には、白くふくよかな蚕が、しゃくしゃくと音を立てて桑を食み続けている。天井の隙間から差し込む細い光の筋に、桑の葉の微塵が、きらきらと舞っていた。ここは、何百年と変わらぬ、女たちの指先の勘だけが頼りの、静かな手仕事の聖域であった。
その納屋に、京の天朝物産会所の仲買が、職人の一団と共に奇妙な道具を担ぎ込んできた。
木と真鍮で組まれた、車輪のような枠を持つ器械――「検尺器」である。
「これより、この村で繰る糸は、すべて、この器具で太さを検めさせていただきます。決められた長さの糸の、目方を量り、太さを揃える。一本残らず、寸分の狂いもなくです」
「ふざけるな!」
しわがれた怒声が、納屋に響いた。声の主は、生涯を糸繰りに捧げてきた、白髪頭の老職人であった。節くれだった指を震わせ、商人を睨みつける。
「わしらはの、何十年と、この指先の手ざわりで、お蚕様から糸を頂いてきたんじゃ。神聖なお蚕様を……そねーな鉄の車で、量れるとでも言うんかいっ!」
無理もない、と仲買は思った。糸の太さを「数字」で測るなど、誰も、初めは聞いたことのない方法なのだ。だが彼は穏やかに、しかし退かなかった。
「ご老体。お怒りはごもっとも。しかしこれは、あなたの腕を疑うておるのではありません。これは――『信用』の戦さなのです」
「……信用、じゃと?」
「左様。海の向こうの言葉で、『銘』と申します。屋号でもなければ、作り手の名でもない。『この品なら、いつ、誰が手にしても、寸分違わぬ最上のもの』――その、品物そのものに宿る信用のことです。太さがふぞろいでは、異国の織機にかけたとき、ぷつぷつと切れてしまう。しかし、髪一筋の狂いもなく揃うておれば、それは『芸術品』として、海の向こうの貴族が、家を売ってでも欲しがるのですよ」
そして仲買は、職人の一団に指示、その検尺器の仕組みをゆっくりと、丁寧に説いてみせた。
「ご覧なさい。この、周りの長さが、きっちり一・一二五間に作られた枠を、決まった回数、四百回回します。すると、ちょうど四百五十間ぶんの糸が巻き取れる」
「その糸を、この精密な天秤で量り、目方を出す。たったそれだけのことで、糸の太さが、寸分の狂いもなく『デニール』という数で言い表せるのです」
彼が、糸の太さの単位を「デニール」と呼ぶのだと教えると、老職人は、けげんそうに眉を寄せた。
「太い糸ほど、その数は大きく。細い糸ほど、その数は小さい。同じ太さの糸ばかりを、何百、何千と揃える。誰が繰っても、寸分違わぬ品ができあがる。……これが海の向こうの、新しい糸の作り方なのです」
「もちろん、皆さんがすぐにそんな水準のものが作れるとは、こちらも考えておりません。だから今日、私たちと共に来た職人たちが技術指導をし、皆さんの技術を引き上げるのです」
むろん、糸の太さを「数」で測るなど、この国の誰一人として、聞いたことのない発想であった。それは、いずれ異国から伝わるはずの高度な仕組みを、糸子が未来の記憶から手繰り寄せた、時代を数年も先取りした知恵にほかならない。
老職人は、ぐっと言葉に詰まった。そして、おそるおそる、その検尺器に手を触れる。
真鍮の枠を、ぐるり、ぐるりと自らの手で回し、巻き取られた糸の重みを天秤で量る――その確かな手応えを何度も確かめるうちに、頑なだった彼の目に、ふつふつと、別の光が灯り始めた。それは、おのれの技を、より高みへと研ぎ上げんとする、一人の職人としての、誇りの炎であった。
「……面白い。やってやろうじゃないか。わしの繰った糸が、世界一じゃと、その鉄の車を使って言わせてみせるわい!」
六
幾日が、過ぎたであろうか。
その納屋に、ついに、一筋の奇跡が生まれ落ちた。
検尺器の数字に導かれ、寸分の狂いもなく揃えられた、長州産の生糸。
夕暮れの斜めの光が、納屋の小窓から差し込み、その糸束を照らした瞬間――誰もが、息を呑んだ。
純白の艶。それは、ただ白いのではない。光を吸い、そして内側から放つような、しっとりとした絹特有の輝き。まるで、月の光を縒り合わせたような、神々しいまでの美しさだった。
「……できちょるわい」
老職人が、震える声で呟いた。長年この道を歩んできた彼の目にすら、これほどの糸は、初めてであった。
「こりゃあ……わしの糸か?」
彼はその糸束を、そっと指先で撫でた。なめらかでひやりと冷たく、それでいて、絹だけが持つ、しっとりとした温もりがある。何十年も糸を繰ってきた、その節くれだった指が、かすかに震えていた。長年の勘と、新しい器の数字とが、ここで一つに溶け合い、これまで誰も見たことのない高みへと、彼の技を押し上げたのだ。
それを成したのは、日本人の職人による圧倒的な手技であった。
仲買が、静かに歩み寄った。
彼は、その糸を納めた桐の木箱の蓋に、おもむろに、一つの極印を押し当てた。
ずん、と鈍い音。
箱の蓋に、くっきりと刻まれた銘――『春蚕・極純』。
ふわりと、つんとする独特の匂いが立ちのぼった。それは、日本の墨の、あの土や木を思わせる、ほのかに甘い香りとは違う。鉄分と、植物の渋を混ぜ合わせた、舶来の没食子インクの、微かな酸の匂いであった。お酢の底か、葡萄酒の澱のような、ツンと鼻を刺す、紛れもない「異国の匂い」。
その匂いが、この一箱が、もはや長州の片田舎の産物などではなく、世界の市場へと打って出る品なのだと、無言のうちに告げていた。
「春蚕・極純……」
長州の職人たちが、その銘を、噛みしめるように繰り返した。
「『量が取れぬなら、異国の貴族が家を売ってでも欲しがる芸術品にせよ』……。言葉の真意は……これじゃったのか」
量ではなく、極限の質。たった一掴みの糸に、世界が平伏すほどの価値を宿らせる。その途方もない発想を、彼らは今、この一箱の輝きから、はっきりと肌で理解したのであった。
七
下関。
潮の香と、無数の船の帆柱がひしめくこの港町に、長州藩の「越荷方」はあった。
北前船の積荷を担保に金を貸し、あるいは買い叩いて転売する――かつて村田清風が築き上げた、藩営の総合商社にして銀行。今までは俗論派の牙城と化し、藩の秘めたる巨万の富が渦巻く、薄暗い金蔵であった。
その建物は、表からは、ただの古びた廻船問屋にしか見えなかった。だが、一歩奥へ入れば、土蔵がいくつも連なり、帳場には、年季の入った帳簿が、うずたかく積み上げられている。算盤を弾く役人たちの、ぱちぱちという乾いた音だけが、絶え間なく響いていた。潮の湿気を吸った木の柱は黒ずみ、長年ここで交わされてきた、無数の密談の気配が、壁に染みついているかのようである。
その帳場へ、久坂玄瑞が、天朝物産の監査の一団を率いて、踏み込んだ。
「御免」
静かな、しかし有無を言わせぬ一声であった。久坂は、役人たちの制止を払いのけ、奥に積まれた古い帳簿の山へと、まっすぐに歩み寄る。
「村田清風先生が遺された、古き帳面じゃ。……この裏に、何が隠れちょるか。とくと、検めさせてもらおう」
買仲たちが、いっせいに算盤を弾き始めた。久坂は、その古帳簿の数字を、次々と複式簿記の帳面へと書き写し、原因と結果の両面から、解体していく。
やがて――彼の筆が、止まった。
「ほう。……出てきたの」
久坂の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
「表の帳面だけ見れば、我が長州は、三十六万石の貧乏所帯。借金まみれの、火の車じゃ。じゃが――この越荷方が、商人の懐に『預け金』として隠した項目を、こうして左右一対で紐解いてみれば、どうじゃ」
彼は、帳面の一点を、ばしりと指で叩いた。
「ここに……幕府の戦艦が、三隻は買える金が、こんこんと眠っちょるわ」
久坂は、震える役人たちを、ぐるりと見渡した。
「お前らの、からくりは、すべて読めちょる。長州には、帳面が三つ、あるんじゃろう。一つは、幕府や下々の藩士に見せる『表方』――こいつは、いつ見ても大赤字の、火の車。じゃが、その裏に、藩主と一握りの重役しか知らん『撫育方』ちゅう、潤沢な黒字の蔵がある。そして、その金を回す運用の心臓が――この、下関の『越荷方』じゃ」
彼は、買仲が次々と解き明かす数字を、淀みなく読み上げていった。
風待ちの北前船から、積荷を担保に金を貸す。その積荷を、わざと相場よりはるかに安く査定し、船主が返せなければ二束三文で没収する。そして、相場が上がった頃合いを見て、大坂や上海へ、本来の高値で転売する――。
その「不当に安く見積もった担保の値」と「実際に売った高値」との差額は、表の港湾税の記録には一文も残らず、すべて闇へと消えていた。
「さらに、巧妙なのはここよ」
久坂の声が、低くなる。
「越荷方が稼いだ莫大な利を、いったん、白石ら出入りの豪商の懐に『預け金』として隠す。そして、いざ金が要るときには、その商人から藩へ『尊皇攘夷のための、奇特な寄進』として納めさせる。出どころの怪しい商いの利が、こうして『愛国の商人からの、清らかな寄付』へと、見事に化粧直しされるわけじゃ」
「……加えて、村田清風先生の改革と称して、下々の藩士の俸禄から天引きした『馳走米』。その一部までも、こっそりこの蔵へと流し込んじょった。身内から搾り取った米まで…な」
久坂はぎろりと帳場を見据えた。
「この、不揃いな綿の密貿易の利。そして――藩主へと流れ込む、不正の裏金の経路。その全容が、今、ここに一枚残らず晒された」
原因と結果。借方と貸方。久坂の数字は、彼らが何十年と守り抜いてきた「黒い箱」を、一瞬で、白日の下に曝け出していく。役人たちは、自分たちの罪が、抗いようもなく可視化されていく恐怖に、ただ、がたがたと震えるしかなかった。
「ひ、ひぃ……っ」
帳場の隅で、一人の老人が、がたがたと震えていた。
椋梨藤太。五十六になる、俗論派の領袖である。価値の失せた古い藩札と、二束三文の粗悪な綿花の山を背に、彼は、おのれの築き上げた財の城が、音もなく崩れていくのを、ただ呆然と見つめるしかなかった。天朝物産の清廉な決済が、メキシコ銀貨とイギリスの手形が入り込んだ今、彼の密貿易は、国際の市場から完全に締め出され、文字通り「一文の値打ちもない、ただの不法」へと成り果てたのだ。
長年、藩の闇を支配してきた老獪な実務家の矜持が、今、音を立てて、へし折られていった。
彼は低い身分から、ただ実直さと算盤勘定だけを頼りに、藩の重職にまで這い上がった男であった。その彼の、唯一にして最大の武器であった「金の流れを握る」という力が――今、目の前で、こともなげに、あの算盤侍に奪い去られていく。
(なぜじゃ。なぜ、この若造にここまで……っ)
歯の根が、合わなかった。怒りなのか、恐怖なのか、もはや自分でも分からぬ震えが、全身を駆け抜ける。藩を毛利の家を守るために積み上げてきたはずの裏金の城。それが、不正の証拠として、白日の下に引きずり出されていく。彼の信じてきた「現実」そのものが、足元から崩れていくのだ。
その時、椋梨の濁った瞳の奥で、何か――追い詰められた獣のような、危うい光が、ちらりと、灯った。理を尽くした争いに敗れた者が、最後にすがる場所は、一つしかない。理ではない…力である。その昏い衝動の種が、この瞬間、彼の胸の底に確かに蒔かれた。
八
その夜。
下関の港は、深い霧に沈んでいた。
月もない。乳色の霧が、ひたひたと路地を満たし、軒先の提灯の灯すら、にじんで頼りなく揺れている。潮の満ちる音だけが、どこか遠くでひそやかに響いていた。昼間の活気が嘘のように、港は、まるで巨大な生き物が寝静まったかのごとく、しんと黙り込んでいる。霧の粒が、頬に冷たく張りつき、視界は、わずか数間先で白くぼやけて溶けていった。
その霧の奥、人気の絶えた古い船蔵の陰で、数人の影が、ひそひそと囁き交わしていた。
一人は、彫りの深い顔立ちの男。異国の密売商人であった。
天朝物産の厳格な決済網から完全に締め出され、行き場を失った彼は、最後の賭けに出ていた。椋梨ら俗論派の残党や、藩政に不満を抱く下級武士を言葉巧みに抱き込み、上海の闇ルートで精巧に偽造された『外国為替手形』を「最新の軍資金」として掴ませようとしていたのである。
それは、上海の本店からの送付案内状を欠き、責任者の署名も偽造された、不渡り前提のただの紙屑にすぎなかった。彼らをこの偽りの富と新拳銃で狂わせ、蔵に眠る一級の綿花や生糸を夜陰に紛れて横流しさせ、奪い取ろうという腹積もりであった。
"This here is the Colt Army. The latest repeating pistol on earth right now."
「これ、コルト・アーミー。今の世、最も、新しい、回転、連発、銃だ」
密売商人は、片言の日本語で、油紙に包まれた拳銃を、そっと開いてみせた。
その装填は、ひどく手間のかかるものであった。回転する弾倉のひとつひとつの穴に、まず、火薬入れ(フラスコ)から、適量の黒い火薬を注ぎ込む。
その上に、鉛の丸玉を乗せる。銃身の下についた桿を引き下げ、梃子の力で、玉を弾倉の奥へと、ぎゅうと強く押し込み、密閉する。さらに、その上から獣の脂を塗り込むのだ――そうしておかねば、一発撃った炎が隣の穴の火薬に燃え移り、すべてが一度に暴発する「連続誘爆」を起こしかねない。最後に、弾倉の後ろの突起に、小さな銅の雷管をひとつずつ被せる。これでようやく撃てる。
その複雑きわまる手順を、藩政に不満を募らせた下級の武士たちが、固唾を呑んで覗き込んでいた。報われぬ薄禄。重なる天引き。腹の底に溜まった鬱屈が、この異国の新兵器の輝きに、危うく吸い寄せられていく。
「これさえあれば、あんたらのその不満も――」
ぴたり…と。
密売商人の言葉が、途中で凍りついた。
いつの間にか。
霧の中に、二つの影が、音もなく立っていた。
一人は、感情というものを一切宿さぬ、底光りする「動かない目」をした男。斎藤一。
もう一人は、その傍らに静かに控える、所作の整った物静かな剣客――結城誠一郎。彼の手には、すでに、この夜の出来事を漏らさず刻みつけるための、矢立と帳面が握られていた。
斎藤は、何も言わなかった。
ただ、糸子の描く絵図の、その害毒となる者を消す。それだけが、彼の存在のすべてであった。
九
密売商人の指が、反射的に引き金へと伸びた。
だが――遅い。
弾薬と手順を積み重ねねば撃てぬ異国の新拳銃に対し、斎藤一の身体は、すでに死そのものであった。その動きには、いっさいの前触れがない。
突きを放つとき、人は誰しも構え、肩を引き腰をひねる。その予備の動作を斎藤はただの一つも、行わなかった。
彼は、初めから「右半身」に構えていた。右手を軽く引いて、それを梃子の支点とする。そして、刀の柄の、その末端を握るのは――左手、ただ一本。
踏み込む刹那、後ろに引いた右足の親指の付け根が、地を爆発的に蹴った。腰の回転をいっさい用いない。ただ身体ごと、一直線に前方へと滑り込む。
相手の目には斎藤の肩の線が、まるで動いていないように映る。
まだ間合いの外だ――そう油断した、その瞬間。
間合いは、すでに消えていた。通常の両手突きより、数十センチも長く伸びたその切っ先が、音もなく、密売商人の喉元へと、ぴたりと突きつけられていたのである。
無音。
斬撃のように刀を振りかぶれば、狭い路地では壁や軒に当たる。だが「突き」であれば、この霧の檻の中でも、必殺の威力を発揮する。それを何よりも――殺気の一切ない、その「無音」こそが、密売商人の心を根こそぎ、へし折った。
彼は銃を取り落とし、声もなくその場にへたり込んだ。
不満を抱えていた下級の武士たちも、凍りついていた。抜こうにも、抜けない。斎藤の、感情の一切宿らぬ「動かない目」が、彼らの戦意を、骨の髄まで凍てつかせていた。これは、勝ち負けの間合いではない。逆らえば、ただ死ぬ。それだけのことが、皮膚で分かった。
その傍らで、結城誠一郎が、矢立を執り、淡々と帳面に筆を走らせていた。誰がいつ、何を企てたか。その一部始終を、現場で歪むことなく、正確に「記録」する。糸子の「第二の目」として、彼は、この夜の出来事を、一文字も漏らさず刻みつけていく。情報が、現場の混乱の中で、ねじ曲がることを、決して許さぬために。
ざっ…と霧を踏んで、もう一つの影が歩み出た。
土方歳三である。彼は、地に散らばった緑紙の束を、冷たい目で見下ろした。そして、無造作にそれを拾い上げると、霧の向こうの、瀬戸内の暗い海へと、ばさりと投げ捨てた。
「こんな紙切れ(空手形)で……」
土方の声は、低く、刃のように乾いていた。
「天朝の綿が、買えると思うな」
緑の紙が、霧の中をひらひらと舞い、黒い波間へと、音もなく呑み込まれていく。それは、後ろ盾もなく刷られた虚ろな富が、本物の銀と本物の刃の前では、ただの濡れ紙きれにすぎぬという、何よりも雄弁な答えであった。
江戸の姫様が、算盤と数字で世界の市場を相手取る、表の戦さ。だが、その華々しい盤面の裏側では、こうして、旭狼衛の圧倒的な「武」が、誰の目にも触れぬ霧の底で、糸子の絵図の安全を、冷酷にそして確実に担保し続けていた。
光あるところに、影あり。その両輪が揃って初めて、彼女の「無血」は、成り立っていたのである。
十
夏の盛り。
ある一報が、海を越え、山を越え、長州へともたらされた。
ロンドンでの綿花の値、メリケンの戦況――そうした世界の動きは、まず上海まで届き、そこから長崎には蒸気船や帆船が、三日、四日、横浜なら蒸気船で約5〜8日、帆船では約2〜3週間とかけて運んでくる。さらに天朝物産は、幕府の飛脚網を出し抜くため、独自に鍛え上げた早馬の継ぎ送りと、長い距離を飛ぶ伝書鳩を駆使し、いかなる商館よりも数日早く、その報せを掴むのであった。
この「数日の差」こそが、莫大な富を生んだ。
ロンドンで綿の値が跳ね上がったという報せを、よその商館より先に握れば、相場が動く前に、売り、買いの手を打てる。情報そのものが、刀よりも、銀よりも、鋭い武器となる――それが、糸子の張り巡らせた、見えざる伝達網であった。
――そして、季節はめぐり、文久二年の夏。
仕掛けからまたたく間に一年が経ち、ある一報が欧州から長州へともたらされた。
横浜の天朝物産を経て、遥か欧州の市場へと渡った『春蚕・極純』が、白金をも上回る、空前の高値で売れた、というのである。
「やった……やったぞ!」
報せを受けた現場が、どっと沸いた。だが、糸子の仕掛けた仕組みの真の凄みは、ここからであった。その莫大な利は、一文たりとも誰かの懐に死蔵されはしなかった。富は即座に長州の地へと還流していく。
糸をさらに美しく均一に引くための「最新の座繰り製糸器械」の導入。良質の肥料の大量買い付け。そして、信州、上州、奥州といった、優良な養蚕の地との、新たな専属生糸買い付け契約――。
稼いだ富が、次の生産の力へと変わり、綿花と生糸の質を、さらに劇的に高めていく。質が上がれば、また富を生み、その富がまた、土地を肥やす。回せば回すほど、すべてが太っていく――まるで、止まることを知らぬ、巨大な水車のように。
長州という藩の経済そのものが、糸子の編み上げた「資金還流」という、巨大な渦の中へと、組み込まれていった。
貧しかった村々が、目に見えて潤い始める。痩せた畑に、新しい鋤が入り、桑畑が広がっていく。子らの頬に、肉がつき始める。
港の蔵には、海の向こうから運ばれてきた、見たこともない鉄の織機が少ないながらも据えられた。村の若い衆が、その操り方を、買仲から熱心に学んでいる。あちこちで、新しい水路が掘られ、良質の肥料が畑へと撒かれていく。昨日まで「お国のため」という言葉に白けていた者たちの目が、今は、明日への確かな手応えに、生き生きと輝いていた。
その、急速に新たなことが進んで行く熱量を、長州の民は、もはや誰一人、止めることなどできなかった。藩を救うのは、刀でも、攘夷の叫びでもなく――この「数字の流れ」なのだと、皆が、肌で感じ始めていたのである。
十一
夕暮れの下関港。
西の空が、燃えるような茜色に染まっていた。
その黄金の光の中、港の埠頭には、見渡す限りの――純白の、綿花と生糸の山が、うずたかく積み上げられていた。茜の光を浴びて、その白さは、まるで雪原のように輝いている。
その白い山に、次々と、極印が押されていく。
『天朝物産会所』――品質を保証する、その極印の押印が……
どん。
どん。
ずしりと腹に響く、圧倒的な音を立てて、一つ、また一つと、白き宝の山へと押し当てられていく。
飛び散る没食子インクの、あのツンと鼻を刺す異国の酸っぱい匂いが、潮の香に混じって、夕暮れの港いっぱいに満ちていった。かつて山間の小さな納屋で、一箱の桐箱だけに宿っていたあの「世界の匂い」が、今や、長州の海を、陸を、丸ごと包み込もうとしていた。
その音は、まるで、長州という藩そのものが、新しい時代へと産声を上げる、鼓動のようであった。
埠頭には、無数の人影がひしめいていた。荷を担ぐ人足。糸を繰った村の女たち。畑を耕してきた百姓たち。つい先ごろまで、年貢に喘ぎ、緑の紙切れの甘い言葉に、危うく騙されかけていた者たち。その誰もが今、自らの手で生み出した、この純白の宝の山を、信じられぬという面持ちで見上げている。
手のひらに残る、綿花のやわらかな手触り。
茜に輝く純白の山。
そして――。
「これで……これで、食っていけるようになるぞ!。まだ始めたばかりで先は長いが、少しは希望が持てる!!」
誰かが叫んだ。
その声を皮切りに、荷を担ぐ人足たちが、糸を繰った女たちが、畑を耕した百姓たちが、いっせいに歓喜の声を上げた。それは、もはや一人ひとりの声ではなく、地の底から湧き上がるような、長州の民、総出の地鳴りとなって、港を揺るがした。
涙を流す者もいた。子を肩車し、その白い綿の山を見せてやる父親もいた。つい先ごろまで、飢えに怯え、薩摩に魂を売りかけていた者たちが、今、自らの手と技で生み出した宝を前に、胸を張っている。藩のためでも、誰かに命じられたからでもない。己の暮らしが、確かに上向いていく――その手応えが、彼らの背筋を、しゃんと伸ばさせていた。
品質の革命を成し遂げ始めた長州の物産が、これから世界へと向けて、堂々と船出していく。
その圧倒的な光景を、夕日がいつまでも、静かに照らし続けていた。
十二
だが――。
その歓喜の地鳴りから、遠く隔たった、ある一隅。
画面が一転するように、世界は、深い闇に沈む。
萩の城下。
かつては威風を誇ったであろう、俗論派の中心人物の屋敷。その屋敷奥の一室には、もはや、灯り一つ点っていなかった。外からの報せをすべて遮断した、墓所のような暗闇の中で、一人の老人が、うずくまっていた。
椋梨藤太であった。
経済の根を断たれ、藩主への裏金の道まで暴かれ、明日をも知れぬ身となった男。彼は、闇の中で、ぎち、ぎち、と音を立てて、おのれの指の爪を、噛み切っていた。その双眸は、すでに正気の色を失い、どろりと濁った狂気を湛えている。
(わしは……間違うちょらん。間違うちょるはずが、ないんじゃ。あの若造どもの……松陰の弟子どもの暴走が、この長州を毛利の家を滅ぼすんじゃ……!)
徳川という世界そのもののごとき巨大な仕組みに逆らえば、藩は物理的に滅びる。五十年、藩政の闇を支え続けてきた彼にとって、それは信仰にも等しい、揺るぎなき真理であった。
佐幕。恭順。
それこそが毛利の家を守る唯一の道だと、彼は信じて疑わなかった。
だが――その信仰が、今、足元から崩れ去ろうとしている。あの算盤侍どもの数字に、天朝物産会所の絵図に、彼の築いた城は、音もなく溶かされた。外からの報せをすべて遮断したこの墓所のごとき部屋の中で、彼はただ「己が正しい」と、出口のない呪文を繰り返し、繰り返し、唱え続けるしかなかった。それはもはや一個の人間の信念ではなく、滅びゆく古き仕組みそのものが、最後にすがりつく、亡霊の呪縛であった。
その時。
闇の中をひたり、ひたりと…もう一つの影が、這い寄ってきた。
幕府の密使であった。
影は椋梨の耳元へと、ぞっとするほど低く、甘い毒のような声を注ぎ込んだ。
「椋梨殿……。今こそ…でございますぞ。今こそ――松下村塾の、あの狂人どもを、根こそぎにする刻にござる」
その声は、闇に溶けるほど低く、それでいて、骨の髄まで染み入るような、甘い毒を孕んでいた。
「やつらの数字も、やつらの綿も、所詮は商人の手妻。されど、それを支える志士の首が、一つ残らず地に落ちれば……どうなりましょうな。算盤は、誰が弾くのです。貴殿の、その隠し持たれた一挺こそが、この長州を、正しき幕府の御世へと、引き戻す鍵にござりますれば」
椋梨の濁った目が、かっと見開かれた。数字には、勝てなかった。理には敗れた。
ならば――。
憎悪と狂気と……そして敗者の最後の意地とが、その奥で、ぎらりと一つに溶け合う。
彼は震える手を、ゆっくりと懐へと差し入れた。そこに隠し持った、一挺の鉄砲。理で奪われた藩を、力で奪い返す。その妄執に取り憑かれた指が、撃鉄を――。
カチリ。
冷たく乾いた…不吉な音が闇の中で、ただ一つ鳴った。
昼の港に満ちた、白き綿花の歓喜。その輝かしい光のちょうど裏側で――追い詰められた蜘蛛は今、暗がりの中で、その毒牙を静かに研ぎ終えたのである。
長州を血で洗う、最悪の嵐の足音を孕んで。
夜はしんと、更けていく……
第百二十八話 了
■幕末期の伝書鳩事情について少し解説ヽ(´∇` )ノ
幕末の伝書鳩は、国や軍隊が組織的に使っていたわけではなく、商人が「米の相場(価格)」を誰よりも早く知るための秘密道具として大活躍していました。
●米相場のスピード命のビジネス
大阪の堂島米市場の価格変動は、商売の成否を分けました。遠く離れた場所へ一刻も早く価格を伝えるため、商人たちが自前で鳩を訓練して飛ばしていました。
幕府も警戒するレベル: 1783年には、大阪町奉行が商人の伝書バト利用を制限する命令を出すほど、裏の通信手段として広く定着していました。
●伝書鳩の種類
〇 カワラバト(ドバト): 家に帰る本能(帰巣本能)が強いため、伝書鳩として使われました。
× キジバト: 当時も日本にたくさんいましたが、警戒心が強く群れないため、訓練には向きませんでした。
●伝書鳩の仕組み
伝書鳩はどこにでも飛んでいけるわけではなく、「自分の家に帰る習性」だけを利用しています。
準備: A地点(自分の家)で鳩を育てる。
移動: その鳩をカゴに入れて、B地点(出先)へ連れて行く。
送信: B地点でニュースが発生したら、鳩の足に手紙を縛り付けて放す。
到着: 鳩がA地点(自分の家)に帰ってくる。
※鳩が飛べるのは**「B地点 ➔ A地点」への一方通行のみ。
●史実では…
明治から大正時代になると、ヨーロッパからさらに優秀な鳩が輸入され、ここからようやく国が管理する「軍用鳩」としての歴史が始まっていきます。
→この…糸子さんの知識と現地調査を元に天朝物産は、幕府の飛脚網を出し抜くため、長い距離を飛ぶ伝書鳩を駆使して連絡網の一部として構築していたんですね(;^ω^A




