↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
127/244

第百二十七話「長州攻略編―涙の狂言、勅使南下す」

一

 文久元年、二月下旬。


 江戸の冬は、まだ完全には去りきっていなかった。

 空はうっすらと鼠色の雲に覆われ、軒先には昨夜の名残の冷たい雨の雫が、ぽつり、ぽつりと、間を置いて滴り落ちている。

 一橋徳川家の上屋敷――その奥まった一角に設けられた、朝廷の使者、近衛家の姫君のための御殿は、火鉢の炭がほのかに爆ぜる音のほかは、物音一つしない静寂に沈んでいた。畳の縁を彩る錦も、床の間に活けられた一輪の白椿も、この幼い姫君の品格を、無言のうちに語っている。


 その文机の前に近衛糸子は、背筋をぴんと伸ばして座していた。

 透き通るように白い肌に、切れ長の涼やかな双眸。その面立ちには、まだあどけなさがほのかに残りながらも、年齢にまるでそぐわぬ、底知れぬ静けさがたたえられていた。


 つい先ほど、彼女はこの屋敷の門前で、長州へと旅立つ者たちの背を、静かに見送ったばかりであった。吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞――三月(みつき)にわたって彼女のもとで「数字」と「世界」を学んだ、長州の俊英たち。そして、その彼らを陰から守り、また見張る、旭狼衛の手練れたち。彼らは今ごろ、東海道の冷たい風を切って、遥か西の長門を目指していることだろう。


 だが糸子の戦いは、彼らを見送って終わるものではない。

 むしろ――ここからが彼女自身の、声を立てぬ戦いの始まりであった。


(長州という藩を刀を一度も抜かずに、丸ごとこちらへ屈服させる。そのためには、武の力だけでは、到底足りません)

 糸子は文机の木目を静かに見つめながら、思考を巡らせた。

(旭狼衛は確かに、中二総帥一人を刺客の刃から守り抜くことはできましょう。けれどそれはあくまで「点」の守りにすぎません。長州藩という、大きな大きな「面」そのものを根こそぎ動かすには――この国で最も重く、最も大きな権威を、長州の喉元に、ぴたりと突きつけるよりほかにないのです。すなわち、朝廷の御威光を)


 だが、その朝廷を動かす二つの要――父・忠房と、御門様はともに、糸子が「ああしてください、こうしてください」と願ったところで、素直に動いてくれるような軽々しい立場ではなかった。父上は、娘可愛さのあまり、甘いところもあるが、御門様にいたっては、そもそも、軽々しく私情で動くことなど、あってはならぬ存在であった。


(ならば――お二人を、わたくしが動かそうとしてはいけません。お二人ご自身が、心の底から「動きたい」と、そう願うように仕向けてさしあげるのです。父上のお胸には、父としての怒りの火種を。御門様のお胸には、君主としての大義の火種を。わたくしは、ただそっとそれぞれの薪のあいだに、小さな種火を置いてさしあげるだけ。あとは――お二人が、勝手に、燃え上がってくださいます)


 その思考に邪(よこしま)な高揚は、一切なかった。あるのはただ、最も少ない労力で、最も大きな成果を得る。その研ぎ澄まされた合理だけ。そして、そんな気持ちで動いている自分への罪悪感と申し訳なさであった。


「……葵」

 糸子は、傍らに控える侍女を、静かに呼んだ。

「墨を、いつもより濃いめに磨ってちょうだい。それから――今宵は誰一人、この部屋へは通さぬように」


 応じたのは、糸子より少し年嵩のよく動く大きな瞳をした侍女であった。葵という。糸子の身の回りの一切を支え、その突拍子もない言動にいつも目を白黒させながらも、糸子を敬愛してやまない、彼女の最も近しい侍女である。

「はい。ただいま」

 葵は硯に向かいながら、ちらりと主の横顔を窺った。その表情に何か嫌な予感を覚えたのだ。姫様がこういう静かな顔をなさるときは、決まって、誰かの背筋が凍るような何かが、その小さな頭の中で組み上がっている――。


 糸子は、磨り上がった墨に筆を浸すと、真新しい奉書紙を一枚、すうっと広げた。

 そして――次の瞬間、葵は我が目を疑った。


 あれほど凛としていた主の白い面に、みるみるうちに、はらはらと涙が溢れ出したのである。

 筆を握る指先は、わなわなと頼りなく震え、墨の文字は、まるで嗚咽を堪えきれぬかのように、所々で滲み、乱れていく。


『お父上様。糸子は、ただただ、悲しゅうございます――』


 書き出しの一行を、糸子は、声を殺してすすり泣きながら綴っていった。

 遠い長州から来た者たちに、心ない言葉を浴びせられ、冷たい目で見下され、どれほど心細い思いをしたことか。年端もいかぬ身で、たった一人、江戸の地で気を張り続けてきた娘の、その孤独と無念――。文面には、そうした「悲劇の姫君」の嘆きが、これでもかと塗り込められていく。


_____________________________________

 父上様 御許(おんもと)へ


 立春を過ぎ、暦の上では春とはいえ、いまだ余寒厳しき折柄、父上様におかれましては、いよいよ御清祥に渡らせられ、何よりと存じ上げ奉り候。糸子も相変わらず健やかに過ごしておりますれば、まずは御 休心くださりませ。


 されど、父上様にのみ、胸の内に秘めたる一事を、ひっそりとお伝えしたきことがございます。


 お父上様。糸子は、ただただ、悲しゅうございます。

 先だってお江戸へ参りし長州の若輩ども、事もあろうに寄ってたかって、女子の身である私を執拗にいびり倒してございます。糸子は御門より承りし使者としての務めを果たそうと致したのみ。それに対し、あのような仕打ち……。


 朝廷の使者たるわたくしが、長州の者によりて、その尊厳を踏みにじられ申し候。

 御門より賜った朝廷の使者という役目は、糸子にとって何よりも大切なもの。その役目を辱められたことは、糸子一人の問題に非ず、ひいては御門への不敬にも通じる大路ならぬ振る舞い。凍てつく夜も眠れず、悶々と考えておりました。


 長州藩は、もしや朝廷に弓を引く御つもりなのでしょうか。わたくしには到底分かり兼ねます。されど、あのような若者らが藩の行く末を担うのであれば、糸子は長州という存在を、いかなる眼差しで見ればよいのか、途方に暮れております。


 父上様。私は誰かの死を望むものでは御座いませぬ。切腹などという血生臭き結末では、誰も救われぬと存じます。ただ、長州藩が朝廷の使者に対し、いかなる真意を抱いておるのか。それだけは、しかと正していただきたく願います。


 もし長州が、朝廷に一点の曇りなき忠義を誓い、協力されると仰せならば、私は喜んでこれを受け入れましょう。されど、使者を傀儡(くぐつ)として操り、己が藩の都合で朝廷を動かそうとするなど、断じて許されるべき事には御座いませぬ。


 この儀、くれぐれも御門の御耳には入れぬようお願い申し上げます。畏れ多くも、御上に御心痛をおかけしたくは御座いませぬゆえ。父上様お一人にのみ、この胸の内を吐露いたした次第にございました。


 浅春の風いまだ冷たく、どうぞ御自愛くださりませ。


 かしこ


 仲春

 糸子

_____________________________________


「ひ、姫様……っ! いかがなさいました、どこかお加減でも……!」

 たまらず葵が膝を進めると、糸子は涙に濡れた顔を、ゆっくりと上げた。

 そして――その双眸からは、すでに涙が、すっと引いていた。あとに残ったのは、氷のように澄んだ、冷徹な光だけであった。


「……案ずることはありません、葵。これは、単なる涙ではないのでございます」

 糸子は、頬の雫を懐紙でそっと拭い、淡々と告げた。

「これは――言葉だけでは決して動かぬ大人を、確実に動かすための。そう、れっきとした『武器』なのでございまする」


「おなごの涙は……武器になるのでござります」


二

 葵が呆気にとられている間に、糸子の筆は、もう一通目へと移っていた。


 二枚目の紙に向かう彼女の表情からは、先ほどの涙の気配は、跡形もなく消え去っていた。背筋を伸ばし、唇を引き結び、一文字一文字を、刃物で刻みつけるように書いていく。その筆致は、もはや嘆く少女のものではない。法と理を以て敵を断罪する、冷厳な裁定者のそれであった。


 宛先は――御門様。この国の、頂に座す御方であった。

 こちらの文面に、涙は一滴も滲んでいない。あるのは、ただ揺るぎなき大義名分のみ。『長州』の不正を暴き、藩を挙げた国富の流出を深く憂う一文であった。


 二通を書き上げ、糸子は静かに筆を置いた。

 そして、まだ事態が飲み込めずにいる葵へ、まるで幼子に算術を教えるかのように、穏やかに語りかけた。


「いいですか、葵。よく見ておきなさい。ここに、二つの異なる文があります」

 彼女は、左右に並べた書状を、白い指先で順になぞった。

「こちらの、涙で滲んだ文は――お父上様への、ただの愚痴を装っています。けれど、その実は、お父上様のお心を、わたくしの望む方へと動かすための、いわば『情報の凶器』。そしてこちらの、涙のない文は――御門様という、この国で最も大きく重い『威光の盾』を、長州へと向けさせるためのもの」


「い、いくさの……戦の文…ということですか……?」

 葵の声は、かすれていた。

「ええ。ただし、刀も鉄砲も使わぬ、戦です」

 糸子は、ほんのわずかに口角を上げた。

「ここで、わたくしは大切なことを一つ、仕掛けてあります。――この二通のどちらにも、わたくしは『高杉』『久坂』という名を、ただの一度も書いておりません。共通して『長州』と書いてあるのでございます」


「な、なぜ、わざわざ……? 無礼を働いたのが誰かを書かねば、お父上様もお困りになりましょうに」

 もっともな問いに、糸子は満足げに頷いた。

「葵。罰したい相手の名を書けば、罰されるのは、その者だけで終わってしまうでしょう? けれど、名を伏せて『長州の者』と書いておけば――この火は、必ず長州藩そのものへと、燃え広がってゆくのです。わたくしが本当に欲しいのは、たった二人の首ではありませぬ。長州という大きな藩、そのものなのですから」


 その途方もない考えの深さに、葵は背筋がぞくりと粟立つのを感じた。

 主の目は、もう遥か西の、見たこともない長門の城下を見据えている。


「では、これを――」

 糸子は、二通の書状を、それぞれ別の封に丁寧に納めた。

「天朝物産会所の、最も速い飛脚に乗せてちょうだい。昼夜兼行で、八日――遅くとも十日のうちには、京のお父上様のもとへ届くように、と。……ふふ。これより、京と江戸の間を、わたくしの仕掛けた糸が、幾度も幾度も、行き来することになりましょう。葵、これはわたくしの『連環の計』。一つの輪が、次の輪を呼び――気づいたときには、長州は、逃げ場のない大きな鎖の中…というわけです」


「そして……ふふ。この壮大なる計に、ふさわしい名を授けるとするなら」

 糸子の頬に、ほんのりと、楽しげな朱が差した。

「そう――『八紘(はっこう)を縛(から)めとる、千里の連環陣(せんりのれんかんじん)』、とでも、呼びましょうか。なかなか、よい響きでしょう?」

「……姫様」

 葵は、思わず、がくりと肩を落とした。

 またこれだ…と思う。姫様には、たまーに、こうして変に名を付けたがる…不思議な――そして、少々ぽんこつな癖がおありなのだ。普段はあれほど、底知れぬ知略を巡らせておられるというのに、最近は「名付け」となると、急に年相応の…いや、それすらも通り越した、妙な熱がこもるところがあるのだ。


「あの……その、お名前のほうは、どこかに書き記したりは、なさらないほうが……」

「あら。なぜです、葵。これほど見事な名を……」

「姫様。四年間を、一滴も残さずにすべて使い切らなくては、ならないのでは?」

「ゔっ――」

 糸子は言葉に詰まる。

 葵はしっかり学習していた。最近の姫様にこのように言えば、ぽんこつな行動を止められるということを――それが従者としての、ささやかな処世術であった。


 項垂れながら……そのうち、糸子は…考えるのをやめた――


 葵は、ただ無言で、その封書を押し戴くことしかできなかった。

 手の中の紙が、まるで火を噴く前の砲弾のように、重く感じられた。


三

 文久元年、三月上旬。

 江戸を発った二通の書状は、東海道を休みなく、西へ西へと運ばれ――やがて、千年の都・京へとたどり着いた。


 京、今出川。

 五摂家の筆頭、近衛家の屋敷は、その格式にふさわしい静謐な気品に満ちていた。手入れの行き届いた庭には、紅梅がちょうど見ごろを迎え、淡い香りが、しっとりと冷えた空気に溶けている。ほう、ほう、と鶯の声が、どこか間延びして響く、うららかな春の昼下がりであった。


 その奥座敷で、当主・近衛忠房は、脇息にゆったりと身を預けながら、一冊の漢籍を繙(ひもと)いていた。

 歳のころは、まだ若い。穏やかで品のある面立ちには、五摂家の頂点に立つ者の傲りなど微塵もなく、ただ学を好む者特有の、柔らかな思慮深さが滲んでいる。屋根の雨漏りにすら、あまり頓着せぬほど経済には疎い、公家らしい鷹揚さをその身にまとっていた。


「江戸の姫様より、お文にございます」

 諸大夫がうやうやしく差し出した封書を見て、忠房の細い目が、ぱっと嬉しげに細められた。

「おお、糸子からか。どれ……。あの子も、江戸で励んでいるのだろうな」

 遠く離れて暮らす愛娘からの便り。それだけで、彼の頬は綻んでいた。忠房は、いそいそとその封を切り、文を広げた。


 だが――読み進めるうちに、その穏やかな顔から、少しずつ、笑みが消えていった。


 涙で滲んだ文字。震える筆跡。長州の者に心ない言葉を浴びせられ、冷たい目で見下され、一人江戸で泣き暮らしているという、いたいけな娘の嘆き――。

 一行、また一行と目で追うごとに、忠房の握る紙が、ぎし、と音を立てて軋んでいく。柔和だったその双眸の奥に、ちりちりと、青い炎のようなものが灯り始めた。


「……長州の…者じゃと?」

 彼は、低く呟いた。

「朝廷の使者たるあの子を……近衛家の…私の娘を、よってたかって泣かせたと申すか」


 父としての怒りが、ふつふつと胸の底から湧き上がってくる。

 だが忠房は、ただ感情に流される男ではなかった。深く息を吸い込み、逸る心をなだめると、彼はふと、ある記憶に思い至った。


(待てよ。……長州の者、と言えば)

 つい先日のことである。二月の下旬、江戸から萩へ向かう途上だという…三人の長州者が旭狼衛の護衛をつけて、この近衛家を訪れたではないか。吉田松陰に、高杉晋作、そして久坂玄瑞。糸子の格別な計らいということで、一夜の宿を貸し手厚くもてなしてやった――あの者たちである。


 あの夜のことは、忠房の記憶に、まだ鮮やかに残っていた。三人は近衛家の客間で、江戸の糸子から叩き込まれたという「複式簿記」なる算法や、世界の交易の仕組みについて、興奮も冷めやらぬ様子で、夜更けまで語っていた。

 とりわけ高杉と久坂の二人は、「あの姫様の頭ん中は、いったいどねーなっちょるんじゃろか」と、半ば畏れ、半ば魅入られたように、糸子のすばらしさを語り続けたものだ。


 忠房はそれを、茶をゆっくりとすすりながら、それはもう誇らしい思いで、聞き入っていたのである。我が娘が、これほどの長州の俊英たちを、まるで赤子の手をひねるように圧倒しているのか――と。


 忠房は、記憶の糸を、慎重にたぐり寄せた。

(あの中で、松陰は……いや、あの男は違う。糸子のことを、それはもう、神仏のごとく敬うておった。あの眼差しに嘘はない)

 では、残る二人はどうか。

(高杉と申したか。あの人を食ったような、ふてぶてしい面構えの若者。それに久坂とやらの…あの隙のない、理詰めで人を追い詰めるような目つき……)


 ぴくり、と忠房の眉が動いた。

 彼の中でおぼろげな疑念が、一つの形を結びつつあった。


「……まさか、あの者らか?。糸子を泣かせたという悪党どもは…」


四

 疑念は、忠房の胸の中で、見る間に確信めいたものへと膨らんでいった。

 だが、彼はそこではやる足を、ぐっと踏みとどまらせた。


(いや、いかん。いかんぞ)

 忠房は、自らに言い聞かせるように、静かに目を閉じた。

(私は今、まごうことなく、腹を立てておる。可愛い娘を泣かされたのじゃ、腹も立とう。なれど――ここで激情に任せて事を起こすのは、五摂家筆頭たる近衛の当主の、することではない。証なき断罪は、ただの私怨。それでは、相手に言い逃れの隙を与えるだけじゃ)


 千年の家格を背負う者には、千年分の慎重さが求められる。

 怒りは怒りとして胸に秘めたまま、まずは事実を、揺るぎなく固めねばならない。


 忠房は、すっと目を開けると、新たな紙を引き寄せ筆を執った。

 宛先は、江戸――。今なお江戸に留まり、朝廷の使者を助けるために、御供として動いている公家、水無瀬実光である。


『実光殿。火急の用にて、一筆したためる。我が娘、糸子が長州の者より無礼な仕打ちを受け、いたく心を痛めておる由。事の真偽、その仔細を、至急、確かめてはくれまいか。何ぶん、ことは朝廷の威信にも関わる仕儀。軽々に騒ぎ立てるわけにはまいらぬ。なれど――もし、これが事実であるならば』


 ここまで書いて忠房の筆先が、わずかに止まった。

 そしてその続きを、彼は一段と強い筆圧で、書きつけた。


『――決して、捨て置くわけにはまいらぬ』


 文を封じ忠房は、それを早馬の飛脚に託すよう命じた。

 書状が運び出されていくのを見届けると、彼はもう一度、奥座敷の脇息に深く身を沈めた。庭の紅梅は、相変わらず、何も知らぬげに春の香を放っている。だが、もはやその香りも、彼の心を慰めはしなかった。


 穏やかな公家の仮面の下で、近衛忠房という男の中に眠っていた、もう一つの何かが――静かに、目を覚まそうとしていた。


五

 忠房の確認の書状が、再び山陽道を東へ駆け抜け、江戸の水無瀬実光のもとへ届いたのは、三月の中ごろであった。


 江戸、一橋上屋敷内 離れの屋敷。

 春とはいえ、まだ朝晩は冷える。火の気の乏しい質素な書院で、水無瀬実光は、京から届いた書状に目を通すなり、思わず「ひっ」と、喉の奥で短い声を上げた。

 歳は二十代半ば。線の細い、品の良い顔面立ちをした公家である。額には、うっすらと脂汗が浮かんでいた。


 近衛家当主・忠房からの長州者の無礼に関する事実確認の依頼――。

 その文面そのものに、驚いたのではない。水無瀬を心底から震え上がらせたのは、この書状が「来た」という…その事実、そのものであった。


(……来た。近衛様からの書状。姫様の仰せられた通りに……!)

 水無瀬の脳裏に、以前の糸子の涼やかな声が蘇る。


 あれは、長州の者たちとの謁見が終わったあとだった。

 糸子は、この水無瀬を密かに呼び寄せ、こう告げたのである。

『水無瀬殿。近く、京のお父上様から、あなたのもとへ書状が届くはずです。慌てずともよろしい。その時に改めて、本日のことをつぶさに伝え申し下さりませ』――と。


 あのとき水無瀬は、その言葉の意味を理解できていなかった。

 まだ何も起きていないうちから、なぜ、これから起きることがわかるのか。なぜ、父からの問い合わせが「来る」と、断言できるのか。

 だが――今、こうして現実に、寸分の狂いもなく忠房の書状が届いてみると、彼はもう、ただ慄然とするしかなかった。


(あのお方は……私よりずっと年下の御身でありながら。江戸におわすご自身の文が、京のお父上様のお心をどう動かし、そのお父上様が、次に誰へ、いつ、何を問うてくるか。その、何手も、何手も先までを……すべて、見通しておられたのか)


 将棋でいえば、まだ一手目を指す前から、終局までの盤面が、すべて見えているようなものである。

 自分は今、その壮大な棋譜の中の、ただ一つの駒として、ぴたりと定位置に置かれている。そのことに気づいた瞬間、水無瀬の背を、ぞくりと冷たいものが走り抜けた。畏怖、としか言いようのない感情であった。


 しかも、恐ろしいのは、それだけではなかった。

 糸子は、ただ「書状が来る」と予言しただけではない。来たるべき父からの問いに、自分が「どう答えるべきか」――その返答の中身まで、あらかじめ、事細かに授けていったのである。証言を、誰から、どう集め、どう束ね、そこへ何を同封するか。水無瀬がこれからすべきことの一切は、すでに、あの姫君の頭の中で、寸分の隙もない一枚の図面となって、完成していた。自分は、ただ、その図面の通りに、手を動かせばよいだけなのだ。


「……分かり申した。姫様の、仰せのままに」

 水無瀬は、震える手で文を畳むと、ごくりと唾を飲み込んだ。

「この実光、たとえ何が起ころうと――姫様の描かれた絵図の、一筆たりとも、狂わせはいたしませぬ」


六

 文久元年、三月下旬。

 水無瀬実光は、糸子から事前に授けられていた段取りに従い、忠房への「返信」の支度に取りかかった。


 彼が用意したのは、単なる一通の文ではない。

 いくつもの「証言」を、一つに束ねた、分厚い書状の包みであった。


 一つは、水無瀬自身の証言。その他にあの謁見にいた者たちからの…長州者の不遜な振る舞いについての報告である。

 もう一つは――旭狼衛の総隊長、近藤勇からの証言であった。

 無骨だが、まっすぐな目をした剣客の近藤は、水無瀬から事の次第を聞くと、太い眉をきりりと吊り上げ、迷うことなく筆を執ったという。


「姫様が、長州の不逞の輩に、あのような……。姫様はお許しになられたようですが、断じて許しがたき不届き千万な話です」

「今、思い出しても実に腹立たしい…」


 水無瀬から仔細を聞いた近藤は、多摩の百姓から武士へと引き上げてくれた姫様への侮辱に、握る木刀をぎりりと軋ませた。彼にとって糸子は、土方や斎藤、山南ら猛者を『近衛の味方』として束ねた、旭狼衛の魂とも言うべき唯一無二の旗印なのだ。その尊厳が汚された、武士としての義憤が腹の底から湧き上がる。

「某ら旭狼衛、姫様の御影に従う身。見たままを京の近衛様へ言上致します。あの高杉、久坂なる者…朝廷の使者、近衛家の姫様に対し、刃を向けんばかりの不遜極まる振る舞いでありました。姫様を守護し、その御心を安んじるためなら、この近藤、いかなる証言も辞さぬ所存。真実を天下に示しましょう」


 そして、最も人の心を打つであろう証言が、もう一通。

 糸子の侍女・葵の…『涙』ながらにしたためた「被害の報告」である。

 高杉という男が、初めて姫様を見たとき、まるで珍奇なものでも眺めるように、無遠慮な目を向けてきたこと。久坂という男が、姫様に向かって「お前はどこで泣くのか」などと、いたいけな心を抉るような問いを、執拗に何度も何度もネチネチと…投げかけ続けたこと――。


 葵はしっかり学習していた。おなごの『涙』は、武器になる――それは従者としての、ささやかな処世術であった。


 長州の俊英たちは、確かに初対面の糸子を、単なるお飾りの公家の姫と侮り、その本性を見抜くまでの間、不遜な態度をとっていたのである。葵はただ、その「事実」を思い出せる限り『涙』とともに書き連ねたのである。


 だが――それを誰に、どう読ませるかを企てたのは、ほかならぬ糸子であった。そして葵は『涙』と共に従ったまでである。


 ………なんともたくましき女性たちである。


 そしてこれらの証言の束に、水無瀬はもう一つ、別の包みを同封した。

「水無瀬殿。これもついでに父上へ届けてほしいのです」

 糸子からそう言付かっていた、一通の御調べの儀である。

 水無瀬はその中身を、あえて確かめてはいなかった。確かめる必要も、勇気もなかったからだ。ただ言われた通り、それを証言の束に添え、固く封をした。


 すべてを一つの包みに納め終え、水無瀬は、ふう、と長い息を吐いた。

「……京へ。近衛様のもとへ。最も確かな経路で、お届けせよ」

 その包みは、再び西へと向かう飛脚の手に渡り、春霞の街道の彼方へと、静かに消えていった。


七

 文久元年、四月上旬。

 水無瀬の包みが、京の近衛邸に着いたとき、庭の紅梅はすでに散り、代わって若葉の青い匂いが、座敷にまで満ちていた。


 忠房は奥座敷で、その分厚い包みを、一つ、また一つと…丁寧に開いていった。

 水無瀬の証言。近藤勇の武骨だが真情のこもった証言。そして――葵の『涙』の滲んだ被害の報告。


 すべてを読み終えたとき、忠房の手は、わなわなと震えていた。もはや疑いの余地はない……


 「高杉」「久坂」


 あの二人が私の娘を、健気に…朝廷のお役目を果たすあの子を、嬲(なぶ)り、泣かせたのだ――。


 穏やかだったはずの公家の双眸は、いまや、ぎらぎらと燃え盛る怒りの炎に染まっていた。

(許せぬ。許せぬぞ……っ。徹底した責任の追及、そして――糸子の進める計画への全面の協力。あの悪党どもに、必ずや約定させてくれる)


 ふつふつと煮えたぎる怒りのまま、彼は、最後に残された包みへと手を伸ばした。

 糸子が「ついでに」と添えた、あの御調べの儀である。


 封を切り、中の書面に目を落とした――その瞬間。

 忠房の動きが、ぴたりと凍りついた。


 そこに記されていたのは、嘆きでも、証言でもなかった。

 冷徹な、数字の羅列であった。

 長州藩・中関(なかのせき)における、和紙の横領。その数、三千束。価値にして、実に二千両。藩の財を食い物にする者たちが、いかにして帳簿の闇にその富を隠してきたか――その一切が寸分の狂いもなく、暴き出されていたのである。


 書面の隅には、これを掴んだ者たちの、特異な経路が、さりげなく記されていた。呉服商「松屋」の書状を装い、大坂の豪商「鴻池」を経由して運ばれてきた――幕府の検閲を、するりと潜り抜ける、糸子の張り巡らせた、見えざる情報の網。

 その底知れぬ仕組みに、忠房はしばし言葉を失った。


(江戸と長州、その間、およそ二百里あまり。並の飛脚であれば、行って戻るだけで、ひと月はかかろう。それをこの娘の手の者は、幕府の検閲の目を巧みに欺きながら、繋いでみせる……。糸子の振るう力は、武でもなく銭でもない。これは――「情報」そのものを、この国の誰よりも速く、誰よりも正確に握る力だ。なんと空恐ろしき我が娘よ)


(……これは。長州の不正か…? 藩ぐるみの国富の流出ではないか)

 彼の頭の中でばらばらだった点が、一本の線へと、猛烈な速さで繋がり始めた。


(そうか。読めたぞ! 糸子は――ただ、いじめられて泣いておったのではない。あの子はその身の危険を冒してまで、この長州の腐りきった不正を、暴こうとしておったのだ。だからこそ、あの者たちに疎まれ、嫌がらせを受けた……。これは、私怨などではない。皇国の富を守らんとする、気高い娘の…孤独な戦いだったのだな!)


(なんと、なんと…いじらしいのだ。糸子よ……)


 一つの美しい「正義の物語」が、忠房の胸の中で、完璧な形に組み上がった。

 もはや、これは近衛家一人の問題ではない。朝廷の…いや、この国の根幹に関わる大事である――そう、忠房は確信した。


 真実は決して違うのに――


八

 だが――その「正義の物語」に酔いしれかけた、まさにその刹那。

 忠房の脳裏を…ふと、一つの違和感がよぎった。


(……待てよ。そういえば、糸子の最初の文には)

 彼は、机の端に置いたままの…あの涙で滲んだ娘の書状をもう一度、手に取った。

 そして、隅々まで、舐めるように読み返した。

 ――やはり、そうだ。

 この文のどこにも、「高杉」「久坂」という名は、ただの一文字も、書かれていない。あるのはただ、「長州の者」という…ぼかした言い回しだけ。


 その瞬間。

 忠房の中で何かが、音もなくすとんと腑に落ちた。

 怒りに燃えていた双眸から…すうっと、炎が引いていく。代わりにそこに宿ったのは、もっと冷たくもっと深く、底の見えない――静かな光であった。


(……ああ。なるほど。なるほどなあ、糸子よ)

 彼は、心の中で、愛娘の名を、感嘆とともに呼んだ。


(おまえは最初から、あの二人を罰する気など、なかったのだな。名を伏せたのは、そのため。もし高杉と久坂の名を書けば、罰は、その二人で終わってしまう。なれど、名を伏せ、『長州の者』とぼかしておけば……この罪は長州藩そのものへと、広がってゆく。おまえが本当に欲しいのは、二人の首ではない。長州という、藩そのものなのだろう? いじめられたという嘆きも、不正を暴いたという大義も――すべては長州を丸ごと、おまえの掌(てのひら)の上に乗せるための、企てのための布石だったのだな)


「内と外から同時に…ということなのであろう」


 冤罪。否、正確には、真実を巧みに利用し、織り上げた実利のための大いなる仕掛け。

 その途方もない構図を忠房は、一片の説明も受けずに、ただ一通の文の「沈黙」から、すべて読み解いてしまったのである。


 そして、彼は自らがしでかしたことを思い出し、ぎりっ…と奥歯を噛みしめた。

 あの二人を――娘を泣かせた当のあの二人を、近衛家は、格別の客人として、手厚くもてなしてやったのだ。一夜の宿を貸し、酒肴を供し、その成長を頼もしげに聞いてやった。それを思うと…はらわたが煮えくり返るようであった。


 ぎりりりッ――。

 歯ぎしりの音が、静かな座敷に、低く響いた。


 だが、その怒りはもはや、ただ激するだけの父の怒りではなかった。

 忠房はゆっくりと顔を上げた。その口元にこれまで誰も見たことのない、薄く、冷たい笑みが、刷かれていく。


「……ふ。ふふ。おほほ。おほほほほほほ……」

 それは五摂家筆頭という、千年の権力の頂に座す者だけが浮かべうる、底知れぬ腹の底からの…どす黒い笑いであった。


「よかろう、糸子。父も、おまえに倣うとしよう。父も――この一件で、しっかと『実利』を取らせてもらおうではないか。此度の件、表向き、高杉と久坂の名は、決して出さぬ。出さぬが……それを近衛が水に流して許したなどと、思われては困るのじゃ」


 彼の双眸が、すうと細められる。

「おほほ……。これより先、あの者らは、近衛の家のため、死に体になって尽くし抜くことになろう。……これからの人生、人並みの幸せなど、露ほども願うなよ。せいぜい、骨の髄まで、この近衛のために働いてもらおうぞ」


 その、ぞっとするような呟きを――。

 座敷の隅で、茶の支度をしていた一人の老侍女が、黙って聞いていた。

 乳母の…お梅である。糸子をその産声の瞬間から見守り続けてきた、近衛家の古参の侍女であった。


 彼女はたった今、信じがたいものを目撃していた。

 可愛い娘を泣かされ、本気で怒り狂っていた、あの心優しい忠房様が――次の瞬間には、まるで人が変わったように、冷酷な政(まつりごと)の怪物へと、すうっと切り替わったのである。父の顔から、当主の顔へ。その変わり身のあまりの速さ、あまりの冷たさに。しかしお梅は、冷静に見つめていた。


 お梅は、この近衛の家に、長く長く仕えてきた。忠房様が、まだ無邪気な若君であられたころから、その成長を、すぐ傍らで見守ってきたのだ。そして、糸子様が、この世にお生まれになった、あの瞬間の産声も――この耳で、確かに聞いた。生後わずか七月(ななつき)で言葉を発し、周囲の者を仰天させた、あの不思議な姫君を、誰よりも近くで、慈しんで育ててきたのである。


 お梅は近衛家の栄枯盛衰を特等席で見届けてきた。誰よりも冷静に、誰よりも深く、この家の「すべて」を知り尽くしているという自負が、彼女の佇まいにはあった。


 だからこそ――今、目の前で起きた忠房様の変化を見ても、お梅の心が乱れることはなかった。お二人の胸の内など、長年仕えてきた自分にはとうに分かっている。世間を欺くための冷徹な計算も、その裏にある本物の情愛も、すべての真相を見ぬいていた。


 ふと、必要とあらば瞬時に表情を変えて全てを割り切ってしまう忠房様の横顔に、お梅は既視感を覚えた。その刹那の切り替わりの早さに、何の躊躇も、罪の意識すらもないところまで、あのお方に瓜二つではないか。お梅は心の中で小さく、ほのぼのとした笑みを漏らした。


「……ああ。やはり。姫様は、忠房様に…まことにそっくりでいらっしゃいますこと……」


 その血は争えない。

 近衛という家に、千年にわたって流れ続けてきた、恐ろしくも見事な「業(ごう)」の血が――今、父と娘、二つの世代で、確かに響き合っていた。


九

 文久元年、四月中旬。

 忠房はついに、最後の、そして最も重い一手を打つために参内した。


 京都御所。

 幾重もの門と回廊を抜けた、その最も奥深く。清涼殿の、しんと張り詰めた静寂の中で、忠房は、深く頭(こうべ)を垂れていた。御簾の向こうには、この国の頂に座す御方――御門様の、おぼろげな影が、揺らいでいる。


 この清涼殿に上がることを許される者は、ごく限られている。気高い香の薫りと、衣擦れの微(かす)かな音だけが、千年の時を重ねた板の間に、静かに満ちていた。庭先からは、初夏の鳥の声が、まるで遠い別世界の出来事のように、ほのかに届いてくる。


 ここは、この国で最も静かで、そして、最も重い場所であった。その張り詰めた空気の中で、忠房は内心、ひそかに気を引き締めていた。

(これより、私が御門様に奏上いたすことは、表向きは、娘の受けた無礼への、義憤の訴え。だが、その本当の狙いは――糸子の描いた、長州攻略の絵図を、御門様の御威光をもって、仕上げること。一言でも筋を違えれば、すべてが水泡に帰す)


 だが彼の胸に、不思議と迷いはなかった。

(案ずることはない。この紙に書かれた言葉は、すべて、揺るぎなき真実だ。私はただ、その真実を、ありのままにお伝えするだけでよい。火種はもう、置かれておる。あとは――御門様ご自身が、お決めになられる)


 忠房が捧げ持つのは、御門様宛にしたためられた、涙のない告発の書状だけではなかった。

 彼は糸子の意を汲み、その内容を過不足なく奏上した。朝廷の使者たる糸子が、遠く江戸の地で、長州の者によって、その尊厳をいかに踏みにじられたか。そして――その背後に隠された、長州藩の藩ぐるみの不正、国富の流出という、由々しき大事を。


 奏上を聞き終えた御門様は、しばしの長い沈黙の後――。

 御簾の奥から静かな、しかし大地を震わすような、深いお怒りの声を発せられた。


「……許しがたし」

 その一言が、清涼殿の空気を、ぴんと張り詰めさせた。

「糸子は、朕の名代として、江戸へ遣わした者ぞ。いわば、朕の代理である。その糸子を、よりにもよって蔑ろにするとは――それはすなわち、この朕を、朝廷そのものを、足蹴にしたも同然の所業。長州とはいつから、そのような不敬の徒の巣窟となったのか」


 だが――御門様の聖断は、ただの私情の怒りだけでは、終わらなかった。

 御簾の向こうの影が、わずかに動く。


「……いや。聞けば、糸子は、ただ侮られて泣いていたわけではないと申すか。我が身の危うきも顧みず、長州の腐敗を、国富の流れ出ずるを、止めんとして――あの小さき身で独り、敵地に立ち向かっておったと」


 その瞬間、御門様の中で、この一件の意味が、大きく変質した。

 単なる、娘を泣かされた公家の私怨ではない。これは、皇国の富という、この国の血脈を守らんとした、いじらしくも気高い忠臣の戦いなのだ――と。


「であれば、これは捨て置けぬ。朕の代理を蔑ろにした憤りと、皇国の防波堤を守らんとした者を救う大義。その二つが、ここに一つとなった」

 御門様の声に、揺るぎなき決意が宿った。

「忠房。そなたが朝廷の使者として、自ら長州へ下ることを――朕は許す」


「……ははっ」

 忠房は、額を床に擦りつけんばかりに、深く平伏した。

 その伏せた顔には、臣下としての恐懼(きょうく)と――そして、すべてが思惑通りに運んだことへの隠しきれぬ、冷たい笑みとが入り混じっていた。


 真実は本当に違うのに――


十

 文久元年、四月下旬。

 御門様の聖断は、ただちに形あるものとなった。


 長州藩へ向けて、一通の綸旨(りんじ)を下すことが、正式に定められたのである。

 その趣旨は、ただ一つ。

 -------------------------------------------------------------------------

 【綸旨】

 近衛糸子を以て、朝廷の使者として遣わすものなり。

 長州藩においては、速やかに彼女に随身し、事の大小を問わず、

 全面をもって協力いたすべき旨、申し下だすものなり。

 -------------------------------------------------------------------------

 そして忠房は、その綸旨を携える、朝廷の使者の役目を、自ら買って出た。

 近衛家の屋敷へ戻った彼は、薄暗い書院に一人座し、来るべき長州での「対決」を、冷徹に思い描いていた。


(長州へ着いたなら、私は、二枚の紙を、無言で突きつけてやろう)

 彼の脳裏には、すでに、すべての筋書きが、寸分の狂いもなく描かれていた。


 一枚は――『天朝の使者に、不敬を働いた罪』を問う、糾弾の書。

 もう一枚は――『藩内における、和紙横領の動かぬ証拠』を示す、あの御調べの儀。


(この二枚を前にして、長州に残された道は、二つに一つじゃ)

 忠房は、冷たく目を細めた。

(一つは、朝廷の権威に楯突き、『不敬の朝敵』として、藩もろとも、この世から消滅する道。もう一つは――潔く非を認め、糸子の進める、あの壮大な計画の、軍門に降る道。さあ、どちらを選ぶ。一刻の猶予も、与えはせぬぞ)


(不敬の罪のみであれば、あるいは、言を左右にして、のらりくらりと逃げる余地もあろう。横領の証拠のみであれば、藩ぐるみで、握りつぶす算段もつくかもしれぬ。だが――この二枚を、同時に、無言で突きつけられたなら、どうだ?。朝廷への不敬という「大義」と、藩の腐敗という「弱み」)

(その二つで左右から、ぴたりと挟み込む。もはや言い逃れの隙間など、髪の毛一筋ほども残りはせぬ)


 それは奇しくも、娘が江戸で「数字の檻」を組み上げたのと、寸分違わぬ発想であった。逃げ道を、理詰めで一つずつ塞いでいき、最後には、こちらの望む一手しか、相手に残さない。みずから血を流させるのではなく、相手自身に「降る」という選択を、その意思で選ばせるのだ。


 その手際の見事さに、忠房は、我がことながら、ぞくりとした。


 逃げ場のない、二者択一。

 刀を一度も抜かずして、長州という巨大な藩の喉元に、朝廷の権威という、見えざる刃を突きつける。それこそが、糸子の描いた絵図の、最も峻烈な仕上げであった。


 忠房は、ふと、窓の外の暮れゆく京の空を見上げた。

 はるか東の空の下、江戸でたった一人、この壮大な仕掛けを回し続けている、我が娘の姿を思う。

 その途方もない先見の明に、彼は当主としての畏敬と、父としての深い愛おしさを、改めて噛みしめた。

(……案ずるな、糸子。あとは、この父に任せておけ。おまえが江戸で描いた絵図、この忠房が、必ずや、京から長門の地まで、見事に完成させてみせようぞ)


十一

 文久元年、五月中旬。

 いよいよ、近衛忠房が、朝廷の使者として、長州へと出立する日が訪れた。


 京の朝は初夏の澄んだ光に満ちていた。

 近衛邸の門前には、行列が、粛々と整えられていく。だがそれは、世に言う華美な公家の大行列とは、まるで趣を異にしていた。

 総勢、わずか三十名ほど。朝廷の使者としての品格を辛うじて保ちつつ、何よりも「速さ」を最優先した、極限まで切り詰めた編成である。


 行列の中心には、漆塗りの御状箱(ごじょうばこ)が、捧げ持たれていた。御門様の綸旨を納めた、この行列の魂とも言うべき品である。そのほかに運ばれるのは、関所を無検査で通過するための証票・御印札(ごいんさつ)、萩城で藩主と対面する際に着替えるための、冠や袍を納めた行李、そして、儀礼の象徴たる笏(しゃく)――。装飾品の類は、ぎりぎりまで省かれていた。


 随行する者たちの役目も、明確に切り分けられている。文書の管理や藩との折衝を担う諸大夫(しょだいぶ)、忠房の身辺を守る旭狼衛の隊士たち、そして、京の長州藩邸から差し向けられた添番(つきばん)の藩士たち。彼らは、自らの主君のもとへ向かう大切な使者を守るべく、街道沿いの怪しい影に、絶えず鋭い目を光らせていた。御状箱のほかに運ばれるのは、御門様から長州藩主へと下賜される、和歌の短冊や反物、菓子といった、ほんの最小限の贈答品ばかりである。それすらも、朝廷の厚遇を示すための、れっきとした道具であった。


 道のりは遠い。

 京を発ち、山陽道を西へ。兵庫、岡山、広島と過ぎ、防府の三田尻まで下って、そこから北へ、萩往還の険しい峠を越え、ようやく萩の城下へと至る。その総距離、実に百四十里(およそ五百五十キロ)。通常の旅であれば、二週間はゆうにかかる道のりである。

 だが、この一行は、それをわずか十日で駆け抜けるつもりであった。夜明け前から日没まで、馬を休ませることなく走り続け、宿場ごとに最も健脚な替え馬へと次々に乗り継いでいく。朝廷の使者にのみ許された、その絶大な特権だけが、この常軌を逸した速度を可能にしているのだった。


 忠房自身も普段の雅やかな狩衣ではなく、馬上で動きやすい、地味な道中着に身を包んでいる。

(萩の城下が見えるころに、正装に改めればよい。それまでは、一里でも、半里でも、速く――)


 すでに数刻も前には、伝令の早打ちが先発していた。次の宿場へ「勅使、通る」と告げ、最良の替え馬と人足を、最優先で確保させるためである。山陽道の宿場という宿場で、他の大名や旅人すらも止められ、この一行に道が譲られることになる。それが朝廷の使者の持つ、絶大な特権であった。


「近衛様」

 その忠房のかたわらに、一人の男が、静かに歩み寄り、深く一礼した。

 小柄でにこやかな、愛嬌のある丸顔。一見すれば、人を斬る稼業とは無縁の、町の手習い師匠のような風貌である。この長州への危険な道中、忠房の身を陰から守る役目を担う、旭狼衛・京支部の長――山南敬助であった。


「道中の警護、この山南敬助以下、旭狼衛の者が、しかと相務めさせていただきます」

「おお、山南か……。よろしゅう頼む」

 忠房が頷くと、山南は、ほんの少し声を落とし、思い出したように告げた。


「実は、近衛様。……萩の土方を通じて、姫様より、かねてよりお言付けを頂戴しておりまして」

「糸子から?」

「は。『もし、お父上様が、近いうちに長州へ赴くようなことになりましたら……道中の警護、くれぐれも、よろしくお願い存じまする』と。――まだ、近衛様のご出立が決まるよりも、ずっと前のことにございました」


 忠房はしばし、言葉を失った。

 まだ何も決まっていないうちから、娘は、父のこの旅路を案じ、その安全のために、手を回してくれていたというのか。先を読む、その恐るべき知略の、まさにその中心に――父を気遣う、温かな娘心が、確かに息づいていた。


「……あの子は」

 忠房の声が、わずかに震えた。

「あの子は、こんなときにまで、この父のことを……」

「恐れながら、近衛様」

 山南は、穏やかに微笑んだ。

「このようなことを、某の口から申し上げるのは、まこと、恐れ多きことではございますが……姫様は本当に、お心の優しい御方でございますな」

 忠房は、込み上げるものを堪えるように、ゆっくりと頷いた。

「……そうであるな。まことに、そうであるなあ」


 山南は改めて、深々と頭を垂れた。

「近衛様。此度の長州への長い旅路。どうぞ、ご安心してお過ごしくださいませ。姫様の言いつけの通り、道中の安全はすべて――我ら旭狼衛が、必ずや果たしてみせまする」

「旭狼衛の方々……。頼む」

「御意」

 山南は、一切の迷いなく、誓いを込めて一礼した。


 やがて行列は、静かに動き出した。

 漆塗りの御状箱を中心に、三十名の影が、山陽道を、ひたひたと西へ向かう。


 沿道の村々では、「勅使が来る」という、ただそれだけのことで、人々が総出で道を清め、地に額(ぬか)づいていた。久しく忘れられていた、朝廷の権威――その復活の予兆を、人々は、固唾を呑んで見つめていた。


 馬上の忠房は、ただ一度だけ、生まれ育った京の都を、振り返った。朝霞にかすむ東山の稜線が、初夏の陽に、淡く輝いている。だが、その眼差しには、もはや、感傷の色は微塵もなかった。彼は静かに前へと向き直り、手綱を握る手に、ぐっと力を込めた。

(待っておれ、長州。そして――見ておれよ、糸子。この父の…近衛家当主としての、まことの本気を)


 近衛忠房を乗せた一行は、その荘厳な静けさの中を、長門の地を目指して、ひたすらに、西へ、西へと駆けていった。


十二

 刻は、わずかに遡る。


 忠房が京を発つ、その日に先立って――一通の書状が、山を越え、街道を越えて、江戸の一橋上屋敷へと届けられていた。


 差出人は京の…近衛忠房。

 糸子の父からの便りであった。


 江戸の奥御殿で、糸子はその文を静かに読んでいた。

 文には二つのことが、綴られていた。

 一つは――長州の不祥事に対し、これより朝廷が、いかなる処置を下すことになったか、という報告。すべてが、糸子の描いた絵図の通りに、寸分違わず運んでいることを告げる、頼もしい知らせであった。


 そしてもう一つは――遥か遠い江戸で、たった一人、戦い続ける娘の身を案じる、父の、変わらぬ親心であった。『辛くなったらいつでも、京へ帰っておいで。近衛の家は、いつでもおまえの帰る家なのだから……』と。


 その一文を目にした瞬間、糸子の、常はどこまでも冷静な双眸が、ほんのわずかに、揺れた。

 父は、何も問わなかった。なぜこのような書状を書いたのか――そうした詮索は、ただの一言も、文には記されていない。ただ、娘の仕掛けた絵図を、黙って引き受け、その上で…ひたすらに我が子の身を案じている。


(……お父上様は、きっと何もかも、お気づきになっておられる)

 糸子には、分かっていた。あの聡明な父が、自分の「狂言」の、その真の狙いを、見抜けぬはずがない。見抜いた上で、あえて何も言わず、その大きな手で、娘の選んだ道を、そっと支えてくださっているのだ。

(わたくしの行いが、どれほど冷たく、どれほど人を欺くものであろうとも……お父上様だけは、このわたくしを、まるごと受け止めてくださる)

 遠く離れていても、その温もりは、不思議なほど確かに、この小さな胸に、じんわりと染み込んでいた。


 文を読み終え、糸子は傍らに置かれた茶碗を、そっと手に取った。

 ほのかに湯気の立つ、淡い緑の茶。これも、いつぞや父が「江戸で気を張りすぎぬように」と、わざわざ送ってくれた、宇治の銘茶であった。


 糸子はその一口を、ゆっくりと含んだ。

 ほろ苦さの中に、ふくよかな甘みが、じんわりと広がっていく。それは、遠く離れて暮らす父の、ぬくもりそのもののようであった。


 茶碗を膝に置き、糸子は、すっと立ち上がった。

 障子を開け放つと、初夏の、抜けるように青い空が、どこまでも広がっている。

 彼女は、その澄み渡った空を、まっすぐに見上げた。今ごろ、あの空の下、はるか西の街道を、父が、自分の描いた絵図を完成させるために、駆けているはずだ。


 糸子は静かに目を閉じ、両の手を胸の前で、そっと合わせた。

 そして、誰に聞かせるでもなく、その清らかな唇から、祈りの言葉をこぼした。


「……父上様。どうかお身体を大切に。糸子の進める道のため、何卒、頑張りくださいまし」

 風が彼女の黒髪を、さらりと揺らした。


「糸子は――この江戸の地より。八百万(やおよろず)の神々の御加護によりて、すべてが首尾よう運ばれんことを。心より祈っておりまする」


「父上様が、ご無事に萩へお着きになられました折には、天より慈雨(じう)を降らせてお守りくださいますように」


 目を閉じたまま手を合わせ、糸子は長く長く……祈り続けた。

 その小さな背を初夏の柔らかな陽が、優しく包んでいる。


 京から長門へ。江戸からこの国の先の世へ。

 姫君の張り巡らせた、見えざる糸は――今、確かに、すべてが一つに繋がろうとしていた。


 第百二十七話 了

この親にして、この子あり!!でしたね。腹黒いのは、近衛家の家系だった…のかな?( ;´ーωー)ウーン


あと……久坂と高杉が各方面で怒りを買ってます…((´∀`))ケラケラ 


この長州攻略編で彼らは最後…どうなってしまうのでしょうか?┓( ̄∇ ̄;)┏


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
『江戸を発った二通の書状は、東海道を、山陽道を、休みなく西へ西へと運ばれ――やがて、千年の都・京へとたどり着いた。』 山陽道まで行くとちょっと行き過ぎですね。 ようやく直った移動時間感覚もそうですが…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。