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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第百二十四話「長州攻略編―長州勘定仕法、債務引受の罠(前編)」

一

 文久元年、四月上旬。


 萩の城下町は、どこか頼りなげで、それでいて温かい春の淡い光に包まれていた。


 どこまでも続く真っ白な土塀。その向こうから顔を覗かせる夏みかんの木々には、まだ青く小さな実がぽつぽつと鈴なりになり始めている。

 見上げれば、黒い瓦屋根のすぐ上を、数羽の燕がせわしなく羽ばたき、交差していた。一見すれば、いつもと変わらない、のどかで穏やかな地方の城下町。

 だが――その肌に触れる空気だけは、異様なまでの熱を孕んでじっとりと震えていた。


「おい、聞いたんか」

「……ああ、例の話じゃろう」

 通りを行き交う若い藩士たちの顔には、これまでの緊迫感とはまったく質の違う、隠しきれない興奮の色が浮かんでいる。彼らはすれ違いざま、あるいは物陰に身を寄せるたびに、周囲を気にしながら声を潜めて何やら囁き合っていた。


 そのひそひそ話の、まさに中心にあったのは――城下を揺るがす、ひとつの奇妙な噂だった。


「ほんまに、あの高杉と久坂が……あの頭の固(かて)ー俗論派の連中を、跡形もねーまでに叩きのめしたっちゅうんか?」

「間違いねー。それも――話に聞きゃあ、刀をいっぺんだって抜きすらもしんやったそうじゃ」

「刀を抜かずに……? おいおい、冗談じゃろう。算盤の理屈だけで、あの恐ろしい椋梨殿たちをねじ伏せたっちゅうんか。おい、ほんまにそねーな芸当ができるんかよ」


 一人の若い藩士が、とても信じられないといった様子で首を横に振った。無理もない。これまで彼らが学んできた武士の意地や意気地とは、あまりにもかけ離れた勝ち方だったからだ。

「おいおい、驚くところはそこじゃねーぞ。まだ続きがあるんじゃ。あの、今にも底がついて干からびかけちょった藩の金蔵にだ……なんと、いっぺんに二千両もの大金を湧き出させたらしい。」


「に、二千両……!?」

「おうよ。何もありゃあせん、ただの蔵から、まるで狐にでも化かされたように二千両が湧いて出たんじゃと!」

 その流言飛語は、早業の火縄に火がついたごとき猛烈さで、飛ぶが如く城下を駆け巡った。


 事の真相はこうだ。先の件で、高杉晋作と久坂玄瑞の二人は、俗論派が裏金作りのために帳簿から完全に隠匿していた三千束もの極上和紙に目をつけた。それを『複式簿記』の論理――「貸借が一致せぬ不自然な金の歪み」から隠し資産の存在を完全に突き止め、「公式の帳簿にない以上、これは藩の余剰物産である」と言い逃れのできない形へ追い込む並外れた商談術を駆使して、あろうことか「合法的」に強奪。

 さらに天朝物産会所の経路に乗せて一気に売りさばき、藩の懐に二千両という莫大な利益をもたらしたのだ。


 刀を持たぬ者が、知恵だけで巨万の富を動かす。この「奇跡」のような大逆転劇は、若き志士たちの間で、すでに一編の英雄譚か伝説のように語り継がれ始めていた。


 中には興奮のあまり、

「こねーな時にじっとしておれるんか! 夜も眠れんわい!」

 と叫んで、夜通し城下の道場にこもり、剣術ではなく算盤の稽古を始める若者まで現れる始末だった。

「やれやれ……。剣の稽古を放り出して、パチパチと算盤を叩くんか。今の世が変わっちゅうんは、まさにこの底が抜けたよーな有様を言うんかのう」


 そんな様子を遠巻きに見ていた古株の老藩士は、呆れたように苦笑いを浮かべていた。しかし、そう愚痴る彼の目にも、実はどこか抑えきれない好奇心と、若い者たちへの羨望の光が、確かに宿っていたのである。


 長州藩は、昔からどうしようもないほど進取の気性に富んだ土地柄だった。新しいもの、誰も見たことのない未知の概念への渇望が、ここに生きる藩士たちの血には、まるで呪いか祝福のように深く流れている。だからこそ、突如として目の前に現れた「算盤の理」という得体の知れない武器は、彼らの尖った心を、これほどまでに強く、深く捉えて離さなかったのだ。


 これまで、長州の若者たちが盲目的に信じて疑わなかったもの。それは「攘夷」の二文字だった。

 異国を斬る。黒船を焼き払う。武士たるもの、刀こそが己の魂であり、それ以外の解決策などあってはならない――。それが、彼らが生まれ育ち、信じてきた世界のすべてだったはずだ。


 しかし、高杉と久坂の二人が叩きつけた現実は、それとは全く違う地平を指し示していた。

 握るべきは刀ではなく、算盤。頼るべきは腕力ではなく、緻密な数字と冷徹な論理。そして何より、その数字が持つ破壊力は、目の前の敵を斬るだけの刀よりも、遥かに広く、遥かに大きかった。

 若者たちは、その圧倒的な力に畏怖し、そして――どうしようもないほどに魅了されていった。


「数字、そいから、理論……」

 物陰で、一人の若者が、ぽつりと呟いた。その目は、まだ見ぬ未来をじっと見据えている。

「それこそが、これからの今の世を生き抜くための……誰もちゃあ抗えん、絶対的な武器になるっちゅうんか」


 城下のあちこちから、パチ、パチ、と硬質な音が響き始める。それは、これまで萩の町を包んでいた古い静寂を破り、新しい世の幕開けを告げる、力強い足音のようであった。


二

 松下村塾は、連日、文字通り肌がじりじりと焼けるような異様な熱気に包まれていた。

わずか八畳ほどの狭い座敷。そこに、城下を駆け巡る噂をこの耳で確かめようと、血気盛んな藩士たちが文字通り足の踏み場もないほど殺到している。


 互いの肩がぶつかり合い、膝が重なるほどの過密ぶりだ。若者たちの昂ぶる体温と荒い息遣いのせいで、室内はむっとするほど蒸し返り、じっと座っているだけで額から汗が流れ落ちる。男たちの放つ汗の匂いと、何枚もの半紙に書き殴られた墨の匂いが入り混じり、独特の重苦しい空気を生み出していた。


 その熱狂の渦中、座敷の中央に、一枚の世界地図が大きく広げられていた。

 何度も指でなぞられ、ところどころ墨で汚れたその地図を、志士たちはまるで飢えた獣のように貪るような目で見つめている。世界という果てしない広がりの中で、あまりにも小さく、心細げに浮かぶ日本という島国。

 だが同時に、その周りには、無限とも思える広大な「海」が広がっていた。そしてその海の彼方には、見たこともないほど巨大な大陸の数々が、どっしりとした姿で横たわっている。


 その地図を見下ろす上座に、塾長である吉田松陰が座していた。

 かつての松陰の大きな瞳には、異国をひたすら排斥しようとする、あの狂信的で盲目的な攘夷の炎が燃えていたものだ。しかし、今の彼の目に宿っているのは、それとは全く異なる、冷徹で澄んだ光だった。

 江戸に座す「近衛家の姫様」から授かった、世界を冷徹に俯瞰する大局観。それこそが、今の松陰の視界をかつてないほどに広げていた。


「よいか、皆。じっくりと、この地図を見るのだ」

 松陰が静かに口を開いた。その声は決して大きくはなかったが、不思議と座敷の喧騒をすっと静め、若者たちの腹の底にまで深く響き渡った。

「今後、我が日本が目指すべき道は……間違っても、あの大陸の泥沼に手を出し、領土を奪い合うことではない!」


 松陰は、地図の真ん中に居座る巨大な大陸を、骨張った指で強く指し示した。

「正視されよ、この清国の姿を。 かつては亜細亜はおろか、四海にその名を轟かせた眠れる大国であった。それが今やどうだ。紅毛の徒をはじめとする異国どもに、骨の髄までしゃぶり尽くされ、半ばその手中に落ちておるではないか。

 ……何ゆえ、これほどの大国がかくも無惨に敗れたのか。理由は明白である。彼らは陸にしがみつき、自ら海防の備えを捨て去ってしまったからだ!」


 志士たちは思わず息を呑み、松陰の次の一言を待った。誰もが、その言葉の持つ奇妙な説得力に引き込まれていた。

「我が日本は、四方を激しい荒海に囲まれた島国だ。ならば、その海を呪うのではなく、徹底的に活かす他はない。海の上に、我らから縦横無尽に商いの網を広げていく――これこそが『海洋国家論』。そしてこれこそが、紅毛の凄まじい圧迫から、この日ノ本という国を独立せしめ、守り抜く唯一の道なのだ!」


 松陰の声が、次第にいつもの熱を帯びていく。

「よいか?。個々の商人が己の目先の利益のため、バラバラに異国と取引をすれば、確実に足元を見られ、買い叩かれて終わるだけだ。ならば、どうするか。朝廷の絶対的な権威のもとに、国内の主要な物産――生糸、茶、そして我が長州が誇る和紙にいたるまで、すべてを一元管理するのだ」

 「もしも異国が不当な条件、不平等な条約を突きつけてきたならば……その時は、国内すべての港で一斉に供給を止める。売り止めをする! そうすれば、市場の価格を決める主導権は、完全に我ら日本側が握ることになる!」


 集まった志士たちは、完全に圧倒されていた。

 これまでの人生で、一度だって聞いたことのない概念だった。武力による打ち払いではなく、「経済」という目に見えない仕組みを使って異国と対等に渡り合う。そのあまりにも壮大で、それでいて緻密な構想に、若者たちの頭は追いつかないながらも、胸の鼓動を激しく刻んでいた。


「先生……それは、つまり」

 張り詰めた静寂を破り、一人の若者が、震える声を絞り出した。

「刀をいっぺんも抜くことなしに……異国を、こっちの思い通りに屈服させる、っちゅうことですか」

「左様!」

 松陰は深く、強く頷いた。


「富こそが力であり、国の防壁なのだ。富があれば、奴らが誇る最新の軍艦も、町を焼き払う大砲も、いくらでも買い揃えることができる。そればかりか、いずれは自分たちの手でそれらを作り出すことだって可能になる」

 「そして、その莫大な富を生み出す源泉こそが、海の商いなのです。異国の言葉を学び、奴らが作った経済の決まりをあえて逆手に取って、まずはこの国を徹底的に富ませる。刀を一度も抜くことなしに――皇国の独立を、万世にわたって保ち続ける。これこそが、私がたどり着いた『真の攘夷』である!」


 松陰の額には、大粒の汗がにじみ、幾筋も頬を伝い落ちていた。

 その痩せ細った体のどこにそんな力が残されているのか、ありったけの熱量を全身から放射している。その姿は、見る者すべてを巻き込んで燃え盛る、一本の巨大な炎そのものであった。


 だが、その熱に圧されながらも、塾生の一人――まだ元服して間もない、十代の若き藩士が、戸惑いを隠せない様子で震える声を上げた。


「先生……ぶち、我らは誇り高き武士。商いなんちゅうもんは……卑しい町人や守銭奴のすることでありゃあしませんか。武士が算盤を持つなど、わしにはどうしても……」

松陰の鋭い視線が、その若者をまっすぐに射すくめた。

「卑しい、だと?」

松陰の声が、地を這うように低くなった。


「では、お前に聞く。目の前で民が飢え、飢え死にしていくのを、『武士だから』と黙って見ているのが、お前の言う誇りか? 己の感情のままに刀を振り回して異人を斬り、その報復として英国の軍艦に町を焼かれ、国が滅びゆくのを、ただ畳の上で見届けるのが、武士の道だというのか!」

 若き藩士は言葉を失い、ただ口を突き出したまま俯くしかなかった。


「真の武士とは、民を飢えさせぬ者のことだ! 国を豊かにし、異国に決して舐められぬ、強い国を作り上げる者のことだ! その高潔な目的のために、泥をかぶって算盤を弾くというのなら――それは卑しいどころか、これからの世において、最も尊い、命懸けの『武士の務め』ではないか!」

松陰の怒号に近い言葉が、若き藩士の胸に突き刺さる。若き藩士は弾かれたように目を見開いた。


 そして――彼の大きな目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、これまで自分が疑いもなく信じ込んできた「武士」という狭い世界の概念が、足元から音を立てて崩れ去り、同時に、その瓦礫の中から全く新しい、まばゆい生き方が生まれようとする瞬間の…魂の涙だった。


三

 松陰の、魂を削り出すような熱弁は、なおも衰えることなく続いていた。

 彼はじっとりとした汗を拭いもせず、座敷の中央に広げられた世界地図の上へ、その節くれ立った手を滑らせた。孤立無援の神州を起点に、大西洋を跨ぎてメリケンへ、さらには欧羅巴(ヨーロッパ)の強国ひしめく地へと、その指先が鋭く動き走る。


「だが、皆。わしが最も警戒し、諸君らに肝に銘じてほしいのは――まさに、これから訪れる先の世のことなのだ」

 松陰の声が、にわかに地を這うように低く、そして重くなった。座敷の空気が、ぐっと張り詰める。

「開国か、さもなくば攘夷か。そんな、あまりにも底の浅い、狭い二元の法にだけは――絶対に惑わされてはならぬ!」


 塾生たちは、一瞬、狐につままれたような、訝しげな顔を見合わせた。それもそのはず、これまで彼らが命を懸けて信じ、掲げてきた大義名分こそが「攘夷」の二文字だったからだ。それを『底の浅い二元の法』とまで言い切る松陰の真意が、まだ掴めずにいた。


「よいか。近い将来――紅毛の異国どもは、必ずや、ある恐ろしい罠をこの国に仕掛けてくる。わしは、それを『代理戦争』と呼ぶ!」

「代理、戦争……?」

 誰からともなく、困惑の呟きが漏れる。聞き慣れないその不気味な言葉に、若者たちは互いの顔を見合わせた。

「そうだ。胸に手を当てて、考えてもみなさい。もしも――この日本という国が、真っ二つに割れてしまったら、一体どうなるか?」

 松陰は、地図の上に置いた日本列島を、爪を立てて二つに引き裂くような、禍々しい仕草をしてみせた。


「徳川の幕府を支持し、どこまでも旧弊を守ろうとする者。そして、それに激しく反対し、新たな国を興そうとする我らのような者。その二つの巨大な勢力が――国内で憎み合い、血で血を洗う大内戦を引き起こす。そうなった時、その双方の背後で、一体何が起きると思うか!」

 松陰の瞳が、奥底から不気味に、炯々と燃え上がった。


「幕府の、後ろ盾には――フランスが回る。そして、反幕府を掲げる雄藩の背後には――イギリスが回る。英仏の二大強国は、表では奇麗事を並べながら、裏では双方の勢力に大量の最新武器を売りつけ、莫大な資金を貸し付け、戦火をこれでもかと煽り立てる」

 「……日本人が正義を信じ、同胞同士で殺し合っている、そのすぐ裏で、異国どもは高みの見物をしながら、笑って大儲けをするのだ!」

 志士たちは、冷水を浴びせられたように慄然とした。背筋を冷たい汗が伝っていく。


「そして、日本中が国を挙げて殺し合い――互いの息の根を止め合い、国力が完全に疲弊しきった、そのどん詰まりの時だ。勝った側も、負けた側も――気がつけば異国の巨額の借金と、がんじがらめの不義理に縛られ、身動きが取れなくなっている」「……最後には、勝者も敗者もなく、日本という国そのものを、そっくりそのまま異国へ献上する結果になるのだ!」


 松陰は、喉を震わせて咆哮した。その声は、塾の壁を突き破らんばかりの勢いだった。


「内戦こそが――この国を最も確実に、跡形もなく滅ぼす! 国内が二つに分かれて血を流せば、その背後で英仏が漁夫の利を得て、我が国は骨の髄まで丸ごと喰い尽くされるのだ! 真の敵は、ただ異国を憎むことではない。本当の、最も恐るべき敵は――この危機に直面しながら、日本国内で醜い争いを起こそうとする、我々自身なのだ!」


 座敷は、まるで水を打ったように静まり返った。あまりの恐ろしい先の世の予想図に、誰一人として声が出ない。


 ――しかし、次の瞬間。堰を切ったように、激しい論争の渦が爆発した。

「なら、なそ! 先生は、あの腐りきった幕府と手を結べっちゅうんか!」

「違う! 滅びゆく幕府をかばうんと違う、内戦っちゅう最悪の道を避けよ、と諭されちょるんじゃ!」

「ぶち、異国を打ち払う『攘夷』の志を捨ててしもーては、我ら長州は何のために……!」


 怒号、反論、ため息。塾生の意見は真っ二つに割れ、やがてその熱は松下村塾に留まらず、長州藩全体を巻き込む、かつてないほど激しく知的な論争の嵐へと変わっていった。


 その…熱狂の嵐の中心を――高杉晋作は、座敷のどん詰まりの隅から、冷徹なまでに澄んだ目で見つめていた。

(さすがは、松陰先生じゃ。これだけの熱量を、これだけの数のもんに一瞬で伝播させ、生み出せる男は……日本広しといえど、他にはおらん)


 高杉は、腕を組みながら、内心で深く舌を巻いていた。鳥肌が立つほどの興奮を覚えながらも、彼の頭は驚くほど冴え渡っている。


(ぶち……じゃが、熱だけでは、このどえれー藩っちゅう組織は動かん。先生が、時代に火を点ける。その激しい火を……わしが、誰もちゃあ文句の言えん現実の『行動』へと落とし込むんじゃ)

(そいから、久坂が――緻密な数字を使って、藩の頑固な上層部の『頭』を完璧に押さえる。……この三人、誰一人欠けてもならん。三人揃って、初めて……長州っちゅう巨大な生き物は、ほんまの意味で動き出すんじゃ)


 高杉の脳裏に、かつて江戸の地で出会った、あの気高き「姫様」の言葉が鮮やかによみがえっていた。彼女が淡々と語った…それぞれの役目、そしてこの先日本が進むべき道。


 松陰は、人々の心を動かす「思想の伝道師」。

 久坂は、論理と数字で敵をねじ伏せる「論理の交渉人」。

 そして、高杉自身は、現場を引っかき回し、現実を動かす「実務の工作者」。

 それぞれが天賦の役割を持ち、一つの壮大な目的のために連携して動いていく――。


(あの姫様は……わしらをほんの一目見ただけで、それぞれの本質と役割を完璧に見抜いちょられた。そいから――最も恐ろしい、最も効果的なお役目を、あの細く華奢な身体で組み上げられたんじゃ。ほんまに、底の知れん、おそろしいお方じゃ……)

 高杉は、顔を真っ赤にして論争に沸く塾生たちを見やりながら、ふっと口元に不敵な笑みを浮かべた。


(これも全部、あの姫様が描いた大きな絵図の上、っちゅうわけか。……ぶち、最高に面白い。乗っちゃろうじゃねーか。その、世界を股に掛けた壮大な絵図になぁ…)


(ただ、ちーたあ……あの姫様の思惑に乗りすぎちょるところが、個人的には気に食わんがのう)

 高杉は一人、獰猛な笑みを浮かべていた。


 松陰が命懸けで蒔いた「思想の種」は、いまや長州の若者たちの胸の中でしっかりと芽吹き、城下全体を焼き尽くさんばかりの、激しく、そして揺るぎない変革の炎へと変わりつつあった。


四

 松陰が村塾の狭い座敷で、若者たちの魂に激しい思想の火を点け、熱弁を振るっているその傍らで。

 高杉晋作は、それとはまったく毛色の違う、しかし極めて重要な実務にその身を投じていた。


 松陰の語る言葉は壮大で、聞く者の血を沸かせはする。だが――いかんせん抽象的すぎるのだ。その燃え上がるような熱量を、どうやって現実の泥臭い行動に落とし込むか。藩内を支える若手や中堅層の武士たちを、机上の空論ではなく具体的にどう動かすか。それこそが、高杉に与えられた唯一無二の役割だった。


 日が落ちて萩の町が夜の闇に包まれると、高杉の本当の仕事が始まった。彼は城下に点在する小汚い料理屋や、馴染みの若手藩士たちの屋敷を、影のように精力的に巡り歩いた。


 車座になって酒を酌み交わしながら、高杉は彼らの有り余る力が、無謀な暴発に向かわないよう、絶妙な手綱さばきで慎重に繋ぎ止めていく。一歩間違えれば「異人を斬る」という短絡的な攘夷の行動へ向かってしまう彼らの情熱を、もっと大きな「経済という名の戦い」へと、強引に、かつ自然に向き直させていくのだ。


「なあ、お前ら、ちーと、考えてみー」

 高杉は、あぐらをかいた若手藩士たちの杯にドボドボと景気よく酒を注ぎながら、不敵に笑いかけた。


「黒船をぶち壊したい気持ちはわかる。じゃがな、あねーなもんを命懸けで一隻や二隻焼いたところで、一体何になるっちゅうんか? 奴らは痛うも痒うものうて、すぐに十隻、二十隻と新しいのを作ってまたやって来るだけじゃ。それよりもだ……もっと面白うて、ぞくぞくするよーな役目がここにあるぞ」

「面白い役目……? 高杉さん、一体何をなさるんですか」

 一人の若者が、身を乗り出してきた。


「おうよ。この長州の極上の物産を、異国の連中に力ずくじゃのうて、決め事を使って高く売りつけてやるんじゃ。そいから、奴らから莫大な富を毟り取る。その稼いだ金で、今度は奴ら以上の最新のゲベール銃や大砲を山ほど買い揃えるんよ」


「そねーして力を蓄え、いずれはこの日ノ本の主導権を、我が長州が完全に握るんじゃ。どうな? 命を捨てて黒船をたった一隻焼くよりも……よっぽど痛快で、ゾクゾクする戦いじゃと思わんか?」

 若手藩士たちの目が、またたく間にらんらんと輝き始めた。


 高杉の持つ独特のカリスマ性と、機知に富んだ悪戯っぽい語り口は、退屈な日々に燻っていた若者たちの心を、面白いくらいに巧みに掴んでいった。


 高杉が夜の街で派手に立ち回る一方、久坂玄瑞は、それとは対照的な、静かで地道な戦いを孤独に続けていた。

 彼の見据える標的は、藩の重臣であり、長州きっての秀才と名高い長井雅楽。朝廷と幕府を結びつける「航海遠略策」を掲げる、極めて開明的な人物だ。


 久坂は、その長井に対して、ひたすらに丁寧な書状を送り続けていた。すべては糸子の教えである、「長井を政敵として排除するのではなく、こちらの味方に引き入れる」という壮大な大計を成し遂げるためだ。


 しかし――相手は一筋縄ではいかない藩の要人である。長井の側近たちは、身分の低い久坂からの書状を、まともに取り合おうともせず門前で拒否し続けていた。


「おい久坂、また突き返されたらしいのう」

 ある日、高杉がふらりと久坂の部屋を訪ね、呆れたように声をかけた。 


「おう、そねーな」

 久坂は文机に向かったまま、顔を上げようともしなかった。彼はすでに、また新しい書状を熱心にしたためているところだった。その生真面目な横顔で、一字、一字、魂を込めるように丁寧に筆を運んでいる。


「じゃが、わしは絶対に諦めんよ。どねーに硬い壁であっても、必ずどっかに隙間はある。長井様に直接受け取っていただけるその日まで――わしは何度でも、何通でも出し続けるまでじゃ」

「おいおい。一通で動かんのなら、どねーする気な?」

「十通出す。十通で動かんのなら――百通でも、二百通でも書くわい」

 久坂は、迷いのない澄んだ声で言い切った。


「ありがたいことに、わしは昔から、文を書くことだけはちっとも苦になりゃあせんけぇね」

 高杉は、その久坂の、呆れるほどの生真面目さと頑固さに――思わず降参といった風に苦笑した。 


「相変わらず、とんでもねー男じゃな、お前は。じゃが……その底の知れんしつこさこそが、お前の最大の武器なんかかもしれん。敵に回したくないもんじゃ」


「敵を作るんじゃあないんよ。味方の数を、一人でも増やす。その上で、藩っちゅうどえれー船全体を、わしらが目指す正しい方向へじわじわと引き寄せるんじゃ。これこそ、姫様がおっしゃっちょられた――『戦わずして、勝つ』という境地なんじゃろうからな」

 久坂は筆の走る音だけを響かせながら、静かに、しかし熱を込めて言った。その瞳には、どんな嵐にも揺るがない、鋼のような信念が宿っていた。


 久坂が長井雅楽に届けようとしているその書状――その文案の基礎は、かつて糸子が江戸で、恐ろしいほどの先見性をもって下書きしたものを基にしていた。

 久坂は、墨の乾きかけたその文案を、改めて畏怖の念を込めて読み返した。


『真の敵は、異国を憎んでいるからではございませぬ。真の敵は――この国難の折に、日本国内で醜く争うておる、我々自身でございます。薩摩と長州が内で争えば、その隙に異国がこの国を骨まで食い物にするでしょう』

『公議政体――すなわち、各藩が対等に合議し、日ノ本の進むべき方向を決定する体制こそが、外国の脅威に決して負けない強い日本を作る…道の第一歩にございまする』


 久坂は、この文面が持つ、天魔の仕業かと疑うほどの巧妙さに改めて舌を巻いていた。

 なぜならこの文章は、長井雅楽が命懸けで掲げる「航海遠略策」を、何一つ否定していない書き方になっているのだ。


「公武合体」も「開国」も、本質的な根っこは長井の考えと同じ。決定的に違うのは、その先にある景色だ。長州一藩だけで先んじて暴走するのか、それとも薩摩や他藩を巻き込んで、大きな合議の枠組みで日本全体を動かすか。違うのは、本当にその一点だけなのだ。


 長井一人の一世一代の博打にするのではなく、諸藩を巻き込んだ仕組みにしてしまえば、万が一失敗した時でも長井一人が全責任を負って失脚する失敗は消える。

 打ち負かすのではなく、この「完璧な責任分散(リスクヘッジ)」という強烈な実利を突きつけることで、彼の考えを、より大きな、より魅力的な枠組みの中に包み込んで吸収してしまう。長井にとっても、この提案に乗る方が、藩内での自身の立場が遥かに安定するのだ。


「……ほんまに、お見事なもんじゃ」

 久坂は、遥か江戸にいる糸子の知略の凄まじさに、ため息混じりの感嘆を漏らした。


 再び静かに筆を走らせ始めた、その時だった。

 部屋の障子がおもむろに開き、一人の男が足音もなく静かに姿を現した。


 桂小五郎であった。

 神道無念流の免許皆伝という、藩内でも一、二を争う凄まじい剣の腕前を持つ、スラリとした長身の美男子。だが、その引き締まった外見とは裏腹に、物腰はどこまでも温厚で、誰に対しても分け隔てなく優しく接する独特の人柄が、その佇まいからにじみ出ていた。


「久坂、相変わらず精が出るのう」

 桂は足音を立てずに近づくと、久坂の文机の上をそっと覗き込んだ。

「これは、桂さん」

「またその書状か。長井様は――まだ、受け取ってはくださらんのか」

「はい。じゃが――これしきのこっで諦めはしませんよ」

 久坂は背筋を伸ばし、生真面目に答えた。


 桂は、そんな久坂の頑なな横顔をじっと見つめながら、声音を少し落として、静かに、語りかけるように言った。


「実を言うとな、お前らが最近やりよる事……わしはまだ、半分は信じられんのじゃ。算盤の理屈や経済の仕組みなんかで、この古りー凝り固まった藩がほんまに動くもんかとな」

「……じゃが、あの俗論派から二千両を綺麗さっぱり奪い取ってきた一件を見てからというもん、わしの考えも少しずつ変わりつつあるんじゃ……」


 桂という男は、極めて慎重で、かつ現実的な男だった。後に「逃げの小五郎」と揶揄されるほどに、情勢を一歩引いて冷徹に見極める、徹底した合理主義者。

 その桂が――いま、高杉と久坂の進める、目に見えない新しいやり方に、確かな関心を寄せ始めていた。


 久坂は筆を置き、桂の目をまっすぐに見返した。

「桂さん。いずれ――あんたのような広い視野を持っちょる方の力が、どうしても必要になる時が来ます。」


「ふむ……。算盤の理…か。なら、長州すべての『米の取れ高と兵糧の流通』を一遍すべて数字に直してみるのも面白いな。その言葉、覚えちょこう」


 桂は薄く、どこか含みを持たせた微笑を浮かべると、それ以上は何も語らず、風のように静かに去っていった。


五

 その頃。

 昼なお薄暗い、萩城の奥深くにある一室では――。

 松下村塾のあの火を吹くような熱狂とは、まったく正反対の、冷たく淀んだ空気がどんよりと流れていた。

 椋梨藤太を中心に、藩の権力を握る俗論派の重臣たちが、額にべっとりと嫌な冷や汗をにじませながら、膝を突き合わせて密議を行っていたのである。


 部屋の隅に置かれた行灯の、今にも消えそうな仄暗い光が、彼らの険しく、影の深い表情を不気味に照らし出している。室内を支配しているのは、胃がキリキリと痛むような、重苦しい沈黙だった。


 椋梨藤太。五十六歳。家柄がすべてを言うこの時代において、極めて低い身分から、自らの圧倒的な実務能力と冷徹な政治手腕だけで藩の要職にまで上り詰めた、叩き上げの藩吏であり、徹底した現実主義者だ。だからこそ、今の彼の顔には、深く刻まれた皺の合間に、隠しきれない強い焦燥の色がにじみ出ていた。


「……ゆゆしき、あまりにもゆゆしき事態じゃ」

 椋梨が、地を這うような低い声で沈黙を破った。


「中関に蓄えちょった我が派の和紙を――あやつらに事実上、法(のり)を盾にした、公然たる身ぐるみ剥ぎじゃ。これは単に金を奪われたっちゅう話じゃあない。藩財政の最も微妙な急所を、あの若造どもに完全に握られたっちゅうことじゃ。……言うまでもないが、あの売り払われた二千両は、我らの手足となる裏金になるはずじゃったもんなんじゃぞ」


 重臣の一人が、苦虫を噛み潰したような顔で深く頷いた。

「面目次第もございません。……そいから、裏の手での始末も失敗に終わりました。一ノ坂の峠に放った腕利きの刺客どもですが――誰一人として、生きて戻ってはきんやったです。」


 椋梨の眉が、ぴくりと不快そうに跳ね上がった。

「それだけじゃありゃあせんのです」


 別の重臣が、さらに周囲を警戒するように声を潜めて言った。

「我らの足元であるはずの、大人しいはずの若手藩士たちが……あの松陰の過激な思想に、文字通り急速に染まりつつあります。城下では連日、あのおぞましい松下村塾に身分を問わず人が殺到し、若者どもが口を開けば『海洋国家論』だの『代理戦争論』だのと――藩のこれまでの基本方針(藩論)が、根底からガラガラと揺らいじょりまする」


 椋梨は、膝の上で衣が擦れるほど強く拳を握りしめた。

「和紙の金を握られ、あげくの果てには藩の理まで、あの牢帰りの狂人に――そっくり塗り替えられるっちゅうんか」


 椋梨の声が、わずかに震えていた。それは、長年培ってきた自分たちの支配体制が崩れることへの激しい怒りと、正体の見えない新しい力への、底知れない恐怖が入り混じった震えだった。


「これ以上、あの小倅(こせがれ)どもを野放しにし、のさばらせちょけば……我が長州藩は中から崩壊(ほうけー)する。それだけは、何としても防がにゃあいけん。」


 部屋を再び、じっとりとした静黙が支配した。

 しばしの熟考の後、椋梨は――冷徹な決断を下した。

「松陰を……また、捕らえちゃる」


 重臣たちが、思わず短く息を呑んだ。

「奴を、藩の安寧を脅かす野蛮な過激思想の首謀者として再び牢にぶち込み――今度こそ、表に出さんまま密かに始末しちゃる。長州を救うには、もはやそれしか道はありゃあせん」


「し、しかし、椋梨様」

 一人の重臣が、怯えを隠せない様子で慎重に口を挟んだ。


「今の状況で、あまりに表立ってそねーな暴挙に出りゃあ……藩内でのわしらの立場が弱くなるどころか、あ奴らの暴動を招いて、わしらの存続すら危ううなります。やるんなら、誰の目から見ても非の打ち所がねー、きちんとした正当性を保たにゃあいけません。」

「そねーなことは、分かっちょる!」

 椋梨は苦々しく吐き捨てるように頷いた。


 彼はまだ、藩吏としての理性的な側面を失ってはいなかった。感情に任せて刃を振るう暴力など、最も愚かだと知っている。あくまで合法的に。あくまで、手続きの正当性を保ちながら敵を追い詰める。 それこそが、叩き上げの藩吏としての、椋梨の譲れない矜持であった。


「正当な大義名分を、完璧に整えるんじゃ。その上で――松陰を合法的に葬り去っちゃる。ぐずぐずしちょれん、急ぐぞ」

 密議を進める椋梨の脳裏には、もう一人、不気味な存在として長井雅楽の端正な顔がよぎっていた。


 長井雅楽。「智弁第一」と称され、藩内でも突出した頭脳を持つ秀才。独自の「航海遠略策」を掲げ、開国と公武合体を極めて現実的に説く、冷徹な合理主義者だ。何より、藩主・毛利敬親からの絶大な信任を一身に受けている男である。


 長井はこれまで、椋梨たち俗論派とも、松陰らの正義派とも、絶妙に距離を置いていた。理性の塊のようなその男は、どちらの思想の過激さにも決して与しなかった。


「長井殿は……一体、どねーに動くつもり。」

 椋梨は、ぽつりと苦い呟きを漏らした。

「あの男は恐ろしく賢こー。そいから賢こーゆえに――最終的には、間違いのう勝ち馬に乗る男じゃ。今はどっちにも荷担せんと静観しちょるが……もしも小倅どもの連中がこのまま勢いづきゃあ、あっさりとそっちに転ぶやもしれんのう」


 重臣の一人が、思い出したように頷いた。

「そねー言えば、あの松陰の愛弟子である久坂が……長井殿の屋敷へ、しきりに書状を送りつけちょるとか」

「ふん。長井殿は今のところ、受け取りを全部断っちょると聞くが……それもいつまで持つか」


 椋梨の胸中に渦巻く危機感は、時間が経つごとに深まるばかりだった。

 足元の若者たちは松陰の狂気に染まり、藩の重要人物である長井すら、いつ寝返るか分からない。そして、自分たちの資金源であった和紙の利権は、すでに高杉らの手の中にある。


 目に見えない真綿で、じわじわと首を絞められている――。その底知れない恐怖の感覚こそが、現実主義者である椋梨を、かつてないほどに焦らせていた。

 追い詰められた俗論派は――暗がりの闇の中で、静かに、しかし確実に、次の一手のための鋭い牙を研ぎ始めていた。


 だが、彼らはまだ気づいていなかった。その完璧なはずの藩吏組織の隙間に、すでに冷徹な「狼の牙」が音もなく忍び寄っていることに――。


六

 萩の暗がりに蠢く俗論派の不穏な地鳴りは――驚くべき速さで、土方歳三の耳へと届いていた。


 この時、土方は「田中弥次郎」という偽名の脱藩浪人に身をやつし、萩の城下町へ深く潜伏していた。

 さらに、近くの寺院に気配を隠した斎藤一と結城誠一郎。この三人を中心とする旭狼衛が萩に張り巡らせた独自の密偵網は、俗論派が密議の部屋で漏らした微かな焦燥の匂いを、確実に、そして正確に捉えていたのだ。


 緊迫した空気がじりじりと肌を刺す、萩の一角。

 潜伏先である高杉晋作と久坂玄瑞の元へ、夜陰に乗じて土方がふらりと姿を現した。

「俗論派が、いよいよ本格的に動くぞ」

 土方は無駄な挨拶を一切省き、低く、しかしよく通る声で告げた。


「狙いは先生だ。再び捕縛し、今度は生かして返さぬ腹積もりでいる。おそらく藩吏らしく、何かしらの正当性をこじつけてから動くつもりだろうが……そう、こちらの時間は残されていないぞ」


 その言葉を聞いた瞬間、久坂の端正な顔が怒りで引きつった。

「なそ……! あの連中、まだそねーなぶち汚ねえ真似をしちょるんか!」

 久坂は激昂のあまり、考えるよりも先に腰の刀の柄へカチリと手をかけた。

「先生を……二度とあねーな冷てー牢に捕らえさせはせん! 今度こそ、この命に代えてでも!」

「待て、久坂。頭を冷やせ」


 高杉が、すぐに冷徹な手つきで久坂の猛る肩をがっしりと押さえた。その三白眼は、激情に流されることなく、冷たく鋭く事態の本質を見据えていた。


「こねーなとこで腹を立てて刀を抜いたところで、一体何が変わるっちゅうんか。もしお前がここで不届きもんとして斬られりゃあ――一体誰が周布様を説得するんか? 誰がこのどえれー藩の頭脳を動かすんよ」

「ぶち、高杉……! 先生の危機を黙って見ちょけと言うんか!」


「松陰先生の身の上のことは」

 二人の言い合いを、土方が硬質な声でぴしゃりと遮った。

「我ら旭狼衛が、責任を持って必ず守り抜く」

 土方の冷徹な目には――毛頭、失敗など微塵も想定していない迷いなさが宿っていた。


「すでに斎藤と結城が、松下村塾の周囲に四六時中で網を張っている。それに応援要請も済ませてある。俗論派の飼っている刺客どもが近づけば、先生の目に触れる前に、その場で音もなく闇に葬り去るだけだ。先生の身については、貴様らは少しも案ずる必要はない」


 土方は、高杉と久坂の目を代わる代わるまっすぐに見据えた。

「貴様らは、貴様らにしかできない…やるべきことをやれ。先生を守るのは俺たち、旭狼衛の役目だ。……貴様らの本当の役目は、その先生の思想を使って、この長州という国をひっくり返すことだろうが!!」


 高杉と久坂は、弾かれたように互いの顔を見合わせた。

 そして――すとん、と腑に落ちるように、腹の底の覚悟が決まった。

「……分かったわい」

 高杉が、不敵な笑みを浮かべて深く頷いた。

「先生の背中は、あんたらに託す。わしらは――わしらの戦場で、派手に戦をやらせてもらうわい」

「おう……」


 久坂もまた、ゆっくりと、しかし確かな意志を込めて刀の柄から手を離した。その双眸には、先ほどまでの短絡的な怒りではなく、未来を見据えた新たな決意の火が静かに宿っていた。

「土方殿。先生のことを……どうか、どうかよろしく頼みます」

「……フン、言われずとも、死なせはしねえよ」


 その夜を境に――松下村塾の周囲には、誰の目にも留まらない、しかし鉄壁の「見えない防壁」が静かに敷かれることとなった。


 斎藤一は、塾の裏手に広がる深い雑木林の闇へと、その身を完全に沈めていた。呼吸の音すら消し去り、自然の風景と同化する。

 その冷徹な眼光は、夜の闇を鋭く貫き、風に揺れる木の葉の音一つ、わずかな不審な足音の乱れも見逃そうとはしなかった。


 一方、結城誠一郎は、塾の表通りを一望できる近くの寺院の、黒い瓦屋根の上に静かに陣取っていた。彼は冷える夜風に吹かれながら、その日一日の見張りの詳細な記録を、懐から取り出した矢立を使って淡々と、極めて事務的に紙に書きつけていく。


『四月某日、夜。松下村塾周囲、異常なし。これまでに捉えた不審な人影は二。いずれもただの泥酔した町客と判明。実害なし』


 当の松陰本人は――己の背後にこれほど苛烈な守護の陣が敷かれていることなど、露ほども知らなかった。

 彼はただ、毎日毎日、擦り切れるほどの情熱で塾の座敷に立ち、声を枯らして熱弁を振るい、未来の志士たちに「新たな世の経済」を説き続けていた。


 その、あまりにも純粋で無防備な背中を……旭狼衛の面々が、冷たい闇の中から命懸けで守り抜いていた。


 土方は、城下の場末にある薄暗い旅籠の一室で、結城からの冷徹な報告書を受け取りながら、静かに思いを馳せていた。

(松陰先生は、それでいい。あの人は、ただひたすらに新しい世の思想を伝えることだけに、その命のすべてを専念していればいいんだ)

(……その過程で生じる血の匂いや汚れは、全部、俺たちが…引き受けてやる)


 それこそが、あの姫様――糸子が引き裂かれる思いで…彼らに命じた「役割分担(マネジメント)」であった。松陰の持つ、世を動かす「熱」を、絶対にここで絶やしてはならない。

 あの純粋な熱量こそが、長州を、ひいては日本という国を根底から変える最大の原動力だからこそ、旭狼衛は影に徹し、その盾となって守り抜くのだ。


 土方は無言のまま、満足げに深く一回だけ頷いた。そして、行灯の火を吹き消すと、まるで萩の夜の闇そのものに溶けるようにして、静かにその場から姿を消した。


 第百二十四話 了

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