第百二十三話「長州攻略編―松下村塾の毒、至誠の算盤(後編)」
一
翌朝。中関の藩営蔵の片隅にある帳場にて、久坂玄瑞と高杉晋作は、昨日の御用商人・熊谷を待ち構えていた。昨日の挑発的な態度はどこへやら、久坂の懐には糸子から授かった「複式簿記」の帳簿が、冷徹なる抜き身の刃として、静かに鞘を払っている。
久坂の懐には、一枚の分厚い大福帳が大切に収められていた。それはただの帳面ではない。江戸で糸子から授かった、西洋では既に確立されながらこの国ではまだ少数しか知らぬ「複式簿記」を、久坂が血の滲むような思考の果てに長州の言葉へと落とし込んだ、長州において唯一無二の「数字の武器」だった。
「熊谷さん。去なげの雨漏りの件で、ちーと合点がいかんところがありまして。もっぺん確認させてもらいたいんじゃが」
久坂は、驚くほど穏やかに切り出した。その顔には柔和な笑みすら浮かんでいる。
対する熊谷は、昨日の勝ち誇った余裕をまだ崩していなかった。
「はー。確認、ち言われますと? 何か不備でもありましたかね?」
鼻で笑うような態度だった。和紙はカビて死んだ。今年の運上金は無。それで話は綺麗さっぱり終わったはずだ、この若造どもが往生際悪く何を言おうと同じこと――。熊谷の腹づもりはそうだった。
しかし、久坂は何も言わず、机の上にその大福帳を静かに広げた。
パサリ、と和紙が擦れる音が帳場に響く。
「熊谷さん。うちの方で古うから使われちょる、これまでの『金銀出入帳』――いわゆる単式簿記じゃったら、確かにカビた紙は単なる『損失』じゃし、数字の上じゃあ『無』として片付けられてしまう。あんたが言う通りっちゃ。」
「ほうです。やけぇ、何度言われましても無いもんは無いんで……」
「……じゃが。」
久坂が低く、だが鋼のように硬い声で熊谷の言葉を鋭く遮った。その瞬間、帳場の空気がピシリと凍りつく。
「この『左右一対の法』――複式簿記っちゅうもんを使やぁ、話はまるっきり変わってくるんっちゃ」
久坂は、墨が美しく乗った帳面の、ある一箇所を人差し指で強く示した。
「見ちょきなさい。ここに『左・預ノ方』――つまり資産の側と、『右・仕切ノ方』――つまり元本の側がある。この蔵にあるはずの在庫価値が減った分と、貴殿が去年から他藩の商人に流したっちゅう貸付金の焦げ付き……この二つの数字の辻褄が、左右で一切、合わんのですよ」
熊谷の顔から、まるで潮が引くように笑みが消え失せた。
「な……何を言っちょるんですか。わしは長年、この中関で帳簿を預かっちょる身。そねーな訳の分からんもんは……」
「金の動き『だけ』を追う単式簿記なら、なんぼでも誤魔化せたんじゃろう。都合の悪い出し(支出)を隠して、無かったことにしさえすれば、済むことじゃけぇ」
久坂はさらに一歩、物理的にも精神的にも熊谷へ身を乗り出した。その瞳は、獲物の息の根を止める時期を冷徹に見計らう、若き鷹のそれだった。
「じゃが、この複式簿記っちゅう算法は違います。物の動きと、金の動きを、いっつも『左右一対』の鏡合わせとして捉える。片方を動かせば、必ずもう片方にその歪みが出る。やけぇ――絶対に嘘がつけん仕組みになっちょるんですよ」
久坂の言葉の刃は、容赦なく熊谷の胸元へと突き刺さっていく。
「そして――熊谷さん。わしが一番聞きちゃあのは、この数字が導き出した『結果』なんですよ」
久坂の、至誠の炎を宿した目が、熊谷の逃げ道を完全に射抜いた。
「この港の裏手にある隠し蔵。そこに眠っちょるはずの『この世にありゃあせんことになっちょる、三千束の極上和紙』。……これを、一体どう説明するつもりですか?」
熊谷の脳裏に、強烈な目眩が襲った。必死に震える唇を動かし、反論を試みようとする。
「い、いや、じゃが……帳簿は、帳簿は藩の決まり通り、ちゃんとつけてあります! 何の、何の矛盾も、落ち度も――ありゃあせんのじゃ!」
「矛盾は、ここに、はっきりとあるんっちゃ」
久坂は恐ろしいほど冷静な手つきで、パラリと別の頁を開いてみせた。
「先月の御蔵紙の仕入れ高。そして、今月の在庫高。この二つの数字を引いてみりゃあ、この一ヶ月の間に蔵から『出されたはずの和紙の確かな量』が浮き上がってくるんよ。じゃが、その出し先(出荷先)を書いてある記録が、この帳簿のどこをひっくり返してみても、一行たりともありゃあせん。」
「そ、それは……やけぇ、雨漏りで……」
「カビて捨てた…ち言われる。じゃったら、その『捨てた記録』はどこにあるんですか?」
久坂の追及は、もはや怒号よりも恐ろしい、静かな暴力だった。
「これだけの量を捨てるちゅうことになりゃあ、それを運び出し、片付けるための人足が要る。当然、人足への手間賃やら、運搬の金が発生するはずじゃ。じゃが、その金の計上が、ここには一切ありゃあせん。物の動きだけが消えて、金の動きがちーとも伴っちょらん。つまりだ――」
久坂は机をバン、と叩いた。玉の鳴るような鋭い音が帳場を震わせる。
「和紙は捨てられもせず、真っ当に出荷されもせず、ただあんたの手によって『帳簿の上からだけ』消し去られた。物としてこの世にありゃあするのに、帳簿には載っちょらん。経済の世界じゃあ、これを『簿外資産』ち言うんですよ。」
熊谷の額から、大粒の脂汗がボタボタと畳へ滴り落ちた。呼吸が激しく乱れ、喉がひっついたように鳴る。
「そして――熊谷さん。その消えたはずの簿外資産が、裏の隠し蔵に、ぴったり三千束。熊谷殿、これでもまだ、お天道様の仕業の雨漏りじゃ、ち言い張るおつもりか!」
「なっ……」
熊谷の顔面は、完全に土気色へと変わっていた。
ガタガタと膝が震え、座っていられずに床へ両手を突く。
「な、なして……それを、おんどらーが……! なして正確な数まで分かるんや……!」
熊谷のその反応こそが、何よりの犯行の証明だった。
久坂が突きつけた数字は、熊谷が隠し持っていた裏帳簿の、その横領の痕跡を寸分の狂いもなく見定めていた。
どこにも逃げ場はなかった。
「左・預ノ方」と「右・仕切ノ方」という、西洋が生み出し、糸子が教えた絶対的な調和の数字が、俗論派が長年貪ってきた暗闇の利権を、白日の下に引きずり出したのだ。
金が動いていなくとも、物の流れの辻褄が合わない。その、たった一点の綻びが、熊谷の積み上げてきたすべての嘘を、完璧に瓦解させていた。
帳場の隅で、その様子を腕組みしながら見ていた高杉晋作が、低く、愉しげに笑った。
(お見事じゃ、久坂。数字の檻で、狸を完全に罠にハメやがった。……さあ、ここからはわしの番だ)
二
ガタガタと無様に震え、床に両手を突いて絶望に打ちひしがれる熊谷。
その憐れな男の背後から、高杉晋作が音もなく、滑るように近づいていった。
そして、まるで旧知の友を労うかのように、優しく、実に親密な手つきで熊谷の貧弱な肩をそっと抱きすくめた。
しかし――そのあまりにも温情に満ちた仕草は、獲物をじわじわと締め上げる毒蛇のように、背筋が凍るほど冷酷な意思を孕んでいた。
「お命までは、取りやせんよ。なぁ、熊谷殿?」
高杉は、まるで子供に言い聞かせるように、にこやかに、優しく微笑んだ。その端正な顔立ちが、かえって熊谷の恐怖を何倍にも跳ね上げる。
「ただね――ちょっとした実務の話をしましょう。その隠し蔵に眠っとる三千束の極上和紙。今この瞬間から、そりゃあ全部わしら『天朝物産会所』の公認の荷として扱わせてもらうけえね。すぐにでも下関の港へ運ばせて、そこに入港しとる北前船に、一枚残らず乗せてもらうことにしようか」
「な、何を……っ」
「簡単なことっちゃ」
高杉は、熊谷の耳元で歌うように言葉を続けた。
「その和紙が大坂で売れた売上はね、全部久坂が預かっとる監査枠の『正規の利益』として、一点の曇りものう堂々と藩の帳簿に載せるけえ。なに、帳簿の書き方をほんのちびっと変えるだけのこと。あんたにとっても、大した手間じゃなかろう?」
その瞬間、熊谷はすべてを理解し、悲鳴のような絶叫をあげた。
「そ、そねーなことしたら……椋梨様に、椋梨様にわしゃあ殺される! 確実に消されるッ!!」
俗論派の絶対的な代表――椋梨藤太。あの冷徹な権力者が幕府への賄賂として、そして自らの権力を維持するために血眼になって作らせた裏金なのだ。それを丸ごと横取りし、正義派の功績にすり替えるなど、狂気の沙汰だ。それが露見すれば、熊谷の命など、明日をも知れぬ蝋燭の火のように簡単に吹き消されてしまう。
恐怖で狂いそうになる御用商人を前にした、その時だった。
高杉の背後に、あの江戸にいる公家の姫君の、底知れぬ漆黒の影が、ゆらりと重なった。
糸子が時に見せるような、感情のすべてを削ぎ落とした、絶対的な支配者の目をしながら、高杉は冷徹に言い放った。
「断りゃあ――」
高杉の声が、一オクターブ低くなった。帳場の空気が、一瞬で真空になったかのような錯覚を覚えるほどの重圧。
「今すぐ、この複式簿記で暴かれた横領の確たる証拠を、全部周布様の元へ出す。そねーなればどうなるか、あんたほどの頭でありゃあ分かるじゃろう? 周布様がこの切り札を握って、殿様の前に引きずり出せば……あんたは、一族郎党もろとも、御家断絶の上、打ち首獄門じゃ」
「ひっ……! あ、ああ……っ」
「じゃが、しかしじゃ」
高杉は憑き物が落ちたように、再び、春の陽だまりのような優しい微笑みを浮かべてみせた。この地獄と極楽を交互に見せる極限の揺さぶりが、熊谷の精神を内側から粉々に粉砕していく。
「あんたがおとなしく、わしらの便利な『駒』になると誓うんなら……話は別じゃ。天朝物産会所がこれから世界を相手に生み出す、莫大な、そりゃあ気が遠うなるような利益の『一部』を、あんたの懐に合法的に分けてやってもええ。あんたは、椋梨に怯えることものう生き延びる上に、今よりも遥かに大金持ちになれる。……どうね? 悪い話じゃなかろう?」
高杉は、完全に蛇に睨まれた蛙となった熊谷の耳元へ、悪魔の囁きのように唇を近づけた。
「さあ、熊谷殿。どっちが、あんたにとって『おもしろい仕事』になるか――あんたが得意なその算盤で、今すぐ弾いてみぃや」
熊谷の血走った目から、堰を切ったように大粒の涙がボタボタと溢れ出た。
それは、死の恐怖と、脳裏で瞬時に弾かれた強烈な打算、そして、この若き化け物たちに魂の底まで屈服させられた、完全なる敗北の涙だった。
彼は首の骨が折れんばかりに、がくがくと何度も激しく頷いた。
「い、いたします……。何でも、何でもお言いつけ通りにいたします……! じゃから、どうか、どうか命だけは……っ!」
熊谷は深く額をこすりつけ、声をあげて泣きながら、その場に平伏した。
長州の経済を裏で牛耳るはずだった御用商人が、松下村塾の若き才人たちが操る「経済間諜」へと、完全に転落した瞬間であった。
高杉は、自らの足元で哀れに震え続ける男の頭頂部を見下ろしながら、極めて満足そうに、深く頷いた。
(フッ……ぶち、姫様を見て学んだ…教え通りじゃ。敵をただ力で叩き潰し、殺すんが二流のやること。その首輪を握って引き込み、自分の駒として永続的に利用し尽くす。それこそがあの方の、本当の戦い方なんじゃな)
高杉の胸の内で、糸子の教えに対する畏怖と、それを完璧に成し遂げたという歪んだ満足感が、激しく渦巻いていた。
三
三月下旬。春を告げるはずの風は、この夜、激しい嵐へと変貌を遂げていた。
中関で起きた熊谷の不可解な「転向」と、藩の帳簿から消え去るはずだった極上和紙三千束の「強奪」。俗論派の絶対的な代表である椋梨藤太が、その恐るべき経済的不法強奪の兆候を察知するまでに、さほどの時間はかからなかった。
己の権力の生命線である裏金を、正義派の青二才どもに根こそぎ横取りされたのだ。老獪な権力者の怒りは、即座に冷徹な殺意へと形を変えた。
「口を封じぇ。生かして帰しちゃあいけんぞ」
その密命を受け、久坂と高杉を闇へと葬り去るべく、漆黒の暴風雨が吹き荒れる萩往還「一ノ坂」の険しい峠道に、一隊の刺客たちが放たれた。
一ノ坂の峠道は、未だ凍りついた残雪が地面を白く斑に覆い、足元をすくう泥濘と化していた。天空から降り注ぐ激しい雨が、その冷酷な雪を容赦なく叩き、抉っていく。月明かりすらも分厚い雨雲に遮断された、一寸先も見えない漆黒の闇。
その最悪の悪天候の中を、光を吸い込むような渋染めの着物に身を包んだ刺客たちが、草鞋の音を完全に消し去って、まるでのっぺりとした影のように一ノ坂を駆け上がっていく。彼らが手にする抜身の刀身は、わずかな明かりをも反射して己の位置を露呈させぬよう、墨や煤がべったりと黒く塗られていた。
刺客は、全部で六人。
いずれも藩の表舞台に出るような本来の武士ではない。俗論派が膨大な裏金で飼い慣らしている、長州藩お抱えの「闇の仕置き人」たちであった。藩内の刑獄や不逞浪人の取り締まりを裏で担当する下級役人の息がかかった、裏社会の凄腕の剣客。あるいは、歪んだ過激思想に脳髄を狂わせ、金のためなら親をも殺す隠密浪士たち。
彼らの装備は、徹底的に夜間における近接戦闘へと特化していた。
夜闇に完全に同化する渋染めの衣服。光を拒絶する黒塗りの刀。さらには、高低差が激しく幅の狭い峠道での乱戦・不意打ちを想定した、反りが極限まで少なく、小回りの利く実戦用の刀。彼らの懐には、敵の網膜を狂わせるための、細かく砕いた灰や毒を入れた目潰しが忍ばされている。
彼らは、闇の中で生き、闇の中で人を殺すことに、あまりにも慣れすぎていた。
これまでも、こうしてお上の意に沿わない「不都合な邪魔者」を、何人もこの往還の闇に葬り、死体をごみのように谷底へ投げ捨ててきたのだ。
今夜の襲撃も、彼らにとってはいつも通りの、退屈で確実な「清掃」のはずだった。
久坂と高杉という、口先だけで世界が変わると思っている甘い若造を、二人まとめて居なくなったことにするだけ。ただ、それだけのはずだった。
しかし――この哀れな六人の闇の仕置き人たちは、知る由もなかった。
その峠の頂、漆黒の闇のさらに深い奥底に、自分たちがこれまで相手にしてきた生ぬるい武士などとは比較にならないほどの修羅場をくぐり抜けてきた、本物の「狼」たちが牙を研いで待ち構えているということを。
激しい雨のカーテンの向こう。地を這うような風の音に混じって、すでに三つの強固な影が、微動だにせず立っていた。
土方歳三。斎藤一。結城誠一郎。
闇を統べる旭狼衛の、三人である。
彼らは、俗論派がこの手段に出るという展開を、事前に完璧な精度で予測していた。
久坂が複式簿記という数字の檻で越荷方の利権に手をかけ、熊谷の首輪を我が物にしたその瞬間――追い詰められた椋梨藤太が、合法的な手段をすべて奪われ、必ず「物理的な暗殺」という最も原始的な暴力に打って出る。糸子は、すでにその先を読んでいた。だからこそ旭狼衛は、刺客が待ち伏せをかけるであろう峠の要所に、さらに先回りして息を潜めていたのだ。
土方は、叩きつける雨の中で菅笠を深く被り直し、闇の向こうから近づく六つの殺気を感じ取って、不敵に口角を釣り上げた。
「……フッ、本当にあの姫様の言う通りじゃねえか」
激しい雨粒が、土方の菅笠をドラムのように激しく叩き、弾けていく。その隙間から覗く彼の瞳は、楽しげですらあった。
「数字の戦いで勝てなくなると、頭の悪い連中は決まってすぐにこれだ。刀を振り回して、無かったことにしようとする。どこの悪党も、考えることはいつも同じだな」
土方は煙草を燻らすような平然とした調子で、しかし背筋が凍るほど低い声で、隣の影へ命じた。
「……斎藤。実務の時間だ。始めてくれ」
その言葉が終わるよりも早く、斎藤一の細い身体が、無言のまま、音もなく前へと滑り出した。月光すら拒絶する嵐の夜に、もう一つの、最も鋭利な「狼牙の影」が解き放たれた。
四
一ノ坂の、漆黒の乱戦。
迫り来る三つの人影が、標的である久坂や高杉ではないと察知した瞬間――長州の刺客たちは一切の躊躇なく、懐から目潰しの灰を虚空へとぶち撒いた。
細かく砕かれた灰が、叩きつける激しい雨に混じって不気味に夜闇を舞う。視界を奪う最悪の帳のなか、刺客たちは狭い峠道での乱戦用に特化した反りの少ない刀を烈風のごとく引き抜き、一斉に襲いかかってきた。
しかし――その必殺の奇襲を真っ向から迎えた斎藤一は、眉ひとつ動かさなかった。
目潰しの灰など、最初から彼の網膜には映っていない。斎藤の身体は、すでに極限の戦闘態勢である「右半身」の構えを完璧に完成させていた。
右手を強く引き絞って引き手とし、左手一本だけで刀の柄頭、その最末端を強固に握りしめる。
刺客の刃が鼻先へ迫るその刹那――斎藤の後ろ足の親指の付け根が、凍りついた残雪と泥濘を爆発的な力で蹴り抜いた。
ガッ、と地面が弾ける。
通常の剣術が行うような、腰の回転は一切使わない。ただ直線的に、己の身体ごと前方へ、弾丸のように滑り込ませる驚異的な踏み込み。
襲いかかる刺客の視点から見れば、斎藤の肩のラインは左右に微塵もぶれることなく、ただ静止したまま迫ってくるように錯覚する。
だからこそ、暗殺者たちは致命的な錯覚を起こした。――まだ、間合いの「外」だと。
その、瞬く間の油断が、彼らの命の終わりだった。
斎藤の左手一本から放たれた極限の突き――その刀身は、嵐の風音すら置き去りにする完全な無音のまま、先頭の刺客の喉元を正確無比に貫いていた。
「ガ、……っ」
刺客は、悲鳴をあげることすら許されなかった。
喉を破られた男は白目を剥き、そのまま泥濘のなかへと崩れ落ちる。
「しまっ――」
戦慄した別の刺客が、崩れる仲間の死体を踏み越えて斎藤の横首へと斬りかかろうとした。だが、その刃が届くよりも早く、結城誠一郎の冷徹な鉄鉢がその一撃を完璧に迎撃した。結城は無表情のまま、斎藤の死角を完璧なタイミングでカバーし、迫る刃を大刀で的確に受け止め、力強く捌いてみせる。
そして――夜闇を引き裂いたのは、土方歳三の凄まじい咆哮だった。
彼が振るうのは、美しさなど微塵も求めない、戦場で生き残るためだけに研ぎ澄まされた実戦剣術――天然理心流。
「オラァッ!」という野獣のような気合いと共に振り下ろされた土方の刀は、狭い峠道などお構いなしに、刺客たちの黒塗りの刃をごとごと力任せに叩き折り、その肉体を、骨ごと容赦なく叩き潰していった。刃物というよりは、巨大な鉄塊で撲殺するかのような圧倒的な破壊の嵐。
それは、わずか数分の出来事だった。
気がつけば、一ノ坂の峠道には、再び元の静寂と、冷たい雨が地面を叩く単調な音だけが戻っていた。
椋梨藤太が絶対の自信を持って放った六人の凄腕たちは、誰一人としてその刃を旭狼衛の身体に届かせることなく、冷たい泥のなかで血を流すだけの物言わぬ肉塊へと変えられていた。文字通り、一人残らず闇に葬り去られたのだ。
土方は、はぁはぁと荒い呼吸を数回繰り返したあと、懐から取り出した反物で、刀身にべっとりとへばりついたドス黒い血を静かに拭い取った。そして、鞘へと刀を納めるカチリという音と共に、低く、重々しい声で呟いた。
「長州の奴ら――松陰や高杉、久坂の長州どもには、この血の匂いは絶対に嗅がせるな」
雨水に濡れた土方の瞳には、修羅場をくぐり抜け、人を束ねてきた、冷酷なまでの「規律」が宿っていた。
「あいつらは、あの綺麗な教室で、ただ大人しく算盤だけを弾いてりゃいいんだ。地上の、この反吐が出るような血の汚れは――俺たち旭狼衛が、全て飲み込んでやる」
その言葉に、斎藤一も、結城誠一郎も、何も言わずにただ静かに頷いた。
吉田松陰も、高杉晋作も、久坂玄瑞も――この嵐の夜、自分たちの預かり知らぬ場所で、どれほど凄惨な命のやり取りがあったのか、その事実を一生知ることはない。
彼らが何に怯えることもなく、安全な机の上で、次なる時代の企てを「数字」によって進められるように。
旭狼衛という名の漆黒の狼たちは、その足元に転がるすべての汚れと業を、闇のなかで一人静かに引き受け続けるのだった。
五
翌朝。
嵐が嘘のように去り、松下村塾の庭には雲一つない、どこまでも真っ直ぐな青空が広がっていた。
昨晩、あの一ノ坂の険しい峠道で、どれほど凄惨な暗闘が繰り広げられたのか。衣服にこびりつくような血の匂いなど露ほども知らず、久坂玄瑞と高杉晋作の二人は、実に晴れやかな顔でそこに立っていた。
春の眩い朝日が、庭に植えられた夏みかんの木々を生き生きと照らし出している。昨晩の嵐が遺した大粒の雫が、青々とした葉の先で朝光を浴びて、まるで散りばめられた宝石のようにきらきらと輝いていた。空気は、世界の汚れをすべて洗い流したかのように、どこまでも冷涼で、深く澄み渡っている。
二人はその足で、藩の財政中枢である周布政之助の執務室へと向かい、一通の報告書を差し出した。
紙面に踊るのは、誇らしげな数字。――『隠し蔵より、御蔵紙三千束の奪還。および、大坂市場における金貨二千両の利益見込み』の確定報告であった。
周布政之助は、手渡されたその報告書に目を落とした瞬間――あまりの衝撃に、言葉を失って愕然とした。何度も何度も、夢でも見ているかのように数字を指でなぞる。
「……初手、本格的に動く前の初手から、あの古りー俗論派の隠し財産を、こねーに鮮やかに毟り取ってみせたか」
周布はゆっくりと顔を上げ、久坂をじっと見つめた。
その双眸には、もはや若造に対する疑いや値踏みのような色は、一滴も残されていなかった。そこにあるのは、底知れぬ異才を目の当たりにした恐怖と、それゆえの、首を丸ごと預けるに足る全幅の信頼だった。
「久坂。おぬしは……とんでもない男じゃのう。長州の、いや、この国の仕組みを根底からひっくり返す気か」
「いえ。そりゃあ全部江戸で、姫君様から授かった教えのおかげにございます」
久坂は表情を崩さず、ただ背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
周布の傍らには、いつの間にか桂小五郎が控えていた。彼は、久坂が藩庁で初めて帳簿を広げたあの日を思い出すように、静かに目を細める。
「……刀を一回も抜かんで、敵の息の根を止めてみせよったか。わしの見立てに、狂いはなかったのう、久坂」
その声には、確かな同志を得た者の、深い手応えが滲んでいた。
この、誰の血も流さずに俗論派の利権を強奪した「和紙の一件」を契機として、周布と久坂の間の『秘密の同盟』は、二度と引き返せない決定的なものとなった。
長州藩という巨大な国家の中枢が――完全に、近衛家の姫君の掌の上へと傾いた、歴史的な瞬間であった。。
そして――。
松下村塾に集う、血気盛んな若手塾生たちもまた、この信じられない顛末を特等席で目の当たりにしていた。
自分たちが憧れてやまない先輩である高杉や久坂が、「算盤の理」という得体の知れない武器を用いて――あの、藩内最高権力者であり、恐ろしい存在であったはずの俗論派を、言葉と、数字の理論だけで、完膚なきまでに叩きのめしてしまったのだ。しかも、干からびかけていた藩の金蔵に、二千両もの巨利を、何もない空間から湧き出させるようにして、もたらしてみせた。
それも――腰の刀を、ただの一度も引き抜くことなしに、だ。
見守っていた塾生たちの瞳の奥に、これまでの人生で抱いたことのない、奇妙に冷徹な熱が宿り始めていた。
「刀も使わんと……血も流さんと、数字だけで、あねーな権力者どもを足元に跪かせるっちゅうんか……」
一人の塾生が、信じられないものを見たように呆然と呟いた。
「これこそが――松陰先生が、あの夜に咆哮された『国生りの総力』の、真の姿なんじゃな……!」
「いや、しかし……」
彼らは、商務語学所が教えた…経済学という名の――あまりにも魅惑的で、あまりにも破壊的な未知の「毒」に、身体の奥まで完全に侵食されていた。興奮のあまり、誰もが自らの身体が小刻みに震えるのを止められずにいた。
昨日まで、「算盤など卑しい商人の道具だ」と、鼻で笑い、嘲笑っていたその同じ若者たちが――今や、その地味な木枠に収まった算盤の、世界を裏側から支配する恐るべき威力に、狂おしいほどに魅入られていたのだ。
その塾生たちの中には、まだ前髪も生え揃わぬ、十代半ばのうら若き少年たちも混じっていた。
彼らは昨日まで、「攘夷」という熱病に浮かされ、刀こそが武士の魂であり、異国を斬り殺すことだけが正義だと信じて疑わなかった。数字を数えるなど、誇り高き武士のすることではないと、見下していたのだ。
しかし、目の前で起きた容赦のない現実は、彼らの生ぬるい価値観を根本から粉砕した。
高杉と久坂がやったことは、彼らがこれまで美徳として信じてきた、泥臭く命を散らす「武士の戦い」とは、あまりにもかけ離れた、未知の次元の戦闘だった。
しかし、その一撃の威力は、切れ味の鋭い名刀を振り回すよりも、遥かに巨大で、遥かに多くの人間を動かし、そして確実に世界を書き換えていた。
「……ぶち、たまげた」
一人の少年が、震える吐息とともに言葉を漏らした。
「わしらがどれだけ命を懸けて刀を振るってもできんかったことを……あの二人は、算盤だけでやってのけたんじゃ」
別の若者が、湧き上がる知的興奮に顔を紅潮させ、声を震わせた。
「これが、松陰先生のおっしゃりよった……経済という名の、本当の『力』なんか」
彼らの目に、かつての狂信的な攘夷の熱狂とは異なる、新しい光が宿り始めていた。
それは、感情に任せて暴れるテロリズムの熱とは一線を画す、もっと冷静で、もっと深く、もっと残酷な――「世界を知る知性」への、植え付けられた激しい渇望だった。
松陰が江戸から持ち帰り、この教壇で撒き散らした「経済の毒」は、多感な若者たちの心の奥底に、深く、強固な根を張り始めていた。
高杉晋作は、その様子を腕を組みながら冷ややかに、しかし確かな手応えを感じながら見つめ、内心で深く頷いた。
(これでええ……。こいつらの有り余った、使い道のない若き力を、無駄死にするだけの攘夷なんかじゃのうて、世界を買い叩く『経済の戦い』へと向ける。それこそが、江戸におる姫様の、本当の狙いじゃ。長州の…この日本の先の世を担う若い力を、お上への反逆なんて安っぽい真似で、犬死にさせてたまるもんかよ)
吉田松陰が狂気とともに蒔いた、至誠の思想の種。
それは、近衛糸子という稀有の知性の水を得て、長州の地で、誰も止めることのできない不気味な、しかし力強い芽吹きを、確実に始めようとしていた。
六
松下村塾の、静まり返った縁側。
春先の冷たい風が吹き抜けるなか、久坂玄瑞は、ただ一人静かに茶を啜っていた。
茶碗から立ち上る香気は、京の近衛忠房公から直々に贈られたという、宇治の至高の銘茶――「鷹奥」。近衛家の高貴なる象徴である『近衛牡丹』の家紋が焼き印された、白く極上の和紙に包まれていた濃茶である。
昨晩の修羅場、そして今朝の周布政之助との緊迫した談判を経て、限界まで張り詰めていた久坂の精神を、その深く、まろやかな苦味がわずかに和ませていく。
しかし、その至福の静寂は長くは続かなかった。
視線の先、縁側の端に寄りかかりながら、高杉晋作がじっと城下町の方向を見すえていた。
「おい、久坂」
高杉が、楽しげでありながらも酷く不敵な笑みを浮かべて声をかけてきた。
「町中の殺気と緊迫感が――昨日とはまるで段違いじゃぞ。椋梨の奴、自分の裏金を毟り取られて、完全に目が血走っちょる」
「……ああ、そねーなようじゃな」
久坂は茶碗を置き、静かに応じた。その肌も、城下から押し寄せる異様な大気の歪みを感じ取っていた。
俗論派の隠し財産である和紙を、正規のルートで丸ごと横取りしたのだ。その報復が、近く必ず容赦なく襲いかかってくる。藩全体が、目に見えない巨大な地鳴りのようにざわめいていた。久坂たちが藩の最も深い急所に手をかけた結果、長州そのものが、狂気的な拒絶反応を起こして暴れ始めようとしているのだ。
その時だった。
塾の前の街道の方から、静寂を切り裂くような、激しく慌ただしい足音が響いてきた。
地を蹴るその音は、ただの通行人のそれではない。江戸の日本橋から東海道を、文字通り夜通し不眠不休で駆け抜けてきた――「仕立飛脚」の足音だった。
差出人が特定の目的のためだけに莫大な金を払って専任する、文字通りの最速特急便。
泥にまみれ、肩を激しく上下させた飛脚の男が、勢いよく村塾の庭先へと滑り込んできた。
「久坂玄瑞様……っ! 江戸より、一刻を争う急ぎの密書にございます……!」
飛脚は喉を鳴らし、息を切らしながら、一通の頑丈な書状を久坂へと差し出した。
受け取った久坂の目が、その裏面に記された名に釘付けになる。
差出人は――「江戸、一橋上屋敷」とだけ書かれていた。
ドクン、と久坂の心臓が大きく跳ね上がった。
江戸にいる近衛家の姫君。彼女がわざわざ巨費を投じて仕立飛脚を飛ばし、長州のこの松下村塾へ直接届けさせた密書だ。
ただ事であるはずがなかった。
手渡された密書には、通常の書状とは明らかに一線を画す、厚手で上質な土佐七色紙が使われていた。そして、その上からこれでもかと固く、厳重に封印が施されている。糸子がどれほど急ぎ、かつ、誰の目にも触れさせてはならない極秘の用件でこれを送ってきたのかが、その封の異常なまでの厳重さから、無言の圧力となって伝わってきた。
久坂の指先が、わずかに、しかし確実に震えた。
(姫様から……一体何じゃ。長州の動きが、もう江戸の幕府やら朝廷の耳に届いたんか? それとも、もっとぶち大きな何かが起きたんか……)
久坂はごくりと、乾いた喉で唾を飲み込んだ。
いつの間にか傍らに歩み寄っていた高杉も、その書状を凝視している。普段はどんな危機を前にしても飄々と不遜な態度を崩さない高杉の表情にも、今は見たこともない強烈な緊張の走る筋が浮かんでいた。
久坂は懐から小刀を抜き、息を詰めてその堅牢な封を切った。
音を立てて、分厚い和紙が広げられる。
そこには――
墨黒々と、読む者の背筋を瞬時に凍りつかせるような、冷徹で禍々しい文字の羅列が踊っていた。
久坂は、その文字を頭から貪るように読み始めた。
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久坂玄瑞殿、ならびに高杉晋作殿
急ぎ、この一筆を認めます。
海の向こう、メリケンにてついに恐るべき大乱(内戦)が勃発いたしました。貴殿らがこの文を読まれている今この時も、現地の土はすでに同胞の血で赤く染まっているはずです。
この戦、およそ四年の長きにわたる泥沼の戦いになります。
真に恐るべきは、その余波が我が神国に及ぼす影響に他なりません。
メリケンの目が国内に向き、日本への圧力が弱まる――。日本にしてみれば「四年間の窓」が開かれることになります。
一見すれば好機ですが、その隙を突き、幕府の後ろ盾としてフランスが、また諸藩の背後にはイギリスが回り、この日本を戦場とした「代理戦争」が現実の脅威として迫っているのです。一歩処置を誤れば、我が国は異国の思惑によって無残に引き裂かれることになりかねません。
重々にお伝えしておきますが、メリケンが内戦に突入したという確たる事実は、現在の日本において我らしか知り得ぬ、文字通りの「至高の機密」です。幕府とて、未だその兆候をかすかに掴んでいるに過ぎぬ段階。
この情報の重みを、決して見誤ってはなりませぬ。これを明かす相手は、真に命を預けられる信頼に足る者にのみ、厳に厳を重ねて選び抜きなされ。
すべては、貴殿らがこの「天の与えし札」をどう動かすか、その一点に懸かっています。
また、貴殿らが現在進めている長州での事策(攻略)は、現時点を以て我らが策の「最重要案件」となりました。
決して焦ってはなりませぬ。慌てず、着実に足場を固め、是が非でも成し遂げなさい。
日本を異国の草刈り場とさせぬためにも、今ここが天下の転換点。貴殿らの双肩に、この国の命運が懸かっているのだと深く自覚されよ。
一橋上屋敷より。
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久坂玄瑞の手が、見たこともないほど激しく震えていた。
「……高杉」
その口から漏れ出た声は、完全に掠れ、喉の奥に張り付いていた。
「こりゃあ、今すぐ見ろよ」
高杉晋作はただならぬ気配を察し、久坂の手元にある密書を横から鋭く覗き込んだ。
行を読み進めるにつれ――高杉の端正な顔から、いつも敵をあざ笑うかのように浮かんでいた不敵な笑みが、完全に消え失せていった。
「メリケンが……本当に国を二つに割って、内戦を始めた……っちゅうんか……?」
高杉の口から、呻きのような声が押し出された。
二人の総毛立った全身には、凄絶なまでの鳥肌が立っていた。
江戸にいる、あの「姫君」。
遥か遠くの海の向こう、巨大な蒸気船を何隻も擁する異国の大国の運命を――彼女はすべてを見通し、否、まるで先の世の趨勢をあらかじめ操るが如く完全に掌上に収め、今、我らの手元へその『至高の一手』を配してきたのだ。
「こりゃあ……」
久坂が、かすむ視界のなかで呟いた。
「わしらは単に藩の立て直しをしよるんじゃない。世界の、この日本の運命そのものを、両手に握らされたんか……」
糸子の書状に書いてあった「四年間の窓」。
メリケンが自国内の凄惨な殺し合いに釘付けになり、アジアへ目を向ける余裕を完全に失う、その空白の四年。異国の列強による日本への圧力が一時的に弱まる、神が与えたような奇跡の隙間。
その貴重な四年間をどう使い、いかにして国力を底上げするか。
それこそが、彼女が仕掛けたこの「長州攻略」の、本当の…そして狂気的なまでに壮大な意味だったのだ。
久坂は、もう一度だけ、強烈な墨の匂いが残る密書に目を落とした。
紙面の最後に記された、――『貴殿らの双肩に、この国の命運が懸かっている』という一文。
そのわずか十数文字が、ずしりと鉛のような質量を持って、二人の若き天才の肩へと容赦なくのしかかってくる。
中関の和紙を強奪した結果、藩の最も深い急所は激しく抉られ、長州全体が狂気的な拒絶反応を起こし始めている。椋梨藤太ら俗論派の血走った目が、今この瞬間も自分たちの命を狙って闇を這っている。
その、息が詰まるような国内の緊迫の、まさに渦中にあって。
天下の理を根底より揺るがす「四年の猶予」の――非情なる時鐘の刻む音が、チクタクと二人の脳裏に激しく鳴り響き始めた。
久坂は、震える手で宇治の茶をもう一口、ゆっくりと啜った。
喉を潤すその深くまろやかな味わいだけが――この、天地がひっくり返るような目眩のする現実の中で、唯一、自分の生存を確かめられる温もりだった。
その時、高杉がふっと笑った。
その顔には、先ほどまでの驚愕は消え失せ、いつもの、いや、これまでで最も凶暴で不敵な笑みが戻っていた。
「……くくっ、最高におもしろなってきたじゃないの、久坂」
「ああ……」
久坂もまた、深く頷いた。その瞳の奥には、もはや揺らぐことのない、苛烈なまでの覚悟の光が炯々と宿っていた。
「やってやろう。姫様が描く絵図の、そのさらに先まで、わしらの足で駆け抜けてみせるけえ」
春の柔らかな朝の光が、未来を背負った二人の若者を等しく照らし出していた。
久坂は密書を、儀式のように丁寧に、厳かに畳み、懐深くへと仕舞い込んだ。
そして、もう一度だけ、中関の空を見上げた。
抜けるような春の、青い空。のどかに降り注ぐ、穏やかな朝の光。
それなのに――この美しい空の遥か向こう、太平洋の彼方では、今この瞬間もメリケンの広大な大地が、同胞たちの流す生々しい血によって赤黒く染まり始めているのだ。
久坂の脳裏には、硝煙にまみれたその地獄の光景が、まるでその場で見てきたかのように鮮明に浮かび上がっていた。
そして、日本中がまだ攘夷だ、開国だと盲目的に騒いでいる中で、江戸にいる、たった一人の姫君だけが、そのすべてを冷徹に見通している。
「のう、晋作」
久坂が、ぽつりと遠い目をして言った。
「わしらは……とんでもないお方の、駒になってしもうたな」
「ああ…まったくじゃ」
高杉が、楽しげに頷いた。
「お公家の姫さんじゃと、何も知らんで侮っちょった自分を――引きずり回して殴っちゃりたいくらいじゃ」
高杉は、自らの不明を笑うように自嘲気味に肩を揺らした。
「じゃが、久坂。考えてもみぃや。あのお方が視線を向けちょるのは、この日本ですらない。世界じゃ。世界の、人類の運命じゃ。そのあのお方が、他でもないわしらを『駒』として選び、この長州いう国を丸ごと任せてくださったんじゃ。男として、こりゃあ以上の誉れが、この世のどこにある?」
「……ないっちゃ。これっぽっちも、無い」
久坂の顔にも、ついに傲岸な笑みが広がった。
「ならば、応える以外の道などない。あのお方の底知れぬ信頼に。あのお方が算盤の目で描く、至高の絵図にな」
「ああ、全面戦争じゃ」
二人は、示し合わせたように同時に立ち上がった。
その背後、松下村塾の講義室では、まだ何も知らない若き塾生たちが、昨日の興奮をそのままに、何やら熱心に激論を交わしていた。
経済について。複式簿記について。そして、松陰先生の言った「国生の総力」について。
吉田松陰が蒔いた至誠の種は、近衛糸子という怪物の手によって発芽し、その若き芽は今、この長州の地で確実に、不気味なほど力強く育ち始めていた。
長州藩という、永き眠りについていた巨大な怪物は――今まさにその「頭」を刺激され、本当の目覚めを迎えようとしていた。
牙を剥く俗論派の、血走った目。
血気盛んな過激派門下生たちの、暴発の予兆。
そして、そのすべての混沌を冷徹に呑み込み、新時代へと導こうとする、糸子の壮大なる絵図。
すべての歯車が、今、噛み合い、爆発的な速度で回り始めた。
四年間の窓。
その、国命を分けるあまりにも貴重な時間を、彼らはどう使い、どう戦い抜くのか。
日本の、そして世界の未来が――この長州の、松下村塾の小さな縁側から、静かに、しかし決定的に動き始めようとしていた。
血の滲むような、数字と情報の「経済戦争」。その本当の幕開けは――もう、すぐそこにまで迫っていた。
第百二十三話 了
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