第百二十ニ話「長州攻略編―松下村塾の毒、至誠の算盤(前編)」
一
三月の下旬。まだ冬の名残が消えきらない萩の、松下村塾。
その教室に足を踏み入れた者がまず抱くのは、「あまりにも狭い」という、どこか息苦しさを伴う驚きだった。
広さにして、わずか八畳ほどの板間。そこに敷き詰められた畳はどれも擦り切れ、陽に焼けて薄汚れている。長年、血気盛んな若者たちが互いの膝を突き合わせ、激論を交わし合ってきたその場所には、彼らの流した汗や涙が染み込んだような、独特の饐えた匂いがべったりと張り付いていた。土壁はところどころボロボロと剥がれ落ち、剥き出しになった隙間からは、春先特有の容赦ない冷気が容赦なく忍び込んでくる。
しかし、その寒さを完全に圧殺するほどの熱量が、その狭い空間には満ちていた。二十人近い若者たちが、文字通りぎゅうぎゅうに詰め込まれていたからだ。
若者たちの放つ体温と、荒い息遣い。それだけで室内はむっとするほどの熱気に包まれ、異様な湿度を帯びている。男たちの汗の匂いに混じって、旅慣れた者が使う安価な水油――菜種油が酸化した、あの独特の青臭い匂いが鼻を突いた。久坂玄瑞と高杉晋作の頭髪からも、同じ匂いが濃く漂っている。それは、彼らが命がけで駆け抜けてきた長旅の、生々しい名残そのものだった。
その熱気の中心、上座に、吉田松陰が座っていた。
松陰の身体は、驚くほど痩せ細っていた。長州を発つ前と比べても、頬の肉はすっかり落ち、形を失っている。だが――その顔の中で、両目だけが、まるで生き物のように爛々と輝きを放っていた。
幽囚の身を経て江戸へ上り、近衛糸子という、時代を根底から揺るがすような稀有な存在の知性に触れてしまった、その目だ。
かつての松陰も、確かに魂を燃やす情熱の人だった。しかし、今の彼の瞳の奥でギラギラと蠢く光は、明らかに以前のそれとは異質だった。
一言で言うなら、狂気が増している。
糸子という狂気的な知性に触れたことで、彼がもともと持っていた「至誠」の炎が、異次元の方向へと爆発的に増幅されてしまっていたのだ。
その松陰を、飢えた狼のような門下生たちが、一言半句も聞き漏らすまいと取り囲む。高杉も、久坂も、その熱狂の渦のなかに身を置いていた。
門下生たちの興奮は、すでに沸点に達していた。誰もが、この師の帰還を、己の魂をぶつける瞬間を、どれほど待ち望んでいたことか。
「先生! ついに、ついに戻ってきちゃったんですな!」
「わしら一同、首を長うして、この日を待っちょりました!」
「さあ先生、いざ――黒船を焼き討ちにしましょうや! あの異国人らを、わしらの神聖なる海から一匹残らず叩き出すんじゃ!」
若者たちの瞳は、例外なく「攘夷」という名の熱病に浮かされ、血走っていた。
松陰は、その突き刺さるような熱い視線を、ただ静かに、すべてを受け止めるように見つめ返している。
だが――。
彼は、若者たちが血を湧き立たせて期待していた、あの言葉をどうしても口にしなかった。
「いざ、黒船を焼き討ちにせん!」
その、彼らを歓喜させるはずの号令は、待てど暮らせど松陰の唇から零れ落ちてはこない。
沈黙のなか、松陰はゆっくりと懐に手を差し入れた。
門下生たちは思わず息を呑み、身体を硬直させる。師がここから、覚悟の象徴たる刀でも引き抜くのではないか。そんな期待が彼らの脳裏をよぎった。
しかし、松陰が懐から取り出したのは、血を吸うための刃ではなかった。
それは、上質な布で丁重に、まるでお守りのように包まれた、一枚の――「算盤」だった。
松陰は、愛おしむような手つきで、ゆっくりと、その布を解いていく。
中から現れたのは、使い込まれて黒光りする算盤の木枠だった。
そして――。
ドンッ、と。
松陰は、その算盤を、眼前の机に思い切り叩きつけた。
乾いた、それでいて重々しい玉の鳴る音が、静まり返った狭い教室の隅々にまで、爆音のように響き渡る。
門下生たちは――ただ、唖然とするしかなかった。言葉を失い、完全に思考が停止している。
「……せ、先生?」
「それは……ぶちして、算盤なんか……?」
若者たちは狐につままれたような顔で、わけが分からず互いに顔を見合わせた。自分たちが語っているのは国の行く末であり、命を懸けた戦のはずだ。なぜ、商人の道具がここにあるのか。
そんな中、高杉晋作だけは、細めた目の奥に鋭い光を宿らせていた。
(……ふっ、来たのう……)
一方、久坂玄瑞は、その黒光りする算盤を目にした瞬間、江戸の地で糸子から託された『商務語学所の教科書』の写本の質感を、その手に生々しく思い出していた。
(……ついに、この時が来た。先生が動かれるっちゃ)
久坂の背筋に、冷たい刃でなぞられたような、強烈な覚醒の予感が駆け抜けた。身体の奥底から湧き上がる身震いが、どうしても止まらない。
久坂の脳裏に、江戸で過ごした濃密な日々が、走馬灯のように狂おしくよぎる。
松下村塾の俊英として、誰よりも攘夷の志に燃え、己の正義を疑わなかった、かつての自分。それが、近衛家の姫君様に出会い、彼女の圧倒的な論理と、世界を見通す瞳の前に、完膚なきまでに打ちのめされた、あの日々。
最初、久坂は意地でも彼女を認めようとはしなかった。「あなたは、本当に幸せなのか」「あなたは一体、どこで涙を流すのだ」と、執拗な問いを投げかけ、彼女を精神的に追い詰めようとした。公家の姫君の、化けの皮を剥ぎ取ってやろうと必死だった。それは生死を賭けた問いかけだった。
しかし――剥がれなかった。剥がれるはずがなかったのだ。
どれほど言葉の刃を突き詰めても、糸子の城壁は、微塵も揺るがなかった。それどころか、気づけば久坂のほうが、彼女の底知れぬ知性の深淵の前に、ただ呆然とひれ伏すことになっていた。
最終的に、久坂は彼女を人としてではなく、畏怖を込めて「天そのもの」と仰ぐようになっていたのだ。
その、天のごとき姫君が、松陰に託したもの。それがいま、この「算盤」という形をとって、自分たちの目の前に突きつけられている。
(先生が江戸で、学ばれた来たことのすべてが、萩に残った門下生の前で今、明らかになされる――!)
久坂の胸の鼓動は、狂ったように高鳴り、その音は彼自身の耳の奥で、激しく鳴り響いていた。
二
呆然とした静寂は、しかし長くは続かなかった。
若者たちの胸の内で、狐につままれたような困惑は、瞬く間にドス黒いマグマのような「怒り」へと姿を変えていく。自分たちが命を懸けて信奉してきた師が、目の前で薄汚い商人の道具を掲げているのだ。その裏切りに対する拒絶反応が、彼らの身体を突き動かした。
「先生……! まさか、まさか異国を討つというあの『攘夷』の志を、どこかへ捨てちゃったんですか!」
一人の若者が、怒りと絶望に声を激しく震わせながら叫んだ。それを皮切りに、堰を切ったように怒号が飛び交う。
「江戸へ上り、あろうことか徳川の奴らに……牙を抜かれて戻ってきちゃったっちゅうんですか!」
「算盤なんか、卑しい商人が銭勘定に使う道具じゃありゃあんですか! わしらは武士です! 誇り高き長州の武士なんです! 刀を抜いて、命を捨てて異国と戦うことこそが、わしらの歩むべき唯一の道じゃろうが!」
若者たちは次々と立ち上がり、顔を真っ赤にして激昂した。彼らを突き動かしていたのは、ただの反抗ではない。狂信的なまでに慕っていた師の「変節」を目の当たりにし、魂の根底を裏切られたという、引き裂かれるような絶望感だった。
松陰は、その荒れ狂う怒号の嵐を、避けることもせず、ただじっと黙って受け止めていた。その表情は不気味なほどに静かだった。
そして――。
「愚か者ッ!!!!」
地響きのような、いや、狭い教室の建具そのものがガタガタと悲鳴をあげるような凄まじい咆哮が、若者たちの頭上から叩きつけられた。
あまりの音圧と、そこに込められた底知れぬ怒りの凄まじさに、門下生たちは一斉に言葉を失い、口をつぐんだ。
さっきまでの狂乱が嘘のように、水を打ったような、耳が痛くなるほどの静寂が室内に戻る。
松陰の目が、暗闇のなかで獲物を見据える獣のように、炯々と、あまりにも鋭く燃え盛っていた。
「お前たちの言う攘夷など――ただの思慮なき、野蛮な打ちこわしに過ぎん!」
松陰の声は、今度は低く絞り出すようだった。しかしそれは、火山の底からじわじわと湧き出す溶岩のように、聞く者の腹の底へと容赦なく染み込んでいく。
「いいか、目を覚ましてよく聞け。イギリスやメリケンといった異国の列強が何故あれほどまでに強いのか。それは、黒船に積まれた大砲の性能が良いからではない!」
松陰は、痩せこけた身体を震わせながら、勢いよく立ち上がった。その貧弱な体躯のどこにそんな力が残されているのか、信じられないほどの凶悪な熱量が、オーラのように周囲へ放たれる。
「奴らの国ではな、民の一人一人が算盤を弾き、世界の裏側から合法的に富を吸い上げる仕組みを作り上げているのだ。それこそが、国全体の生み出す力――『国生の総力』があるからに他ならない!」
門下生たちは、聞いたこともない「国生の総力」という未知の言葉の重みに、ただ圧倒されるしかなかった。
「国生の、総力……?」
誰かが呆然と、その言葉をなぞるように呟く。
「そうだ。金銀をどれだけ蔵の奥深くに溜め込んでいるかなど、国の力ではない。そこに生きる民の労働の総和――その国が、どれだけの価値あるものを生み出せるか。それこそが、国の真の力、国力というものだ!」
松陰はさらに身を乗り出し、言葉を叩きつける。
「江戸にある商務語学所が、その真理を教えてくれる。人間は皆、己の利益を求めて必死に励む。だが、その個人の欲求が、市場という見えざる手に導かれ、巡り巡って国全体を豊かにしていくのだ。これを――わしは『天理の交易』と呼ぶ! 刀を振り回すことではなく、富の循環こそが世界を支配しているのだ!」
門下生たちの固く閉ざされていた頭に、未知なる経済概念が、冷徹な濁流となって流れ込んでいった。彼らの常識が、内側からメリメリと音を立てて崩れていく。
「考えてもみよ! 我が長州藩には、先人たちが遺してくれた『防長四白』があるではないか!」
松陰は、骨と皮ばかりになった指を、一本ずつ力強く折っていった。
「米! 塩! 紙! そして蝋だ! この、四つの白い宝こそが、我が長州が誇る最強の特産品だ!」
松陰の声が、狂気的な熱を帯びていく。
「刀を捨てて、これを作れ! そして、世界に向けて売って売って、売りまくれ! 異国の経済の懐深く、それこそ骨の髄まで入り込み――『長州の物産がなければ、一日たりとも生きていけない』という状態を奴らの中に作り出すのだ! それこそが、これからの時代における『天理の交易』であり、これ以外に真の攘夷など存在しない!」
松陰は、喉を血に染めるかのように咆哮した。
「大砲で撃ってみろ! 奴らは、さらに巨大な大砲を持って、今度は我が国を買い叩きに来るだけだ! 無駄な血を流す前に――まず数字で、経済で奴らを我が足元に跪かせよ!」
松陰はそこで一度、わざとらしく言葉を区切った。
そして、荒い息を吐きながら、門下生たちの顔を一人ひとり、逃がさないように見回していく。
そこにあるのは、燃え盛るような怒り。困惑。裏切られたという深い苦しみ。そして――その感情の澱の奥底に、確かに芽生え始めた、未知への抗いがたい好奇心
松陰は、その若者たちの表情の微細な変化を、絶対に見逃さなかった。
「お前たちは――あの黒船を憎んでいる。日本を脅かす異国を、心から憎んでいる。その気持ちは、痛いほどよく分かる。なぜなら、かつては誰よりもこのわし自身が、そうだったからだ」
松陰の声が、今度は打って変わって、包み込むような柔らかさを帯びた。その緩急に、若者たちは翻弄される。
「だが、一度冷静になって考えてもみよ。なぜ、異国の船はあれほどまでに巨大なのか。なぜ、あのような恐ろしい大砲を何十門も積めるのか。なぜ、世界の真裏から、はるばるこの遠い日本まで、迷いもせずやって来られるのか」
誰も、答えることができなかった。唇を噛み締め、俯くしかない。
「金が、あるからだ」
松陰は、冷徹に断言した。
「想像もつかないほどの莫大な金が、奴らの国にはあるからだ。では、その金は一体どこから湧いて出てくるのか。それは彼らの国の民が、生きるために必死に働き、価値ある物を作り、それを世界中に売りさばいて稼ぎ出した金だ。その血の滲むような経済の積み重ねが、巡り巡って、あの漆黒の黒船を生み出しているのだ」
松陰は、机の上の算盤を再び、今度は宝物を扱うように両手で拾い上げた。
「この、ちっぽけに見える算盤の弾く数字こそが――あの黒船の大砲の、本当の正体なのだ」
門下生たちは、息を呑んだ。胸を突かれたような衝撃が彼らを襲う。
「お前たちが刀を振り回し、夜陰に紛れて異人を一人、二人斬り捨てたところで、世界の構造は何一つ変わらん。奴らは痛痒も感じず、また新しい船を、さらに強力な大砲を作って押し寄せてくる。なぜなら、奴らにはそれを無限に作り続けるだけの『国生の総力』という力があるからだ」
松陰の目が、再びギラリと狂気の光を放った。
「ならば、我らがすべきことは何か?。答えは、ただ一つ。我らもその『国生の総力』を、この長州に、この日本に構築するのだ。長州の米、塩、紙、蝋を世界に売りさばき、奴らの金をすべて巻き上げて莫大な富を得る。
その富で、世界最新鋭の船を、大砲を買い漁るのだ。いや――いずれは、この手で、自分たちで作る! それこそが、奴らに対抗できる唯一の、真の攘夷だ!」
門下生たちの心は、今や完全に引き裂かれていた。
武士としての矜持が、師の「変節」に対する怒りを叫んでいる。
しかし――目の前で展開される演説の、頭に直接焼き付くような凄まじい熱量。以前の熱血漢としての松陰を遥かに凌駕する、底の知れない狂気的な論理。
その圧倒的な熱に、彼らはあてられていた。身体が沸騰しそうだった。
怒りと、困惑と、そして――今まで誰も教えてくれなかった「経済」という未知の概念への、抗いがたい知的興奮。
彼らが軽蔑していたはずの「銭勘定」という名の劇薬が、若き秀才たちの頭に、じわじわと、しかし確実に侵食し始めていた。
高杉晋作は、その一部始終を壁際に身を寄せながら見つめ、内心で愉しげに、低く笑った。
(……くくっ、さすがは松陰先生じゃ。そこらにおる俗物みたいに『金儲けをして妥協しろ』なんてことは、一言も言っちゃあない。
『徳川がメリケンに売り渡したこの国を、お前らの経済力で、そっくりそのまま買い戻してやるんじゃ』と――若造どもの大好物な、もっとぶちでかい大義名分をブチ上げてみせた)
(これは……効くぞ。こいつらの青臭い考えは、もう二度と元には戻らんと……)
三
翌日。
松下村塾を包んでいたあの異常な熱気から一夜明け、久坂玄瑞と高杉晋作の二人は、すでに実戦の地へと足を向けていた。
藩の中枢に座る周布政之助から直々に勝ち取った特命――「防府・中関における御蔵紙の仕入出納の差配」。俗論派の牙城である利権に風穴を開けるための、たった一つの、しかし決定的な実験枠を執行するためである。
二人が目指したのは、中関の港沿いにそびえ立つ藩営の巨大な蔵の群だった。
瀬戸内から吹きつける風はどこまでも強く、容赦なく二人の着物の裾をなびかせる。潮の香りに、打ち上げられた海藻が陽に焼けて放つ独特の生臭い匂いが混じり合い、特有の重苦しい空気が鼻腔を満たしていた。波飛沫を浴びて黒ずんだ木造の蔵の群が、まるで巨大な怪物の死体のように、海岸線に沿って延々と立ち並んでいる。
目的の藩営蔵に到着した二人は、重い木扉に手をかけた。
しかし――鍵を開け、その戸を左右に引き開けた瞬間、二人を待ち受けていたのは、あまりにも冷酷で、悪意に満ちた現実だった。
「――っ」
戸を開けた途端、むっとするような、肺の奥が疼くほどの強烈なカビ臭さが鼻を突いた。埃と湿気が何重にも絡み合った、腐敗の匂いだ。
薄暗い蔵の奥へ足を踏み入れた久坂の顔が、一瞬にして凍りついた。
「これは……なんちゅうことじゃ……」
久坂の声が引きつるように裏返る。
そこにあるはずの、長州が誇る最高級の白い和紙――藩の財政を支える美しき特産品たちが、見るも無残な姿に成り果てていた。
湿気をたっぷりと吸い込み、完全にカビに侵され、茶黒い斑点まみれになったゴミの山。
かつては防長四白と讃えられた気品ある白さはどこへやら、腐りかけた反物のように無残に積み上げられている。とてもではないが、売り物になるような代物ではなかった。何百両という価値が、ただの粗大ゴミへと変えられていたのだ。
その絶望的な光景を呆然と見つめる二人の背後から、ぬっと不快な足音が近づいてきた。
衣服の擦れる衣擦れの音と共に、ニヤニヤとした卑屈な笑みを浮かべた一人の男が姿を現す。
長州藩の御用商人であり、俗論派の巨頭・椋梨藤太の飼い犬として知られる、熊谷という男だった。
「いやあ、これはこれは……なんともお気の毒なことじゃあありますなあ、久坂様、高杉様」
熊谷はわざとらしく、大袈裟に肩をすくめてため息をついてみせた。しかし、その細められた両目の奥は、これ以上ないほど愉しげに歪んでいる。
「ここしばらく、あいにくの長雨が続いておりましてなぁ。どうにもこの蔵の屋根が少々、傷んじょったようでございます。気づいた時にはもう遅うて、大事な御蔵紙がすべて、この通り綺麗にカビてしまいました。いやはや、天の悪戯っちゅうんは恐ろしいものですなあ」
熊谷の口調は丁寧だが、その言葉の端々には勝ち誇った嘲笑がべっとりと張り付いていた。
「久坂様が鼻息荒う始められた『監査』っちゅうんは――どうやら初手から、歴史的な大赤字でございますなあ。今月、この中関から上がるはずじゃった御蔵紙の運上金は、文句なしの『無』。さてさて、あんた様方を信じて後ろ盾になられた周布様には、一体どがーにご報告されるおつもりで?」
高杉の端正な眉が、ぴくりと不穏に動いた。
隣に立つ久坂は、着物の袖の中で肉が裂けんばかりに拳を強く、強く握りしめていた。爪が手のひらに食い込み、血が滲みそうだった。
(俗論派め……! 天災に見せかけた、ぶちあざとい嫌がらせをしやがって……!)
これは、間違いのない明確な報復だった。
久坂たちが藩の財布である「越荷方」に手をかけようとしたことに対する、守旧派からの強烈な仕返し。
このまま御蔵紙が全滅したとなれば、久坂は「口先だけの無能」という烙印を押され、実験枠は即座に剥奪される。それだけではない。二人を抜擢した周布政之助の政治的立場までもが藩内で完全に失墜し、松下村塾の未来すらも閉ざされるのだ。
「……長雨による雨漏りで、すべてカビた…と。本気でそう言うちょるんか」
久坂が、地を這うような低い声で問い詰める。気圧されるような殺気がそこにはあった。
だが、熊谷は少しも怯む様子なく、むしろますます愉しげに首を振った。
「左様でございます。何分、天災ですからなあ。誰の責任にもなりゃあしません。お天道様を処罰するわけにはまいりませんけえ」
完全に勝ちを確信した商人の顔だった。
高杉は、その熊谷の、醜く歪んだ顔の皮を、横から冷徹な目で見つめていた。その頭は、久坂のような怒りではなく、極めて冷静に状況を分析している。
(こいつ……何かを隠しちょるな。この空気、何かがおかしうていけん)
高杉の野生的な直感が、耳元で警報を鳴らしていた。
這う這うの体で蔵を後にした二人は、港の寂れた一本道を、しばらくの間、一言も交わさずに歩き続けた。
容赦のない冷たい潮風が、怒りで火照った二人の頬を叩く。久坂の浅黒いこめかみには、怒りのあまり青筋がドクドクと波打っていた。
「……完全に、してやられたの。高杉」
久坂が、奥歯を噛み締めながら、絞り出すように声を漏らした。
「周布様が、藩内の反対を押し切ってまでわしらに与えてくださった貴重な実験枠なんじゃぞ。それを、本格的に動く前の初手で、こがーな卑劣な真似で根こそぎ叩き潰されるとは……! わしの不徳の致すところじゃ」
悔しさに身を震わせる相棒の肩を、高杉はぽんと軽く叩いた。その表情は、驚くほど落ち着いていた。それどころか、その薄い唇には、不敵な笑みすら浮かんでいる。
「まあ待て、久坂。そう急いで絶望するな。面白うなってきやがった」
「面白がっちょる場合か! 和紙がなけりゃあ、数字を弾くことすらできんのじゃぞ!」
「じゃけえ言いよるんじゃ。あの熊谷っちゅう狸親父――ただ和紙がカビて、お前が困っちょるのを喜んどるだけじゃあない。奴のあのニヤついた面を見てみー。もっと別の、どす黒うて美味い『旨味』を、奥歯でじっくり噛み締めちょるような顔じゃった」
久坂は足を止め、怪訝そうに高杉を振り返った。
「別の…旨味……?」
「ああ。考えてもみー。あの蔵にある和紙が本当にすべて使い物にならんようになったんじゃとしたら、いくら嫌がらせのためとはいえ、俗論派とて莫大な損を出しちょるはずじゃ。
藩の財産が消えたんじゃけえな。椋梨藤太が、そがーな損を出すだけの嫌がらせを許すか? なのに、あの御用商人の上機嫌さはどがーな。明らかに辻褄が合わん。おかしいと思わんか?」
高杉の指摘に、久坂は頭を殴られたような衝撃を受け、はっと目を見開いた。
「……まさか、あのカビた山は偽物で……本物の和紙は、どこか別の場所に……!?」
「断定はできん。ぶち――裏で汚い金が動きよることだけは確かじゃ。調べる価値は十二分にあると思わんか?」
高杉は顎を少し上げ、海を見つめながら獰猛に笑った。
「こがな薄汚い裏仕事の匂いを嗅ぎつける時こそ――姫様の飼いよる『旭狼衛』の出番じゃ。あの無愛想で、影んごたる執念深い田中弥次郎らあなら、今夜あたり、あの狸どもの尻尾をきっちり掴んで戻ってくるかもしれんの」
四
同じ刻。久坂と高杉が潮風に吹かれていたその時、萩の城下町の片隅、どこか薄のろい熱気が澱む賑やかな通りに、その安旅籠はあった。
薄暗い一室の戸を開ければ、むっとするような安酒の臭いと、男たちの脂ぎった汗の匂いが壁紙にまで染み付いている。その不快な熱気の中で、土方歳三は――いまや萩の誰もが疑わない脱藩浪人「田中弥次郎」として、地元の足軽や、俗論派の末端にぶら下がる下級役人どもと膝を突き合わせ、サイコロ博打に興じていた。
「丁だ! ――あア、くそッ! またすっちまったじゃねえか!」
土方は荒々しい江戸訛りと、野卑なべらんめえ調を張り上げ、下品に笑いながら、手元のわずかな小銭を放り投げた。
むしり取るように頭をボリボリと掻き、手酌で品のない安酒を喉に流し込む。
身に纏っているのは、幾度も洗濯されて色褪せた、ヨレヨレの藍染めの木綿着だ。しかし、その薄汚れた格好に反して、腰に差した二本の刀だけは、恐ろしいほど手入れの行き届いた業物だった。だが、そんな違和感に気づく者はこの部屋にはいない。それほどまでに、今の彼は完璧な「酒癖の悪い、どうしようもないゴロツキ浪人」そのものだった。
安旅籠の一室は、安物の煙草から立ち上る紫煙でもうもうと白く煙っている。
素焼きの茶碗の中で、からから、ころころと乾いた音を立てて転がる二つのサイコロ。汚れた畳の上に木札が叩きつけられる鈍い音。そして、勝ち負けに一喜一憂する男たちの、どこか下卑た笑い声。
土方はそのドブ川のような空間に、完全に、微細な違和感すら残さず溶け込んでいた。
本来の土方歳三という男は――極めて規律正しく、冷徹で、一分の隙もない合理主義の人物である。
しかし、この「田中弥次郎」という架空のゴロツキを演じる時、彼の内面はまるで生き生きとした別人のように変貌を遂げる。
出身不明。訳あって藩を飛び出した脱藩浪人。江戸の呉服商で用心棒をしていたが、酒癖の悪さと博打好きが祟って首にされた――。
そんな、いかにも世間に溢れていそうな「社会の底辺に生きる男」の役回りを、土方は完璧に肉体化していた。
それは単なる質の高い演技というだけではなかった。どこか、彼自身の過去の経験が、その偽装に重みを与えているように見えた。武州多摩の百姓のせがれという出自。いくら剣を磨き、大義を唱えても、生まれながらの武士にはなれないという屈託。その泥臭さが、田中弥次郎という男の輪郭に、妙な現実味を与えていた。
だからこそ、お上の愚痴を吐くことしか能のない地元の足軽たちは、土方に完全に心を許していた。
(こいつは、俺たちと同じ側の人間だ。上級武士の綺麗事なんて反吐が出ると思っている、地べたの仲間だ)と。
そして、酒が入り、博打の興奮が理性を麻痺させれば、人間の口というものは面白いほど軽くなる。
土方は自らサイコロを掴み、手のひらの中で転がしながら、何気ない調子で世間話を切り出した。
「ところでよぉ。小耳に挟んだんだが、中関の御蔵紙が長雨のせいで全滅しちまったってなぁ? せっかく正義派の若造どもが鼻息荒く乗り込んできたってのによ、ついてねえ話だ」
すると、対面に座っていた下級役人の一人が、品のない笑みを浮かべてにやりと鼻を鳴らした。
「ああ、あの件か。上がそねー発表したんなら、そねーなことなんじゃろ」
「へえ、冷てえなぁ。椋梨の旦那も、これで目障りな正義派の鼻を完璧に明かせたと――今頃は奥座敷で、俺たちが一生拝めねえような上等の酒でも呑みながら、芸者でも侍らせてるんじゃねえのかい?」
土方はそう言って、いかにも下っ端が嫉妬するような、下世話な軽口を叩いてみせた。
すると、すでに一升近くを空けてすっかり目が据わっていたその下級役人が、ぐびりと猪口の酒を煽り、自慢げに顎を突き出して口を滑らせた。
「へへ……全滅なわけ、なかろうが。お前らみてーな、お外の人間はこれやから騙しやすうて助かるわ」
「あん? 何がだよ」
土方はサイコロを振る手を止め、少しだけ興味をそそられたような、小悪党の目を向けた。
「あの蔵でカビて腐っちょったんはな、ただの寄せ集めのクズ紙よ」
役人は、周囲を警戒するように急に声を潜めた。しかし、安酒でろれつの回らないその声は、驚くほど正確に土方の耳へと届いていた。
「本物の、あの透き通るよーな極上の和紙はよぉ……中関の港の裏にある『隠し蔵』に、そっくりそのまま移されちょるんよ。それをこれから、大坂の闇ルートを使って秘密裏に売りさばくんっちゃ。表の帳簿には乗らん、椋梨様たちの純然たる『裏金』にするためにの。……なんでも、幕府の権力者へ贈る、特大のワイロになるっちゅー噂じゃぜ?」
その瞬間。
土方の、あの濁ったゴロツキの目が――一瞬だけ、全てを見透かすような冷徹極まりない「旭狼衛の隊長」のそれに変わった。
光すら吸い込むような、深淵の目。
しかし、役人が瞬きを終えるよりも早く、彼はいつもの、だらしないゴロツキ浪人の顔に戻っていた。
「へえ……ッハハ! そいつは傑作だ、大人のやることは汚えねえ!」
土方は下品に笑い飛ばし、何事もなかったかのように再び茶碗の中へサイコロを放り込んだ。からから、と音が響く。
(なるほどな……。隠し蔵に本物の極上和紙を隠匿し、大坂の闇ルートで換金して裏金へ変える。そしてそれを幕府への運動資金にする、か。これが、俗論派が必死に守り、正義派を叩き潰そうとしている汚れた利権の『骨組み』ってわけだ)
土方は博打の数字を数えるフリをしながら、その情報を己の脳髄の最も深い場所に、一文字も狂いなく刻み込んでいた。
五
その夜。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った安旅籠の裏手、鬱蒼とした木々に囲まれた古い寺院の境内。
雲の切れ間からこぼれ落ちる月明かりが、苔むした地面を青白く、まるで死化粧のように照らし出していた。痛いほどの夜気の中、昼間に誰かが供えたのだろう、線香の微かな残り香が、どこか現実味を欠いた煙のように漂っている。
その静寂の闇の底で、斎藤一と結城誠一郎の二人が、ゴロツキの皮を脱ぎ捨てた土方歳三と合流を果たした。
土方は昼間、あの薄汚い博打場で下級役人の口から引きずり出したすべての情報を、一切の私情を交えずに二人に伝えた。俗論派がひた隠しにする「隠し蔵」の正確な位置。そして、そこに秘匿されている、本来ならカビて消えたはずの極上和紙の存在。
結城誠一郎は、土方の言葉を一つも聞き漏らすまいと静かに耳を傾けながら、懐から手慣れた動作で真鍮製の「矢立」を取り出した。
鈍い光を放つ細長い筒の先には、墨をたっぷりと含ませた綿の入った小さな壺がついている。結城は自身の左手のひらにすっぽりと収まるサイズの懐紙を器用に操ると、極細の面相筆の先を走らせ、淡々と、しかし極めて冷徹にその事実を文字へと変えていった。
『隠し蔵、中関蔵の裏手。隠匿和紙、極上品。数量――三千束』
その筆跡には、感情の揺らぎなど一滴も存在しなかった。ただ事実のみを切り取る、冷酷なまでに正確な記録。
一通り書き終えると、結城は小さく息を吐き、もう一冊の、使い込まれた分厚い帳面をめくった。それは彼が江戸を発ってから、道中のあらゆる宿場町や港で記録し続けてきた、各地の生々しい「物価資料」の集大成だった。
「斎藤殿、土方殿」
結城が、夜の静寂を破らないような低い声で口を開いた。普段は物静かな男だが、その声音には確固たる自信、数字を支配する者特有の確信がこもっていた。
「現在、大坂の堂島においては、深刻な紙不足が続いております。この、俗論派が隠し蔵に眠らせている三千束の極上和紙――これを今すぐ、彼らの目論む闇経路ではなく、『正当な市場経路』で流すことができたなら……」
結城は帳面の数字と、今しがた書いた記録の数字を、頭の中で一瞬にして照合した。その瞳に、算盤の玉が弾かれるような鋭い光が宿る。
「金貨にして――優に『二千両』の価値になります」
土方はその破格の数字を耳にすると、低く、小さく口笛を吹いてみせた。
「二千両、か。あの狸ども、随分とでかいヤマを隠し持ってやがったな」
「はい。そして、それだけではありません」
結城は、冷たい月光を浴びた眼鏡の奥から、まっすぐに顔を上げた。
「これだけの莫大な物量を、藩に無断で横流ししようとしていたとなれば、俗論派による『横領の罪状』は完全に確定します。どれほど言い逃れをしようとも、この数字の前には一切の弁明は通用しません」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、背後に控えていた斎藤一が、無言のまま腰の刀の鯉口を切った。
――かちり。
凍りついた境内に、かすかだが、酷く不気味な金属音が響く。
斎藤は、結城が記録した懐紙の文字を、ただじっと見つめていた。その双眸には、やはり何の感情も宿っていない。
ただ――この結城が弾き出した「数字という名の事実」こそが、いずれ俗論派の首を極限まで締め上げる、逃れられぬ喉縄になる。それを完全に確信している、冷徹な実務家の目をしていた。刀を振るうことだけが人殺しではない。この数字こそが、最強の凶器なのだと彼は知っている。
「土方さん」
斎藤が、普段の彼からは考えられないほど自発的に、ぽつりと口を開いた。
「この情報、あの長州組に流すんですか」
「ああ」
土方は深く、重々しく頷いた。
「久坂と高杉のところに届けろ。あとは、あの若造どもの知恵の見せ所だ。姫様がわざわざ、江戸で奴らに授けた『数字という名の武器』。宝の持ち腐れにさせるにゃあ、惜しすぎるからな。ここで盛大に使わせてやろうじゃないか…」
この場にいる三人は、それぞれが担う役割が恐ろしいほど明確に分担されていた。
土方は、表の世界で生身の人間と交わり、濁った世論や路地裏の噂話を綺麗に吸い上げる「司令塔」。
斎藤は、影に同化し、完全に気配を消して敵の最も脆い懐へと音もなく潜り込む「隠密の刃」。
そして結城は、その二人が命がけで持ち帰った泥臭い情報を、冷徹な方程式によって記録し、戦略的な価値へと訳する「第二の目」。
この三人の歪みのない連携は――江戸にいる糸子すら知らない、一分の狂いもなく牙を研いだ、極めて凄惨な『集団的狩猟本能』そのものだった。一頭が欠けても、咆哮が一つ狂っても、この包囲は成り立たない。
「土方さん」
結城が懐紙を綺麗に折り畳み、顔を上げた。
「この情報、いかが扱いますか。我々の手から直接、周布政之助様に突きつけることも可能ですが」
「いや、それじゃあ面白くねえ」
土方は冷たく首を振った。
「それは長州の身内である、久坂と高杉の仕事だ。俺たちのような、外から来た余所者が表舞台に出ちまったら、せっかくの姫様の企てが根本から崩れちまう。俺たちはあくまで、どこまで行っても表舞台に立つことはない。情報を美しく盛り付けて渡してやり、あとはあいつらに好きにさせるのさ」
「承知いたしました」
結城は深く頷き、異論を挟まなかった。
「では、この密書を久坂殿の元へ。……斎藤殿、お願いできますか」
斎藤は何も言わず、ただ顎をわずかに引いて応えた。
次の瞬間、衣服が擦れる音すら残さず、彼はまるで最初からそこには存在していなかったかのように、青白い月明かりの闇の中へと静かに溶けて消え去っていった。
六
中関の港近くにひっそりと佇む、薄暗い長屋の一室。
瀬戸内からの容赦ない夜風が建具をガタガタと揺らすその部屋に、旭狼衛からの密書が音もなく届けられた。
夜灯の微かな灯りの下、久坂玄瑞と高杉晋作は、その紙面に踊る結城誠一郎の筆跡を食い入るように見つめた。
そこには、あまりにも冷徹な、しかしこれ以上ないほど雄弁な「事実」が刻まれていた。
――隠し蔵の正確な位置。そこに密かに隠匿された、三千束におよぶ極上和紙。そして大坂の市場相場と照らし合わされた「二千両」という、目も眩むような莫大な価値。
高杉晋作は、その密書を最後まで読み終えた瞬間――。
その切れ上がった両目に、まるで獲物を見つけた猛禽のような、獰猛な輝きを宿らせた。
「……なるほど。くくっ、ほういうことかっちゃ」
低く漏れ出た声と共に、高杉の頭の中で、あらゆる情報が恐ろしい速度で結びつき、その知性が爆発的に跳ね上がる。
「久坂、ぶち面白いことになってきやがったぞ」
「どういうことや、高杉。何か見えたんか」
久坂は密書を握りしめたまま、相棒の顔を覗き込んだ。高杉の薄い唇は、すでに不敵な笑みに歪んでいる。
「ええか、よう考えろ。この極上の和紙三千束は――表向き、熊谷どもの手によって『長雨でカビて、全部死んだ』ことになっちょる。つまりっちゃ、長州藩の公式な帳簿の上からは、この和紙はもう完全に消えてのうなっちょる。ほうじゃろうが?」
「あ、ああ……。熊谷は周布様へ、ほう報告して運上金を無にするつもりっちゃ」
「じゃったら話は簡単っちゃ」
高杉は、楽しげに机を指先で叩いた。
「今、裏の隠し蔵に眠っちょるあの三千束の紙は――この世のどこを探しても『ありゃあせん紙』ちゅうことになるのう?」
その言葉が、久坂の脳髄を直撃した。電撃が走ったように、はっと目を見開く。
高杉が一体何を企み、どの深淵を見つめているのか、その意図が完全に理解できたからだ。
「ありゃあせん、紙……」
「ほうよ。この世に存在せんことになっちょる紙っちゃ。じゃったら――わしらがそれをどう使おうが、どこへ運び出そうが、誰からも文句を言われる筋合いはねぇじゃろうが」
高杉の目が、ギラリと冷たく光った。
「久坂。江戸で姫様から死ぬほど叩き込まれた、あの『商談術』。ここで使わなきゃ、せっかくの至誠が泣くっちゃ。男が廃るっちゅうもんじゃ」
「ぶち、晋作……」
久坂は震える手で密書を見つめ直し、松下村塾の優等生としての慎重さを辛うじて振り絞った。
「こりゃあ、あまりに危ない橋っちゃ。ありゃあせん紙を強奪する……口で言うんは容易いが、一歩間違えりゃあ、それこそわしらがただの盗人、あるいは賊として藩法で裁かれることになるんぞ」
「じゃけぇこそ、お前が血の滲む思いで学んだ『複式簿記』の出番なんじゃあないんか」
高杉は、久坂の懸念をあざ笑うかのように即座に言い放った。
「ええか、久坂。俗論派の奴らは、自分の保身と裏金作りのために、あの和紙を『カビた』と言い切りおった。つまり奴ら自身の手で、帳簿の上の存在を消してしもうたんちゃ。
仮にわしらが裏でその和紙を全部運び出したとしても――奴らが作った帳簿の上じゃあ、何一つ動いちょらん。盗む対象が、そもそも最初から『無い』ことになっちょるんじゃけぇ。存在せんもんを盗んだところで、罪には問われんっちゃ」
「……なるほど、完全に死角かっちゃ」
「ほんで、その『ありゃあせんはずの紙』を、わしらが正当な市場経路で大坂へ売りさばいて、得られた二千両ちゅう巨額の利益を、そのまま藩の正規の帳簿にドンと載せる。ほうなれば一体どうなると思うかいね?」
高杉は身を乗り出し、獲物を追い詰めるような笑みを浮かべた。
「長州藩の懐には、何もないところから突如として二千両の莫大な利益が湧き出てくる。藩主様も周布様も万々歳っちゃ。誰も損はしちょらん。それどころか、藩の財政は大助かりじゃ。これで文句を言える人間が、この世にたった一集団だけおる。
……ほう、その紙を横領して自分らの懐に入れようとしちょった、俗論派の連中だけっちゃ。ぶち、奴らは口が裂けても『待て、そりゃあ俺らの裏金だ』とは言えん。言うた瞬間に、自分らの横領が天下に晒されるけぇの」
久坂の、これまで緊張で強張っていた顔に、ゆっくりと、しかし確かな歓喜の笑みが広がっていった。鳥肌が立っていた。
「……見事なっちゃ、高杉。お前、姫様の商談術を、完全に自分の血肉にしちょるのう」
「ふん、お前の複式簿記という『檻』があってこそっちゃ。お前がその緻密な数字で、奴らの逃げ道を完全に狙い定める。俺は、その数字という銃を使って、奴らを無理やりこっちの陣営に抱き込む。……どうや、最高の二人組じゃろうが」
二人は、薄暗い長屋の中で顔を見合わせ、声を殺して不敵に笑い合った。
久坂もまた、この作戦が持つ圧倒的な合理性を完全に理解していた。
もし、唯彼らの横領の証拠を握り「公訴」に及ぶのみなら――其処から始まるは、俗論派との果てなき、且つ泥沼の権謀術数になる。長州藩の因習に塗れたお調家では、時を費やすほどに、椋梨藤太ら大物の手によって証拠ごと握り潰される可能性が跳ね上がる。
しかし――彼らが選んだのは、そんな退屈な正攻法ではなかった。
「存在せんはずの三千束の和紙を、その場でうちの『天朝物産会所』の流通経路へ、根こそぎ強奪するんちゃ……」
久坂が、自らの言葉の重みを噛み締めるように低く呟いた。
「これは、政治の闘いじゃあない。経済的な――乗っ取りっちゃ」
「そういうことっちゃ」
高杉は深く、満足そうに頷いた。
「正義の味方のツラして告発しんさんな。悪党の流儀を逆手に取って、合法的に、華麗に『強奪』してやるんちゃ」
第百二十二話 了
話の後半、高杉と久坂が「ちゃちゃちゃ…」とあまりにも言うものだから、途中からラムちゃんが頭に浮かんで仕方がなかったσ(^_^;)




