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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計150万PV/30万UU突破!100万文字の幕末経済戦記】  作者: 1009


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第百二十話「長州攻略編―算盤を担いだ六人の旅(前編)」

 ………刻は還る。

 文久元年、初春、寅の刻。


 いわゆる暁七つ半というやつだ。見上げる空はまだ、底の抜けたような漆黒の闇に包まれており、凍てつく星々が容赦なく冷たい光をまたたかせている。そんな刻限のことだった。


 五街道の起点、日本橋の袂は、まるで濃密な墨を流し込んだかのように静まり返っていた。川面から吹き上げてくる風は、容赦なく冬の名残を孕んでいて、ふうと息を吐き出せば、それだけで目の前が真っ白に凍りつく。


 江戸の町がまだ深い眠りから覚めやらぬ中、ただ橋の下を滔々と流れる水の音だけが、低く、重く、周囲の静寂に響き渡っていた。遥か遠くの辻から、夜回りが打つ拍子木の「カチ、カチ」という音が、かすかな余韻を残して闇に消えていく。


 その日本橋の袂に、じっと佇む六つの影があった。誰もが菅笠を深く被り、顔を隠すようにしている。

 一方は、時代の寵児たる長州の面々――吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞。

 そしてもう一方は、旭狼衛から此度の旅路の「目」として、また隊長として任を下された土方歳三、斎藤一、結城誠一郎。


 六人は互いにほとんど言葉を交わすこともなく、ただ黙々と、それぞれの旅装束の最終点検に没頭していた。衣服が擦れる衣擦れの音だけが、やけに鮮明に聞こえる。


 高杉晋作が、手甲の紐をぎりぎりと力任せに締め上げ、その結び目を確かめた。ふと隣を見ると、頼りない手つきの男が目に留まる。

「おい久坂、おまえそれ、脚絆きゃはんの締めが甘いっちゃ。そねーじゃ、品川に着く前にずり落ちてくるっちゃ」


 言われた久坂玄瑞は、生真面目そのものといった顔つきで、自分の足元を見つめ直した。

「いや、こねーなもんでええんちゃ。あんまりきつー縛りすぎると、今度は血が止まって足が動かんよーになるけぇ」

 痩せていて、どこか神経質そうな輪郭。だが、笠の隙間から覗くその瞳には、隠しきれない怜悧な知性の光が宿っていた。


 少し離れた場所で、土方歳三は無言のまま、己の草鞋の底をいじっていた。手際よく、中に薄く真綿を敷き詰めていく。

 それは長距離を歩き抜く武士たちが、経験から導き出した泥臭い知恵だった。真綿がクッションとなり、一歩一歩の衝撃を和らげる。ただそれだけのことだが、これがあるかないかで、十日、二十日と街道を歩いたときの足の裏の痛み、しいては体力の消耗が文字通り天と地ほども違ってくるのだ。


 彼らの懐にあるのは、旅籠の主が夜なべして握ってくれた、すっかり冷え切った握り飯。それから、乾いた喉を潤し、わずかな塩分を補給するための梅干し。たったそれだけが、これからの長旅の、当面の全食料だった。


「……では、参りましょうか」

 土方が低く、しかし全員の鼓膜に確実に届く声で呟いた。

 その一言を合図に、六人は一斉に菅笠の縁をぐっと下げ、品川宿へと続く南への街道へ一歩を踏み出した。

 まだ夜明け前の、視界の効かない道を黙々と進む。


 ようやく江戸の賑やかな町並みを外れると、街道の左右に連なる松並木が、夜明け前のどんよりとした薄闇の中に、まるでお化けのようにぼんやりと浮かび上がってきた。足元に目を落とせば、馬糞の混じった泥が容赦なくぬかるんでおり、独特の鼻を突く悪臭が冷気と共に立ち上ってくる。歩くたびに合羽の裾がその泥を撥ね上げ、またたく間に茶色く汚れていった。


「ああ、本当に江戸を離れるのだな…」その実感は、旅情などという生ぬるいものではなく、容赦なく足の裏へ蓄積していく鈍い痛みとして、六人の肉体に深く刻み込まれていった。

 最初の数里をやり過ごした頃、ようやく世界の輪郭がうっすらと白み始めた。


 街道沿いにぽつんと佇む小さな茶屋の前を通りかかった時のことだ。まだ開店前なのだろう、物売りの少女が、眠そうに小さな手をこすりながら、店の支度を始めていた。薄汚れて継ぎ接ぎだらけの着物を着た、ひどく痩せた少女だった。

 その少女の姿が視界に入った、まさにその瞬間だった。

 それまで先頭を歩いていた吉田松陰の足が、ぴたりと止まった。

「……ああ、なんということだ」


 一同が怪訝に思う間もなく、松陰の目から、堰を切ったように突然涙が溢れ出した。ポロポロと、大粒の涙が頬を伝う。

「これほどまでに健気な民が、飢えに震えるような日本であってはならんのだ! なんと痛ましい……なんと尊い姿か!」


 言うが早いか、松陰はその場にがっくりと膝をつき、驚く少女に向かって、まるで神仏でも拝むかのように深々と頭を下げ、手を合わせ始めたのである。

 少女の方はといえば、早朝から現れた奇妙な旅人の乱心に完全に恐怖し、ぎょっとした顔のまま、悲鳴を上げるように店の奥へと逃げ込んでしまった。


「先生、一体何しちょるんですか、みっともない」

 高杉晋作がむっとした、呆れ果てた顔で深くため息をついた。

「やれやれ、これじゃあ先が思いやられちゃいますね。姫様にさんざん釘を刺されて、歯止めを踏まされたはずなんじゃが……。ご覧の通りですよ、あの人の胸にある情熱の総量っちゅうやつは、ちっとも減っちょりゃあせん」


 土方歳三は、そんな松陰の背中を、ただ無言で見つめていた。

 その冷徹なまでの観察眼は、吉田松陰という、いわば「感情の歯止めが完全に壊れた天才」の本質を、一瞬で見極めようと研ぎ澄まされていた。

(なるほど、これが姫様の言っていた『中二病』というやつなのか……? 噂には聞いていたが、これを放っておけば、どこまででも勝手に燃え上がる火種になるのだな)


 久坂玄瑞が困ったような苦笑いを浮かべながら、松陰の脇を抱えて無理やり立ち上がらせた。

「先生、旅はまだ始まったばかりですよ。長州の萩までは、これから一月ひとつき。最初の宿場でそんな調子じゃあ、とてもじゃありませんが体が持ちゃあせんですよ」


「分かっておる。そんなことは頭では百も承知なのだ、玄瑞。……だがな、わしの胸の中で燃え盛るこの火だけは、どうしても消すことができんのだよ」

 松陰は涙をぐっと拭いながらも、どこか子供のように晴れやかな、屈託のない笑顔で言ってみせた。

 それを見た高杉と久坂は、静かに視線を交わした。


 これから自分たちを監視する立場である土方、斎藤、結城という三人の男たち。彼らと過ごすこれからの長い道中は、単なる物理的な移動などではなく、互いのはらを探り合う、極めて息苦しい精神の削り合いになるだろうと、二人は直感的に悟っていた。


 少しペースを上げて歩きながら、高杉がふと思い立ったように、隣の土方に話しかけてみた。

「なあ、土方殿。――いや、実のところは、何とお呼びしたもんかのお」

 土方は視線を一切ブレさせることなく、まっすぐ前を向いたまま、抑揚のない声で答えた。

「道中は『田中弥次郎』だ。そう決めてある。その方が、あんたらにとっても余計な詮索を受けずに済むはずだ」

「ほうか。思うちょった以上に、無口なお人じゃなあ」


 高杉は、つまらなそうに肩をすくめてみせた。

「そっちの斎藤殿も結城殿も、さっきからろくに口を開きゃあせん。龍馬はあんなに陽気で、喋り出したら止まらんような男じゃったのに。旭狼衛っちゅうところの人間は、皆揃うてそんなに無愛想なんですかいのう?」 

「無愛想で結構」

 土方の返しは、にべもないほど素っ気なかった。

「俺たちの仕事は、おまえたちと傷を舐め合ったり、無駄話をすることじゃない。ただ、守ること。そして、見ることだ」


 言い捨てると、土方は歩みを止めることなく、懐から不意に銀色の丸い塊を取り出した。親指で蓋を弾くようにして開け、その中身を冷徹な目で見つめる。  

 朝日を反射してぎらりと輝いたのは、精緻で華麗な大輪の牡丹――近衛家の家紋たる「近衛牡丹このえぼたん」が深々と彫り込まれた、銀製の異国渡りの懐中時計であった。


 それに気づき、久坂が目を皿のようにしてその手元を指さした。

「土方殿。そりゃあ……異国の『時計』っちゅうもんですかね?」

「時間がわかるっちゅうヤツか?」

 高杉も物珍しげに覗き込む。

「ああ、そうだ。今回の旅には正確な刻限の把握が必要だからと、出立の前に姫様に持たせられた」  

 土方は淡々と、しかしどこか満足げに時計の針を見つめている。


「しかし、いざ使ってみると、なかなかの便利もんでな」

「よう、そんなおそろしいもんが平気で使えますね……」

 久坂が、信じられないといった風に引きつった声を上げた。

「おそろしい? 何がそげにおそろしいんか、久坂」

「晋作は知らんのか! そがーな代物、買やあ三十両から五十両はくだらん、一藩の重臣でも持てるかどうかの至宝でありますぞ!」


「い゛っ……五十両……!?」  

 不敵な高杉も、流石に喉を鳴らして絶句した。

「姫様は、気にせずに使えと言われている」

 土方は動じることなく、パチンと小気味よい音を立てて銀の蓋を閉じた。

「もし壊したりでもしたら、どねーするんですか!」  

 詰め寄る久坂に対し、土方は微かに口角を上げ、江戸の空を仰いだ。


「道具は使ってこそ意味がある……だそうだ。壊れたら直せばよい、直せなければ…また買い直せばいいとのことだ。だから俺も、ただの道具として気にせずに使っている」

 久坂は、信じられないものでも見るように土方と懐中時計を交互に見ていた。


 高杉は、江戸で自分たちを圧倒した少女の、底知れぬ「合理」の深さを思い出し、感嘆を漏らす。

「姫様は、ほんまに実利のお人じゃのう」


 高杉はそれ以上、言葉を重ねて追及することはしなかった。しかし、その胸の内では、この徹底して感情を排した男たちの「底」が一体どこにあるのか、まるで見定められずに不気味さを感じていた。


 少し後ろを歩いていた久坂が、周囲に聞こえないほどの小声で、高杉の耳元に囁いた。

「高杉。あの三人、絶対に油断しちゃあいけんぞ。……特に、後ろの斎藤っちゅう男じゃ。あの男の目は、ただの護衛のそれじゃあない。人をあやめることに、ぶち慣れちょる目じゃ」


「あー、分かっちょるよ」

 高杉も声音を落とし、小さく頷く。

「姫様が、わざわざうちらの身柄を預けるために付けた連中じゃ。ただの剣客なわけがありゃあせん。相当な手練てだれじゃろうよ」


 二人は、冷たい朝の空気を吸い込みながら、改めてこの旅の意味を噛み締めていた。これは単なる懐かしい故郷への帰郷などではない。姫様という巨大な存在の監視下で行われる、立派な「任務」なのだと。


 その間、列の最後尾を歩く斎藤一は、ただの一言も発していなかった。

 それどころか、己の気配すらも周囲の風景に溶け込ませるようにして、静かに足を運んでいる。しかし、その鋭い両眼だけは、街道の左右の茂み、前方の物陰、あらゆる死角を絶え間なく、それでいて周囲の誰にも気づかれないように、冷徹に走らせていた。


 結城誠一郎もまた、不気味なほどの無言を貫いていた。

 彼は歩調を一切乱さないまま、懐から素早く矢立を取り出すと、左手のひらに収まるほどの小さな懐紙に、淡々と筆を走らせていた。


『二月十五日、品川宿を発つ。六つ半、天気は晴れ。松陰、街道沿いの物売りの少女を見て号泣。その場に跪き、拝礼す。即座に制止。』


 そこには、個人の感情や感傷など一滴も含まれていない。ただ冷徹に、事実のみを切り取った記録が連なっていた。


 小田原の宿場町をようやく通り抜けたのは、江戸を発ってから三日目の暮れ方のことだった。


 ふと左手に目をやれば、どこまでも広がる相模湾の海原が、傾きかけた夕日にじっとりと染まり、血のように赤くぎらついていた。対する右手には、これから挑むことになる箱根の険しい山影が、まるで巨大な黒い獣のごとく、重々しくそびえ立っている。


 その夜は、小田原宿の片隅にある薄暗い安旅籠に、互いの身体を押し込むようにして泥のように眠った。

 そして翌朝。いよいよ「天下の険」と謳われる、箱根の山道へと足を踏み入れた。


 山は、深い霧に包まれていた。

 前日に降った雨のせいで、足元の石畳はぐずぐずにぬかるんでおり、草鞋の底が容赦なく滑る。濃霧でわずか数歩先すらまともに見通せない中、もし一歩でも足を踏み外せば、そのまま底知れぬ崖下へと真っ逆さまに転落しかねない。


 六人は自然と無言になり、全身の神経を爪先に集中させながら、慎重に、一歩ずつ地面を踏みしめていった。

 湿った霧の微粒子が、じっとりと肌にまとわりつく。冷気は衣服の繊維をじわじわと突き抜け、肌着の奥まで容赦なく染み込んできた。坂道を登ることで吹き出す汗が、その冷気で一瞬にして冷やされ、容赦なく体温を奪っていく。寒さと疲労が、確実に彼らの足を重くしていった。


 そんな山中、ぽつんと現れた粗末な峠の茶屋で、ようやく一息入れることになった。

 パチパチと爆ぜる囲炉裏の煙に燻されながら、差し出された塩振りの焼き餅を口に運ぶ。


 炭火で焼かれた香ばしい焦げの匂いと、噛み締めるたびに広がる餅の素朴な甘み。そこへ熱い麦茶を流し込むと、冷え切っていた内臓がじんわりと、心地よく解きほぐされていくのが分かった。

「……うまいのお、ありゃあ。生き返るわい」

 高杉が口の周りに粉をつけながら、貪るように餅を頬張った。

 こういう山登りの時は、この塩気が何よりのご馳走じゃなあ。なあ、久坂」


「ああ。まこと……身体が髄から塩を欲しちょるのが分かるわい」

 久坂もまた、いつになく真剣な目できつく握られた餅を見つめ、静かに噛み締めていた。

 関所が見えてきたのは、そんな重い空気が漂うその日の午後だった。


 東海道の要衝、箱根の関所。街道筋でも一、二を争う極めて峻厳な検問所だ。格子戸の向こうからは、耳の裏まで見通そうとするような役人たちの鋭い視線が、容赦なく通行人たちを射抜いている。


 関所の前には、おびただしい数の旅人が長蛇の列を作り、誰もが押し黙って自分の番を待っていた。この時代の人間にとって、関所とは人生を左右しかねない最も緊迫する場所だ。

 役人たちが目を光らせているのは、言うまでもなく「入り鉄砲」をはじめとする不穏分子の流入、そしてお上の目を盗んで国境を越えようとする不審な浪人や女の監視である。

 たとえ怪しいところのない男子の通行であっても、その検問の厳しさは常軌を逸していた。


 やがて、六人の番が巡ってきた。

 近衛家御用達の呉服商「松屋」の荷番、あるいは近衛家諸大夫の随行浪人。今回の旅のために、裏から手を回して完璧に偽造された紙の手形を、土方がそつなく役人の前に差し出した。


 文面には、『右は当家御用の者に付き、諸国関所、異儀なく通行せしむべきものなり』と達筆な墨書きがあり、その末尾には近衛家高官の重々しい朱印が鮮烈に捺されている。

 役人は手形を手に取り、まずはその文面と、土方の顔を交互に鋭く睨みつけた。


 記載された人相書き――年齢、身体の特徴、目立つ傷の有無。それらが目の前の男と一致しているか。さらに、頭の髷の形に矛盾がないか。武士、浪人、町人で厳格に区別される結い方を、役人は執拗に、舐めるように確かめていく。

「……近衛家の、御用か」

「左様。京の本店へ、急ぎの荷を運ぶ途中でしてな」


 土方はあらかじめ用意していた「田中弥次郎」としての落ち着いた声を出し、少しの動揺も見せずに答えた。その佇まいには、役人を気圧すような静かな風格さえ漂っている。

 役人はしばらく手形を眺めていたが、やがて不審な点なしと見たか、小さく頷いた。


 しかし、問題はその次だった。吉田松陰の番になった瞬間、役人がわずかに片眉を跳ね上げたのだ。

「……おい、おぬし。さっきからどうしてそう、落ち着きがない。何か、おかみにやましいことでもあるのか」


 松陰は生来、内面の情熱や緊張がそのまま皮膚から吹き出してしまうような男だった。これほど命がけの隠密行ともなれば、どれほど抑えようとしても、どうしても視線がわずかに泳いでしまう。


 その空気の硬直を察した瞬間、土方がすかさず、滑り込むように二人の間に割って入った。

「いやいや、お役人様、どうかお許しを。こやつは生まれつき、どうにもこういう、そわそわと落ち着きのない性分でしてな。

 京の店で得意先の旦那方に挨拶回りをする時でさえ、いつもこうして借りてきた猫みたいにガタガタ震えちまう始末で。商売人としては全く使い物にならん男なんです。どうか、平にご容赦を」


 土方は商人「田中弥次郎」としての、絶妙に世慣れた軽妙な口調と愛想笑いで、その場の張り詰めた空気をふっと和らげてみせた。

 役人は、土方のあまりにも堂々とした、それでいて嫌みのない態度に完全に毒気を抜かれたのか、小さく鼻を鳴らして表情を緩めた。

「……ふん。まあ、よい。通れ」

 冷や汗の出るような検問を終え、六人は無事に関所を通過した。


 関門を抜けて、役人たちの視線が届かないところまで歩き進んだところで、高杉がようやく、溜め込んでいた息を深く吐き出した。

「先生、頼みますよ。あそこで怪しまれて捕まったら、俺たちの旅は一巻の終わりだ」

「す、すまん……。どうも昔から、ああいうお上の威を借りた場所というのは苦手でな……」

 松陰はきまり悪そうに、菅笠の上からポリポリと頭を掻いた。


 土方は何も言わず、ただ無言で前を歩いていた。しかし、その内心では、冷徹に警戒の度合いを跳ね上げていた。

(吉田松陰……。思想を説き、人を動かす場では無類の怪物を発揮するが、こうした隠密の道中では、いつ爆発するか分からない足手まといになりかねん。片時も目を離さぬようにせねばな)


 そんな、一同が安堵と緊張の狭間で張り詰めていた、まさにその時だった。

 関所の裏手の、木々が鬱蒼と茂る霧の奥から、突如として「何か」が飛び出してきた。

 それは、一匹の野犬だった。


 肋骨が浮き出るほどに痩せ細り、目は完全に血走っている。飢えで狂ったその獣は、凄まじい唸り声を上げながら、鋭い牙を剥き出しにして先頭の松陰へと飛びかかろうとした。

「先生!」

 高杉が叫び、刀の柄に手をかけようとした、その刹那――。


 斎藤一が、動いた。

 そこには、およそ武術の常識とされる「予備動作」が一切存在しなかった。


 肩を引く引きも、腰をひねる溜めもない。それどころか、地面を踏みしめる足音すら完全に消えていた。

 ただ、右半身に構えていたはずの斎藤の身体が、まるで氷の上を滑るかのように、直線的に前方へと滑り込んでいた。左手一本で逆手に握られた刀の柄が、霧を切り裂き、無音で文字通り「伸びた」のだ。


 ――ガッ、と鈍い音が響く。

 刀の峰が、松陰の喉元に迫っていた野犬の鼻先を、文字通り紙一重のところで正確に撥ね上げていた。

 野犬は空中で体勢を崩し、「きゃん!」と短い悲鳴を上げると、そのまま転がるようにして深い霧の奥へと這々の体で逃げ去っていった。

 気がつけば、斎藤はすでに、何事もなかったかのように元の構えに戻っていた。


 刀を抜いたのかどうかすら、素人目には判別がつかない。衣服の乱れすら、一切なかった。

 その一連の、あまりにも静かで、あまりにも異常な一瞬の動きを目撃した高杉晋作は、その場に凍りついたように立ち尽くした。背筋を、冷たい戦慄が駆け抜けていく。


 何より恐ろしかったのは、その瞬間の斎藤の「目」だった。

 そこには、獣の凶行に対する驚きも、怒りも、あるいは己の技に対する誇りすらも、何一つ宿っていなかった。


 人を、いや、この世のあらゆる生き物を制し、無力化することに対して、一片の感慨も抱かない――それは徹底した「実務家」の目だった。糸子がかつて「夢で見た」と語ったという、剣の極意をこの男は命がけの修練の果てに、完全に己のものへと具現化させていた。

(こいつは……ただの護衛なんて生ぬるいもんじゃない)

 高杉は、確信した。


 旭狼衛という存在が、決して単なる旅の隠れみのなどではないことを。彼らは、必要とあらば、呼吸をするようにいつでも刃を振るい、敵を屠る、本物の戦闘集団なのだと。


「斎藤殿、今の動き、見事なもんじゃった……」

 久坂が驚嘆のあまり思わず声をかけたが、斎藤は無言のまま、菅笠の奥でわずかに顎を引いただけだった。

 その横で、結城がまたしても音もなく矢立を取り出し、感情の削げ落ちた文字で、淡々とその事実を紙に刻みつけていた。


『箱根関所裏。斎藤、襲撃せる野犬一を無音にて制す。峰打ち。被害なし。』


 箱根の険しい山道を命からがら越え、さらに西へとひたすら歩みを進めた六人は、東海道の難所、大井川の手前に位置する島田宿へと行き着いた。


 しかし、そこで彼らは容赦のない足止めを食らうことになる。

「大井川の川、増水につき、川止め――」

 宿場の入り口には、非情な高札が掲げられていた。


 徳川幕府の、江戸防衛のための頑なな政策により、この大井川には橋の一本も架かっておらず、渡し舟すら一艘も認められていない。旅人が向こう岸へ渡るには、川越人足の肩にすがるか、あるいは「輦台れんだい」と呼ばれる粗末な木製の台に乗せられ、人力で運んでもらうしかなかった。


 通常、大井川の水位は二尺五寸(約七十五センチ)ほど。それが雨で増水し、四尺五寸(約百三十五センチ)を超えた瞬間、川は完全な通行禁止、すなわち「川止め」となるのだ。


 前日の激しい雨は、山から一気に濁流を押し流し、川の水位はとうにその危険基準を大きく上回っていた。

「……こいつは、当分は渡れそうにないな」

 土方が、街道の突き当たりから見える大井川を遠目に眺めながら、ぽつりと呟いた。


 視界の先では、茶褐色に濁りきった水が、凄まじい轟音を立てながら大地を削るように逆巻いている。とてもではないが、人間の力で立ち向かえるような状態ではなかった。


 やむなく六人は、島田宿の片隅にある、ひどく薄汚れた安旅籠に二部屋に分かれて分宿することにした。

 宿場全体が、自分たちと同じように足止めを食らって立ち往生している旅人たちで、足の踏み場もないほどごった返していた。


 行灯に使われる安い魚油のえた匂いと、あちこちに干された濡れた衣服から立ち上る、じっとりとした湿気が四畳半の部屋を満たしている。壁の向こうからは、いつ旅を再開できるか分からない旅人たちの、苛立ちと諦めの混じった、ひそひそとした愚痴が途切れることなく聞こえてきた。


 その日の夕食に運ばれてきたのは、申し訳程度に米が混ざったぱさついた麦飯に、具のほとんどない大根の味噌汁、そして小ぶりな川魚の塩焼き。たったそれだけだった。

 どんなに泥臭い旅路であろうとも、武士としての最低限の身だしなみだけは保たねばならない。長州の二人は、食後に小さな櫛を取り出して乱れた髷を整え、お互いに鬢付油びんつけあぶらを塗り直した。


 しかし、旅用の安価な水油というやつはひどく質が悪く、少し時間が経つと、頭髪から油が酸化した独特の青臭い、不快な匂いを放ち始める。それが部屋の湿気と混ざり合い、妙に頭が痛くなるような空気を生み出していた。

 その横で、結城誠一郎はいつものように一切の感情を顔に出さず、矢立の筆を冷徹に走らせていた。


 その日支払った宿代。立ち寄った店での米の正確な流通価格。川止めが長引くことによって、この島田宿側に滞留していく物資と人足たちの滞在費用の推移――。そこには旅の情緒など一滴も含まれていない。ただの数字と事実だけが、几帳面な文字で羅列されていく。

 やがて行灯の火を消し、薄い布団に身体を潜り込ませたが、夜中になってもなかなか寝付けなかった。


 案の定、安旅籠の古びた畳や布団には、確実にノミやシラミが巣食っていたのだ。暗闇のあちこちから、ぽりぽりと爪で皮膚を掻きむしる、乾いた音が響いてくる。

 高杉が、寝返りを何度も打ちながら、忌々しそうに首筋を掻いた。

「ああクソ、痒うてやってられん。この宿、いくらなんでも虫が多すぎるじゃろ」

「辛抱せ。これが、旅っちゅうもんじゃ」


 少し離れた暗闇の中から、久坂の静かな声が返ってきた。

「どうした、高杉。江戸におったときの、布団が恋しゅうなったんか」

「まさか。おまえ、わしを誰じゃと思うちょるんか」


 高杉は暗闇の中で、不敵ににやりと笑ってみせた。

「むしろ逆よ、久坂。考えてみーや。わしらは今、あの泣く子も黙る五摂家筆頭、近衛家の姫様の命令を受けて動きよるんじゃ。長州の…ただの貧乏な下級藩士のこのわしらが…ど。世の中、一体どう転ぶかぶち分からんもんじゃなと思うてさ」

「……ほうじゃな、ぶちその通りじゃ」

 久坂の声が、いつになくしんみりと、深く闇に沈んだ。


「もし、あの姫様に出会うてなけりゃあ――。わしらは今頃、ただむやみに『攘夷』の二文字を叫んで、何も変えられんまま、ただ無駄に命を散らして終わっちょったかもしれん」 

 久坂は少し間を置いてから、噛み締めるように続けた。

「あの方は、わしらに、全く別の『戦い方』を示してくださったんじゃ。むやみに血を流して刀を振り回すんじゃのうて――この『数字』いう冷徹な道具を使って、国そのものの仕組みを変える道をな」


 二人のその静かな会話を、すぐ隣の布団で、土方歳三は目を閉じたまま、死んだようにじっと聴き入っていた。

 規則正しい呼吸を装いながら、土方の頭は冷徹に彼らの言葉を分析している。

(こいつらは、俺たちが思っている以上に、すでに姫様の考えの奥深くまで染まりきっている。あとは……その考えを、いつかどこかで裏切るか?それとも… それを最後までこの目で見極めることこそが、旭狼衛としての任務だ)


 そんな緊迫した夜が明けた、翌日のことだった。


 旅籠の脂ぎった顔をした主人が、川止めで足止めを食らっている旅人たちの弱みに付け込み、あからさまな不当値上げを要求してきたのである。

「いやあ、お客さん方、本当に申し訳ねえんですがね。今夜から、宿代をこれまでの倍にさせてもらいやす。ご覧の通り川止めなもんで、向こう岸から米も野菜もこれっぽっちも入ってこねえんですよ。うちも干上がっちまう」


 主人は手のひらをせわしなく擦り合わせ、いかにも困り果てたような嘘くさい顔で揉み手をしてみせた。

 周囲の旅人たちは、ここで追い出されたら行く当てもないとあって、足元を見られていることに腹を立てながらも、渋々懐を探り始めるしかない様子だった。


 しかし――その静寂を破るように、久坂玄瑞が静かに、だが部屋の空気をピりりと引き締める声で口を開いた。

「ご主人。そりゃあ、ぶちおかしな理屈ですのう」

「はあ? 何が一体おかしいんで?」

 主人が露骨に不快そうな顔をして久坂を睨む。

「結城殿」

 久坂は静かに首を振り、傍らにいた結城に短く目配せをした。結城は何も言わず、これまで道中で克明に書き溜めていたあの数字の帳面を、久坂の手元へと差し出した。


 久坂はその帳面を、主人の目の前で容赦なく開いてみせた。

「私らは道中、どこの宿場でも物価がどう変わったか、一文の狂いものう克明に記録してきちょります。この島田宿に入る直前、対岸の金谷宿側の米価は、一石につきこれこれの値じゃった。 

 あんたが今、『物資が入ってこんけぇ仕入れが高騰しちょる』と言われちょるが――商いの基本はツケ(買掛)じゃろう。あんたが今期、仕入れ先から『費用が発生した』として帳面につけとる米や野菜は、すべて川止めが始まる前の、安かった時期の価格で決済日タイミングが確定しちょるはず。今この瞬間に現金を余分に払うて仕入れたわけじゃありゃあせん。

 しかも、この島田宿の備蓄倉庫にゃあ、その安う仕入れた米の在庫が、向こう一月分ひとつきぶんは十分に底を突かんで残っちょるはずですよ」


「い、いや、それは……そりゃあ、うちの仕入れとはまた別の話で……」

 主人の額に、じんわりと嫌な汗がにじみ始める。

「さらに」

 久坂の追及は、容赦なくその急所を抉りにいった。糸子から徹底的に叩き込まれた、複式簿記の「貸借の理」を用いて、宿の経営体制の致命的な矛盾を白日の下に晒していく。


「あんたの宿の、一日あたりの正確な仕入れ費用と、今の泊まり客の数。これを『左右一対』の帳簿として見れば、川止めで急に増えた客が払う普通の宿代だけで、あんたが言う仕入れの損なんぞ、お釣りが来るほど十分補えちょる。 

 それどころか、あんたは今、この川止めいう災難をええことに、普段の何倍もの利益を上げちょるはずじゃ。それを、さらに倍に跳ね上げるとは――。こりゃあ商人の誇りを捨てた、ただのタチの悪い便乗値上げ以外の何物でもありゃあせんですよ」

 主人は、完全に言葉を失った。


 ぐうの音も出ないほど理路整然と並べ立てられた「数字」という絶対的な現実の前に、何の言い訳も通用しなかった。

「……へ、へい。分かりやしたよ……。宿代は、これまで通りの据え置きで結構です」

 主人は這うような声でそう吐き捨てると、だらだらと流れる冷や汗を袖で拭いながら、逃げるようにその場から引き下がっていった。


 その一連の光景を一部始終見ていた土方歳三は、内心で、激しい衝撃とともに深く舌を巻いていた。

(数字という名の、目に見えない武器……。刃物の一振りもせず、腕力すら一切使わずに、あれほど強欲な人間を一瞬で無力化しちまった。なるほど、これが……姫様がこの久坂という男に授けた『知性の牙』というやつか)

 土方は長州組の、特に久坂玄瑞という男が持つ底知れない頭の価値を、ここで決定的に再評価していた。


 隣で見ていた高杉が、愉快でたまらないといった様子で、にやりと口角を上げた。

「さすがじゃな、久坂。お前のその理屈っちゅうやつは、そこいらの名刀よりもよっぽどよう斬れるのう」

「……姫様の教えじゃ」

 久坂は特に得意がる風でもなく、いつもの生真面目な顔のまま、静かに帳面を閉じた。


「数字いうもんは、決して嘘をつきやせん。嘘をついちょるのは、いつも、その数字を自分の都合のええように誤魔化そうとする、人間の方なんじゃけぇ」


 大井川の長く苦しい川止めがようやく解け、六人は堰を切ったように再び西へと歩を進めた。

 いくつもの騒がしい宿場町を越え、険しい鈴鹿の難所を越え――二月下旬、彼らはついに、千年の都、京へと到着した。


 しかし、京の洛中へ入る直前、六人は一度足を止め、街道沿いの井戸水で顔や手足にこびりついた旅の砂埃を徹底的に洗い流し、身なりを最も整った衣服へと替えた。これから向かう場所が、いかなる粗忽そこつも許されない絶対的な聖域だからである。


 向かった先は、近衛邸――五摂家筆頭の、誇り高き屋敷である。


 京都御所の北西に位置するその広大な邸宅は、ただ佇んでいるだけで周囲の空気を圧するような、格調高い薬医門を構えていた。一歩門をくぐれば、前庭には見事な糸桜が、まだ見ぬ春の気配を孕んで優美にその枝を垂らしている。

 だが、六人が案内され、屋敷の奥へと通されたその瞬間。


 世界の皮膚がひっくり返ったかのように、空間の空気が、完全に変わった。

 そこは、彼らがこれまで歩んできた東海道の泥臭さや、現世の喧騒とは、完全に断絶された異界であった。


 漂ってくるのは、最高級の沈香じんこうの香り。甘く、深く、そしてどこか頭の奥を冷たく痺れさせるようなその香気は、呼吸をするたびに衣服の繊維の奥深くまで容赦なく染み込んでくる。

 足元の畳は青々と新しく、清々しいい草の香りが鼻腔を満たした。廊下は、鏡のように磨き上げられた滑らかなうぐいす張りであり、静かに歩を進めるたびに、きゅっきゅっと、夜鳥の鳴き声のようなかすかな音が美しく響いた。


 長州という地方の、それも下級武士に過ぎない松陰、高杉、久坂の三人は、その空間が放つ圧倒的な「格」の重圧だけで、胸が締め付けられ、呼吸が目に見えて浅くなった。

(これが……これがお公家さんの、それもてっぺんに立つお方の屋敷の佇まいなんか……)


 あの尊大で、いかなる権力をも恐れぬはずの高杉晋作でさえ、その徹底的に洗練された美と権威の威圧感に、喉を鳴らして息を呑んだ。

 やがて六人は、当主・近衛忠房との謁見の間へと通された。


 近衛忠房は、一段高い上座に、衣服の擦れる音一つ立てず、静かに座していた。

 その面立ちは温厚で、底知れぬ学識の深さを感じさせるものだった。しかし、その身に自然と纏う、五摂家筆頭としての風格はまさに圧倒的という他なかった。牙を剥くような凶暴さではない。穏やかでありながら、千年の歴史が血の一滴一滴にまで染み込んでいるかのような、なんとも言えない絶対的な存在感。


 高杉も、久坂も、そして松陰も――その「本物の公家」を前にして、これまでの人生で味わったことのない、身体が強張るほどの激しい緊張に襲われていた。

 高貴さ、威厳、そして底知れぬ静かな圧力。

(これが……本物の、お公家様なんか……!)

 久坂は、額から冷や汗が伝うのを感じながら、心の中で激しく唸った。


 江戸で出会った糸子にも、確かに常人離れした高貴な存在感はあった。しかし、糸子にはどこか年相応の、あるいは彼女自身の性質としての親しみやすさがあった。

 だが、目の前に座すこの忠房という男には――人が容易に近寄ることを許さない、絶対的な「断絶(格)」があった。


 土方歳三が音もなく進み出て、糸子から託された極秘の密書を、両手で恭しく忠房へと手渡した。

 忠房は、その場で静かに書状を開いた。

 そこには、この者たちが長州へと向かうことになった詳細な経緯と、目的が丁寧な筆致で記されていた。吉田松陰には企ての全容を、あえてすべては明かしていないことなど……


 忠房は書状を読み進めるうちに、遠く離れた江戸にいる最愛の娘の無事を確信し、その目元にわずかな安堵の色彩を浮かべた。

 しかし同時に、次の瞬間には、公家の冷徹極まる眼光へと戻り、長州組の三人をごく自然に、しかし骨の髄まで見透かすように値踏みした。


 高杉と久坂は、その無言の視線に、まるで鋭利なきりで射すくめられたかのような衝撃を受けた。

 二人の脳裏に、凄まじい後悔と戦慄が駆け巡る。


 幾ら先生のためだったとはいえ、自分たちが、江戸の一橋上屋敷で「公家の姫」に、あろうことか…命を賭してまで、刃を突きつけるような真似までしてしまった…その相手の父親が――今、目の前にいる。

 この「日本の最上流家格」そのものである近衛家の…最も尊き姫君であることを、今になって五体で、身に染みて感していたのだ。

(わしらは……なんと、取り返しのつかん無礼を働いてしもうたんじゃ……!)


 高杉と久坂は、糸子に対してあまりにも傲慢で、不遜な振る舞いをしてしまったことを激しく後悔していた。


 彼女の力を信じていなかったわけではない。しかし、糸子が本物の五摂家筆頭・近衛家の至宝であり、今や主上様との間にすら直接の深い信頼関係を持つ、この国の根幹たる存在であることを――これ以上ない現実として思い知らされた。

 高杉と久坂は堪らず、互いに顔を見合わせる余裕すらなく、揃って五体を激しく床にすりつけ、深く平伏した。


「……読ませてもらった」

 忠房が、静かに、しかしよく通る声で言った。

「糸子は、息災のようであるな。土方、あの子は、江戸でどう過ごしておる」

「は」

 土方が深々と頭を下げ、淀みなく応じた。

「姫様は、時に我らも手を焼くほどのお転婆な様子も見受けられますが――時折、ふと寂しそうなお顔をなさるときがございます。近衛様からの書状を、お一人で読まれているときは、特に……」

 忠房の端正な表情が、わずかに、人間らしく動いた。


「しかし…」

 土方は言葉を紡いだ。


「同時に、この上なく幸せそうなお顔もなさいます。近衛様の書状を何度も何度も読み返しては、嬉しそうに、目に涙を浮かべておられる姿を、我らも何度か拝見いたしました」

 忠房はしばらくの間、沈黙した。

 その厳しい当主の目に、一瞬だけ、遠い江戸にいる我が子を想う父親としての、深く切ない情愛が滲み出た。

「……そうか」

 ぽつりと言った、短い言葉だった。しかし、そこにはどれほど離れていても娘を案じ続ける、確かな父の心が込められていた。


「土方、斎藤、結城。旭狼衛の方々よ」

 忠房の視線が、再び冷徹な当主のものへと戻り、三人を見た。

「今後とも、我が愛娘、糸子の守護を……頼むぞ」

「この命に代えましても――御意」

 土方が、地を這うような平伏のまま、誓いを立てた。

 忠房の鋭い視線が、今度は、床に這いつくばったままの長州三人に向けられた。


「吉田、高杉、久坂。その方らも、どうか糸子を、助けてやってくれ。あの子は、この日本のため、そして何より御門様のために、身を削って必死に動いておるのだ。この私からも、頭を下げて頼む」

 その言葉を聞いた瞬間、吉田松陰が、感激と興奮のあまりその身体を小刻みに激しく震わせた。

「なんという……近衛様、直々に、そのような勿体なきお言葉をいただけるとは!」


 松陰は、糸子の父親に少しでも己の忠義を見せたい、良いところを見せたいという純粋な一心から、きりりと表情を引き締めて顔を上げた。

「我ら三人、姫君様をお助けすることは、もはや天から授かった責務と心得ております! なんらの遠慮もいりませぬ、我ら長州の命、どうぞいくらでもお使いくださいませ!」

 高杉と久坂も、平伏した姿勢のまま、深く頷くしかなかった。


 その夜、松陰、高杉、久坂の三人は、近衛家の格別な客人として一泊を許され、京の最高峰の、丁重極まるもてなしを受けた。

 夕餉の席、久坂と高杉は、いまだ抜けない緊張のあまり、発する言葉を脳内で必死に選び、推敲しながら、江戸での糸子の日常や、彼女から驚くべき授業を受けた時の驚きを忠房に語り聞かせた。


 二人が江戸での糸子の様子を語るたび、忠房は非常に興味深そうに、そして父親の顔になって熱心に耳を傾けていた。

「江戸では、姫君様に――いえ、糸子様に、複式簿記ちゅう、異国の未知なる帳簿術をご教授いただきました」

 久坂が、緊張で声をわずかに震わせながら言った。

「左右を一対として、貸し借りを同時に記すその理は――まさに、この世の陰陽の理そのもの。あねーな若さで、ありゃあほど深く、血の通った経世済民の知恵を持っちょられるとは……わしら、ただただ圧倒され、平伏するのみでございましたっちゃ」


「ほう。糸子は、長州の才ある者たちにそのようなことまで教えておるのか」

 忠房は、我がことのように嬉しそうに何度も頷いた。

「あの子は、幼き頃より実に不思議な子でな。驚くべきことに、生後わずか七月ななつきで、すでに言葉を発したのだ」

「な……生まれて、七月ななつきでございますか……!? 」

 高杉が、思わず儀礼を忘れて目を丸くし、絶句した。


「ああ。乳母のお梅が、『これは神のお子に違いない』と腰を抜かしてな。我も、今ではそれを誇らしく思うておる」

 忠房は、どこか遠い先を見るような静かな目で語った。

「あの子は、凡庸な我には思いもよらぬことを、次々と成し遂げてしまう。かつては、屋根の雨漏り一つ直す金もなく、まともな手が打てなかったこの貧しい近衛家を――今や、御門様すらもが『糸子はどう思うておるか』と、国の一大事に頼りにされるほどの、大きな力を持つ家に変えてしまったのだからな」


 高杉と久坂は、その何気ない言葉の裏にある事実に、再び凄まじい衝撃を受けた。

(しゅ、主上様が、あの姫君様を…直接頼りにされている…のか……!?)

 皇国の宗主たる主上。その絶対的な存在と、江戸で自分たちに算盤を教えていたあの姫が、あまりにも深い信頼で繋がっている。その事実の、頭が灼けるような重さに、二人はただただ愕然とし、息を呑むしかなかった。


「『父上が前におられるから、わたくしはゆっくり安堵して考えられるのです』――糸子は、いつもそう申すのだ。」

「愛らしきかな、と思うであろう?」

 忠房は、ふっと愛おしそうに破顔した。


「私には、あの子のような、はるか先を見通す目はない。なれど、あの子がこの国の汚れを引き受け、表舞台に立つ覚悟を決めたあの時、私は父としてこう言ったのだ。『表に立つ役、泥をかぶる役、世間の矢面に立つ役は、すべてこの父が引き受ける』とな」

 忠房の優しい瞳の奥に、近衛家当主としての、そして一人の父親としての、いっさい揺らぎのない冷徹な覚悟が宿った。


「近衛家、千年の家格。あの子がこの動乱とも思える刻を生き抜き、その知恵を自由に振るうためならば、この家格のすべてを我はあの子の『道具』として差し出す。それこそが、父である私の、唯一の務めだと思うておるのだ」


 その言葉に、あまりにも感情の起伏が激しい吉田松陰は、感極まって大粒の涙を流し、ボロボロと畳を濡らした。

「なんという……なんという、美しくも強固なご父子の絆でございましょうか! 我ら長州組、この命が燃え尽きるまで、姫様をお助けする所存にございます!」


 近衛忠房は、愛する娘が江戸の地で元気に過ごし、風変わりではあるがこれほど熱い男たちに心から慕われていることを知り、夜が更けるまで終始、上機嫌に酒を酌み交わすのだった。


 近衛邸の豪奢な一室で、長州組の三人が旅の疲れからようやく深い仮眠に落ちた、まさにその夜のことだ。

 土方歳三、斎藤一、結城誠一郎の三人は、音もなく気配を消して、夜の京の町へと滑り出した。

 向かう先は――洛外の静かなる地、壬生みぶ。そこに構えられた一見、普通の剣術道場…試衛館、京支部こそが、彼らの京における拠点であった。


 夜道を照らすのは、彼らが手にする提灯の、頼りなく揺れる薄暗い光だけだ。どこから、いつ、いかなる刃が飛び出してくるか分からない、暗殺の都と化した京の夜。周囲には、独特の肌を刺すような張り詰めた冷気が、濃密によりのように立ち込めていた。


 土方が格子戸を一定のリズムで軽く叩くと、ほどなくして中から、一人の男が静かに姿を現した。

「……土方さん。よくぞ、無事においでくださいました」

 穏やかな、しかし知性の光を湛えた笑みを浮かべたその男は、山南敬助であった。旭狼衛京支部の責任者であり、糸子の情報網の核を担う文武に長けた知識人肌の男だ。

 三人はすぐに薄暗い奥の間へと通された。


 部屋の中央にある囲炉裏の火が赤々と爆ぜる中、山南の手によって、伏見の銘酒が静かに酌み交わされた。長旅で冷え切った身体に、酒の熱さがじんわりと沁みていく。

「山南、まずは江戸の姫様からの伝言だ」

「一言一句、違わずに言うぞ……」

 土方は酒杯を弄びながら、声音を落として口頭で告げた。

「『もし、父上が近いうちに長州へ赴くようなことになりましたら……道中の警護、くれぐれもよろしくお願い存じまする』――とのことだ」


 山南は注がれた酒を見つめたまま、しばらくその言葉の重さを頭の中で反芻していた。

「近衛様が、これほどの時局に自ら長州へ下る、と……。姫様は、今後そういう風に近衛様を動かすおつもりなんですか?」

「さあな。俺たちにはまだ、その真意の全容は分からん。だが、あの姫様がそうおっしゃっているんだ」

 土方は酒を一口、喉へ流し込んだ。


「その時が来たら問題なく動けるよう、京支部は常に準備しておけ、山南」

「……あの一見、無邪気に見える姫様は、一体どれほどの先の世を見ておられるのやら」

 山南は感嘆とも、あるいは底知れない…畏怖ともつかぬ口調で、ぽつりと呟いた。それから、すぐに表情をお役目のそれへと引き締める。


「土方さん。これまでの動きから推察するに、姫様の真眼は……おそらく、このような絵図にございましょう。長州の懐を裏より抑えて『朝廷の金穀の盾』と成したのち、近衛という千載の権威を以て、幕府の兵馬を完全に退ける。実に非凡なる二の矢にございますな」

 土方は内心で、激しく舌を巻いた。


 たった一言の伝言から、糸子が描く壮大な天下の全体的な構想の核心を、山南は見事に射抜いていた。

「……相変わらず、お前という男は頭が回るな、山南」

「いえ。長くあの姫様の下にいれば、嫌でもそのお考えの癖のようなものが読めるようになりますよ」

 山南は自嘲気味に笑うと、さらに声を一段と落とし、囲炉裏の火影に顔を近づけた。


「ところで、土方さん。長州に行く前に、一つだけ、ひどく不穏な情報がこちらに引っかかっています」

「何だ、言ってみろ」

「長州藩内の保守派――いわゆる椋梨藤太ら『俗論派』の重臣どもが、京の良からぬ噂の商人を通じて、幕府の隠密組織と極秘裏に接触を図っている形跡があります」

 土方の目が、一瞬にして獣のように鋭くなった。


「俗論派が、幕府と……? 身内の権力闘争のために、江戸を引っ張り込もうっていうのか」

「ええ。まだ決定的な証拠までは掴めていませんが、もし長州の方々が長州藩を大きく変えようと動き出せば、その俗論派が、必ずや後ろから彼らの足を引っ張り、命を狙ってくるでしょう。……長州への道中、くれぐれも背後にご注意を」

「分かった。肝に銘じておこう」

 土方は深く頷き、そして、ふっと自嘲的な笑みを漏らした。


「あの姫様は、俺たちのような野良犬どもに、くだらない死に場所じゃなく――この世そのものを根底から動かすための、とんでもねえ舞台を整えてくれるな」

「ええ」山南も、優しく、しかしどこか冷徹な笑みを返した。「退屈だけは、絶対にしませんね」

 二人はしばらく無言のまま、杯を傾けた。ぱちぱちと、囲炉裏の炭が爆ぜる音だけが室内に響く。

 山南は揺れる火を見つめながら、独り言のように言葉を紡いだ。

「土方さん。私は最近、つくづく思うのです。姫様の下で働くというのは、まるで……目に見えない巨大な絵図の、ほんの一筆ひとはけを担っているような心地がすると」

「一筆、か」

「ええ。我々は今、目の前にある『長州の護衛』という小さな役目をこなしているに過ぎない。しかし、その一つ一つの血の足跡が、後になって思いもよらぬ形で、美しく繋がっていく。……姫様には、その完成した全体の絵が、最初から、あの澄んだ瞳に見えているのでしょう。だからこそ、私たちは迷わずにいられる」

土方は酒を口に含み、冷たく笑った。

「俺も、全く同じことを考えていた。長州を朝廷の財布にする。そのために、まずは松陰や久坂という、狂気と知性の駒を現地に送り込む。だが、こんなものは、あの姫様にとってはほんの『盤面の一手』に過ぎねえんだろうな。……おそらく、その先には、俺たちの想像を絶する壮大な伽藍が隠されている」

 山南は目を細め、静かに頷いた。

「ええ。私には、それが何なのかまだすべては見えません。しかし、一つだけ、確かなことがあります。姫様はこの狂った国を、本気で変えようとしている。それも――いっさいの血を流すことのない、全く新しいやり方で」

「――無血近代化、か」

 土方は、糸子が江戸でよく口にしていたその奇妙な単語を、噛み締めるように呟いた。

「無血、ね……」山南は、どこか皮肉げに苦笑した。

「しかし、その『無血の理想』を現実のものとするために、我々旭狼衛は、こうして誰も知らない中で、刃を振るっている。実に皮肉なものですね」

「……それでいいさ」

 土方の声は、どこまでも低く、そして揺るぎない覚悟を孕んでいた。

「姫様のように清らかな人の手を、血で汚させるわけにはいかん。あらゆる汚れ仕事、泥の役目は、俺たち旭狼衛がすべて引き受ける。それが、俺たちの役目だと思っている」


 二人はそれ以上多くを語らず、冷徹な「裏の規律」を、目だけで改めて確認し合った。

 もし、長州組の三人――吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞が、糸子の計画を裏切り、あるいは私欲に走って国を誤らせる兆候を見せた場合は、その場で、跡形もなく処理する。

 それこそが、彼ら旭狼衛に課された、優しさの一片もない冷酷な絶対のルールであった。

 伏見の甘く冷たい酒を酌み交わしながら、壬生の夜は、ただ静かに、深く更けていくのだった。


 翌朝。京の空が白み始めた頃、近衛邸の重厚な門前に、信じがたい光景が広がっていた。

 当主・近衛忠房が、わざわざ衣服の裾を払って、長州組と旭狼衛の六人を見送るために直々に入り口まで姿を現したのだ。

「……道中、くれぐれも気を付けてお行きなさい。長州の先は、その方らの双肩にかかっておる」


 そのあまりにも破格の扱いに、吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞の三人は、言葉を失って平伏し、激しく恐縮した。公家の頂点、五摂家筆頭の当主が、地方のしがない下級武士の旅立ちに見送りに出るなど、本来の江戸の身分制の常識では天地がひっくり返ってもあり得ないことだったからだ。

 それほどまでに、糸子が彼らに託した期待と、忠房の娘への情愛が深いという証拠でもあった。


 近衛邸の門前には、昨夜密談を交わした壬生の山南敬助率いる、京支部の旭狼衛の面々が見送りに駆けつけていた。

「土方さん、長州での任務は、一筋縄ではいかぬ険しいものとなるでしょう」

 山南が周囲に目を配りながら、いつもと変わらぬ穏やかな、しかし覚悟の据わった声で言った。

「もし長州の地で、表の役人どもや俗論派の動きに手詰まりが生じ、我ら力が必要となったならば――いつでも、どのような手段を使ってでも京支部を呼んでください」


「山南、その心遣い、深く感謝する」

 土方は旅支度の紐を締め直しながら、低く応じた。

「もし本当に手が足りなくなったその時は、遠慮なくお前たちを頼りにさせてもらうさ」

「どうか、ご無事で」

「旭狼衛の誇りを、長州の奴らにも見せつけてやってください」

 山南の背後に控える、京の手練れの隊士たちも、口々に押し殺した熱い声を土方たちへ送った。


 土方はふっと、不敵な笑みをその端正な顔に浮かべた。

「山南、随分と頼もしい牙を揃えたじゃないか」

「江戸にいる近藤さんや、土方さんに、少しでも安心してお役目を果たしてもらうためですよ。これくらいは、京支部の意地です」

 山南はそう言って、眼鏡の奥の目を少しだけ照れくさそうに細めた。


「よし、それでは……萩に向かって、発つとするか」

 土方の合図とともに、六人は振り返ることなく、静かに手を振って千年の都を後にした。

 京を出立した一行は、西国街道(山陽道)をひたすら西へと突き進んだ。


 三月上旬。

 幾つもの宿場を黙々と越え、ついに瀬戸内海沿いの開けた街道へと躍り出た瞬間、六人の視界は一気に弾けるように広がった。

 そこには、幕府の衰退などどこ吹く風と言わんばかりの、圧倒的な「経済のうねり」がのたうっていた。


 青く穏やかな海面には、巨大な帆をいっぱいに張った北前船が、無数に港を行き交っている。波止場では、山のように積まれた白塩、艶やかな木綿、そして黄金色の米俵が、大勢の汗だくの労働者たちの怒号とともに文字通り「大量に、激しく」動いていた。思想の空論ではなく、金と物資が国を動かす剥き出しの躍動が、六人の瞳に飛び込んできた。


 強く吹き付ける潮の香りが、彼らの頬を打つ。春の柔らかな陽光を浴びて、どこまでも続く瀬戸内の海面が、きらきらと、まるで無数の小判を敷き詰めたかのように眩しく輝いていた。


 街道沿いの、活気ある港町の茶屋に腰を下ろした六人は、現地の名物である「たい雑炊」を注文した。

運ばれてきた椀からは、濃厚な海の香りが湯気とともに立ち上る。箸をつければ、新鮮な鯛の身がこれでもかと転がり、貝の濃厚な出汁が限界まで染み込んだ米粒が、冷えた身体の五臓六腑へと温かく、じんわりと染み渡っていく。付け合わせに出された、一切れの塩漬けの魚も、旅の疲れで塩分を欲した身体には最高の贅沢であり、これ以上ない格別の味わいであった。


 江戸を出てから早くも二十日余り。毎日八里――約三十二キロという常人離れした距離を、雨の日も風の日もひたすら歩き通してきた六人の肉体は、この時、完全に無駄な脂肪が削ぎ落とされ、鋼のように引き締まっていた。


 言葉を交わさずとも、誰かが息を切らせば、別の者が無言でその荷物を肩代わりする。垣根を越え、過酷な長旅を生き抜く「旅人としての、強固な連帯感」が、彼らの間に確実に芽生えつつあった。


 潮風の吹く街道を歩きながら、高杉晋作が、その唇を不敵に歪めて笑いながら言った。

「なあ、久坂。この瀬戸内の、目の前を流れよる莫大な物流の首根っこを、長州が完全に握りしめてしもうたら……江戸の幕府なんぞ、戦うまでもなく一干ひとぼしにできるど」

「……それでは、ただの浅ましい強欲な商人と変わりゃあしません」


 久坂玄瑞は、草鞋の紐をしっかりと踏みしめながら、即座に冷徹な声で反論した。

「姫様がわしらに授けてくださった教えは、そねーな目先の横取りじゃあないはずです。真の経世済民ちゅうのは、交易によって全体の富を増やし、日本全体の底力を底上げすること。

 一部の権力者が富を独占して、他を飢えさせて干上がらせるような真似は――姫様のおっしゃる『天理の交易』とは、それこそ真逆の、ただの野蛮な略奪にすぎんのですっちゃ!」


「ふん。相変わらずお前は理屈をこねる男よのう、久坂。ちぃとは面白味のある大風呂敷を広げたらどうなんや」

「理屈が、数字が正しいけぇ、わしはそれを口にしちょるんです!」

 二人は、歩調を一切緩めることなく、激しく、しかしどこか楽しそうに高次元の経済論政を戦わせ続けた。


 その後ろを、数歩下がった位置で歩く斎藤一と結城誠一郎が、無言のまま聞いていた。

 二人は表情を変えなかったが――その内心では、長州の先を担う二人の頭に、江戸の姫君がもたらした「算盤の論理」が、もはや他人の借り物ではなく、彼ら自身の強力な血肉と化していることを完全に確信し、冷たい戦慄と信頼を覚えていた。

(……こいつらは、もう、刀を振り回すだけの単なる攘夷の志士じゃない。姫様が放った『経済』という名の最強のお考えを、骨の髄まで叩き込まれた、全く新しい才人だ)


 結城誠一郎が、歩きながら、流れるような動作で懐から矢立を取り出した。

 そして、揺れる視界の中で、一片の狂いもない筆致でその事実を淡々と紙に記録していった。


『三月上旬、山陽道。高杉、久坂の両名、歩行しつつ激しい経済論争を展開。両名とも、姫様の提示された論理を完全に我が物とし、考えの習得、完了せりと認められる』


 それは、日本の西の果てへと向かう六人の背中に、時代の歯車が完全に噛み合ったような、静かで、しかし確かな音が響いた瞬間であった。


 第百二十話 了

■幕末期の懐中時計事情を解説ヽ(゜∀゜)ノ♪


●懐中時計の価格

当時の懐中時計は完全な輸入高級品で、一般的な相場は10両〜50両程度でした。

現代価値に換算すると(目安として1両=3万〜6万円) 約30万円〜300万円相当

つまり、庶民には到底手が届かない「超高級品」でした。


●所有できた人々

主な所有者は限られており、大名、幕府の重役、豪商・富裕層といった、ごく一部の上流階級だけでした。

当時の一般的な年収が数両〜十数両だったため、懐中時計1つが「年収数年分」に相当することもありました。


●さらに高価な特別品

通常品よりさらに高額なものも存在しました。

① 金無垢ケース

銀製より数倍〜10倍以上高価

100両(約600万円以上)級も想定される

② 装飾・工芸品レベル

エナメル(七宝)装飾

宝石・精密彫刻付き

→ 実用品というより「美術工芸品・ステータスシンボル」

③ 外交・献上品クラス

例:ウォルサム製時計が外交贈答品として日本に伝来

市販品とは別格の最高級仕様


→幕末の懐中時計は単なる時計ではなく「富・権力・西洋文明へのアクセス」を示す象徴的な超高級品でした。だから久坂はあんなに驚いていたのです。


 なお、糸子さんは「道具は使ってこそ!」という現代人の感覚を持っているため、土方に気にせずに持たせています。ちなみに購入は天朝物産所経由で異国商人より、通常よりも安く買いたたいています(* ´艸`)クスクス

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