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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第百二十一話「長州攻略編―算盤を担いだ六人の旅(後編)」

一

 文久元年、三月中旬。


 江戸を発ってから長きにわたる旅路の果てに、六人はついに瀬戸内側の要衝・三田尻を経て、防府へと至った。

 ここから、長州藩の政治と文化の文字通りの心臓部である萩城下へと直結する、峻険なる不吉な幹線道路「萩往還(はぎおうかん)」が、牙を剥くように始まる。


 瀬戸内の温暖な気候とは一転し、中国山地を縦断する山陰特有の、春先ながらも肌を刺すような激しい冷風が、薄暗い山道の至る所に吹きつけていた。


 その萩往還における最大の難所、それが「一ノ坂(いちのさか)」であった。

 高低差はおよそ三百メートル。息を突く隙もない斜度は、最大で十五度を優に超える急勾配。足元は角の尖った不揃いな岩肌が剥き出しになり、容赦なく旅人の足を挫こうとする険しい峠道だった。日陰の岩肌には、冷え切った雨水が激しく滴り落ち、足元の石畳を濡らしている。


 六人は、道端の岩の隙間からこぼれ落ちる冷たい湧き水を竹の腰杯ですくい、無言で喉を鳴らして飲み干すと、ただ黙々と、垂直に近いその壁を登り続けた。

 容赦のない石畳の上で、編み込んだ草鞋の藁紐が悲鳴を上げて擦り切れていく。わずか数キロを進むごとに、足元を完全に履き替える必要があった。


 ふと街道の脇に目をやれば、そこには数え切れないほどの先人たちが限界まで履き潰し、泥まみれになり、そして寒気の中でカチカチに凍りついた無数の草鞋が、何重にも、まるで呪いの塚のようにうずたかく積み重なっていた。


「藁の屍(しかばね)」――。

 この坂を越えようとした者たちの、凄絶なる旅の過酷さをこれ以上ないほど雄弁に物語る、不気味な光景であった。


 六人の口から漏れる息は、白く、激しく天に向かって上がっていた。全身から噴き出す大量の汗が、標高が上がるにつれて吹き付ける強風に一瞬で冷やされ、容赦なく体温を奪い去っていく。それでも、誰一人として足を止めず、一歩、また一歩と泥と雪を踏みしめた。

 そして――ついに、彼らは峠の頂上へと辿り着いた。


 視界を遮っていた残雪の尾根の向こう側。視界が一気にひらけたその眼下に、ついに、彼らが焦がれ続けた長州藩の拠点「萩の城下町」が、その全貌を現した。

 整然と並ぶ白い土塀。見事な枝振りの松や、歴史を感じさせる黒ずんだ瓦屋根。その美しい武家屋敷の町並みが、春の冷たい霞の中に、まるで幻影のようにぼんやりと広がっている。


 吉田松陰が、その場に釘付けになったように立ち止まった。

 その薄汚れた顔に刻まれた瞳に、魂が燃え上がるような、激しい情熱の炎が宿った。

「わしは、この鹿背峠を越えて。この險路の向こうこそが――我が、愛する故郷だ」

 松陰は、激しく上下する胸を抑え、眼下の城下町を慈しむように見つめながら言った。

「だが。……玄瑞、晋作。よく、わしの言葉を聞け。我らが今回、命がけでこの故郷に持ち帰るのは――もはや、異国をただ無差別に斬り殺すための、野蛮な攘夷の刃ではない!」


 松陰の声が、激しい感情の昂ぶりのあまり、小刻みに震えた。

「この飢えた長州を、そして日本のすべての民を真の飢窮から救うための……“算盤”だ!」

 松陰はしばらくの間、一言も発さず、萩の城下町をただじっと見つめ続けていた。


 ここは彼が生まれ、育ち、そして狂信的な思想を育んだ、すべての原点たる故郷だ。かつて彼は、この狭い平地から世界を見ようと焦るあまり、外国船への密航を試みて無残に失敗し、罪人として投獄された。ただ「異国を討て」と過激な攘夷を叫び、自分の命だけでなく、多くの若き同志たちの命をも危険に晒し、巻き込んできた。


 しかし――今は、決定的に違っていた。

「玄瑞、晋作」

 松陰が静かに、しかし地を震わせるような確信に満ちた声で言った。

「わしは、かつて愚かにも、この美しい故郷を、攘夷の炎という独りよがりの火で焼き尽くそうとしていたのかもしれん。ただ異国の船を討て、異人を殺せと叫ぶことだけが、武士としての至誠だと、本気で信じ込んでおったのだ!」


 松陰の大きな目に、一筋の涙が滲み頬を伝った。

 江戸で出会った「姫様」は、わしが命を賭けて挑もうとした世界そのものを、巨大な鳥の目のように俯瞰し、冷徹な数字で斬ってみせたのだ。わしらが信じた『至誠』の刃がいかに脆く、異国の圧倒的な資本と物流の前にいかに無力であるか。それを突きつけられた時、わしの頭は一度完全に叩き割られた。


「そして……真の理に触れて――わしは、ようやく呪縛から目が覚めた。真の至誠とはな、ただ血を流すことではない。

 民を一人たりとも飢えさせぬ、強固な仕組みをこの大地に創り上げることだ。この国を、内側から真に豊かにすることだ。そのために……我らはまず、冷徹に数字を学ばねばならんのだ!!」


「先生……」

 久坂玄瑞が、師のあまりにも清らかな横顔に、胸を突かれたように呟いた。


「わしは、この一ノ坂を越えて――我が故郷に、全く新しい光を持ち帰る。お前たちの手に握らせるのは、無知なる攘夷の刃ではない。この国を永遠に生かすための、経世済民の算盤だ」

 松陰の声は激しく震えていたが――その眼眸の奥には、かつて人々を恐怖させたあの盲目的な「狂気」とは異なる、すべてを包み込むような、どこまでも澄み切った知性の光が宿っていた。


 高杉晋作と久坂玄瑞は、己の師のその堂々たる姿に、言葉を失い、激しく心を打たれていた。

(先生は、変わられた。……いや、違うのう。あの底知れん情熱の熱量はそのまんまじゃ。ただ、その刃の向かう先が、破壊から『創造』へと、根底から変わってしまわれたんじゃ)


 高杉は胸の中でそう確信し、ニヤリと熱い笑みを漏らした。

 その師の決意の言葉に、高杉と久坂は、魂を共鳴させるように深く深く頷いた。


 峠の頂上に立つ六人の顔から、数日間に及ぶ過酷な旅の疲労は、完全に消え去っていた。

 代わりに、誰も寄せ付けぬような、冷徹極まる覚悟の色彩がその表情を支配する。

 残雪を蹴立てて、彼らは萩の町へと一歩を踏み出した。

 ここからが――文字通りの、真の戦場。


 糸子の描いた巨大な絵図を現実のものとするための、命がけの「長州攻略」が、今ここに幕を開けたのだった。


ニ

 萩に到着した六人は、擬態と諜報のため、瞬時に分散した。


 萩の城下町は、独特の閉鎖的な空気を纏っていた。

 白い土塀が、整然と続く。青々とした松の枝が、塀の向こうから突き出ている。しかし――余所者を見る、住民の目は冷たかった。

 松陰と高杉は、「松下村塾」へと向かった。松陰の拠点である。


 久坂は、武家屋敷街の伝てへと向かった。彼は、松陰の妹の夫であり、藩内でも名門の医師家系の出だ。独自の伝てを利用して、動くことができた。


 土方は――脱藩浪人「田中弥次郎」として、安旅籠の居酒屋に陣取った。


 斎藤と結城は、城下町外縁の寺院と、呉服商「松屋」の隠れ蔵を確保した。


 土方はその居酒屋で、地元の足軽や浪人たちから、世論を吸い上げ始めた。

 酒癖の悪いゴロツキ浪人を演じ、情報を集めていた。

「よう、兄さん。一杯どうだい」

 土方は隣の足軽に、酒を勧めた。


 注がれた濁酒を、足軽は疑いもせず一気に煽る。土方は男の視線、手の震え、身に纏うわずかな「焦げ付いた金の匂い」を見逃さなかった。懐から適当に掴み出した数枚の文銭をジャラリと弄び、わざと負けが込んでいる風を装いながら、男の射幸心と口の軽さを同時に刺激していく。

 地方にいる末端の「隠し事」を暴くなど、赤子の手をひねるより容易かった。


 サイコロ博打に興じながら、土方は自然に内部情報を引き出していった。

「しかし、最近、椋梨の旦那の羽振りがいいらしいな。下関の倉庫から、美味い汁でも吸ってんのか?」

「しっ、声が太いっちゃ」

 足軽が、声を潜めた。

「あんまり、椋梨様のことは口に出さん方がええ。今、藩の中はピリピリしちょるんじゃ」


「へえ、なんでだい」

「俗論派の椋梨様たちが、実権を握りよってな。過激な攘夷に猛る、若手の連中を……どうも、泳がせよるって噂じゃ」

「泳がせてる?」

「ああ。泳がせて――いずれ、一網打尽にする、腹積もりらしい。罠じゃ、罠」


 土方は内心で、警戒を最大にした。

(俗論派が、過激派を泳がせて、一網打尽にする罠を、仕掛けている……。これは厄介だ)

 博打を続けながら、土方は、思考を巡らせた。

(江戸や京より、狭い町だ。噂の回りが、早すぎる。一歩間違えれば――全員、首が飛ぶぞ)


 長州特有の過激さと、閉塞感。土方の警戒心が、最大限に研ぎ澄まされた。


三

 松下村塾。


 吉田松陰は、江戸へ旅立ってからしばらくぶりに松本村を訪れていた。自身にとって集大成とも言えた場所に帰って来たのだ。


 松本川のせせらぎが春の陽光を弾き、堤には菜の花の黄色が滲んでいる。杉家の敷地に佇む松下村塾は、主を欠いたまま、驚くほど静かな佇まいでそこにあった。


 風雨に晒され、渋い煤色を帯びた瓦葺きの小舎。わずか十坪ほどの質素な空間には、今も「至誠」の残り香が漂っている。


 門下生が膝を突き合わせた八畳の講義室。そして、増える塾生のために師自らが古材を運び、汗して広げた十畳半の増築部。しかし、一歩その狭い塾内へと足を踏み入れれば、若者たちの放つ熱気と、むっとするような体臭が、換気もされぬまま濃密に充満していた。


 その熱気の中心、上座に、ついに江戸より帰還を果たした松陰が立っていた。幽囚の身を経て近衛糸子の知性に触れてしまったその両目だけは、別の生き物のように生気でぎらついている。傍らには、腕を組んだ高杉晋作が静かに控えていた。


 門下生たちは、敬愛する師の生還に、完全に沸き立った。

「先生! ようぞ、ようぞご無事で……っ!」

「江戸の魔手から、よくぞお戻りくだされた!」

涙ぐみ、師の痩せた手を握りしめる者さえいる。松陰は、教え子たちの一人ひとりの顔を、噛みしめるように見回した。

「……皆、息災であったか。わしの留守を、よう守ってくれたのう」


 やがて、話は自然と江戸の様子、そして長州の冷酷な現状へと移っていった。

「先生がおられぬ間……長州も、ひどいものでしたっちゃ」

 一人の門下生が、堰を切ったように現状を吐き出した。

「俗論派の椋梨様らが実権を握り、藩の財政は火の車じゃ。米も塩も、売れど売れど銭は蔵に残らん。 下々の暮らしは、日に日に細るばかりで……」

「さあ先生、いざ――黒船を焼き討ちにしましょうや! あの異国人らを、わしらの神聖なる海から一匹残らず叩き出すんじゃ! それだけが、この閉塞を破る唯一の道だと信じて……!」


 血気盛んな若者たちの瞳には、相も変わらぬ「攘夷」の熱病が、危うく揺らめいていた。

 若者たちが血を湧き立たせて期待していた号令。しかし、それは待てど暮らせど松陰の唇から零れ落ちてはこない。松陰は沈黙のなか、ゆっくりと懐に手を差し入れた。


 門下生たちが息を呑む中、松陰が懐から取り出したのは、血を吸うための刃ではなかった。上質な布で丁重に包まれた、使い込まれて黒光りする一枚の「算盤」だった。


 ドンッ、と。


 松陰は、その算盤を、眼前の机に思い切り叩きつけた。

 乾いた、それでいて重々しい玉の鳴る音が、静まり返った狭い教室の隅々にまで、爆音のように響き渡る。門下生たちは――ただ、唖然とするしかなかった。


「……せ、先生? それは……ぶちして、算盤なんか……?」


 若者たちの困惑は、瞬く間に拒絶と「怒り」へと姿を変えていく。

「先生……! まさか、異国を討つというあの『攘夷』の志を、どこかへ捨てちゃったんですか!」

「算盤なんか、卑しい商人が銭勘定に使う道具じゃありゃあんですか! わしらは武士です! 誇り高き長州の武士なんです!」


 松陰は、その荒れ狂う怒号の嵐を、ただじっと黙って受け止めていた。そして――。


「愚か者ッ!!!!」


 地響きのような凄まじい咆哮が、若者たちの頭上から叩きつけられた。一斉に言葉を失い、口をつぐむ門下生たちに向かって、松陰の目が獲物を見据える獣のように燃え盛る。


「お前たちの言う攘夷など――ただの思慮なき、野蛮な打ちこわしに過ぎん! いいか、目を覚ましてよく聞け。イギリスやメリケンといった異国の列強が何故あれほどまでに強いのか。奴らの国ではな、民の一人一人が算盤を弾き、世界の裏側から合法的に富を吸い上げる仕組みを作り上げているのだ。それこそが、国全体の生み出す力――『国生の総力』があるからに他ならない!」


 松陰はさらに身を乗り出し、言葉を叩きつける。

「我が長州藩には、先人たちが遺してくれた『防長四白』があるではないか! 米! 塩! 紙! そして蝋だ! この、四つの白い宝こそが、我が長州が誇る最強の特産品だ! 刀を捨てて、これを作れ! そして、  世界に向けて売って売って、売りまくれ! 異国の経済の懐深く入り込み――『長州の物産がなければ、 一日たりとも生きていけない』という状態を奴らの中に作り出すのだ! それこそが、これからの時代に おける『天理の交易』であり、これ以外に真の攘夷など存在しない!」


 門下生たちの心は、今や完全に引き裂かれていた。武士としての矜持が怒りを叫ぶが、目の前で展開される演説の、底の知れない狂気的な論理と圧倒的な熱量に、彼らはあてられていた。軽蔑していたはずの「銭勘定」という名の劇薬が、若き秀才たちの頭に、じわじわと侵食し始めていた。


 高杉晋作は、その一部始終を壁際に身を寄せながら見つめ、内心で愉しげに、低く笑った。

(……くくっ、さすがは松陰先生じゃ。『金儲けをして妥協しろ』なんてことは一言も言っちゃあない。『徳川が売り渡したこの国を、お前らの経済力でそっくりそのまま買い戻してやるんじゃ』と――若造どもの大好物な、もっとぶちでかい大義名分をブチ上げてみせた。これは……効くぞ。こいつらの青臭い考えは、もう二度と元には戻らんど)


 彼らはまだ、知らない。その師が江戸から携えてきた「途方もないもの」が、自分たちの信じてきた「武士の魂」そのものを、根底から覆すことになろうとは――。


四

 三月下旬。

 

 松下村塾が久方ぶりの師の帰還に沸くその裏で、実務の秀才・久坂玄瑞は、ただ一人、長州藩の中枢そのものへと、静かに狙いを定めていた。

 とはいえ、一介の塾生上がりが、藩の正義派首領・周布政之助に直接まみえることなど、本来叶うはずもない。そこで久坂が用いたのが、二つの「鍵」であった。


 一つは、彼自身の出自。代々藩医を務める彼の家系は、武家の奥にも町方にも通じる、得難い人脈の網を持っていた。


 そしてもう一つ――懐に忍ばせた、江戸の村田蔵六から託された一通の紹介状である。蘭学と兵学に通じたこの男の名は、藩の理に明るい者の間で、絶大な信を得ていた。


 久坂は、この二つの鍵を、迷いなく切った。

 俗論派の目が、城下のあらゆる場所に光っている。一歩でも動きを悟られれば、面会の前に握り潰される。久坂は信の置ける仲介者だけを慎重に選び、決して足のつかぬ形で、ひそかに周布との接触の糸を手繰り寄せた。


 そしてついに――若き俊英・桂小五郎の口利きをも得て、藩庁の奥での秘密裏の面会を、取り付けたのである。


 藩庁の、重苦しい静寂が支配する厳かな一室。

 久坂は、彼らが仕掛けてくるであろう思想論争や、攘夷の是非といった空論には、いっさい乗ろうとしなかった。

 代わりに、無言のまま懐から一冊の分厚い帳簿を取り出し、畳の上に静かに置いた。


 それは、道中で結城誠一郎が克明に記録し続けた日本全国の物価資料と、俗論派の資金源と化している専売品――「紙・蝋(ろう)」をめぐる越荷方の構造的な歪みを、ある未知の手法によって視覚化した、一枚の証書であった。

「周布様、桂様。まずは考えを語る前に、この『現実』を、ご覧いただきとうございます」


 久坂は、帳簿のある一点を、静かに指し示した。

「銭の出入りだけを追う従来の帳面では、決して見えてこぬものがございます。倉庫で眠っちょるはずの紙や蝋の在庫が、いつの間にか目減りし、他藩へ貸し付けた銭が焦げついたまま闇に葬られちょる……その『不一致』が、この帳面の上では、もはや一目で暴かれてしまうのです」


 久坂は、仕掛けの詳しい講釈を、あえて避けた。今はその時ではない。

 ただ、突きつけられた数字の整合性が、言い逃れのいっさい通用せぬ俗論派の横領の痕跡を、残酷なまでに克明に浮かび上がらせている。それだけで、十分だった。


 帳簿をめくる周布の顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。

「これは……まさか、椋梨らが、藩の命脈たる越荷方の銭を、こねーに組織的に身内で貪っちょったというんか……!」

「わしから、断定はいたしませんっちゃ」


 周布が激昂しかけるのを、久坂は凍りつくほど冷静な声で制した。

「わしがお願いしたいんは、藩の財政権をすべて譲れ、なーんて大それた要求ではございませんっちゃ。ただ――俗論派が牛耳る越荷方の、この特定帳簿。

 その数字の闇を、わしの手で公的に洗い直す『監査の許し』を、いただきとうございます。まずは、三田尻塩田における運上金の監査権。そして、防府・中関における御蔵紙の仕入出納の差配。

 ……この、一部の流通における『実験枠』だけで、構やぁせんのです」


 ここで――それまで沈黙を守っていた桂小五郎が、初めて静かに口を開いた。

「……周布様。この久坂の申し条、ただの銭金の話と聞いては、本質を見誤りますぞ」

 その声は、若さに似合わぬ、底冷えするような落ち着きを湛えていた。


「この男が突きつけちょるのは、『刀を一度も抜かずに、敵の息の根を止める法』です。証拠を握って告発すりゃあ、長引く政争の泥沼に沈み、いずれ椋梨の手で証拠ごと握り潰される。じゃが、この『数字』は違う。藩を富ませながら、同じ一手で、俗論派の逃げ道を残らず塞いでしまう」


「周布様、これはただの横領の告発では終わりゃあせん。この数字の仕組みを逆に使えば、これまで下関や三田尻で他藩や幕府の目を盗んでやってきた『闇貿易(密貿易)』の上がりを、一文の狂いもなく藩の正当な軍資金へと変えることができる。椋梨らの首を切り落とすと同時に、その血をすべて我らの兵糧に変える仕掛けです」


 桂は、畳に置かれた帳簿を、まるで抜身の刃を見るような目で見下ろした。


「この実験が成功すりゃあ、藩の金蔵には、誰も知らぬ数万両の『隠し富』が湧く。そして白日の下に晒されたその数字は、俗論派を長州の政治から永久に引きずり下ろす、いかなる大砲よりも強力な爆弾になるっちゃ。……わしは、この策に乗ります。いや、乗らねば、長州が危ない。ご決断を周布様」


 周布政之助は、愕然としたまま、言葉を失ってその場に深く沈み込んだ。

 額から、冷たい汗が滴り落ちる。


 目の前の二人の若者が突きつけた「数字」という武器が、これまでの政治の策謀よりも遥かに決定的な破壊力を持つことを、彼の冷徹な政治直感が一瞬で見抜いていた。これは、政治のルールそのものを、根底から変えてしまう。


 息詰まるような沈黙の後、周布は低く重い決断を口にした。

「……久坂。おんどれらと、ここで秘密の同盟を結ぼうや」

 周布は声を極限まで落とした。


「『実験枠』の監査の許しを、わしの責任で裏から出してやる。

 ……じゃが、くれぐれも慎重にやれ。この動きを椋梨らに一歩でも悟られりゃあ、監査が始まる前に、おんどれらの首は物理的に飛ぶど」


「……百も承知のことにございますっちゃ」

 久坂玄瑞はいささかの揺らぎもない顔のまま、静かに深く頭を下げた。


 長州という巨大で狂暴な怪物の「頭」が……ついに、数字の力によって動き始めた、歴史的な瞬間であった。


五

 久坂玄瑞が萩の心臓部へ向けて放った、鋭い布石。その微かな、しかし決定的な動きを、保守派の巨頭たる俗論派の面々が察知するのに、さして時間はかからなかった。


「これ以上、あねーな狂人らを野放しにしちょけば、藩の根幹がひっくり返ってしまうわい――」

 危機感を募らせた椋梨藤太の双眸に、冷たい殺意の芽が宿り始めていた。だが、老獪なこの男は、まだ動かなかった。

 

 久坂が手にした「数字」という得体の知れぬ刃の正体を見極めるまでは、迂闊に牙を剥くまいと、暗がりで静かに鎌を研いでいたのだ。


 その、城下に満ち始めた不穏な気配を――誰よりも早く嗅ぎ取っていた男がいた。


 脱藩浪人「田中弥次郎」こと、土方歳三である。

 彼は安旅籠の片隅で安酒を舐めながら、博打場へ流れ込む噂の温度が、この数日で確実に変質しつつあることを、肌で感じ取っていた。

(数字で勝てぬと悟った時、頭の悪い連中が次に手を伸ばすのは、決まって刃物だ。……それも、表沙汰にできぬ、闇の刃よ)


 久坂たちが進める「数字の戦」は、糸子の描く絵図の通り、どこまでも無血でなければならない。

 ならば、いずれ必ず噴き出す血の汚れは、誰かが引き受けねばならぬ。


 土方は猪口の酒を干し、伏せた目の奥で、まだ見ぬ嵐の夜を冷徹に見据えていた。

「斎藤、結城」


 彼は、誰に告げるでもなく、低く呟いた。

「……そう遠からず、俺たちの出番が必ず来る。牙を研いでおけ」

 斎藤一、結城誠一郎はそれぞれ無言で頷いた。


 萩往還の険しい峠が、来るべき惨劇の予感を孕んで、ただ静かに沈黙していた。


六

 翌朝。


 前夜の激動がまるで嘘であったかのように、萩の城下町は、どこまでも平穏で、しらじらとした朝を迎えていた。


 城下を囲む白い土塀には、昇りたての早春の朝日が瑞々しく照り返している。武家屋敷の庭木や見事な松の木々は、夜の間に降りた朝露をたっぷりと吸い込み、光の粒を弾くようにしてきらきらと輝いていた。一見すれば、それはいつもと変わらぬ、美しく静謐な長州の日常そのものだった。

 しかし、その静寂の裏で、歴史の歯車は凄まじい音を立てて回り始めていた。


 正義派の首領たる周布政之助から、久坂玄瑞に向けて、ついに極秘の特命が下されたのだ。

 ――「越荷方(こしにかた)、一部帳簿の監査許可」。


 それは、長州藩が他藩に隠れて莫大な富を蓄えてきた利権の心臓部、すなわち密貿易と物流を一手に握る得体の知れぬ仕掛けに、久坂が「数字」という名の刃物を完全に入れた瞬間であった。長州という巨大な怪物の懐に、ついに指をかけたのだ。


 だが――これが長州組にとっての、完全なる勝利を意味するわけではなかった。むしろ、本当の地獄はここからだった。


 この監査によって芋づる式に不正を暴かれ、失脚することを何より恐れる俗論派の巨頭・椋梨藤太の目は、完全に血走り始めていた。自らの権益を守るためなら、藩を売ることも辞さない狂気が、その裏で静かに鎌をもたげつつあった。


 さらに、足元からも不穏な亀裂が走り始めていた。松下村塾の門下生のうち、学問よりも過激な行動を重んじる一部の暴発分子たちが、あからさまに反発の声を上げ始めたのだ。


「松陰先生は、江戸のやつらに牙を抜かれちまって、腑抜けになり下がったんじゃ!」

「もはや、あねーな弱腰の先生には頼っとれん! わしらだけで、即刻、異人を打ち払う攘夷を成し遂げてやるっちゃ!」

 彼らは、久坂や高杉が進める冷徹な経済戦の価値など微塵も理解していなかった。


 独自の暴発――すなわち、沿岸に停泊する外国船への焼き討ちテロという、最悪のシナリオに向けて、密かに裏で武器を集め、動き出していた。


 変わり果てていく松下村塾の庭を眺めながら、高杉晋作がいつもの不敵な笑みを唇の端に浮かべた。

「おい、久坂」

「なんや、高杉」

「周布様を首尾よう抱き込んだまでは上出来じゃが……。どうやらわしらは、とんでもない蜂の巣を突っついてしもうたようじゃのう」


 高杉は、白壁の向こうに広がる城下町の空気を値踏みするように見やった。

「肌がピリピリしよる。町中の殺気が、一晩で跳ね上がりおったぞ」

「……ああ。わかっちょる」

 久坂もまた、その重苦しく歪んだ空気の震えを、嫌というほど肌で感じていた。


 藩全体が、不気味にざわめいている。久坂が越荷方の闇に手をかけたことで、藩の最も触れられたくない急所が、真正面から抉られてしまったのだ。


 その結果、藩の内部では、新参の知性を排除しようとする狂気的なまでの拒絶反応が、急速に頭をもたげ始めていた。


 土方歳三は、その狂気の兆候を、一歩引いた遠くの物陰からじっと見つめていた。

 そして、この数日間で結城誠一郎が完全に仕上げた、極めて詳細な「長州潜入・第一次報告書」を、江戸の糸子へと送るための裏の手配を滞りなく済ませた。


 この報告書は、表向きは近衛家御用達の呉服商「松屋」の書状として扱われ、大坂の豪商「鴻池」を経由する、旭狼衛独自の堅牢な秘密通信網に乗せられる。


 幕府の厳しい検閲の目を完全にすり抜けるため、一見すればただの退屈な商用の荷物や勘定書の束に紛れ込ませて、確実に、そして迅速に江戸の糸子の元へと届けられるのだ。


 その頃、松下村塾の一室。

 久坂玄瑞は、ただ一人、灯火の傍らで深く考え込んでいた。周布との同盟は成った。実験枠も、間もなく動き出す。

 だが――その張り詰めた思索の、遥か先。萩の政治の暗部では、すでに決定的な破滅の一手が、静かに指されようとしていた。


 自身の失脚という底なしの危機を察知した俗論派・椋梨藤太らは、ついに禁忌の手段に出ようとしていたのだ。自分たちの手で正義派を抑え込めぬと悟るや、なんと幕府の隠密部隊、ひいては大規模な正義派弾圧の兵を、この萩の城下へと直接呼び寄せようと画策し始めていた。


 身内の権力闘争のために、江戸の幕府という外敵を自ら引き込もうという、常軌を逸した売藩行為であった。


 久坂が藩の急所に手をかけた、その結果。

 藩の全体が、自らを切り刻むかのような、狂気的な拒絶反応を本格化させていく。

 久坂は、深い思索から、ふと面(おもて)を上げた。

 その切れ上がった両目には、もはや一片の迷いもなく、冷徹なまでの、獰猛な緊張の色だけが宿っていた。

「……始まりおったか」

 誰に呟くでもなく、久坂の唇から漏れた。

「本格的な、長州を攻略する戦が」


 刀と刀がぶつかり合う血生臭い戦場などよりも、遥かに冷酷で、一歩間違えれば藩そのものが文字通り破滅する――血の滲むような、経済と情報の総力戦。その壮絶な幕が開けようとしていた。


 第百二十一話 了

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