第百二十五話「長州攻略編―長州勘定仕法、債務引受の罠(後編)」
一
その長州の命運を左右する決定的な瞬間に……
天朝物産会所が密かに築き上げていた独自の物流網――公には決して明かせない隠密の伝書経路を通じて、一通の重みのある書状が、高杉晋作と久坂玄瑞の元へと滑り込んできた。
差出人の名を見るまでもない。それは遥か江戸の地、一橋上屋敷からの…直筆での書状であった。
表面には、天朝物産会所の証である鮮烈なまでに真っ赤な朱印が捺されている。それはまるで、これから長州という雄藩の運命を永遠に縛りつける血判状のように、不気味なほど美しく、そして尊大に鎮座していた。
高杉は、ふっと薄い笑みを浮かべながら、爪先でその封をピリリと切り裂いた。折り畳まれた上質な紙を、音を立てて広げる。
最も上の行、表題の欄には、筆先が空を舞うように滑らかに走り、流れるような細い糸で結ばれている文字でこう記されていた。
『長州勘定仕法・債務引受計画』
高杉の細い目が、そこに並んだ優雅で美麗な数字と条件の羅列を、舐めるように追っていった。
一行。
また、一行。
読み進めるにつれて、高杉の薄い唇が、皮肉げに、しかしどうしようもない高揚感を孕んで歪んでいった。
そして――。
「……くくっ」
喉の奥から、低く押し殺したような笑いが漏れ出た。
「くくく……ははっ、なるほどね。そねえなことか」
高杉は、傍らで訝しげな顔をする久坂へと視線を向け、書状を指先で弾いた。
「ぶち、まずは突っ込ましたもーてええじゃろうか。姫様の美しい文字と、書いてあるえげつない中身の落差が、あんまりにも激しすぎるんじゃが」
「なんがあったんじゃ、晋作。いったい何が書いてある?」
その様子を傍らで見ていた久坂が、あまりの不気味さに訝しげに声をかけた。
「わや、おもしろすぎるっちゃ、くくくく……っ」
「おい、玄瑞。あの姫様はなぁ……」
高杉は書状からゆっくりと顔を上げた。その三白眼の奥には、ぞくりとするような、狂気にも似た興奮の光が妖しく宿っていた。
「わが長州を破滅から救い出してくれると同時に……この国の先の世を、文字通り根こそぎ丸ごと買い取るおつもりのようじゃぞ」
「買い取る…だと……? いったい何を言っちょるんか」
久坂が怪訝そうに端正な眉をひそめた。
「ああ、言葉通りの意味じゃ」
高杉は、まだ墨の匂いが残るその書状を、久坂の目の前へ放るように手渡した。
「この紙切れに書かれちょる内容はのぉ、これから俗論派が仕掛けてくるであろう魔の手から、松陰先生の命を確実に救い出す絶対の『盾』じゃ。……ぶち、それと同時にな」
高杉の口角が、さらに吊り上がった。
「我が長州が喉元を、これほどまでに雅に、且つ凛として締め上げるとは――。これぞ日ノ本一の『首枷』、いや、希代の『締め細工』でもあるんじゃ」
久坂は差し出された書状をひったくるように受け取り、貪るように視線を走らせた。
そして、そこに書き連ねられたあまりにも常軌を逸した内容に、大きく目を見開いた。
「こりゃあ……、そねーなことを、姫様は本気で言いよってんか……!?」
高杉は、久坂の手元にあるその指示書へ、もう一度だけ冷めた目を落とした。
そこに記された救済の条件は、その一つ一つが、恐ろしいほどに現実的な計算によって裏打ちされていた。
長州藩が抱える…気の遠くなるような巨額の債務引受。それに伴う、向こう十年間にわたる返済の完全猶予。さらに、これから開港される横浜利権への優先的な参入保証――。
長州にとっては、まさに喉から手が出るほど欲しい、これ以上ない破格の、奇跡のような救済措置であった。
しかし、その破格の『表』の条件の裏には、当然ながら対価が存在する。
――長州が産出する櫨、生糸、そして和紙にいたるすべての主要物産を、今後十年間、天朝物産会所が「事前に定めた固定価格」で全量独占買い取りとする。
高杉の頭が、猛烈な速度で回転を始めた。この条件が意味する、真の「裏の狙い」を読み解こうと、思考の海へ深く潜っていく。
(固定価格で、十年間もの長うあいだ、長州の物産を縛る……。そりゃあ、いったい何を意味しちょるんか? 今の相場を見ちょる限り、ぶち物価が上がるような兆候はどこにもありゃあせん。むしろ、売れ残りの失敗を考えりゃあ、安定した巨大な買い手が十年間も保証される利点の方が大きいはずじゃ)
(いや、待てよ。……あの姫様が、そねーな慈善事業みたいな真似を、わざわざするはずがありゃあせん。いうことは、姫様は何かを掴んじょる。近いうちに、この世界のどこかで、物の値段が狂ったように跳ね上がる『何か』が起こることを、あの人はあらかじめ知っちょるんじゃ――)
そこで高杉の頭に、ある記憶が鮮烈に閃いた。
……そうだ!、メリケンで四年の長きにわたる大内戦が勃発する。つい先日、姫様から直々にその報せを受け取ったばかりだった。
そこから考えると…その戦火は一国に留まらず、間違いなく世界中に波及するんだろう……
高杉の中ですべてのピースが、一気に嵌まった瞬間だった。
高杉はただ、目の前にある事実から、確固たる一つの結論を導き出した。
(理由なんかこの際、どうでもええんよ。要するに姫様は、この長州いう藩に己のすべてを賭けちょるんじゃ。それも、ぶちでかい大金を突っ込んでな。……だったら、その命懸けの極上の賭け、乗ってやろうじゃないか。我が長州には、それだけの身代金を払わせる価値が、十分に転がっとるんじゃけぇ)
「おい、行くぞ、久坂。もたもたしちょる暇はねえぞ」
高杉は、床を蹴るようにして勢いよく立ち上がった。その顔には、死線を前にした戦人のような、不敵で、最高に楽しげな笑みが浮かんでいた。
「長州の古い殻に閉じこもっちょる最高権力者どもを――今度こそ、あの姫様が作った完璧な『数字の檻』の中に、一匹残らず叩き込んでやろうやねーか」
二
その夜。
完全に静まり返った、深夜の座敷。
部屋の隅に置かれた行灯の仄暗い光だけが、うっすらと畳の目を照らし出している。障子の外からは、あれほど騒がしかった虫の声すら完全に途絶え――そこには、皮膚がじりじりと痛むような、張り詰めた静寂だけが満ち満ちていた。
その緊迫した空間で、三人の男が火花を散らすように向かい合っていた。
高杉晋作、久坂玄瑞。そして――彼らの正面にどっしりと腰を下ろしているのは、長州藩の財政と実務を一身に背負う最高権力者、周布政之助であった。
周布は、まるで二人を威圧するかのように、険しい表情でじっと睨み据えていた。
彼は藩内における「正義派」の絶対的なリーダーであり、誰よりも情熱的で、圧倒的な行動力を誇る実力派の政治家だ。行灯の放つかすかな光の中で、彼の持つ堂々たる風格と、すべてを見通すような鋭い知性が、彫刻のように深く際立っていた。
しかし――その強靭な顔には、今や隠しきれないほどの深い疲労と、どす黒い苦悩の影が刻まれていた。
十万両という、底なき泥濘のような負債。
昼間、周布はたった一人で部屋にこもり、藩の破綻しかけた財政帳簿にしがみついていた。
何度算盤を弾き、どれほど計算をやり直してみても、導き出される答えは虚しいほどに同じだった。なけなしの収入では、商人たちへの法外な「利子」を返すだけで精一杯であり、元本を減らすことなど夢のまた夢。借金は雪だるま式に増え続け、このままでは数ヶ月で戦わずして内側から破産する。その残酷な現実が、目に見えない鉄の重りとなって、周布の頑丈な肩に重くのしかかっていた。
しかも、裏では俗論派の椋梨たちが、松下村塾の松陰を再び捕縛しようと薄汚く動いているという。もしもあの松陰が闇に葬られれば、若き正義派は一気に瓦解し、長州は俗論派の天下へと逆戻りするだろう。そうなれば、周布自身の政治生命も完全に終わりを迎える。
まさに、前を向いても後ろを向いても敵ばかりの四面楚歌であった。
そんな絶望的な状況の中で、高杉と久坂の二人が突然訪ねてきたのだ。先の件で、何もない蔵から二千両を湧き出させた若造たちの底知れぬ知略を、周布は強く警戒しつつも、心のどこかで、この地獄から救ってくれる奇策ではないかと縋るような思いを抱いていた。
「夜分におどしゅうわしを呼び出しちゃって、なんの用ぞ。高杉、久坂。わしはこれでも、ひまな若者の愚痴に付き合えるほど、暇じゃないんじゃがな」
しかし、高杉と久坂は――その挑発をまともに受けることなく、無言のまま静かにその場に座していた。
久坂はいつも通りの生真面目な顔で背筋を伸ばし、一方の高杉は、どこか人を食ったような薄笑いを浮かべながらも、その三白眼の奥にすべてを賭ける覚悟をした狂気の光を宿している。
行灯の炎が、部屋に差し込んだ微かな夜風にゆらりと揺れた。
しばしの、息が詰まるような沈黙を――先に破ったのは、やはり高杉であった。
高杉は、にやりと不敵に笑った。
「そねーにかたならんで、まあこれ見てみんさい」
そう言うと、彼は懐からおもむろに、一通の厚みのある書状を取り出した。
江戸の姫様から届いた、天朝物産会所の真っ赤な朱印が鮮烈に押された――あの運命の書状である。
高杉はその書状の端をつまむと、畳の目の上を滑らせるようにして投げ出した。すうっと、摩擦音を立てて、その書状が周布の膝元へと正確に滑っていく。
「周布様」
高杉が静かに告げた。その声は驚くほど穏やかでありながら――獲物をじわじわと追い詰める蛇のように、冷徹に響いた。
「わしらの長州藩が抱えちょって、あんたを死ぬほど苦しめ続けちょる――あの十万両の、えらい大きな借金についてです」
周布の太い眉が、ぴくりと跳ね上がった。
「こりゃあ――江戸の天朝物産会所が『丸ごと、全額引き受け』、商人らぁへの返済を……これから十年間、完全に待っちゃげます」
その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、周布の眼球がこれ以上ないほどに大きく見開かれた。
「な……何ちゅうた……!? 全額を引き受ける……? そばえるな!」
「それだけじゃあ、ありません。」
高杉は周布に反論の隙を与えず、畳みかけるように言葉を続けた。
「ハリスが去って、今や世界の窓口になった――あの横浜の、えらい利益を生む貿易利権への入り方も……会所が責任を持って、わしらの長州に約束しちゃげます」
周布の喉が――ごくりと、大きな音を立てて鳴った。額からは、昼間のものとは違う汗が吹き出してくる。
「十万両の借金を……江戸の会所が、そっくり肩代わりする、ちゅうんか……!?」
それは――今の周布にとって、まさに喉から手が出るほど欲しい、これ以上ない極上の救済措置であった。藩を絶望の淵に叩き落とし続けてきた、あの十万両という途方もない数字が、一瞬にして消えてなくなるのだ。
――しかし。周布政之助という男は、単なる熱血漢ではない。長州の激務を切り回してきた、一流の政治家であり、何よりも冷徹な実務家であった。
そんな美味すぎる話が、この世にあるはずがない。
彼の鋭い目が、吸い寄せられるように書状に記された、その『対価としての条件』の欄へと走った。そこには、生糸や和紙の「十年間の固定価格での全量独占買い取り」という文字が、美しい筆跡で並んでいた。
それを読んだ、まさに次の瞬間。
周布の顔は――驚愕から一転して、激しい怒りによって真っ赤に染まった。
三
「……そばえるなッ!」
怒号とともに、周布は手にした書状を激しく畳の上に叩きつけた。パァンと、乾いた音が夜の座敷に虚しく響き渡る。
「おい、これを、ここを見んさい! 『長州産の、櫨・生糸・茶の全量を――これから十年間、今の決まった値段で、天朝物産会所が独占して買い取る』ちゅうんか!? そばえた真似を……!」
周布の肺腑から絞り出された怒声が、張り詰めた座敷の空気をびりびりと震わせた。彼は立ち上がりかねない勢いで上体を乗り出し、二人を真っ赤な目で睨みつける。
「藩が命懸けで育ててきた大事な物産を、ぶち一方的な値段で十年間も縛りつけてみんさい。わしらの長州は、その瞬間から天朝物産会所の……あの江戸の小娘の小作人に成り下がるじゃあないか!」
周布の額には青筋が浮かび、荒い息が肩を揺らしている。
「十万両の借金を綺麗に消してやるちゅうから、どんな奇策かと思えばこれか。借金を肩代わりするその優しい手の裏で、長州が生み出す富を根こそぎ、最後の一滴まで吸い尽くす気か! ふん、そねーな天魔外道の契約、到底――飲める条件じゃあない! 帰りんさい!」
しかし、高杉はその嵐のような激昂を、まるで心地よい夜風でも浴びるかのように、静かに、そして完全に受け止めていた。
動じるどころか、その唇の端を吊り上げ、いつもの不敵な笑みを深くしていく。
「周布様、いくらあんた様でも近衛の姫君に向かって、『小娘』ち呼び捨てるのは、感心しませんの。まずは今の言葉を取り消してつかさい」
「それから……勘違いせんでいただきたいんですが、こりゃあ――お上からの情け深いお施しでも、哀れみでもありゃーせんよ」
「何ちゅうた……?」
「京の大きな資本が、長州という名の『決して折れぬ不敗の兵力』を確実に手なずけるために打つ――絶対の楔でございます。」
高杉の細い三白眼が、行灯の光を反射して妖しくギラリと光った。
「何も難しい話じゃありゃーせん。現実をじっくり見てみんさい。このまま十万両っちゅう底なしの泥沼の中で、武士の誇りとやらを抱いたまま美しく溺れ死ぬか」
「それとも――わしらが言うた軍門に下って、泥水をすすりながらでも泥臭う生き延びるか。……道は最初から、二つに一つ。それだけの、ぶち簡単な選択ですよ。」
周布は――言葉を失い、ただ口を半ば開けたまま固まった。
高杉の言葉はあまりにも冷酷で、あまりにも無慈悲だったが、同時に、ぐうの音も出ないほどに正鵠を射ていたからだ。
このまま、十万両という呪いのような負債を抱え続ければ、遠からず長州藩が公式に破産することは火を見るより明らかだった。藩の機能は停止し、武士への俸禄は途絶え、国は内側から腐り落ちる。それは、他でもない周布自身が、誰よりも、死ぬほどよく分かっている現実だった。
しかし――だからといって、この条件に判を捺せばどうなる。長州が誇る特産品の利益は、どれだけ豊作であろうとも固定価格という見えない天井で縛られ、すべてが天朝物産会所の懐へと流れていく。文字通り、彼らの言いなりになるしかないのだ。
このまま滅びる地獄を選ぶか、それとも、経済的に隷属する屈辱を選ぶか。
周布は、そのあまりにも残酷な二択の前で、一歩も動けずに立ち尽くしていた。
周布の太い拳が、膝の上でわなわなと震えていた。
「おんどりゃあ……わしを、いや、この誇り高き長州を……物産会所の下人に、犬にするつもりか!」
「下人、だなんて……。そねーな物騒で心外な言葉は使わんでいただきたいの。」
高杉はまるで行楽の予定でも語るかのように、どこまでも涼しい顔で言い放った。
「これは、お互いの利害が一致したぶち対等な『取引』でございます。藩の息の根を止めかけちょる十万両っちゅう大金を、一瞬で綺麗さっぱり消して差し上げるんですよ。その相応の代償として、物産を今の価格でお預けいただく。……この美しく完結した数式のどこに、不公平がありましょうかねぇ」
「その固定価格っちゅう仕組みそのものが、どうしようものう不公平なんじゃと言っちょるんじゃ!」
周布は畳を拳で叩き、叫んだ。
「市場の物の値っちゅうのはのう、生き物みたいに動き回るもんなんじゃ!もしも、これから生糸や茶の値が世界的な理由でぶち値上がりしたらどうするんか!その時、わしら長州だけがただ損を指をくわえて見ちょることになるんじゃぞ!」
「――ほいじゃあ、逆に値下がりしたらどうするんですかねぇ?」
高杉の、冷や水のような声が周布の言葉を鋭く遮った。
「いや――そもそも、これから先の世で値が上がるか下がるかえ、神仏ならぬ人間の身で、誰に分かるっちゅうんですか。……周布様、あんたほどの明晰な頭脳がありゃあ、来年の、あるいは五年後の生糸の正確な相場を、今ここでピタリと言い当てることができますか?できはせんですよ」
「なれば――目の前にある確実な十万両の救済を取るんか。それとも、どねーなるかも分からん不確実な先の世の値動きに長州の運命を賭けて、このまま見事に破産するか。賢明な周布様なら、どちらが組織の頭として『得』か、そろそろお分かりのはずじゃ」
周布は――完全に言葉に詰まり、喉を鳴らすことしかできなかった。
悔しいが、高杉の展開する論理は――一見すれば、これ以上なく合理的で完璧だった。
誰も先の世の相場など読めない。ならば、最悪のシナリオ…『破産』を確実に回避するために、現状の相場を固定してでも巨額の負債を帳消しにするのが、藩政を主導する「重臣」として正しい判断だ。
しかし――高杉は予想していた。この場にいないあの姫様だけが確信しているであろう、恐るべき先の世の絵図を。
世界を揺るがす大戦乱によって、物の価値がこれまでの数倍、数十倍にまで跳ね上がるかもしれないという先の世を。
だからこそ、高杉の言う「対等な取引」というのは、その実、最初から長州藩が絶対に大損をこき、負けることが約束されている、仕組まれた賭け(ハメ手)に他ならなかった。
高杉は、自らの仕掛けた罠の中で、苦悩し、悶え、血を吐くような思いで決断を迫られている周布の姿を――どこまでも冷ややかに、しかしゾクゾクするような歓喜を噛み締めながら、じっと見つめていた。
四
(――ほれでええ、ほれでええんじゃ、周布様)
高杉は腕を組んだまま、声を出すことなく、内心で静かに呟いていた。目の前で苦渋に満ちた表情を浮かべる藩の最高実力者を、冷徹な目で見つめながら。
(今のあんたの目には、目の前にあるこの紙切れが――ただの理不尽極まる買い叩きにしか見えちょらん。天朝物産会所っちゅう一天俄かに掻き曇る如き者が、わしら長州の弱みに付け込んで、骨まで食い物にする不平等極まりない条件にしか……のぉ)
高杉の頭は、凍りつくほど冷徹に、そして高速で回転を続けていた。
(ぶち、あんたにゃあ致命的なまでに、その先の景色が見えちょらん。いや、責めるつもりはありゃーせんよ。かく言う俺だって、あの姫様が何を企んじょるんか、その全貌は霧の中じゃ)
(ただ、物価が跳ね上がれば、火の車になるのはこっちじゃ。こっちは十年前の固定相場というはした金で全量引き渡さねばならんのに、物を作る人件費や原材料の費用だけが今の相場に合わせて跳ね上がる……。作れば作るほど赤字になり、この藩の血が流れ続けるっちゅう地獄じゃ)
(この固定価格っちゅう鉄の鎖を呑んだ瞬間、わしら長州は、江戸の姫様の元へ富を流し込み続ける『大河』に変わっちまう……っちゅうことだけじゃ)
これこそが、糸子が仕掛けた、『長州勘定仕法・債務引受』という名の甘い猛毒の罠。
長州藩の民が、武士が、必死になって泥にまみれて働き、物産を生み出せば生み出すほど、その涙と汗の結晶は、固定価格という絶対に破れない呪いの鎖によって、すべて天朝物産会所へと吸い上げられていく。
(くくっ……公家の姫様は、とんでもねーことを考えつきゃがる。長州の先の世を、ここに生きちょる人間らの血肉ごと――丸ごと買い取るつもりかよ)
高杉はどこまでも傲岸不遜に、自分たち長州の男たちが、あの玉の如き羅刹と「対等な、命懸けの取引」をしていると、誇り高く信じ込んでいた。
まさか――その、自分たちの遥か頭上で、すべての運命が転がされている結末だとは、長州が生んだ不世出の天才をもってしても、この時はまだ、見抜くことは不可能であった。
五
――交渉は、まさに決裂の寸前であった。
周布は度重なる苦悩と激昂の末、これ以上この場に留まるのは無意味だと判断し、膝に手を置いて不機嫌に席を立とうとした。あまりの緊迫感に、部屋の空気そのものが悲鳴を上げているかのようだった。
その、座敷を支配する圧倒的な圧迫感を。
静かに、しかし――聴く者の血を心の底から沸き立たせるような、重々しく、かつどこまでも純粋な声が鋭く遮った。
これまで一言も発さずに控えていた男、久坂玄瑞であった。
「周布様。どうか、まだ席をお立ちにならんように」
久坂の凛とした声が、静まり返った座敷の隅々にまで真っ直ぐに響き渡った。
これまで、高杉が冷徹な「数字の檻」を組み上げ、冷酷な取引を提示するその傍らで――久坂は微動だにせず、ただひたすらに沈黙を守り続けていた。だが、それは機を待っていたのだ。今、彼がその口から放とうとしているのは、高杉の冷たい論理とはまったく異なる、もう一つの強力な武器であった。
高杉が敵の退路を断つ「盾」であるならば――久坂は敵の胸元を容赦なく貫く「矛」。目の前の老練な政治家を理詰めでやり込めるのではなく、その腹の底に眠る男としての「野心」に、一撃で火を点ける役割。
「……周布様。姫様の書状には、こう記されちょります」
久坂は居住まいを正し、静かに、しかし確信に満ちた口調で言った。
「間もなく海の向こうのメリケンで、未曾有の内戦が起きる。メリケンっちゅう巨大な国が、内憂に釘付けになって、日本への急進的な外圧が一時的に完全に止まる――。その『四年間の窓』こそが、天がわしら長州藩にだけ与えたもうた、奇跡の隙間なんじゃと……」
「四年間の、窓じゃと……? あの小娘がそねーなことを言っちょるんか?」
腰を浮かせかけていた周布が、その奇妙に具体的な言葉に思わず動きを止め、訝しげに聞き返した。
「周布様、さっきから高杉の言葉をどねー聞きになっちゃったんですか。それから……わしが主と仰ぐ方を『小娘』などと侮るような呼び方は、かなぐり捨てていただきたい」
それまで平静だった久坂が、低く、しかし有無を言わせぬ絶対的な拒絶を孕んだ声で遮った。その双眸に宿る冷徹な光には、一歩も引かぬ剥き出しの迫力があった。
「次はありゃーせん。そのお言葉、どうか以後お慎みにならんように」
「う、うむ……。言葉が過ぎた。以後、気をつけよう」
いつもは豪胆な周布が、その凄まじい威圧感に気圧され、思わず気まずそうに、小さく首を縦に振るのが精一杯だった。
「……周布様、先ほど返答についてじゃが、それが真実かは……わしには分かりゃーせん。じゃが、姫様がおっしゃっちょる以上、無視はできんのですよ。そして、ハリスっちゅう巨頭がおらん今――あの横浜の貿易を支配する主の椅子が、誰に座られることものう宙に浮いちょるのは、紛れもない事実!この隙間の時間の中に、わしら長州にゃあ何ができるかっちゅう話ですよ!」
久坂の切れ上がった両眼が、奥からじわじわと青い炎を宿して燃え始めた。
「幕府の頭越しに、わしら長州が直接異国と繋がるんじゃ。宙に浮いた横浜の貿易利権っちゅう特等席に、わしら長州がどっしりと座る……。あの大恩着せがましい幕府を、この手で完膚なきまでに蹴落として、わしらが世界の窓口の特等席に座ろうじゃありゃーせんか!」
久坂玄瑞という男は、本来、腹芸や嘘偽りの政治的駆け引きにはまったく向かない、あまりにも純粋で生真面目な性格だった。理詰めで物事を考え、小細工ができない。しかし――だからこそ、いま彼の口から発せられる熱い言葉には、一切の淀みも、計算された嘘もなかった。
その、命を削り出すような嘘偽りのない言葉の刃が……今、絶望の淵にいた周布の凍りついた心を、激しく打ち据えていた。
「周布様、考えてもみんさい! この千載一遇の好機を、今、この日本の誰が掴むっちゅうんですか!薩摩ですか。土佐ですか。それとも、幕府の腰巾着になって這いつくばっちょる薄汚い特権商人どもですか。いずれにせよ――わしらがここで借金ごときに怯えて、ぼやぼやしちょれば、その世界の主の椅子は……あっという間に他の誰かに奪い去られまするぞ!」
「……っ」
「ありゃあ――わしら長州が、何よりも先にその椅子を掴むんじゃ!幕府の頭越しに世界の大国と直接繋がって、日本における商いと経済の全主導権を、この萩の地で握り潰す……。それこそが――十万両の借金を返し終えた後に、長州が天下に雄飛するための、唯一無二の正道でございますっちゃ!」
その瞬間、周布の胸の最も深い奥底で――何かが、爆発的な音を立てて燃え上がった。
それは、一藩の財政を預かる管理職としての矮小な苦悩ではない。かつて志を抱いた一人の高潔な政治家としての、剥き出しの野心。そして、一藩の枠などとうに飛び越えた、この日本という国そのものを動かしてやろうという、天下への大いなる野望。それらが――久坂の放った濁りのない熱い言葉という火種によって、一気に点火されたのだ。
周布の脳髄を、壮大かつ狂おしいほどの政治的野心が、凄まじい衝撃を伴って直撃していた。
横浜の貿易利権の椅子。幕府の頭越しに、自分たちが世界と直接渡り合う先の世。それは――ただの借金返済という次元を超えた、長州藩が日本の中心に立つという、あまりにも甘美で壮大な夢であった。
周布の大きな瞳が、激しく揺れていた。
先ほどまで破産の苦悩と、不平等な契約への怒りに満ち溢れていたその目に……今、まったく別の、しかし圧倒的な光が――ごうごうと燃え始めていた。
それこそは、時代を切り拓く者だけが持つ、果てなき「野心」の光であった。
六
久坂がその純粋な熱量をもって、周布政之助の胸の奥底に眠る政治的野心に決定的な火を点けた――まさにその刹那の好機を、天才・高杉晋作が逃すはずはなかった。
「そして、周布様。もう一つだけ、ぶち重要な事実があるんですよ」
高杉が、それまでの人を食ったような態度を完全に捨て、低く冷徹な声で告げた。
「この契約書にあんたが署名して、調印を交わしたその瞬間から、長州の経済はただの一藩の財政じゃなくなります。朝廷の掲げる大いなる国策――すなわち『天朝物産会所』の不可侵なる一部として、組み込まれることになるんじゃ」
高杉の細い目が、獲物を完全に網に追い詰めた確信を帯びてギラリと光った。
「もしも……椋梨ら俗論派の連中が、これまで通り松陰先生を不当に捕縛するような暴挙に出りゃあ、どねーなるか。そりゃあもう一藩の内紛なんかじゃのうて、明白なる『天朝への公然たる敵対行為』とみなされるんじゃ。さすれば、この十万両の負債猶予も、これから手に入る横浜の特等席も……すべてはわしら藩の愚行によって、泡と消え去ることになる。俗論派の連中に、そねーな責任が取れりゃあせんでしょう」
周布は――大きく息を呑み、そのまま言葉を失った。高杉の言葉が持つ、真の政治的意味を完全に理解したのだ。
この契約書は、長州を経済的に縛り上げる罠であると同時に、俗論派の暴走を外圧によって強制的にねじ伏せる、これ以上ない頑強な「防壁」としての機能を兼ね備えていた。長州の富が朝廷の国策と一体化すれば、俗論派といえども松陰に指一本触れることはできなくなる。もし手を出せば、藩そのものを天朝の敵として破滅に導いた大罪人として、自らが処刑されることになるからだ。
周布の脳裏で、これまでにない凄まじい衝撃と、久坂に点火された猛烈な政治的野心が、激しく火花を散らして衝突した。
――今、ここで調印を拒絶すれば。
待っているのは、十万両という途方もない数字による確実な破産。そして、俗論派の暴走によって精神的支柱である松陰を失い、長州藩そのものが内側から腐り落ちる先の世だ。
――しかし、ここで調印をすれば。
目の前には、幕府の頭越しに世界と繋がるという狂おしいほどの野心への切符が握らされる。同時に、藩内の政敵を力づくで沈黙させる絶対的な権力が手に入るのだ。
周布は――腹を決めた。五臓六腑を焼くような葛藤の末、ついに決断した。
「……持ってきんさい」
彼は猛然とした足取りで文机へと歩み寄り、どかりと座り直した。
怒りと、驚愕と、そして抑えきれない野心の炎を爛々と宿した目で、震える手を伸ばして筆を握りしめる。長州の先の世を邪宗門に売り渡すかのような激しい背徳感と、幕府を叩き潰せるという狂おしいほどの歓喜が、その太い腕をわなわなと震わせていた。
そして――目の前に広げられた独占契約書の末尾へ、己の名を、魂を削り出すかのように猛烈な勢いで叩きつけた。
さらさらと、滑る音を立てて筆先が半紙の上を走る。
周布政之助。その文字を力強く書き終えた、まさにその瞬間であった。
張り詰めた静寂の中、激しく振り下ろされた筆先から――ボタリ、と。
重々しく濃い墨汁の一滴が、運命を決定づける契約書の上に、音もなく落ちた。
その黒々とした墨の輪は、じわじわと、しかし確実に半紙の白い繊維を侵食しながら、円状に広がっていく。
それはまるで――長州という名の巨大な雄藩が、公家の姫君の張り巡らせた、目に見えない巨大な経済の蜘蛛の網に……何一つ抵抗できず、完全に絡め取られた終焉を告げているかのようであった。
調印を終えた周布は、筆を置いたまま、しばらくの間その契約書を凝視していた。
額からは大粒の汗がにじみ出て畳に落ち、肩は荒く上下している。その姿は、全財産、いや己の命すらもすべて賭けた大博打に打って出た直後の、狂気の勝負師の顔そのものであった。
しかし――その目を覗き込んでも、そこには敗北の恐怖など微塵もなかった。ただただ、世界を相手に戦ってやるという、燃え盛るような野心の炎だけが宿っていた。
「……やってやるんじゃ!」
周布は、地を這うような低い声で呟いた。
「あの傲慢な幕府をひきずり下ろし……我が長州が、この手で世界と直接繋がっちゃる。横浜の主の椅子に、この周布が座って見せる。やっちゃるぞ、おい……!」
高杉と久坂は、その野心の怪物へと変貌した周布の背中を、暗がりの中から静かに見つめていた。
久坂の胸の内には、曇りのない純粋な達成感が満ちていた。破産の危機から藩を救い、敬愛する松陰先生の命を守り、さらに長州を天下へと雄飛させる果てなき第一歩を、いま自分たちの手で確かに刻んだのだという、誇らしき確信が彼を突き動かしていた。
しかし――その傍らに立つ高杉晋作の胸中にあったのは、背筋が凍りつくような、強烈な戦慄であった。
(……わしらは、勝った。完璧に勝ってみせたはずなんよ。じゃけど……待て。この『勝利』いう結果すら、全部姫様の掌の上で転がされちょる絵図通りなんじゃないんかね?)
その拭い去れない疑念は、数ヶ月後、恐るべき現実となって長州を襲うことになる。
彼らはまだ、何も知らなかった。
もうすでに――海の向こうの遥か遠い国で、サムター要塞に向けて容赦のない砲弾が撃ち込まれ、アメリカ合衆国が凄惨な内戦(南北戦争)へと突入していたことを。
世界的な物資不足によって生糸の価値が狂ったように暴騰し、日本の相場がこれまでの十倍以上に跳ね上がるという、未曾有の大物価上昇が到来することを。
そして――あらかじめ「固定価格」という鉄の鎖で縛られた長州が、売れば売るほど、民が泥にまみれて働けば働くほど、その莫大な富をすべて天朝物産会所の元へと流し込み続ける、従順な『大河』に変えられてしまう先の世を。
長州が生んだ不世出の天才・高杉晋作をもってしても、その漆黒の先の世の全貌を読み切ることは不可能だった。
長州の、そしてこの国の運命は、最初からあの近衛家の姫の算盤の上が弾き出した数字の通りに、完全に堕ちていたのだ。
行灯の仄暗い光が、静かに部屋を照らし続ける。
文机の上、契約書に滴り落ちたあの墨汁の黒い輪だけが――まるで長州の、そして日本の未来を漆黒に塗りつぶしていくかのように、夜の闇と同化しながら、じわじわと広がり続けていた。
第百二十五話 了
◾️「横浜利権への参入保証」の解説 (*゜▽゜)ノ
糸子が、長州藩を「朝廷の財布(生産拠点)」としてM&A(買収・提携)するために仕掛けた『長州勘定仕法・債務引受計画』という秘密の提案から出てきたもの。
⚫︎天朝物産会所は、御門様(孝明天皇)から直接賜った「御朱印状」を持つ公的な機関として擬態している。朝廷の権威は幕府の権力を相対化できる唯一の「錦の御旗」。糸子は、貿易を幕府の独占物から「朝廷(公議)の国策」へと定義し直すことで、幕府が口出しできない領域を作り出している。
⚫︎糸子は南北戦争の勃発によってアメリカの外交圧力が消滅する今後4年間を「太平洋の窓」と定義。 ハリスが去り、アメリカのプレゼンスが低下することで、横浜における貿易の主導権(主の椅子)が一時的に宙に浮くことを糸子は予見。幕府がこれまでの外交をアメリカ一辺倒に頼っていた隙を突き、朝廷が「新たな貿易の調整役」として割り込む余地が生まれる。
⚫︎どれほど幕府が貿易を独占しようとしても、現場の外国人商人が「誰と取引するか」は実利で決まる。 糸子は天朝物産の決済を、暴落必至の米不換紙幣ではなく、「メキシコ銀貨」や「英国ポンド建て手形」に限定し、さらに「品質保証(極印スタンプ)」を徹底させる。これにより、外国人商人側が「幕府の役人を通すより、天朝物産と直接取引した方が安全に大儲けできる」と判断する状況を経済的に作り出している。
⚫︎糸子は幕府を完全に敵に回すのではなく、勝海舟を通じて老中首座・堀田正睦を協力者に引き入れている。 幕府内部に「外圧が消えるこの4年間に、朝廷(公議政体)と協力して改革しなければ日本は英仏の代理戦争の場になる」という危機感を植え付けているため、長州と朝廷が横浜利権に参入することについても、幕府内の開明派が「幕府の延命」のために黙認・協力するよう仕向けられている。
⚫︎史実では横浜港は1859年(安政6年)にすでに開港。物語の設定(1861年)では開港から2年が経過しいるが、まだ貿易の主導権争いが続いていた時期。1861年に南北戦争が始まると、世界最大の供給源だったアメリカ南部からの綿花が止まり、世界的な「綿飢饉」が起きた。また、フランスやイタリアの蚕の病気により、日本の生糸が世界に求めらた。
史実の長州藩は、1863年の「八月十八日の政変」で朝廷から追放(朝敵化)されたことで、京・大坂の綿問屋や貿易ルートから締め出される。その結果、南北戦争による「綿花・生糸特需」の巨利は、イギリスと接近した薩摩藩に独占されてしまった。




