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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計150万PV/30万UU突破!100万文字の幕末経済戦記】  作者: 1009


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第百十八話「長崎暗闘編―魔女の算盤、長崎を縛る(中編)」

 文久二年、夏。

 長崎の夜は、嵐に呑まれていた。

 雨が、降り続いていた。


 大浦屋の奥座敷は、もはや、ただの座敷ではなかった。

 引き破られた障子の隙間から、激しい雨が吹き込み、畳の縁を黒く濡らしている。泥靴で踏みにじられた畳は無残に汚れ、その上に武装したイギリス軍艦の水夫かこたちが立っていた。灯火が、彼らの持つ銃剣を、鈍く光らせている。


 雨の匂い。泥の匂い。そして——硝煙の、冷たい匂い。

 水夫かこたちは、五人いた。

 いずれも、イギリス軍艦の屈強な男たちだ。雨に濡れた制服から、湯気が立ち上っている。手には銃剣付きの小銃。その切っ先が、灯火を受けて鈍く光っていた。


 弥太郎の背後では、旭狼衛の速水護と名波幽水が、刀の柄に手をかけていた。その二人の身体から、いつでもこの部屋を血の海に変えられるだけの、凄まじい殺気が静かに立ち上っている。


 しかし——誰も動けなかった。

 動けばグラバーの指が、引き金を引く。その距離だった。弥太郎の脳天を一発で吹き飛ばせる、至近距離。

 名波の感情のない目が、グラバーの人差し指を凝視していた。わずかでも引き金にかかる力が変われば、その刹那に動く——名波の全身が、極限の集中に、研ぎ澄まされていた。だが、それでも間に合う保証はなかった。


 弥太郎の呼吸が、浅くなっていた。

 眉間にリボルバーの銃口が、突きつけられていた。

 その金属の冷たさが、まだ触れてもいないのに、皮膚に伝わってくるようだった。


 グラバーの血走った青い目が、すぐ目の前にあった。濡れた赤い髪が額に張り付き、息が荒い。普段の紳士の面影は、どこにもなかった。そこにいるのは追い詰められた一匹の獣だった。

「Money...」

(マネーだ……)

 グラバーが、低い声で繰り返した。


「Hand over the money and the draft bound for Shanghai right now. If you refuse, I will blow a lead ball through your forehead right here! I will turn this country into a sea of fire!!」

(今すぐ、上海に届く為替と、現金をよこせ。断れば、ここで貴様の貴様らの眉間に、鉛玉を打ち込んでやる!、この国を火の海にしてやるぞ!!)


 弥太郎の心臓は、まるで早鐘のように激しく胸の内で暴れ狂っていた。

 じっとりとした嫌な冷や汗が全身の毛穴から噴き出し、衣服をじわじわと濡らしていく。死の気配が肌を刺すその瞬間――弥太郎の脳裏に、消し去ることのできない、あのおぞましい過去の記憶が鮮烈に蘇った。


 土佐の…あの暗く湿った地獄のような牢獄。

 父親とともにいわれのない罪を着せられ、冷たい床に転がされていた日々だ。傲慢な役人に生ゴミのように蹴られ、罵られ、どれほど理不尽に血を吐いても何も言い返せなかった、あの惨めで無力な日々。


「知らぬ者は、ただただ奪われ、搾取される」――この世の絶対的な不条理を骨の髄まで叩き込まれた、あの牢の底の、身を切るような冷たさ。忘れていたはずのトラウマが蘇り、一瞬、膝がガクガクと震えそうになった。


 しかし――。

 リボルバーの銃口から伝わる死の恐怖が限界を突破し、まさに心が圧し折れそうになったその瞬間。

 弥太郎の脳内で、それらすべての雑音を掻き消すような、別の「音」がパッと鳴り響いた。

 それは、彼が人生のすべてを賭けて叩き続けてきた、算盤の音だった。


 パチ、パチ、パチ――。

 弾かれる珠の、どこまでも冷徹で、寸分の狂いもない正確な計算の音。

 同時に、脳裏へ滑り込んできたのは、あのうら若い姫様の凛とした声だった。


(恐怖すらも冷静に計算しなさい。そしてそれをすべて、銭――すなわち『安心』という名の果実へと変えるのです)


 その言葉が、雷を落とされたかのように弥太郎の全身の背骨を貫いた。


 次の瞬間、弥太郎の顔にすうっと不敵な笑みが浮かび上がった。

 恐怖で引きつってはいるが――同時に、餓えた獣のような、猛烈に狂暴な笑みだった。


「グラバー、おまん……」


 額に冷たい金属を突きつけられたまま、弥太郎は喉の奥から這い出るような声で口を開いた。


「まっこと、可愛い男じゃのう」


 向けられたあまりの異様さに、グラバーの金髪の眉がぴくりと跳ね上がった。


「……What did you say?」

(……今、何と言った?)


「可愛い…と言うたがじゃ」


 弥太郎は、奈落の泥底から自らの爪だけで這い上がってきた執念の目で、グラバーを真っ正面から睨みつけた。そのぎらついた瞳には、もはや死への恐怖など一滴も残されてはいなかった。そこにあるのは――どちらが本当の化け物か、獲物の急所を見定める「捕食者」の目。


 暗闇の座敷の中で、二人の立場が静かに、しかし決定的に逆転し始めていた。


二 

「グラバー、聞けや」

"Listen well, Glover."

 弥太郎が、ゆっくりと言った。神代弦一郎が、その言葉をすかさず英語に訳した。


「今ここで、わしらを殺いて——おまんの借金が、消えるがか?」

"If you kill us right here—do you really think your debts will vanish?"

 グラバーの、引き金にかかった指が、わずかに止まった。

「二十四時間後じゃ」

"Twenty-four hours."

 弥太郎は続けた。

「二十四時間以後、上海で『グラバー商会、不渡り』の報せが届いた瞬間、おまんは、ただの犯罪者じゃ」

"The very moment the news reaches Shanghai that Glover & Co. has dishonored its bills, you shall be, in the eyes of the law, nothing more than a common criminal."

「……」

「考えてもみい。英国海軍が守るがは、『大英帝国の、信用ある商人』であって——おまんのような、『破産した一文無しの海賊』じゃないきに」

"Think about it. The Royal Navy protects 'distinguished merchants of the British Empire'—not a 'bankrupt, penniless pirate' like you."

 グラバーの顔から、わずかに血の気が引いた。


 弥太郎の言葉は、グラバーの最も恐れている現実を、正確に突いていた。

 グラバーは、長崎で独立したばかりだった。本国のジャーディン・マセソン商会や、上海のオリエンタル・バンクに対して、見栄を張り、無理な財務で大量の武器を発注していた。


 その決済期日が——刻一刻と、迫っている。


 もし、ここで日本人を殺し、騒ぎを起こせば——イギリス本国は、グラバーを「保護に値する商人」ではなく、「問題を起こした厄介者」とみなす。まして、破産者となれば、誰も守ってはくれない。

「おまんが今、ここで引き金を引けば」

"If you cock that hammer here and now,"

 弥太郎が、たたみかけた。


「おまんは、武器商人として終わるどころか、人殺しの破産者として、世界中から追われる身になる。それが——おまんの望みかえ?」

"You will not only end as a mere arms dealer, but as a murderous bankrupt, hunted across the globe. Is that—is that truly what you desire?"

 雨の音が、座敷を満たしていた。


 グラバーの青い目が、揺れた。

 その目の中で、商人としての計算が、猛烈な速度で回り始めていた。怒りと恐怖と、そして——理性が、せめぎ合っている。

 グラバーの脳裏で商人としての計算が、猛烈な速度で回っていた。


 この日本人を撃つ……するとどうなるか。

 上海の決済は失敗する。グラバー商会は破産する。そして、自分は武装した部下を率いて日本人を殺害した…犯罪者となる。本国は保護してくれない。破産者にして人殺し。そして日本につけ入る隙を与えたと判断したら、自分の商人としての人生は、完全に終わる。


 逆に——この日本人の言うことを信じる。すると……どうなるか?。

 決済が、間に合うかもしれない? 

 破産を免れるかもしれない? 


 その代わり——この日本人たちに、何らかの形で、首根っこを掴まれることになる。

 どちらが、合理的か。

 商人としてのグラバーの理性は、答えを出しつつあった。


 しかし——彼のプライドが、それを許さなかった。東洋の遅れた国の人間に屈する。その屈辱が、彼の引き金にかかった指を、まだ引かせていた。

 やがて——。

 グラバーの銃を握る手が、わずかに下がった。

「…Who ARE you?」

(……お前は、一体何者なんだ?)

 グラバーが、低く言った。

「Are you threatening me? Or—are you trying to save me?」

(私を脅しているのか。それとも――救おうとしているのか。)

「両方じゃ」

"Aye, both."

 弥太郎が、にやりと笑った。

「おまんを救う。その代わり——おまんは、わしらのものになる」

"I will save you. But in exchange—you shall belong to us."


 グラバーは、答えなかった。

 しかし——その沈黙が、雄弁だった。


 弥太郎はその沈黙を、見逃さなかった。さらに言葉を継いだ。

「グラバー。おまんは賢い男じゃ。賢いき上海のオリエンタル・バンクから、莫大な荷為替手形を引き出して、最新のスナイドル銃を大量に発注した。本国への見栄もあったじゃろう。新参のグラバー商会が、いかに大きな商売ができるか、見せつけたかった」

"Glover. You are a clever man. So clever, indeed, that you drew vast bills of exchange from the Oriental Bank in Shanghai to place a massive order for the latest Snider rifles. No doubt, you had your pride to maintain. You wanted to show the world—and your home—just how grand a business the young Glover & Co. could command."

 グラバーの眉が、ぴくりと動いた。図星だった。


「じゃが——その賢さが、今、おまんの首を絞めちゅう。決済期日は、刻一刻と迫る。茶を載せた船は、虎列剌コレラの検疫で港から出られん。上海で茶を売って、銀に換えることができん。手形は不渡りになる。破産じゃ」

"But—that very cleverness is now tightening the noose around your neck. The date of settlement draws near, second by second. Your tea ships are stranded in port, held fast by the cholera quarantine. You cannot sell your leaf in Shanghai; you cannot turn it into silver. Your bills will be dishonored. You are bankrupt."

 弥太郎は、銃口を突きつけられたまま、一歩も引かなかった。


「おまんは今、追い詰められて、わしらを脅しに来た。じゃが——それは悪手じゃ。最悪の悪手じゃ」

"Driven to the wall, you chose to play the threat. But—that was a poor move. The worst possible move you could make."


「…Hold your tongue.」

(……黙れ)


「黙らんきに。よう聞け、グラバー。おまんがここで、わしを撃てば——おまんは、二つのものを、同時に失う。一つは、上海の決済を助けてくれる、唯一の相手。つまりわしらじゃ。もう一つは——大英帝国の保護じゃ」

"Shut your mouth and listen well. If you pull that trigger, you'll be throwing away two things at once. One is the only bridge to your Shanghai settlement—and that's us. The other—the shield of the British Empire. You'll be standing all alone, Glover."

「上海のオリエンタル・バンクへ、二十四時間以内に決済を届ける方法が——一つだけあるちや」

"There is a way—one way only—to deliver your settlement to the Oriental Bank in Shanghai within twenty-four hours."

 弥太郎が言った。


 グラバーの目が、見開かれた。

「...What? That is impossible. Even the fastest ship from Nagasaki to Shanghai takes days for a single passage. To settle a debt in twenty-four hours—it's madness!」

(……何だと。そんな方法が、あるはずがない。長崎から上海へ船を出しても、片道で何日もかかる。二十四時間で決済など——)

「物理的に船を走らせる、っちゅう話じゃない」

"I’m not talkin' about sailin' a ship, Glover."

 弥太郎は、懐に手を入れた。

 取り出したのは……一枚の木札だった。


 坂本龍馬が薩摩へと持っていった、もう一つの複製。「極秘為替経路の符牒」が刻まれた木札だ。

 天朝物産会所が、裏で薩摩藩の御用商人、そして上海の唐人交流網と結んでいた「見えない金の迂回路」——その存在を証明する、鍵だった。

「いいか、グラバー」

"Now, listen to me, Glover."

 弥太郎が言った。


「銭を、物理的に運ぶ必要はない。動かすのは、数字じゃ。為替の手形——書類の書き換えだけで、銭は瞬時に飛ぶ」

"There is no need to move physical coin. What we move are the numbers. A bill of exchange—with a mere stroke of a pen on paper, wealth flies in an instant."


「The Overseas Qing merchant networkyr……」

(唐人のネットワーク……)

 グラバーが、呻いた。


「そうじゃ。上海には、唐人の金融網がある。長崎から薩摩へ継走早馬を飛ばし、薩摩の港から、天朝物産に協力している異国の快速蒸気船を走らせる。薩摩の御用商人が、上海の唐人に、為替の指図を出す。物理的な船便の日数を、数字の瞬転で、飛び越えるがじゃ」

"Indeed. Shanghai is home to a vast financial network of the Qing merchants. We shall dispatch relay horses from Nagasaki to Satsuma, and from there, launch a foreign clipper-steamer in service of the Imperial cause. The purveyors of Satsuma will then issue an order of exchange to the merchants in Shanghai. By the swift shift of numbers alone, we shall leap over the days required for physical passage across the seas."

 

 グラバーはその木札を、食い入るように見つめた。

「A financial bypass...」

(為替の、バイパス……)

 彼は商人として、その意味を即座に理解した。


 日本と海外を結ぶのは、長崎から上海へ、そして上海から本国へ——手紙や注文書、荷為替手形が届くには、片道で約二ヶ月、往復で四ヶ月から五ヶ月もかかった。

 その物理的な時間の壁が、グラバーの首を絞めていた。


 しかし——もし、上海の唐人のネットワークと、薩摩経由の為替の仕組みを使えば、物理的に金や手形を運ぶのではなく「数字の指図」だけを飛ばすことができれば——確かに時間の壁を、飛び越えられる。


 だか、そんなことが本当に…可能なのか?


「How is it that you have access to such a continental web...?」

(なぜ、お前たちが、そんなネットワークを持っている……)

 グラバーが呻いた。

「薩摩藩は密貿易で、琉球を通じて清国と繋がっちょる。その先に、上海の唐人の金融網がある。天朝物産会所は、その薩摩の経路を、押さえちゅうがじゃ」

"Satsuma has been linked to the Qing Empire through the Ryukyu smuggling routes. Beyond that lies the continental financial web of Shanghai. And our Tencho Bussan Agency—we’ve seized control of that very Satsuma pipeline."

 弥太郎は、にやりと笑った。


「おまんが長崎の正規経路しか知らんかったのが、運の尽きじゃ。わしらはおまんの知らん、もう一つの金の道を持っちょる」

"It's your funeral for only knowing the official route through Nagasaki. We hold another golden path you know nothing about."

 大浦屋の奥座敷で、神代弦一郎の算盤が、激しく叩かれ始めた。


 パチパチパチ——。

 その指先が、正確かつ高速で数字を処理していく。小野寺順平も帳簿をめくり、長崎奉行所の裏決済枠を、瞬時に計算していた。

「岩崎殿」

 神代が顔を上げた。


「計算が合います。薩摩経由の為替迂回路を使えば、ギリギリ二十四時間以内に、上海での決済を完了できます」

"The calculations hold true. Should we employ the alternative route for remittances through Satsuma, the settlement at Shanghai may be concluded with but moments to spare, within the span of a day."

「聞いたか、グラバー」

"You heard that, didn't you, Glover?"

 弥太郎が、グラバーを見た。


「おまんの命綱を、わしらが握っちょる。わしらが指一本動かせば——おまんは救われる。動かさんかったら——おまんは終わる」

"We hold your lifeline in our hands. If we move a single finger, you are saved. If we don't... you're finished."

 グラバーはしばらく、動かなかった。


 雨の音だけが、座敷に響いていた。

 二人の男の呼吸の音さえ、聞こえそうな緊迫感。

 グラバーはリボルバーを握ったまま、弥太郎と息詰まる対峙を続けた。


 外の雨が上がるのと同時に——上海への決済完了を告げる「確認の返答」の報せが届くまで。



 上海からの決済の報せを待つ間。


 大浦屋の奥座敷には、張り詰めた、奇妙なほど濃密な静寂がのしかかっていた。グラバーはリボルバーを握りしめたまま、微動だにせず座り込んでいる。その剥き出しの敵意を真っ向から受け止めながら、弥 太郎は不敵な笑みを微塵も崩さない。

 ただ、神代と小野寺の二人が為替の複雑な書類を淡々と仕上げていく、サラサラという無機質な筆の音だけが、不気味に座敷へ響き渡っていた。


 じっと待つ間、弥太郎の脳裏には、長崎へ来る前に糸子から密かに託された、あの身の毛もよだつ指示の言葉が鮮明によみがえっていた。

 それは糸子が掲げる思想の、いわば総論だった。


「いいですか、敵を騙そうなどと考えてはなりません。むしろ異国人たちには、『会所の奴らを上手く利用して、自分が一番儲けてやっている。やはり東洋の猿どもは扱いやすい』と、大満足の笑みを浮かべさせておくのです」


「そうして油断させながら、その実、奴らが意気揚々と歩く床の下から、じわじわと、音もなく血を吸い上げるための逃げられぬ道を敷く。これは単なる商売ではありません。人間の『欲』という名の、絶対に抜け出せない底なし沼を置いておくということなのですから」


 そして、弥太郎という男の気性を完全に見抜いた上での、具体的な指示が続いた。


「弥太郎殿、目先の金の額面だけを追うような浅ましい真似はなさいませんよう。そんなものは、ただのまやかしの数字に過ぎません。貴殿が真に成すべきことは、長崎における取引の全基準――すなわち為替と情報を、丸ごと我が会所で買い占めることです」

「まず、グラバーが上海のオリエンタル・バンクへ送り届ける、茶の荷為替手形の正確な決済期日をすべて調べ上げなさい。その上で、大浦慶の茶を載せる肝心の貿易船の出港を、奉行所の権力を裏から使って、嵐や不具合を理由にわざと遅らせるのです」


「奴の資金繰りが完全に破綻し、目の前が真っ暗になったその瞬間――上海の銀行に成り代わって、グラバーの首を括るための債権を、我が会所が格安の二束三文で買い叩きます。奴が誇る商人としての『賢さ』をそのまま刃に変えて突き返し、彼が本国から仕入れた最新の武器を一丁残らず、借金のカタとして没収してきなさい!」


(姫様――あんたの言うた通り、何もかもが、恐ろしいほどにその通りになっちょるぜよ)


 弥太郎は口を閉ざしたまま、心の中で獰猛に呟いた。

 グラバーの商人としての有能さ、その賢さをそのまま罠に変える。彼が自分の才覚に自信を持ち、見栄を張って巨大なレバレッジをかければかけるほど、その太い首が自らの重みで絞まっていくのだ。そして、完全に呼吸が止まった瞬間にその債権を冷酷に買い叩き、最新鋭の武器を根こそぎ奪い去る。


 すべては、あの姫様の描いた邪悪なまでに完璧な設計図の通りだった。


 さらに、弥太郎はもう一人、長次郎に下された冷徹な役割についても、事前に渡された糸子の書状に書かれていた。


「長次郎殿。貴殿の役目は、我々が仕掛けるこの悍ましい蜘蛛の巣を、長崎奉行や諸藩の耳目、そして気難しいイギリス公使の目の前で、この上なく公平で、非の打ち所がない清廉な仕組みに見せかけることです」

「資金の底を突かれたグラバーに渡す決済は、すべて幕府が鋳造した、あの金の含有量が極端に低い『万延二分金』で行いなさい。当然、奴は『こんな金貨の中身はスカスカだ、国際的な価値などない』と血相を変えて文句を言ってくるでしょう」


「そうしたら――『日本の公定通貨を不当に拒否することは、幕府への明白な反逆であり、ひいては日英条約違反の重大な条項にあたりますが……本国のマセソン商会にそのように報告してもよろしいですか』と、あの密輸の証拠を握る二重帳簿を目の前に滑らせて、静かに微笑んでやりなさい。檻から逃げようとする者がいても、決して力で止めてはなりません。向こうから泣きついて戻ってこざるを得ない『合理的な恐怖』を、万国公法の冷徹な条文を用いて、完璧に組み立てるのです」


(なるほどな……。長次郎が、中身のないあのクズ金貨でグラバーを縛り上げる。万国公法という、奴らが大好きな『正しさ』の鎖を使ってのう)


 弥太郎は、座敷の薄暗い隅に気配を消して控える長次郎を、視線だけでちらりと盗み見た。長次郎の懐は不自然に膨らんでおり、そこにはすでに一晩で読み解いた『万国公法』の写しが、牙を剥く瞬間を待つように忍ばされていた。

 すべての役者が、糸子が描いた壮大な設計図の上で、自らの役割を完璧に演じ切ろうとしていた。


 弥太郎はゆっくりと、正面のグラバーへと向き直った。

 その双眸には、もはや一抹の不安もない、絶対的な勝利を確信したぎらぎらとした光が宿っていた。


五 

 その間もグラバーの銃口は、弥太郎の眉間から離れなかった。

 二人の男は、向かい合ったまま、微動だにしなかった。


 弥太郎の額から汗が一筋、また一筋と流れ落ちた。しかしその目は笑っていた。挑むようにグラバーを見据えていた。

 グラバーの目も、爛々と光っていた。彼は決済が完了するまで、決して銃を下ろすつもりはなかった。もし、これが弥太郎の虚言で、決済が失敗すれば——その瞬間、彼は引き金を引く。それだけの覚悟が、その目に宿っていた。


 二人の呼吸が、座敷の静寂の中で、はっきりと聞こえた。

 神代の算盤の音。小野寺が帳簿をめくる音。早馬が走り去る、遠い蹄の音。


 そして——雨の音が少しずつ、弱まっていく。

 時が刻々と、過ぎていった。

 一刻、二刻……

 誰も口を開かなかった。誰も動かなかった。

 大浦屋の奥座敷は、巨大な息詰まる…無言の戦場と化していた。


 弥太郎はその極限の対峙の中で、ふと…思った。

 (これが——姫様の言うた、恐怖を計算して、銭に変えるっちゅうことか)

 恐怖は、消えていなかった。眉間に突きつけられた銃口の冷たさは、依然としてそこにあった。しかし——弥太郎はその恐怖を、計算の中に組み込んでいた。グラバーが引き金を引けない理由を、論理として組み立てていた。だからこそ彼は、笑っていられた。


 刻が過ぎていった。


 大浦屋の奥座敷では、神代と小野寺が、為替の書類を、次々と仕上げていた。早馬が長崎から薩摩へと走った。薩摩の港から快速蒸気船が、上海へと向かう。

 すべてが、わずかな刻で動いていた。

 グラバーは銃を握ったまま、その様子を見ていた。

 彼の額にも、汗が滲んでいた。

 自分の命運が、目の前の日本人たちの算盤の指先に、握られている。その事実が彼の商人としての本能を、激しく揺さぶっていた。


 "Who... who are these men?"

 (この男たちは——何者だ)

 グラバーは、心の中で呻いた。

 "I thought they were nothing but primitives from the edge of the Orient. Mere monkeys who understood nothing of exchange or international finance. And yet—leveraging the Chinese network in Shanghai, bypassing through Satsuma, and clearing a settlement within twenty-four hours...?"

(東洋の果ての、遅れた国の人間だと思っていた。為替も国際金融も、何も分からぬ猿だと。それが——上海の唐人ネットワークを使い、薩摩経由の迂回路で、二十四時間以内に決済を飛ばす…だと……?)

 彼が長年、東洋人を見下してきた前提が、音を立てて崩れていった。

 弥太郎はその間、一切動じなかった。

 銃口を突きつけられたまま、不敵な笑みを浮かべ続けていた。


 いや——内心では、彼の心臓も激しく打っていた。

(姫様。あんたの設計図が本物かどうか——今、試されちゅう。薩摩の迂回路が、本当に機能するか。唐人の交流網が本当に動くか。それにわしの——いや、わしら全員の命がかかっちゅう)

 時間だけが、過ぎた。

 雨の音が、少しずつ、弱まっていった。


 そして――。

 長崎の夜を支配していた嵐が嘘のように、東の空が白み始め、夜明けが静かに近づいた頃。

 大浦屋の表の通りに、けたたましい馬のひづめの音が響き渡った。

 それは、上海からの最新情報を運んできた快速帆船からの、待ちに待った報せだった。


 神代が、届けられたばかりの書状を素早く受け取った。

 張り詰めた沈黙の中、彼は一気に行間に目を走らせる。

 そして――弾かれたように顔を上げた。


「届きました!」

 神代の低く、しかし確信に満ちた声が座敷の冷気に響いた。


「上海のオリエンタル・バンクへの決済、すべて完了いたしました。……グラバー商会の手形は、不渡りを免れました」


 その言葉が耳に飛び込んできた瞬間。

 グラバーが固く握りしめていたリボルバーの銃口から、すっと……すべての力が抜けた。


「上海の決済はのう、天朝物産が全額立て替えてやったき」

 弥太郎は、わざとらしく大きく息を吐きながら言った。


「おまんは――救われたがじゃ、グラバー」


 その言葉が耳に届いた瞬間、グラバーの手からすっと力が抜けた。握られていたリボルバーの銃口が、力なく床へと下がる。そして――彼は糸の切れた人形のように、へなへなとその場に座り込んでしまった。

 破産の淵から、辛うじて首の皮一枚でつながった。その圧倒的な安堵感が、彼の全身の筋肉を硬直から解放し、同時にすべての気力を奪い去っていた。


 しかし――。

 本当に恐ろしいのは、ここからだった。すべては、裏で糸を引く糸子が仕組んだ完璧な罠だったのだ。


 奥座敷の襖が静かに開くと、大浦屋の丁稚たちが、ずらりと列をなして入ってきた。彼らが抱え、床に次々と下ろしていったもの――それは、凄まじい数の千両箱だった。

 ひとつ、またひとつと、重々しい音を立てて積み上げられていく。

 グラバーは、突如目の前に現れた金の山を、信じられないという目で見つめた。


「……これは、一体?」

「おまんへの決済の金よ」


 弥太郎は薄汚い笑みを浮かべ、顎をしゃくった。

「わしらが立て替えた分の精算も含めちゅう。さあ――遠慮せんと受け取れや」


 一人の丁稚が、最前列にある千両箱の蓋を恭しく開けた。

 だが、その瞬間に放たれた光は、グラバーが期待していたような、眩いばかりの黄金の輝きではなかっ た。どこか澱んだ、鈍い光を放つ金貨の群れ。


 グラバーの脳裏に、かすかな胸騒ぎが走る。彼は、吸い寄せられるようにそのうちの一枚を手に取った。

 手のひらに載せてみる。


「……!」


 その瞬間、彼の顔からすうっと血の気が引いていった。


 グラバーは慌ててその金貨を、部屋を照らす灯火にかざした。何度も手の中で転がし、重さを確かめ、親指の腹で表面の感触をねっとりと擦る。長年、東洋の怪しげな市場からヨーロッパの最先端の金融街まで、世界中のあらゆる貨幣を扱ってきた大商人の指先だ。その皮膚感覚が、金貨の「中身」の異常さを瞬時に見抜いていた。

"It's so... light. My capital is overwhelmingly insufficient!"

(軽い……圧倒的に金が足りない!)


 額面こそ「二分」と刻まれているが、実際に含まれている金の価値は、おそらく半分にも満たない。

 幕府は深刻な財政難を埋め合わせるため、そして開国に伴う海外への急激な金流出を阻止するという大義名分の影で、極端に金の含有量を減らしたこの二分金を、文字通り湯水のように鋳造した。


 日本国内の閉じられた市場であれば、幕府の権威によって額面通りに通用する。しかし、一歩外へ出ればそんな理屈は通用しない。国際的な価値比価で見れば、これは額面の半分以下の価値しかない、ただの「張子の虎」だった。


「These are... the Man-en Gold Nibu coins!」

(これは……万延二分金……っ!)


 グラバーは、喉の奥から絞り出すように呻いた。

 前年に幕府が大量発行した、悪名高き「スカスカのクズ金貨」。名ばかりの二分金。


「Are you mocking me?!」

(私を、愚弄する気か!!)


 グラバーは、弾かれたように立ち上がって絶叫した。

 安堵で青ざめていた顔が、今度は屈辱と怒りで、沸騰したように真っ赤に染まっていく。


「Do you honestly think this sham gold will pass at face value in London or Shanghai?! Its worth is half that—no, even less! There is no way in hell I can accept this garbage as a legitimate settlement!!」

(こんなまやかしの金が、本国や上海の銀行で額面通りに通用すると思っているのか! 価値は半分、いやそれ以下だ! こんなゴミ同然のものを、まともな決済として受け取れるわけがないだろう!!)


 グラバーの放った怒号は、冷徹な商人としてみれば、あまりにも当然の叫びだった。

 もし、この額面をそのまま真に受けて決済に応じてしまえば、彼は実質、二倍以上の暴利をむしり取られることになる。

 それは、ただでさえ綱渡り状態だったグラバー商会の経営の息の根を、完全に止めるに等しい致命傷だった。破産の淵から救われたという一瞬の天国から、一転して奈落の地獄へ。彼は再び、容赦なく突き落とされたのだ。


 激昂のあまり我を忘れ、弥太郎の胸ぐらに掴みかからんばかりのグラバー。

 座敷の緊張感が、まさに沸点に達しようとした、その時だった。


 背後で荒れ狂うグラバーの影から、気配を完全に消し、足音ひとつ立てずに静かに歩み出てくる一人の若者がいた。


 ――近藤長次郎だった。

 その双眸は、すべてを見透かすかのように、冷徹なまでに据わっていた。


 第百十八話 了

いろいろと不備があったので修正致しました。


ご迷惑をお掛けしてすみませんm(_ _)m


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時間感覚がおかしいですね。 あと、同じ内容を何度も何度も、言い方を変え人を変えて繰り返しすぎて、くどいです。
流石に1日で長崎、薩摩、上海を往復は出来んでしょう
暴力に訴えてきたグラバーを商人として迎え撃って、見事に勝った弥太郎たちに拍手。 暴力に訴えた時点でグラバーは商人として負けてたわけですが、これから底なし沼に落として、暴利を貪ってたつけを払わされるかと…
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