第百十七話「長崎暗闘編―魔女の算盤、長崎を縛る(前編)」
一
文久元年、初秋。
長崎・油屋町は、夏の名残の熱を、まだ石畳の隙間に溜め込んでいた。
午前の光が、油問屋「大浦屋」の瓦屋根を、斜めに照らしている。坂の下から吹き上がってくる海風には、潮の匂いと、どこかの厨房で焙煎されているカフィの香ばしい匂いが、混じり合っていた。
店先の藍染めの暖簾が、その風に、ゆっくりと揺れている。軒先では、油の入った樽がいくつも積まれ、独特の、こってりとした匂いを放っていた。
その暖簾を、五つの人影がくぐった。
先頭に立つのは、三十がらみの男だった。
背は高くない。ずんぐりとした体格に、抑えきれないエネルギーが詰まっている。日に焼けた浅黒い肌。木綿の質素な着物。
しかし——その目だけが、周囲とまるで違っていた。黒く、ぎらぎらと光る目。欲望と知性と、何か飢えのようなものが、一緒くたに詰め込まれた、底の見えない目だ。
岩崎弥太郎である。
その後ろに、四人の男が続いた。旭狼衛・長崎出張支部の面々だ。
先頭は、隊長の速水護。三十代半ばの、落ち着いた佇まいの男だった。一刀流免許皆伝という剣の腕を、その柔らかな物腰で、巧みに隠している。
隣に、副隊長の神代弦一郎。痩せて神経質そうな顔に、計算する者特有の鋭い目を持っていた。
その後ろに、二人。
一人は、名波幽水。徹底して無口な男で、気配が異様に薄い。ただ立っているだけなのに、そこに存在しないかのような、奇妙な希薄さがあった。
もう一人は、宮川蜂介。人懐っこい笑みを浮かべた若者で、その場の空気を、ふっと和ませる雰囲気を持っていた。
奥座敷から、大浦慶が現れた。
四十路の女傑は、煙管を手にしたまま、五人の客を眺めた。年齢に媚びることを知らない、凜とした立ち姿だ。
まず、弥太郎と速水が、丁寧に頭を下げた。
「大浦慶殿とお見受けいたします」
速水が、落ち着いた声で言った。
「旭狼衛・長崎出張支部の立ち上げにあたり、ご挨拶に参りました。隊長の速水護と申します。こちらは副隊長の神代、隊士の名波、宮川です」
「岩崎弥太郎と申します。土佐の者じゃ。坂本龍馬の縁にて、こちらに、お世話になります」
二人の口上は、簡潔で、しかし礼を失していなかった。
「立派な口上、ありがとございます」
慶は、丁寧に頭を下げ返した。
それから、五人をしげしげと眺めて、煙管を一口、ふかした。白い煙が、店先の光の中に、ゆっくりと立ち上る。
「……ばってん、またおっちゃけなか連中の来たもんね」
慶が、ふっと笑った。
「お公家さんは、よおこがん連中ば、まとめとんしゃるねぇ」
その言葉に、感心と、わずかな呆れが混じっていた。
「で——一応聞くばってん、あんたいたちは何しに来たとね?」
速水が、答えた。
「我々四人は、旭狼衛の長崎出張支部の立ち上げ。それから、ここにいる三人——近藤長次郎殿、沢村惣之丞殿、そして岩崎弥太郎殿の護衛。後は、異国の武器商人の動向調査と、監視が目的です」
「ふうん」
慶の視線が、弥太郎に移った。
「ほんで、あんたは?」
弥太郎は、にやりと笑った。
その笑みが、不敵で、どこか獰猛だった。
「わしは、姫様から——ともかく暴れてこい、と言われちょります」
「暴れる?」
「日本が何も知らんことを、いいことに、異国の連中は、暴利をむさぼって、好き勝手やっておった。だから今度は——こちらが、異国連中に対して、暴利をむさぼれ…と。細く、長く、永続的にむさぼり続けろとね……」
慶の目が、わずかに見開かれた。
「……そいは、ほんのこて、お公家さんの考えね?」
慶は、煙管を持つ手を止めた。
「うちの思うとる、お公家さんと——だいぶ、違いすぎっとよ」
飽きれたような、しかしどこか、面白がるような声だった。
その時、座敷の奥から、坂本龍馬が出てきた。
「姫様は、まっこと、変わったお方じゃ」
龍馬が、笑いながら言った。土佐の海で鍛え上げられた、よく通る声だ。
「誰よりも現実主義で、実利を重んじるお人ぜよ」
「龍馬か!」
弥太郎が、龍馬を見た。
「久しぶりじゃのう」
「ほんとじゃきに、弥太郎!」
二人は互いの肩を、軽く叩き合った。
その横で、弥太郎たちを迎えに行っていた長次郎と惣之丞も嬉しそうにしていた。二人とも、最高級の絹の衣に身を包み、すっかり一級の商人らしい風格を漂わせている。
「弥太郎、ほんによう来てくれたきに」
龍馬が、笑った。
「噂は、聞いちょったぜよ。土佐和紙の流通を、一本化したっちゅう、大変じゃったじゃろ?」
「ふん、そんなもんは、序の口じゃ」
弥太郎が、不敵に言った。
二
奥座敷に、一同が腰を下ろした。
障子越しの光が、畳の上に、淡い格子模様を落としている。大浦慶が女中に茶を運ばせると、座敷の空気が、少し和んだ。
弥太郎が、口を開いた。
「それで、龍馬。今おんしゃあらが、どういう状況におるがか——説明してもろうかえ?」
「わかったちや」
龍馬は、座り直した。そして、これまでの長崎での動きを、順を追って話し始めた。
その説明は、淀みなかった。
長崎に再上陸してから、まず大浦慶を中心に、九州の茶と生糸の流通を会所が一元管理する仕組みを作った。次に、豪商・松田屋を通じて、大坂の鴻池と直結し、幕府の捕捉を完全に回避する「現金を動かさない」隠密の為替ルートを構築した。
さらに、文人豪商・小曽根乾堂の邸宅を情報の拠点として政治的防壁を築き、オランダ大通詞・楢林栄左衛門や若手のフランス語通詞たちを会所顧問として抱え込むことで、奉行所内部と異国本国の動向を同時に掌握する「情報の神経網」を完成させた。
「要するに——」
龍馬は、茶を一口飲んでから言った。
「今まで、異国の武器商人と、腐った役人が結託して、諸藩へ武器を直接流しよった。グラバーら異国の商人は、上海の相場を日本に隠して、型落ちの銃を数倍の値段で売りつけ、逆に九州の生糸や茶は不当に安く買い叩く……そうやって二重に、日本の国富を吸い上げよったがじゃ。
特にフランス商人は、本国の蚕が全滅しかけちゅう弱みを隠して焦っちょったが、わしらはその『数字』と『言葉』を逆手に取った。これからは、異国が諸藩を直接焚き付けて武器を売ることはできん。長崎のあらゆる富と情報の出口に、わしらが網を張ったきに。
異国から武器を買い、それを諸藩に流す蛇口は、すべて『天朝物産会所』が一手に出し入れし、管理・制御する。これこそが、姫様が描いた長崎攻略の真の絵図ぜよ」
「ほんにひどか話ばい」
大浦慶が、煙管を吹かしながら、口を挟んだ。
「うちも、その被害者の一人じゃけんね」
「そこに、わしらが網を張った」
龍馬は続けた。
「大浦さんの茶と生糸。松田屋の為替。小曽根殿の政治力。通詞たちの語学と情報。それを全部、一本の糸で繋いだ。その糸の真ん中に、会所が座る」
「そして——」
弥太郎が、引き取った。その目が、計算する者の光を帯びていた。
「異国の商人が、武器を売りたければ、必ず会所を通さにゃならん構造を作る。会所が武器の量も、質も、価格も、全部、こっちが決めるがよ。そういうことじゃろ、龍馬」
「その通りじゃ、弥太郎」
龍馬は、満足そうに頷いた。
「ほんなら——龍馬らあが、足場を作ってくれた、っちゅうわけか。わしのために……」
弥太郎が、にやりと笑った。
「そう思うて、構わんぜよ」
龍馬も、不敵に笑った。
「けんど弥太郎——暫う会わんうちに、随分と、自信家になったもんじゃのう」
「江戸で、いろいろ学んでき、土佐で、それがしっかり、自分の血肉になっちゅうことも、確かめられた。これで、自信がつかん方が、おかしいちや」
弥太郎は、胸を張った。しかし、すぐに表情を引き締めた。
「もっとも、油断や慢心らあ、一切しちょらんき、安心しや、龍馬」
「ほうか。なら、安心して、後を任せられるのう」
その言葉に、長次郎が、首を傾げた。
「んっ? どういうことぜよ……龍馬」
龍馬が、長次郎と惣之丞の方を見た。
「長次郎と惣之丞には、まだ話しちょらんかったが——わしの真の目的は、ほかにあるがじゃ。長崎のことはいわば、ついでながよ」
「はぁ!?」
惣之丞が、声を上げた。
「これっぱあ、散々動いちょいて……長崎のことが、ついでやと言うがか!?」
「ほうじゃ」
龍馬は、あっさりと言った。
「姫様はまっこと、人使いが荒うてかなわんきに」
「そこは、同感ぜよ」
弥太郎が、間髪入れずに言った。
「わはははは!!」
二人が、声を上げて笑った。
その笑いには、姫様という稀有な主君に振り回される者同士の、奇妙な連帯感があった。長次郎と惣之丞は、その二人の様子を半ば呆れ、半ば微笑ましく眺めていた。
三
「それで——」
惣之丞が、笑いが収まってから、聞いた。
「龍馬はおんしゃあ、いつ、どこへ発つがぜ?」
「ほんまは、弥太郎らあとも、積もる話があるき、ゆっくりしたいがじゃが……」
龍馬は、少し声を落とした。
「今は何より刻が欲しい。明日にも早速、薩摩へ旅立つちや」
「そんな——」
惣之丞の顔が、曇った。
「慎太郎はおらんが…また、暫う四人で動けると思うちおったに……えらい急なことよのう」
その時、弥太郎が思わせぶりに目を細めた。
「……メリケンのことかえ?」
龍馬が、弥太郎を見た。
「あぁ、そうじゃ。弥太郎もおんし…知っちゅうがか?」
「姫様から、教わっちゅうき」
弥太郎が頷いた。
その短いやり取りの中に、二人だけが共有している、何か重い情報があることが、空気で伝わった。海の向こうのメリケンで、内戦が始まったこと。それが、四年は続く大乱になること。そして、その隙を突いて、イギリスとフランスが、日本を代理戦争の戦場にしようとしていること——。
それを知る者は、限られていた。
「メリケン? 何のことぜよ?」
長次郎が、聞いた。
龍馬は、長次郎を見た。そして、申し訳なさそうに頭を下げた。
「長次郎と惣之丞には、まだ教えるわけにゃあいかん。すまんちゃ」
「おい、龍馬」
惣之丞が、龍馬の肩に手を置いた。
「面を上げや。わしらにまだ言えんっちゅうことは……それっぱあ、大事なことながやろ?」
龍馬は、顔を上げた。
「弥太郎」
「なんじゃ」
「すまんが、長次郎と惣之丞には、刻が来たら、おんしから、話してやってくれんか」
「わかったちや、龍馬」
弥太郎が、頷いた。
長次郎と惣之丞が、顔を見合わせた。そして二人同時に、龍馬の方を向いた。
「長崎のことは、わしらに任せちょけ」
長次郎が、言った。
「おんしゃあ、自分のお役目を、しっかり果たしてこい!!」
惣之丞も、力強く言った。
龍馬の胸に、温かいものが広がった。
土佐の男たち——龍馬、弥太郎、長次郎、惣之丞。出自も性格もバラバラだが、その根のところで、何かが、通じ合っている。互いを信じ、互いの背を預け合える確かな絆が。
パンパンパン——。
その時、大きく手を叩く音がした。
大浦慶だった。
「しんみりせんでよ!」
慶が、明るく言った。
「来訪と再会、そいから旅立ちば祝うて、うちから祝いん席ば、設けようじゃなかね? 今夜はめいっぱい、羽目ば外しんしゃい」
「おおのー!!」
龍馬が、大はしゃぎした。
「さすが大浦さんや。話がわかるちや!」
「ほんなら、今夜は、こじゃんと騒ごうぜよ!!」
「おう!!」
そして、その夜は、どんちゃん騒ぎになった。
酒が振る舞われ、料理が運ばれた。土佐の男たちと、旭狼衛の面々が、入り混じって、杯を交わした。焼き魚の香ばしい匂いと、酒の芳醇な香りが、座敷に満ちる。
龍馬は、すっかり上機嫌で、土佐の歌を歌い出した。長次郎と惣之丞が、それに合わせて、手拍子を打つ。宮川蜂介が、いつのまにか座の中心に入り込んで、皆を笑わせている。
「いやあ、土佐の人らは、みんな豪快ですねえ!」
宮川が、龍馬に酒を注ぎながら言った。
「おんしも、なかなかの飲みっぷりじゃきに」
龍馬が、笑った。
速水護は、隅で静かに杯を傾けながら、その光景を眺めていた。神代弦一郎も、珍しく表情を緩めている。普段は感情を見せない名波幽水でさえ、わずかに、口の端を上げていた。
弥太郎は、酒を飲みながらも、その黒い目で、龍馬を見ていた。
(明日、龍馬は発つ。長崎はこれから、わしの戦場になる)
その思いが、酒の酔いの中でも、消えなかった。
大浦慶は上座から、男たちの宴を満足そうに見守っていた。
「よか連中ばい」
慶がぽつりと呟いた。
「お公家さんもなかなか、人を見る目のあるとね」
楽しい夜は、更けていった。
四
翌朝。
長次郎と惣之丞は、騒ぎすぎて、泥のように眠っていた。
大浦屋の店先に、朝霧が立ち込めていた。
長崎の朝は、湿っている。坂の下から這い上がってくる霧が、石畳を白く覆い、油問屋の暖簾を、しっとりと濡らしていた。大浦慶のキセルから上る紫煙が、その湿った空気の中に、ゆっくりと溶けていく。遠くで、鶏の鳴く声がした。
旅装束に身を包んだ坂本龍馬、高田陽三郎、小野寺順平が、出発の準備を整えていた。
高田は相変わらず、油断のない目で周囲を見ている。小野寺は帳面の入った荷を、丁寧に背負い直していた。
見送るのは岩崎弥太郎、速水護、神代弦一郎、名波幽水、宮川蜂介の五人。そして大浦慶が、少し離れたところから、その様子を見守っていた。
「ほんなら、道中は、気いつけや」
弥太郎が、龍馬に言った。
「長崎のことは、わしらに任せて、おんしゃあは、何ら気にせんと、薩摩をはじめとした諸藩で、大暴れしてこい!」
「弥太郎、おんしも、気いつけろよ」
龍馬が、笑いながら言った。
「異国の連中は、こすい奴らばっかりじゃきに」
「おう!!」
弥太郎が、力強く頷いた。
大浦慶が、龍馬に近づいた。
「坂本さん、無事に終わったら、また大浦屋に、顔ば出してくれんね」
「まっこと、大浦さんには、お世話になりっぱなしで……」
龍馬が、深々と頭を下げた。
「あんたなら、いっでも大歓迎ばい」
慶が、にっこり笑った。
「こいつらのことも、なにとぞ、よろしゅう頼みます」
「任せときんしゃい!!」
龍馬は、慶に深く礼をした。
「高田、小野寺、道中、しっかりやれよ」
速水がそう言うと、高田と小野寺が頷いた。
「はい。速水殿たちも、お役目大変でしょうが、頑張ってください」
高田が、速水に言った。
「僕たちは、大丈夫ですよ、ねっ! みなさん」
宮川が、人懐っこく笑った。
神代と名波が、静かに頷いた。
「ほんなら、行くかのう。高田殿、小野寺殿」
龍馬が言うと、二人が頷いた。
その時——。
「りょうまーーーー!!」
店先に、長次郎と惣之丞が、飛び出してきた。寝間着のまま、髪を振り乱して。
「黙って行くらあて、水臭いじゃないかえ?」
長次郎が、息を切らして言った。
「一応、起こしたがぜよ」
龍馬が、苦笑した。
「けんど、おんしらあが、ちーとも起きんかったがやろ」
「えっ? そうなが???」
惣之丞が、目を丸くした。
「わはははは!!」
一同が、笑った。
「しんみりするがは、好きじゃないき」
龍馬が言った。
「こうやって、笑うて旅立つほうが、ええちや」
「そうじゃのう」
「ほんならな、長次郎、惣之丞。おまんらあも、しっかりやりよ!」
「龍馬もおんしもな! 寂しゅうなったら、いつでも戻ってきてえいきね!」
「あほなこと、言いなや」
「わはははは!!」
「ほいじゃ!」
龍馬は、元気に手を振った。
高田と小野寺を従えて、朝霧の中へと、歩き出す。
その三つの背中が、長崎の坂道を下っていき、やがて霧の向こうに、消えていった。
龍馬が見えなくなってから、弥太郎はしばらく、その場に立っていた。
(行ったか……)
隣で速水が、静かに言った。
「岩崎殿、ここからは我々の出番ですな」
「分かっちゅう」
弥太郎は、南山手の丘を見上げた。
居留地の白い洋館が、朝霧の向こうに、ぼんやりと浮かんでいる。あの丘にグラバーがいる。異国の武器商人どもが、ひしめいている。
「速水殿」
「はい」
「わしは、龍馬のついでじゃない。それを——証明する」
弥太郎の目に、あのぎらぎらとした光が、戻っていた。
残された六人の目が、ゆっくりと、その南山手の居留地の方角へと、向けられた。
ここから——本当の戦が、始まる。
五
龍馬たちが発った日の午後。
大浦屋の奥座敷に、弥太郎と旭狼衛の四人が集まった。
障子を閉め切った座敷の中は、薄暗かった。秋の午後の光が、障子越しに、ぼんやりと畳を照らしている。座敷の中央に、一冊の帳簿が置かれていた。
一見すれば——ただの物産会所の「為替帳簿」にしか見えない。
しかしそれは、糸子から託された「鎮西得物回送網」の全貌が記された設計図だった。
「鎮西得物回送網」……九州(鎮西)における武器(得物)の物流ルートを一元管理する、という目的で糸子が名付けたその計画は、長崎の地でいよいよ牙を剥こうとしていた。
弥太郎が、その帳簿を開いた。
糸子から弥太郎宛に、別途、書状が添えられていた。弥太郎はまずその書状を、声に出して読み上げた。一同に、糸子の思想を共有するために。
「『敵を騙そうとするな』」
弥太郎が読み始めた。
「『異国人に、会所の奴らを利用して、自分が一番儲けていると、大満足の笑みを浮かべさせながら——その実、奴らが歩く床の下から、じわじわと血を吸い上げる道を敷くがじゃ。これは商売ではない。欲という名の底なし沼の企てぜよ』」
座敷が、静まり返った。
神代弦一郎が、ごくりと唾を飲んだ。
「……底なし沼の、企て」
神代が、繰り返した。
「続きがある」
弥太郎は、自分宛の指示を読み上げた。
「『弥太郎。金の額面を追うな。そのようなものは、ただの数字にすぎぬ。貴殿がやるのは、長崎の取引の物差し——為替と情報を、丸ごと会所が買い占めることなり』」
弥太郎の声に、力がこもった。
「『グラバーが上海のオリエンタル・バンクに送る、茶の荷為替手形の期日を、すべて調べ上げろ。そして、大浦慶の茶を載せる船の出港を、奉行所を使ってわざと長引かせなさい』」
「……ほう」
弥太郎の目が、光った。
「『奴らの首が回らなくなった瞬間、上海の銀行の身代わりとして、グラバーの債権——借金を、会所が丸ごと買い叩くのです。奴の賢さを、そのまま罠に変え、最新の武器を一丁残らず、借金の形に没収してやること』」
弥太郎が、帳簿から顔を上げた。その顔に鳥肌が立っていた。
「……姫様が江戸の語学所でわしらに叩き込んだ複式簿記の理。あれは単なる商売の道具じゃない。異国の怪物を絡め取るための、最強の武器じゃったわけか。おそろしいお人じゃ」
神代弦一郎が、机の上の帳簿を指でなぞりながら言った。
「岩崎殿、長次郎殿たちが命がけで写してきた二重帳簿の差分と、この設計図を照らし合わせると……恐るべき事実が見えてきます。この帳簿は、会所の利益をわざと薄く見せ、異国商人の方が儲かるように見える構造になっています」
「相手に油断させるためか」
「はい。グラバーは『会所は商売が下手だ。こいつらを利用すれば自分が儲かる』と思い込む。そう思わせておいて、気づけば逃げられない構造になっている。グラバー本人は、最後まで『自分は得をした』と錯覚し続けるため、復讐心すら生まれにくい。永続的に国富を回収し続けられる修羅の仕組みです」
弥太郎が、獰猛な笑みを浮かべた。
「恐怖を計算して、銭に変える。いや——欲を計算して、罠に変える。姫様、あんたは本物じゃ」
六
その日から、弥太郎と旭狼衛の、息をもつかせぬ地道な情報戦が始まった。
季節は初秋から冬へ、そして文久二年の春、夏へと移ろっていく。一見、派手な動きは何もない。だがその水面下で、弥太郎は長崎の闇を這い回っていた。大浦慶と幾度も膝を突き合わせ、九州一円の茶の出荷時期と、グラバーが手配する貨物船のスケジュールを、秒単位で狂わせるための「見えざる楔」を打ち込んでいく。
神代は長崎の港を出入りする船の数、積荷の種類、奉行所の役人の交代——あらゆる断片的な噂を、毎晩、夜を徹して帳面に記録し、分析し続けた。
「岩崎殿」
ある夜、神代が冷徹な声で言った。
「グラバーの命綱が掴めました。彼は香港、上海、長崎を結ぶ三角形の中で、茶を売り、その金で武器を仕入れている。彼の懐は、上海のオリエンタル・バンクの荷為替手形で回っています」
「つまり——支払期日こそが、グラバーの命綱っちゅうことじゃな?」
「はい。日本と異国を結ぶ…上海へ手紙が届く物理的な時間の壁……この時間差こそが、いざという時、グラバーの首を絞める最大の縄になります」
一方、長次郎と惣之丞もそれぞれの修練を爆発させていた。
長次郎は居留地を歩き回り、外国商人と直接交渉する経験を重ね、その語学力と交渉力の技術を日に日に研ぎ澄ましていた。惣之丞は長崎の海の地理——大村湾の潮の流れ、隠れ港の位置、奉行所の検問の抜け穴を完全に頭に叩き込んだ。
弥太郎は、南山手の居留地を見上げるたび、土佐の貧しい地下浪人だった頃の自分を思い出す。かつては異国の富の大きさに胃の底がざわついたものだが、今の彼の目は違っていた。
姫様から学んだ経済学が彼の血肉となり、異国の富を冷静に「計算」できる目を養っていた。
(異国の富は確かに大きい。じゃが——それは所詮、数字じゃ。数字なら、この岩崎弥太郎が計算して残らず奪ってやる)
泥の中から這い上がってきた男の底知れぬ上昇志向が、長崎の地で静かに研ぎ澄まされていく。
そして文久二年、夏。野心に燃えるグラバーが上海経由で発注した、
最新武器の莫大な決済期日が、いよいよ27日後に迫る運命の夜が訪れた。
七
文久二年、夏。
その夜、丸山の遊郭に、宮川蜂介の姿があった。
丸山は、長崎随一の花街だ。夜になると軒先に提灯が連なり、三味線の音が通りに流れる。白粉の甘い匂いと香の匂いが、夜気に混じって漂っていた。どこかの座敷から嬌声と、手拍子が漏れ聞こえてくる。
宮川は、その一角の座敷で、一人の唐人の男と、杯を交わしていた。
男はグラバー商会で番頭を務める、買弁だった。
買弁——異国商人と日本側の取引を取り持つ、いわば仲介役だ。商会の懐事情を誰よりもよく知っている立場の男である。
座敷には三味線の音が、ゆるやかに流れていた。畳には酒の匂いが、染み込んでいる。
宮川蜂介は、武州の農家出身の若者だ。剣の腕も、荒削りながら確かなものを持っているが、彼の真の才能は——人の懐に、するりと入り込むことにあった。
誰とでも、しばらくすれば知音になる。そして、相手に気持ちよく喋らせて、重要な機密を、ペラペラと吐かせる。これが宮川の「攻めの諜報」だった。
「いやあ、王さん、あんたは、本当に話が面白い」
宮川が、人懐っこく笑いながら、男の杯に酒を注いだ。
「あんたみたいな、商売の達人と話せて僕は嬉しいよ。グラバー商会といえば、長崎で一番、勢いのある商会じゃないか。そこの番頭さんなんだから、大したもんだ」
「いやいや、我など、ただの使い走りあるよ!」
買弁の王は、上機嫌で杯を空けた。すでにかなり酔っている。隣には艶やかな着物の女が二人、寄り添っていた。
宮川は、巧みに話を運んだ。大浦慶の圧倒的な茶の利権を、それとなくちらつかせる。「もし、あんたが会所と組めば、もっと大きな商売ができる」と匂わせる。酒と女と儲け話。三つの餌が、酔った買弁の警戒心を、少しずつ溶かしていった。
「ところで王さん、最近グラバー商会は、随分と大きな仕入れをしたって、噂を聞いたけど本当かい?」
宮川が、さりげなく聞いた。
「ああ、それな……」
買弁が、酔った勢いで口を滑らせた。
「グラバーは、本国への見栄でな。上海のオリエンタル・バンクから、莫大な荷為替手形を引き出して——最新のスナイドル銃を、大量に発注したんだ」
「へえ、スナイドル銃を。それはすごいな」
「決済期日が、二十七日後だ。それまでに茶を上海で売って、銀に換えなきゃならん。グラバーも内心は、冷や冷やしてるはずだよ」
宮川は相槌を打ちながら、表情を変えなかった。
しかし——座敷の隅、提灯の灯りも届かない暗がりに、名波幽水が、音もなく座っていた。
誰もその存在に、気づいていない。
名波は買弁の言葉を、冷徹に記録していた。
オリエンタル・バンク。荷為替手形。スナイドル銃。決済期日、二十七日後——。
これらの言葉が、グラバーの首を絞める縄になる。
二十七日。
その数字が、これからの戦の時間の壁になった。
八
翌日、弥太郎は、長次郎と惣之丞を、大浦屋の奥座敷に呼んだ。
糸子からそれぞれに宛てた指示が、届いていたのだ。網の起動に先立ち、各人の役目を確認するためだった。
弥太郎はまず、長次郎に宛てた指示書を本人に手渡した。長次郎がそれを、声に出して読み上げた。
「『長次郎殿。あなたの役目は、このクモの巣を、長崎奉行や諸藩、そしてイギリス公使の目の前で、これ以上ない、公平で清らかな仕組みに、見せかけることです』」
長次郎の声が、座敷に響いた。
「『グラバーに渡す決済は、すべて幕府が作った、あの質の悪い、万延二分金になる。奴がこんな金の中身はスカスカだ、と文句を言ってきたら——日本の公定通貨を拒否するのは、江戸の徳川幕府への反逆、ひいては、条約違反条項にあたりますが、本国のマセソン商会にそう報告してよろしいか?と…あの二重帳簿を前に置いて、静かに微笑んでやりなさい』」
長次郎が、ごくりと唾を飲んだ。
「『逃げようとする者がいれば、力で止めるな。戻ってこざるを得ん、合理的な恐怖を万国公法の文字で、組み立てるのです』」
読み終えた長次郎の手が、わずかに震えていた。
「……姫様は」
長次郎が、低く言った。
「欺瞞を、天下の正道に化けさせよ…と言うておられる。スカスカの二分金を渡しながら、それを拒否することを条約違反だと縛り上げる。なんちゅう…おそろしい知恵じゃ」
「次は、惣之丞じゃ」
弥太郎が惣之丞に、指示書を渡した。
惣之丞が読み上げた。
「『惣之丞殿。あなたはは、足を使いなさい。スネル兄弟やフランスの商船が、長崎以外の隠れ港に、直接武器を持ち込もうとする、抜け荷(密輸)を監視すること。見つけたら力で奪わないこと』」
惣之丞の声に、緊張がにじんだ。
「『その船の積荷の情報を、即座に上海のイギリス領事館に、違法な密輸船が航行中と、匿名で報告しんなさい。イギリスの軍艦を使ってプロイセンや、フランスの密輸ルートを合法的に拿捕させ、長崎の公式経路へ、一本化させるのです』」
惣之丞が、顔を上げた。
「『長崎の裏に流れる泥水をすべて、会所の池に呑み込ませて、綺麗な水に変えて吐き出す。あなたが、長崎の海の門番におなりなさい』」
惣之丞は、その言葉を、噛み締めた。
「……長崎の海の…門番か」
「そしてわしへの指示は、すでに皆に話した通りじゃ」
弥太郎が言った。
「『価格ではなく、ものさしを奪え』。グラバーの茶の荷為替手形の期日を調べ上げ、船の出港を遅らせ、奴の債権を買い叩き武器を没収する」
座敷に重い沈黙が、落ちた。
「……三つの指令が」
長次郎が、ゆっくりと言った。
「一つに、繋がっちゅう。わしが、欺瞞を正道に見せる。惣之丞が、闇の泥水を会所の池に流し込む。弥太郎が、取引の物差しを奪う。三つが揃って——グラバーは逃げ場がなくなる」
「そういうことじゃ」
弥太郎が、頷いた。
「姫様の描いた、底なし沼の仕掛け。わしらはその沼を、長崎の地に掘る」
「さあ——始めるぜよ!!」
九
弥太郎は、大浦慶に会った。
「大浦さん、頼みがあるがじゃ」
「なんね、弥太郎さん」
「あんたが仕切っちゅう、最高級の九州茶をグラバーの貨物船に、これでもかと積み込んでほしい」
「は? グラバーに、茶ば売るとね?」
慶が眉を寄せた。
「敵に塩を送るっちゅうことかい?」
「いや、逆じゃ」
弥太郎が、にやりと笑った。
「グラバーは、その茶を上海で売って銀に換えにゃならん。荷為替手形の決済のためにな。じゃが——その船を長崎港から出させない」
「……どういうことね?」
「速水殿が、奉行所を動かす。船の出港をわざと長引かせる。茶が上海に届かなければ、グラバーは手形の決済ができん。不渡り——破産じゃ」
慶の目が見開かれた。
そして——にやりと笑った。
「あんたら、悪か連中ばいねぇ」
「姫様の指示じゃ」
「ふっ、面白か。やってみんしゃい」
慶は煙管を、吹かした。
「うちの茶が、グラバーの首ば絞める縄になるなら——こんな痛快なことはなかばい」
そして、その日。
長崎港。
大浦慶が仕切る、最高級の九州茶を、これでもかと積み込んだ、グラバーの商船が、上海へ向けて出港しようとしていた。
この船が、上海に渡り茶を売却できなければ、グラバーの手形は、不渡りになる。
——破産だ。
出港の汽笛が、鳴り響こうとした、その時——。
長崎奉行所の役人たちが、船を取り囲んだ。
「待たれよ! この船、出港を見合わせていただく!」
役人の一人が、声を張り上げた。
「Why such injustice?!」
(なぜだ、どうしてこんな仕打ちを!)
船上からグラバー商会の者が叫んだ。
「船内に、虎列剌の疑いありとの通報があった! 万国公法に基づき、検疫が済むまで、この船は出港まかりならん!」
これが速水護が、裏から奉行所を動かした名目だった。
虎列剌の疑い——国際法(万国公法)を、逆手に取った「大義名分」だ。この時、長崎では、虎列剌が繰り返し流行しており、検疫を理由に船を留め置くことは、何ら不自然ではなかった。
しかも相手が、国際法を持ち出してきた以上、グラバーといえども強引に出港することはできない。
報告はすぐに、グラバーの元に届いた。
十
グラバーは居留地の自邸で、その報告を受けた。
南山手の丘に建つ、立派な洋館。窓からは長崎港が一望できる。
報告を聞いた瞬間、グラバーは被っていた帽子を、床に叩きつけた。
「Damn it!!」
(くそっ!!)
その顔が怒りで、赤く染まっていた。
トーマス・グラバー。二十代半ばの、小柄ながら筋骨隆々とした男だ。スコットランド出身らしい、赤みがかった髪と、鋭い青い目。ダンディな西洋紳士の風貌の奥に、東洋の修羅場をくぐり抜けてきた、商人の獰猛さが、宿っていた。
しかし——グラバーは、ただ怒っているだけの男では、なかった。
彼は、ただの武器商人ではない。十代で単身、上海に渡り二十代前半で日本に来て、わずかな期間で、長崎随一の商人にのし上がった男だ。その過程で彼は、数えきれない修羅場をくぐり抜けてきた。詐欺師。海賊。腐敗した役人。命を狙う競争相手。そのすべてを知恵と度胸と、時には非情さで退けてきた。
そんな男が、虎列剌の検疫一つで、簡単に潰れるはずがなかった。怒りの炎がすぐに、冷たい計算に変わった。
彼は窓辺に立った。隔離された洋館の窓から、長崎の街を見下ろした。
その目が、すうっと細くなった。
そして——ニヤリと笑った。
「Do not trifle with me!」
(舐めるなよ)
グラバーが、低く呟いた。
「You ignorant barbarians! If you want to ruin me, I shall let you—but not before you burn Nagasaki to ashes.」
(無知な異教徒どもが。私を破滅させたければ——長崎ごと、灰にするまでだ)
グラバーの頭の中で別のルートが、瞬時に組み立てられていった。
彼は、フランス公使ロッシュと結んだ、幕府系の商人に密使を送った。さらに——軍事力を持つ、プロイセンの「スネル兄弟」にも。
長崎奉行所の目が、届かない場所——大村湾の隠れ港(私港)。
そこを使って武器を強行上陸させる「裏ルート」を、グラバーは動かした。
奉行所が、長崎港の正規ルートを塞ぐなら——別の港から武器を入れればいい。
グラバーは東洋で生き抜いてきた、怪物だった。一つのルートが塞がれたくらいで、潰れる男ではなかった。
その報告が、弥太郎の元に届いた時。
弥太郎の顔から、血の気が引いた。
「計算が、狂った……!」
弥太郎が呻いた。
「異国人は……一枚岩じゃないがぜよ!」
グラバーがプロイセンのスネル兄弟と手を組み、大村湾の隠れ港から武器を入れようとしている。
完璧だったはずの糸子の仕組みに、グラバーという人間の「意地と狂気」が大穴を開けた。
弥太郎の心臓が、激しく脈打った。
爪が肉に食い込むほど、拳を握りしめた。
「グラバー——おまん、そこまでやるか?」
神代弦一郎が、冷静に言った。
「岩崎殿、落ち着いてください。プロイセンが、絡んできたなら——逆にそれを、利用する手があります」
「利用?」
「姫様の指示の中に、ありました」
神代が、帳簿をめくった。
「『夷を以て夷を制す』——です!!」
十一
数日後の夜。
大村湾は嵐だった。
黒い雲が空を覆い、激しい雨が海面を叩いている。怒濤が崖に打ちつけ、その音が闇の中で轟いていた。雨の匂いと潮の匂いが、混じり合って肌にまとわりつく。
その闇の中を一隻の密輸船が、静かに隠れ港へと近づいていた。
スネル兄弟の船だ。プロイセン製の最新銃を満載している。
崖の上からその船を見下ろす、二つの影があった。
一人は、沢村惣之丞。雨に打たれながら崖の縁に立ち、船の動きを見つめていた。濡れた前髪から雨の雫が、滴り落ちている。
もう一人は——名波幽水。雨の中に気配を、完全に消して立っていた。傍にいる惣之丞でさえ、時折、その存在を、忘れそうになるほどだった。
「名波さん、証拠は取れたがか」
惣之丞が、雨音に負けないよう低く言った。
名波は、無言で頷いた。
その懐には、名波が命懸けで盗み出した「密輸の証拠書類」——プロイセン製の最新銃の目録が、収められていた。
ここで力で船を奪えば——即座にイギリス海軍、あるいはプロイセンとの国際紛争になる。日本と言う国の立場が一気に悪くなる。
だから——力では奪わない。
ここから先は、近藤長次郎の仕事だった。
長次郎は、この策を実行する前、一晩悩んだ。
力で奪えば、国際紛争になる。それは分かっていた。だから知恵で動くしかない。しかし——グラバーのプライドと焦燥を利用して、グラバー自身にプロイセンを潰させるという策は、あまりにも危うい綱渡りだった。
一歩間違えば、グラバーとプロイセンが手を組み、矛先が会所に向く。
(じゃが——これしかない)
長次郎は、自分に言い聞かせた。
糸子の指示の言葉が、頭の中で響いていた。
「逃げようとする者がいれば、力で止めるな。戻ってこざるを得ん、合理的な恐怖を万国公法の文字で、組み立てるのです」
合理的な恐怖を、万国公法の文字で組み立てる。
長次郎はその言葉を、何度も反芻した。
そして——書状を書き上げた。
長次郎はその証拠書類の写しを、二箇所に同時に叩きつけた。
一つは——イギリス領事館。
もう一つは——グラバー自身の元。
長次郎が、グラバーに送った書状には、こう書かれていた。
「グラバー氏。お仲間が、あなたの市場を横取りしようとしています。万国公法に基づき、イギリス海軍の威信をかけて、この密輸船を、法な臨検として、拿捕すべきではありませんか?」
これこそが、糸子の教え——「夷を以て夷を制す」だった。
グラバーのプライドと、焦燥を利用する。
考えてもみよ。グラバーはイギリス商人として、長崎の武器市場を支配しようとしている。そこにプロイセンのスネル兄弟が、横から割り込んできた。しかも——グラバー自身が手引きした裏ルートを使って。
グラバーにとって、プロイセンは「協力者」であると同時に、「競争相手」でもある。
長次郎の書状は、その微妙な関係に楔を打ち込んだ。
「あなたの市場が、横取りされる」……その一言がグラバーの、商人としての本能を刺激した。
結果——。
グラバーはイギリス領事館を通じて、イギリス軍艦を動かした。
「違法な密輸船」としてスネル兄弟の船を、合法的に拿捕させたのだ。
そして——拿捕された武器は、長崎へと強制的に回送された。
他国のルートを、力づくで、イギリス(会所の制御下にある)の網の中へ、引き戻すことに成功したのだ。
長次郎は、グラバーの焦りとプライドを利用して、グラバー自身の手で、競争相手を排除させた。
しかも——拿捕された武器は、最終的に会所の管理下に入る。
完璧な夷を以て夷を制すだった。
十二
大浦屋の奥座敷。
弥太郎と神代が、報告を整理していた。
密輸ルートも潰された。
グラバーの上海の決済期日まで——残り……二十四時間。
完全に、退路を断たれた。
「……勝負は、あったかのう」
弥太郎がふうと、長い息を吐いた。
神代が算盤を置いた。
「グラバーの手形は、明日には不渡りになります。茶を載せた船は、虎列剌の検疫で、港から出られない。プロイセンとの裏経路も潰れた。あとは——会所が、グラバーの債権を買い叩くだけです」
「姫様の、企て通りじゃな」
「はい」
弥太郎が、胸をなでおろした。
その時。
激しい雨の音を、引き裂いて——大浦屋の表門が、叩き壊される音がした。
ガシャーンと、木が砕ける音。
障子が、引き破られる音。
弥太郎と旭狼衛の四人が、一斉に身構えた。
なだれ込んできたのは——目が血走ったグラバーと、武装したイギリス軍艦の水夫たちだった。
泥靴のまま畳を、踏みにじって奥座敷へと、進んでくる。
水夫たちは、五人いた。いずれも屈強な男たちだ。雨に濡れた制服から、湯気が立ち上っている。手には銃剣付きの小銃。その切っ先が、灯火を受けて鈍く光っていた。
「グラバー!!」
弥太郎が呻いた。
グラバーは狂ったように、笑っていた。
濡れた赤い髪が、額に張り付いている。青い目が血走り、ぎらついていた。普段のダンディな紳士の面影は、どこにもなかった。そこにいるのは追い詰められた……一匹の獣だった。
その手が、懐に伸びた。
引き抜かれたのは——リボルバー銃(拳銃)だった。
カチリと、撃鉄を起こす音。
その銃口がまっすぐに、弥太郎の眉間に突きつけられた。Money...
「Money...」
(マネーだ……)
グラバーが低い声で言った。その目が血走っていた。
「Deliver to me at once the specie and the bills payable in Shanghai without delay」
(今すぐ上海に届く為替と、現金をよこせ)
硝煙の匂いが、座敷に漂った。雨に濡れた水兵たちの体臭と、銃鉄の冷たい匂いが、混じり合っている。
「Should you decline... I trust you understand the consequences.」
(断るようなことがあれば……結末は理解しているはずだ。)
グラバーの声が、さらに低くなった。
「I will pull the trigger this instant and bury a lead slug between your eyes! Then, I shall watch this filthy country burn as the Royal Navy rains fire upon your shores!!」
(今ここで、引き金を引いて…貴様らの眉間に、鉛玉を打ち込んでやる!、この薄汚い国を、我が英国海軍の砲撃で、火の海にしてやるぞ!!)
グラバーの放つ、圧倒的な殺気。
弥太郎の顔から、血の気が引いた。
額から冷たい汗が、一筋流れ落ちた。
旭狼衛の速水と名波が、刀の柄に手をかけた。その二人の身体から、いつでもこの部屋を血の海に変えられるだけの凄まじい殺気が、静かに立ち上る。
しかし——銃口は弥太郎の脳を、いつでも吹き飛ばせる距離にある。
名波の感情のない目が、グラバーの人差し指を、凝視していた。わずかでも、引き金にかかる力が変われば、その刹那に動く——名波の全身が、極限の集中に、研ぎ澄まされていた。だがそれでも、間に合う保証はなかった。
動けば弥太郎が死ぬ。
弥太郎の呼吸が止まった。
泥水をすすり、父とともに投獄され「知らぬ者は搾取される」と世を呪ってきた、土佐の地下浪人。その弥太郎が、今——己の知略で築き上げた罠の、その最後の最後で一丁の拳銃の前に、命を握られていた。
極限の恐怖。
雨の音が、座敷を満たしている。
硝煙の匂いが、鼻腔を突く。
銃鉄の冷たさが、まだ触れてもいないのに、眉間に伝わってくるようだった。
弥太郎の人生で最も長い、一瞬が——そこにあった。
第百十七話 了
今回のお話では……弥太郎と龍馬が出会う場面から…大浦さんが宴を準備しどんちゃん騒ぎ、翌朝、龍馬が薩摩へと旅立つまでのシーンは割とお気に入りなシーンとなります。
この小説内の幕末にキャラたちが、懸命に生きている感じがするからです( ̄▽ ̄*)ゞでへっ
みな…糸子さんになにかと振り回されておりますが、頑張って良い日本を作って行って貰いたいですね!…笑




