4.柔らかな彫刻
すると腑に落ちたように
「やっぱりあなたはあの時の人だったのね、何となく何処かで見たことがある人のような気がするとずっと思っていたけど、あの後私は駅のトイレでコーヒーのシミを落とそうとして時間が掛かってギリギリに面接に飛び込んだから、しどろもどろになって大変だったんだから」
特に責めている口調ではなかった。
「何?しどろもどろって、まさか駄目だったの?」
もしそんな事に成っていたなら大変だ、他人の人生を狂わせてしまったのなら親父に頼みこんででもと佑真は思った。
「上手く受け答えが出来ない状態になる事よ言わない?幸い運よく東北出身の人が面接官の中にいて震災の事があったからか緊張をほぐす様に優しく親切に導いてくれたので大丈夫だった」
佑真はホッとしてからあたりを気にしながら
「ちょっと後で付き合ってくれないか申し訳ないけど」
と言った、夕方に仕事が終わる前に誰もいない店内で少し話の続きをした。
「店には少し失礼な言い方だけど何故こんなファミレスなんかで働いているの?」
と尋ねた。
「大学でフランス語を専攻しててネイティブな人に通じるのか試したかったんです学校では先生が優しく聞き取りやすいように喋ってくれるから、でも本当のフランス人ってかなり砕けた発音をするしほとんど聞き取れないような言葉もあるし。私がかなり出来るものと会社では勝手に信じ込んでいるようだから、ヒアリングはともかく自分が喋った事が相手に通じるのかどうか不安だったから入社前にここでなら実践練習できるかもと思って勤めたの。ネイティブなフランス人相手だと多分最初はヒアリングだって満足に出来ない筈だけど、その内に慣れてくれば何とかなると甘く考えていたんだけれど、やっぱり気を使ってくれなくて普通のスピードで喋られると頭の中でゆっくりと反芻してやっと理解できるという程度じゃ全く会話にならないですね」
彼女は珍しく早口で勢い良く喋った、何時もはゆっくり穏やかな話し方をするのだが偶然の出来事に興奮している様だ。佑真も他人の人生に影響を与えなかったという事実に安堵し饒舌に成った。
「日本人は元々会話って不得意なんだ、読み書きなら英語だってかなり難しい文章まで出来るけど受験のための勉強だったから会話に慣れてないし日本語って細かいニュアンスを伝える様々な表現が発達し過ぎているから他の言語に置き換えるのがとても難しく感じるんだ、他のアジアの人達何かが簡単なセンテンスや単語の羅列なんかで図々しく話せているのに日本人が喋れないのは文法上正しいかどうかなんていちいち細かく考え過ぎるせいだ、日本人は真面目で中途半端が嫌で何でも完璧を求め過ぎるがゆえに話せなくなる。因みにフランス語で何か手助け出来る事はありますかって何て云うの?エスクジェプブゥとか結希が答えたが早くて聞き取れなかった、もう一度聴いても多分わからないだろうと諦めた。知らない国に来てそれを一言添えられたら相手は心から感謝してくれる筈だ、言語などたかが道具に過ぎないものなんだから相手に気持ちさえ伝われば良い、つまらない事にこだわり過ぎては良くない。でもそういう細かいこだわり方ってお茶とか花や香りなんてもんを道にまで究めるときには長所でもあったんだろうけどな」
結希は「何時もそんな風に理屈っぽく考えてるんですか?」
と呆れたように佑真を見た。
「まあそう言わないで、ようは間違ったっていいじゃないという事、たかが地球上の何処かの国や領地の方言が紛争や略奪の果てに拡がっていったというのに過ぎないじゃないか、俺達だって外国人が日本語で話しかけてきたら完璧じゃなくてもちゃんと推測して答えてあげようとするだろう、そういう努力をしようともしないって事は世界の中心は英語圏だから合わせるのはそちらの方と勝手に植民地支配思想に思い上がっている連中かただ性根の腐った奴だ、そんな奴などどこの国にも必ずいるし良い人だって沢山居るんだから気にする事はない」
「何だか少し上から目線のものの言い方ですね貴方は東大かどこかの人?」
と少し嫌味っぽく言ったつもりだが彼は全然応えた様子はなかった。
「いや東大でも慶大でもないが」
と何のてらいもなくさらりと余裕で受け流したが、その口調から逆にそれ相応の大学には行っていると感じさせた。
「ところであの時のブラウスは弁償させてくれ、あの時お金を下ろしてきたのにもう居なくなっていたからね」
結希はため息をつきながらかぶりを振って
「もういいんですバイトで稼いでいる人にそんな事して頂かなくたって、ともかく内定は貰ったことだし、あの服はもう入社式位でしか着ないでしょうから」
貧乏学生とでも見られているのかと佑真は思った
「それでは俺の気が済まないんだよ、何か新しいブラウスでもワンピースでも気に入ったものがあったら何でも言ってくれお金なら出すから」
結希は斜め上の空を見ながら何か考えていたが
「弁償迄してもらうのはちょっと過剰すぎるなあクリーニング代くらい貰うならまだしも、それならいつか焼き鳥屋にでも一緒に連れてってくれた方が余程嬉しいかも、ずっと行ってみたかったけど女の子一人では入りずらいから」
佑真はなんて欲の無い奴なんだと思った
「そんなもので良ければ幾らでも食べてくれ神楽坂には良い焼き鳥屋がいくつかあるだろう、入った事はないけど」
結希は「ウーンでも例えば新橋とか御徒町とかここから近くないところがいいな、やっぱりこの辺だと店に客として来ている人達と隣あったりしたら気楽に楽しめないもの」
佑真も納得して「なるほど確かにそれはそうだな、ならいつ都合が良いのかだいたい言ってくれ旨い店を調べておくから」
「今日だったら駄目かなあ?]
「いやそんな事は無いけど、君は大丈夫なのか予定とか無いのか?」
明日はバイトも無かった。
「何か思いついたら急に食べたくなっちゃっただけ」
今日は洗濯機に突っ込んでガラガラ洗える様な服を着て来ていたのを思い出したのだ、自室に洗濯機は無いからコインランドリーに何時もお世話になっている。
「そういう感じの食べ物だよな焼き鳥とかって」
「何、馬鹿にしてるの?」
「ううんあの炭火でキツネ色に焼かれて油が浮き出る絵を思いだしたらすぐにでも食べたくなる、原始時代から焼いた肉にかぶり付いているときって人間一番幸せだったんだろうなと思って」
「なにかひねくれた言い方、段々行きたくなくなってきた」
佑真はそんな結希を無視して続けた
「四谷にだって本当は評判の焼き鳥屋さんはあるんだけど」
結希もその店なら知っている二人なら三万位かかるところだ。
「別にそんなに上品な店じゃなくても焼き上がったらすぐに自分の皿に串を乗っけていってくれる様な店の方が好きかも」
実はあんまり出費が嵩まないよう考えてくれたのだと佑真も察した
「少し汚い位の店で煙が外に漏れているような?」
「そうそう」
「でも君はキレイな格好をしてきたんだろうからどうなのかなと思って」
「いい格好何てしてきてたら焼き鳥何て言わないわ」
「そっちこそ焼き鳥を馬鹿にしているな外国人にも受けがいいんだぜ、そこらを歩いているフランス人なんかに尋ねてみろちゃんと旨い店を知っているから」
「それちょっと面白いかも」
仕事が終わり私服に着替えた彼女は白いノースリーブに色の抜けたジーンズ姿でスタイルの良さが際立って見えた。神楽坂を歩いていた外人さん何人かにリサーチしたら同じ店の名前が複数の人から出てきたので行ってみる事にした、新橋にある店で確かにあまりキレイではない狭い店内に外国人が満杯に溢れていた。ぼんじり、せせり、はつもと、ねぎま、手羽先等を先ずは塩で頼んでから生ビールで乾杯し少し焼き上がりを待っている間にも様々な国の言葉が空間を埋めていた。
昭和に戻ったかのような懐かしい感じの焼き鳥だった、匂いも味もビールにとても合っていた。久しぶりに酔って趣味の事から始まり佑真が子供の頃からピアノを習っていたがバイエルの単調な練習は本当に嫌で早く自分の好きな曲がを弾きたかったから勝手に弾いていると怒られたりで全く面白くなかったなと言うと、結希も家が裕福だった頃にはバイオリンを習っていたが父親を癌で亡くしてからは経済的にも続けられなくなった、それとその頃は一人で演奏する寂しさをずっと感じてたのだという例えばギターなら夕暮れに河川敷何かで弾いたりしてもどこか様になり場所を探しやすいがバイオリンとなると誰かに見られてたら気取っているようで恥ずかしい気がすると。佑真もバイオリンを街のどこかで誰かが急に弾きはじめたら確かに大道芸人みたいかもと想像すると可笑しくなった。
「バイオリンが弾けるんならいつか一緒にヴォカリーズでも演ってみないか、俺が饒舌にじゃなくあくまで木訥と伴奏を付けリードしてやるよ」
「ラフマニノフの、弾けるの?」
「当たり前だ空でも弾ける位に何度も聴いているんだから、ほらこんな風に」
とカウンターの上で指を踊らせた確かにヴォカリーズの指使いだ。
結希もピアノは子供の頃に習っていたのですぐに分かった、暗譜でソロバンを習っている人のように頭の中には鍵盤があるのだ、本当は音楽大を目指した時期もあったけど父が亡くなってからは妹に好きな道を歩ませたくて、大学を出たらなるべく確実に多く仕送りするためにも普通の大学を出て良い会社に就職したかった。
何故か故郷の石巻を見おろしながら二人で演奏している光景を想起し風の丘から友達と同じ様に街を見ていた忘れかけたそんな過去を思い出した。ヴォカリーズという曲がそうさせたのかも知れない、徐々に家族を震災で亡くした事やその後逃げるように合格していた大学のある東京に出て来て自分としては故郷に負い目を感じていることなど、あまり他人に話した事の無い身の上話を喋ってしまったけれど彼の反応は予期していないものだった。
「寂しいと感じる暇も無かったんだろうね、あんまり急な事だと涙さえ出ないかも知れない」
深く考え込んでから
「君がそう感じるのは無理ないかもしれないけどニュースにもならない様な小さな災害であっても同じように突然家族を亡くす人も世の中には沢山いるからね、もっと悲惨なんじゃないかテレビで頻繁に取り上げられなければ義援金も政府の激甚災害指定なんかも中々受けられ無くて様々な支援が遅々として進まない、そんな中でもいくら辛くたって遺された家族は懸命に生きてゆくしかないんだ。人生は本当に、長い暫くの間は苦しくて悲しくてもそこから立ち直らずにはいられない、だって否応なくお金は無くなってゆく現実があるから君の状況から仕方ないと理解は出来るけど皆がいつまでもそうやってもう変えようのない過去にいつまでも囚われて生きていれるものなのかな?亡くなった人からしたらどんな災害でどうゆう経緯で亡くなったかなんて全く関係なく心残りなのは変わりない、いつまでも自分だけ幸せになったら申し訳ないなんて亡くなった人達がいつまでも君に自戒自省し喪に服していて欲しいなんて本当に願うだろうか家族の誰がそれを望むというんだ、因みに君と家族の立場が入れかわっていたなら君ならどう思う?」
きつい言い方の様だがその口調には激励されているような優しさも感じられ妙な気持ちになった。
「それはやっぱり私の事を忘れられたら淋しいけれど、でもせめて残されたみんなには幸せになって、、」
とそこ迄答えながら急に胸にこみ上げてくるものがあった、そうだったきっとあの優しかった家族の皆ならそう思ってくれてる筈なのだ、あれから何も無くなってしまった地元をみんながもう存在しないのを確認するかのように帰るのがとても気が重く、確かに経済的な負担もあったにせよ足が遠のいてしまっていたけれども本当にみんなには大変申し訳のない事をしてきた。
私はただ認めたくなかっただけかもしれない、頑として認めさえしなければ故郷にしばらく忙しくて帰れないけれど家族は離れた場所で無事に暮らしている、あの日起こった事なんて全部酷い夢の話しで実はあの朝の儘みんながまだ生きているというように自らを騙し続けて生きてきた。
しかし本当はお墓参りにもちゃんと行って、残された私一人だけでも大変だけど元気に暮らしているよという姿を見せるべきだったのだと改めて気づかされた。結局私はこの世に一人遺され天涯孤独になった事実にしっかり向き合えず逃げてばかりだった、知らぬまに家族との幸せだった記憶が溢れだし心の中心を占めていた不可侵の氷塊が熱を帯び始め疼いて久しぶりに最後に見た全てが破壊され腐臭が漂う瓦礫の積み上がった故郷の姿が蘇った。
彼の言葉は自分の胸をずっと締め付けていた闇にほんの少しだけ光を差し込ませ解いてくれたようだった、私ももうそろそろ前を向いて歩き出さないといけない時が来たのかも知れない。この人はいったいどうゆう人なのだろう?すこし前を向くキッカケを貰えたのかも知れない。
「本当は少しあなたの事苦手だった、拙い接客をしてる姿を皮肉っぽい笑いを堪えるようにして見られてたように感じてたから」
佑真は小学生以来だろうか直接苦手と言われ驚いた顔で。
「それは心外だな確かに俺は根性は悪いが皮肉っぽく見てたんじゃないぞ、みんな話した事もないのによく誰にも分け隔てなく優しく接する人ってのを直感で見分けるもんだなあと感心して見てたんだ」
「えっそうなの?」
結希は佑真がまさかそんな風な気持ちで自分のことを眺めていたなんて思いもよらなかった。褒められたんだよね私と納得したように微笑んで。
照れ隠しに
「でも繊細で優しい心遣いとかはあんまり無いよね」
「よく無神経だと言われてる」
「そうなの?」
「そんなもんだ、だって実際には他人の心の痛みなんて分かる筈ないだろう、みんな分かる素振りをして自分を善人に見せたいだけだ」
と佑真は言いながら最初から私の置かれた状況をちゃんと斟酌してくれていたではないか、何となくこの男がどういう人間か解った気がして口元が緩んだ、初めて会った時には朝っぱらから二日酔いなのか知らないがフラフラとした足取りで欅坂をおりてゆく情けない感じの人だったと覚えている、一緒に働いていても何か常に世の中を俯瞰して見ているようで此処で話しをするまでは妙に理屈っぽい自信家とだけ思っていた、確かに外見は良いし頭も切れるだろうが少なくとも他人を思いやる機微などは余り持ち合わせていないクールな人に見えたが本人がそうした鎧を纏っていたかっただけかも知れない。
今まで大学生活でも回りの友達や生活の為に参加出来なくなったテニスサークルの仲間にも暗くなるからと話せなかった事を何故だろう彼にはすんなりと話せて意外にも親身になって応えてくれ心が少し軽くなった。これまであまり彼の素性など興味も持たなかったが。
「あなたはきっと色々な本を読んだりしているんでしょうね」
「君も本が好きなのか?」
「ええ自分の知らない世界や知識をいろいろと知ることができるから」
佑真はグラスの氷を回しながら
「中学や高校時代にはよく読んでいた毎日一冊位は必ず読んでたんじゃないかな、寝付きが悪いし忙しくしていた方が良かったから」
「主にどういう本を?」
「大体歴史物や哲学関係が多かったかな、歴史ものは漫画も含めてね日本だけでなく中国の物も、中国という国は過去に沢山立派な思想を持つ人が居たが体制が変わると前の文化を全否定してしまうから西欧の様に文化思想の継承が上手く成されなかった、知らないのは無いのも同じだ哲学のほうは暗いと思うだろうけど」
「そんな風には思わないけど、どうして哲学なの?」
「人間は様々な思想を持つ、その際自分の考えだけが正しいと陥りがちな独り善がりな考え方や失敗例を様々な角度から沢山みてみたかった」
「なんだかあなたを見てるとちょっと分かる気がする」
「そうか?」
「だって他人と付き合うのにとっても慎重そうだから」
鋭い確かにそうだが
「じゃあ君はどんな本を読むの」
「どうせあなたは小馬鹿にするだろうけど何のひねりもない恋愛小説がほとんどよ」
「被害妄想が強いな読んでる本のジャンルで小馬鹿に何てしないよ、今は辛く苦しくともきっと最後には心温まるような結末が待っているというものなんだろ」
図星だ私は心の芯が冷えていたのをひとときでも暖めたくて、出来れば感動で思い切り泣けるような荒唐無稽であっても全然構わない、ハッピーエンドな物しか読みたくなかった。
何もかも失って心の行き場も無い悲惨な結末なんて現実に見てしまえばもう沢山だ、そうした物は幸せな人が読んで如何に今の自分が恵まれているかを再確認すれば良いのだ。
佑真には私の気持ちが分かってしまうようだ、恥ずかしくなって話題を変えた
「そういえばいつか昼時に来たお客さんは知り合いだった様だけど?」
結希がたずねると少し間があったが
「父の会社の部下達で何年か振りに会ったんだ、学校を中途半端にしていると思われては敵わないから、父にはまだ黙っててくれと頼んだんだ」
父の会社?何でそんな人がファミレスでバイトなんかと結希は思った
「お父さんはバイトをしている事知らないの?」
「それはそうさ父親が知ったらバイトなんかして僅かな金を得るよりちゃんと勉強しろと言うだろう少しばかりの金を稼ぐ為に研究が疎かになったりしたら大変な損失だとね、あることをきっかけにしてだがおれは働いて金を得るということを経験するのは後々役に立つと思っている、だから黙っているように頼んだんだ」
お坊っちゃんなんだねと思った
「バイトも初めてで社会勉強の為にだなんてちょっと浮世離れした話しね、それに腰かけの積もりだからお客さんをやり込めたりしたんだとしたら店長さんとか回りが後処理で大変な迷惑を被る可能性もあるわ」
少しばかりとか僅かとかいう言葉を聞いて酔いも回っているからか反発して遠慮の無い言いかたになってしまった。
「そう多分浮世離れしていたんだろうな、君の言う通りだ自分の事しか頭になかったのかもしれない」
珍しく感情を少し表し不愉快そうに言った。
結希はそんな佑真を見て
「私はあなたに助けられたのだから素直に感謝すべきだけど、でももしあなたがすぐに辞めてしまったりしても店は残るんだからSNS何かで事が大きくなったりしなければ良いけれどと心配しただけなの、今一緒に働いている仲間は店長も含めみんな本当に良い人達だし勝手に私が心配しただけ、ご免なさい」
結希が素直に申し訳なさそうに頭を下げた。佑真は結希のそんな態度を見て彼女がただ批判的に他人を見ているのでなく自分のせいで他の誰かが少しでも迷惑を被るのが嫌なのだと察した。
確かにみんな優しく良い同僚達だった揉め事を起こしておいて勝手に辞めては無責任だ、事後に何かあったとしたならそれもちゃんと処理してから去らなければと思った。
日本人て本当に凄いな一日にたった何千円を得る為の仕事でもこれだけの責任を感じながら仕事をしている、今となれば一晩に何十万もクレジットで支払いするような馬鹿騒ぎを恥ずかしいと思うがその時は当たり前のように疑問も持たずに暮らしていた。
結希を促し店を出て、もう一軒今度はまともな設えの落ち着いたウッディな雰囲気の店で静かにジャズが流れるバーに連れてゆくとそこでも彼女は今迄積もりに積もっていた様々な思いを佑真に吐露した。結希は訥々と語り出した。
「先日死生学の本を読む人をアパート近くのたいやき屋さんで見かけた、私は生き残り何故母や妹は死ななければならなかったんだろうと常々思っていたのでその人と話しをしてみたかったけど本を食い入るように読む姿からは他人が邪魔する事の出来ない鬼気迫るものを感じ遠慮せざる終えなかった」
と結希は本当はその方との出会いに何か大きな意味があったのではないかと感じているようだった。
「生きるも死ぬもそうでなければならない理由なんてある訳無いだろう、いずれにしろまともに暮らしているなら自分で自由にはならない事だ善人だから長く生きられる訳でも無く悪人に必ず罰が当たって早死にするって訳でもない、しかし君がそんな調子じゃ死んだ家族は心配で浮かばれないだろうなでも」
「でも?」
佑真はグラスの中のウィスキーを見つめながら
「今の君に言うのはまだ早過ぎて酷かも知れないけど人生で最も失ってはいけないものを知っている人だからこそ将来は幸せになれるんだよきっと」
と呟いた。
その言葉には結希の心を少し暖めるような実感が籠っているようだった。
「祖父は俺が初孫だからとても可愛いがってくれて手先が器用だから精巧に子供用にバッテリーで動くベビーカーを作ってくれたりして優しくて大好きだったが六十才になる頃に肺ガンであっという間に亡くなってしまった、祖母は大学の頃祖父と知り合いずっと学生時代の伝で裏から祖父を支え会社を発展させた人で俺をどんな時でも正しい方向に導いてくれる力強く尊敬出来る存在なんだが、祖父を亡くした時は本当に生きる気力を無くしたかのように暫く何も手がつかないようだった、けれど祖父が骨になってしまうともう諦めるしかないのねと冷酷な事実を悟らされたと言っていた」
結希も静かに頷いて
「私も母と妹の骨を拾ったら全てが終わったんだと感じた、ささやかに例え貧しくたって皆で楽しく幸せに暮らしていた時間はもう決して戻ってこない、これから先私は何時までなのか判らないけどずっとこれから一人で生きてゆかないといけないんだと悟らされた」
という佑真は
「何故か人間って平穏な日々が続くと冬の登山のように危険な生死の狭間に身を委ねたくなったりスカイダイビングやバンジー何て事をしたくもなる、俺だって車でそういう事はしてるので趣味が違うだけで気持ちは良く分かる、でも逆に本当の死が近づいたならどうせどうあっても生き抜こうと足掻くだろうし、結局目の前の現実と逆を望むというのは常に現状からの逃避や脱出を図るのが人間というものなのかもしれないな」
そのあとも佑真は結希が色々と結構長く話すのを注釈を加えたりもせずに話の腰を折らずに黙って聞いていた、大学に入って周りの子たちは華やかだったけれど自分の身の上を語れば被災時のことだったり亡くなってしまった家族の事になってしまうので、せっかくの楽しい雰囲気をぶち壊さないよう辺りに気を遣って一歩引いたところから眺めている感じだったという、仲間は良い人達も多かったしアットホームな感じで講義も楽しいのだけれど結局同級生と深い繋がりを得られなかったことを今は少し後悔しているという。
彼女の大学生活についてはだいたいの経緯は聞いた、母親と妹を同時に亡くしこの世に血の繋がった人もいなくて長い間ずっと辛かったんだろう本当は余程誰かにいろいろ喋りたかったんだ、でもそんな過去を背負って生きてきたという悲壮感など普段は絶対に見せない、それに彼女が回りの人を語る時に良い人達という表現を良く聞く気がするが本当はこの世のなかそんなに善人ばかりはいない筈だ、彼女が回りの人達を大事にするから回りもそれに応えてくれるのだろう。
店を出たところで家の近くまで送るよと佑真が言うと
「大丈夫、今ならまだ電車が動いているから一人で帰れる、いろいろ話しを聞いてもらってありがとう本当にご馳走さまでした」
と結希は謝辞し、またねと歩き出した彼女は足元が危うげでおぼつかない。大通りに向かって歩く後ろ姿を暫く見守っていると一人目付きの鋭い男が彼女の方に近寄ってきた、背後から強い警告の視線を送るとそいつは何事も無かったかの風を装って離れて行ったが奴もそれなりの者だなと思った、もう少し歩くと酔っぱらって歩いて来た目付きの悪い中年の男と肩がぶつかった。
おい大丈夫かと後ろから駆け寄って意識が無くなり倒れかけた彼女を起こしていると
「何だ兄ちゃんが付いてるんならしっかり介抱してやらなきゃ駄目じゃないか、ホテルにでも連れ込んでしっぽりとな」
下卑た笑いを浮かべながら二人を見た。
「俺たちそういう関係じゃないんで」
佑真が言うと口答えされたと思ったのだろう男は陰惨な目付きになって何だこの野郎女を酔わせて結局はやりたいくせに気取りやがってと言いながら殴りかかってきた佑真は首をひねりパンチをさけた、すると尚更逆上したかよろけながら放った拳が右肩辺りに当たった、調子に乗ってもう一度繰り出したパンチを今度は左手で内側から素早く受け流し手首をきめながら右手で肘の内側を外に押す様にすると男は自分から地面に転がり脱臼の危険を防いだ、その男の顎寸前に放ったフックを寸前で止め耳元で囁いた。
「あなたもなかなかの実力をお持ちのようだけどもう充分でしょう、この娘からぶつかっていったのをちゃんと見ていたから申し訳ないと思って一回は殴らせてあげたけど、それ以上は図に乗るなしつこいんだよ」
佑真の身体と目に急激に力が漲ってきたのを動物的に嗅ぎとったのか男は背中を向けて何だか白けたなチッと捨て台詞を吐いて立ち去った。世の中には頭のおかしい奴が沢山いる、いざというときに自分も守れないなんて情けないし男は弱いと卑怯にならざるを得ない局面もあるからと中学の時から佑真はずっとボクシングや空手、合気道を習っていた。
肩に当たったパンチも実際はスウェーバックで軽く3センチ程ヒットポイントをずらしてたからほとんど効いてなかった、16オンスのグローブをつけスパーリングやらサンドバッグを叩く練習を長らく積んできた者を相手にスパーリングしてたりしたのであんな男のパンチ何てスローモーションに見えるし奴をぼろ布のようにしてやる位パンチを入れるのは簡単な事だが騒ぎを大きくしたくなかった。
一人の時なら先ずは面倒な事から逃げるのが一番なのだが酔っ払った結希を支えながらだから仕方なかった、何とか結希から聞き出し住所をタクシーの運転手に伝えアパートの前まで着くと眠そうな彼女から部屋の番号を聞き一瞬考えてからフラついている彼女を部屋のある二階迄おぶって階段を上がって行くことにした二人で並んでは上がれないような狭い階段だったからだ。
ジーンズ越しに結希の脚を両手で抱え込んだ時に思ったより柔らかい感触にドキッとした、佑真に女性経験が無い訳じゃないが今まで味わった事のない禁を冒しているようなスリルを味わった固く清楚な彫刻と思って触れたら柔らかな弾力があって驚いたという感じだった。
踏みしめる階段の音がギシギシと周りに聞こえる様な少し古くてオンボロなアパートだったが盛大に音を立てないようにとゆっくりと気を遣って登った。近頃の女の子ならオートロックのマンションを希望するんだろうし親御さんだってそうした所に住まわせたい筈だが結希は天涯孤独だったからともかく安い部屋を探してここを決めたのだろう。
佑真は震災後に結希の過ごしてきた日々の辛さを少し理解出来た気がした、そんな中でバイトで暮らしている人からお返し何て頂けないと言ったのかと改めて彼女の意地というか矜持を強く感じた。本当は今の自分で作れる金を渡してでも生活を助けたい気持ちでいっぱいだが、こいつは多分それを黙って受け取る様な人間じゃない、それに弱っている女に過剰に優しくするのも卑劣だとも思う。
結希に聞かせる積もりがあったのかどうか佑真は一人言のように
「君は一人で充分過ぎるほど頑張ってきている、親の金をせびって遊び呆けていた俺が大層偉そうな事をいろいろと言ってしまって本当に申し訳なかった」
と呟いた。
少し防犯上問題がありそうなドアを開けさせ部屋の中に結希を静かにそっと下ろし、鍵をちゃんと閉めてくれよと言いながらドアをガチャガチャさせてると中から鍵を掛ける音がかすかに聞こえたから佑真は安心したように帰って行った。
部屋の中で結希は少し頭がボンヤリとはしていたものの彼の言葉はずっと聞こえていた。辺りに気を使ったかのような足音が段々と小さくなってゆくのをとても優しく感じていた。彼は酔いに任せて自分に変なことをしようとしなかったばかりではなく、むしろ戸締まりの心配さえしてくれた。
お金持ちだろうにボロアパートに住み、送ってもらうのを恥ずかしがり固辞した私を小馬鹿にしたりせず、むしろ自分と客観的に比較し私を評価してくれてたようだった。
酔ってはいるけど所々の記憶は朧気にあった、先程酔った中年の男から自分を庇ってくれた場面では初めて出会った時のような情けなさは微塵も感じられなく、優しく介抱し送ってくれた彼の筋肉質でがっしりした背中から聞こえた言葉には何かとても清々しい気分にさせられた。
子供の頃からずっと欲しかった格好良く頼り甲斐のある優しいお兄さんのようだと思った、新宿で出会った老婦人の言葉が急に胸に蘇って心の内の未希さんに'もしかしてあの人なのですか'と語りかけた。




