第 98 章 前に進み続けて
マイケルが退社した後の日々は穏やかだった。
そしてリリーは、肩にずっとのしかかっていた重圧がすっと消えたように感じた。
ここ数週間、長い間息をつくこともできなかったが、ようやく深呼吸できる気分になった。
自分自身のためにも、会社のためにも正しい決断を下した。
だがここからが本当の始まりだ。
この先が順風満帆とは限らない。むしろ、前途はこれまで以上に不確かな状況だ。
最優先課題は、グローバル展開戦略を立て直すことだった。
市場は拡大し続けているが、カーター社の根本の価値観を守るためには、最も大切な人と人とのつながりを犠牲にせず、変化に適応する道を探さなければならない。
リリーはオフィスに座り、アジア、ヨーロッパ、南米から届いた最新の売上報告に目を通した。
数字自体は悪くないが、もっと伸ばせる余地は十分にある。
マイケルが提案したような、どの地域にも一律のデジタル中心戦略を押し通すわけにはいかない。
成長を続けながらも、カーター社らしい本来の姿を守り抜かなければならない。
彼女は電話を取り、サラの番号をダイヤルした。
「もしもし、サラ。少し時間ある?」
電話に出た友人に、リリーは尋ねた。
「もちろんだよ」
サラは明るい口調で答えた。
「どうしたの?」
「グローバル展開プランを練り直そうと考えてるの。単にデジタルマーケティングを押し進めるんじゃなく、各地域に合わせた体験づくりに力を入れたいの。成長のためだけに、私たちの企業文化を犠牲にするつもりはないわ」
「それこそ、君が進むべき道だと思うわ」
サラは熱意を込めて言った。
「君はずっと人間同士の温かい接点を大切にしてきた。世の中がデジタル化したからといって、その信念を変える必要なんてない。両方を両立させる方法はきっとある」
リリーは微笑み、安堵感に包まれた。
「私もそう思ってる。だけどこの方針を取締役会に納得させるのは簡単じゃないわ。彼らはとにかく早く結果を求めてくるから」
「なら、腹を割って話し合う時じゃないかしら」
サラが提案した。
「君は価値観を基盤にこの会社を築き上げたの。取締役たちにも、利益率と同じくらい企業理念が重要だと分かってもらわなきゃ」
リリーは一瞬黙って、その言葉を心に噛み締めた。
「あなたの言う通りね。みんなを納得させようと気を遣いすぎて、自分がここまで来た原点を忘れかけていた。もう自分の意思で主導していくわ」
翌日、リリーは取締役会を招集した。
これからのカーター社の進むべき理念 —— 唯一無二の魅力を失わずに事業を拡大する方針を、きちんと説明しなければならない。
会議が始まると、リリーは会議テーブルの上座に立ち、目の前の取締役一人ひとりを真っ直ぐに、強い意志を込めて見つめた。
「ここ数ヶ月は困難な状況が続き、多くの不確かさがあったことは承知しています」
彼女は切り出した。
「だが私は一つの結論に達しました。カーター社の特別な魅力 —— 企業文化、価値観、顧客へ心からの体験を届ける姿勢 —— を失ってはならないのです」
取締役たちは互いに顔を見合わせ、懐疑的な表情を浮かべる者もいた。
筆頭投資家のダニエル・リーブスが真っ先に発言した。
「リリー、君が会社の文化に情熱を持っているのは理解できる。だが現実を見なければならない。我々は単に顧客体験のためだけに経営しているわけではない。市場で競争力を保つため、迅速に規模を拡大しなければならない。デジタルマーケティングは未来の潮流だ。適応しなければ、市場の座を失うリスクが高まる」
リリーは少しもひるまず、彼の視線を受け止めた。
「変化に適応する必要があることには同意します。だが根本の理念を犠牲にするわけにはいきません。デジタルマーケティングはあくまでツールであり、すべての答えではないのです。各地域に合わせて顧客体験を個性化する方法を探す必要があり、どの地域も一律に扱うべきではありません。両方を両立させる道は必ず存在します」
彼女は一瞬間を置き、言葉を出席者の心に染み込ませた。
「例えばアジア太平洋市場を見てみましょう。画一的なデジタル広告を打つのではなく、私たちの価値観に賛同するローカルインフルエンサーと提携し、小規模イベントを開催して顧客と直接つながる。そしてデジタルツールを活用し、そうした体験をさらに広めるのです」
部屋は一瞬静まり返った。
取締役たちの頭の中で、考えが巡り始めているのが分かった。
今や彼らの関心を引きつけることに成功した。
「デジタル成長の考えを完全に捨てろと言っているわけではありません」
リリーは続けた。
「技術を人間同士の体験を豊かにするために活用し、置き換えるために使うのではない、と考えてほしいのです」
ダニエル・リーブスは身を乗り出し、思慮深い表情になった。
「説得力のある構想だ。検討に値する。だが実行に移す前に、具体的な計画を見せてもらう必要がある」
リリーは頷き、自信を強めていった。
「数日中に具体的なプランをまとめます。ただ、この方針を進めるために皆さんの支援が必要です。企業文化を守ることが、成長推進と同じくらい重要だと信じていただきたい」
部屋はしばらく静まり返った後、ダニエルが再び口を開いた。
「支援しよう、リリー。ただし、きちんと結果を出すことが条件だ。君の構想で進めよう。確実に成果を出せるようにしてくれ」
安堵感がリリーの心に押し寄せた。
久しぶりに、自分の描く方向へカーター社を導くための支えを得られた気がした。
これからも簡単な道ではないだろう。
だが自分の信念のためなら、全力で闘い抜く覚悟はできている。




