第 89 章 水面下に広がる亀裂
二人の間の溝は、ささやかな形で始まった。
出られない電話があり
返信が遅れることが増え
聞けばもっともらしい言い訳だが、心には違和感が残る。
ネイサンはすぐにその変化に気づいた。
リリーも同じだ。
だが二人とも、そのことを口に出そうとはしなかった。
カーター・エンタープライゼスでは、重圧がますます強まっていた。
マイケル・ハリントンの人事案に関する噂が瞬く間に社内に広がった。
一部の従業員は、安定感、経験、組織体制の強化につながると歓迎した。
一方、別の人々はその裏の真意を見抜いていた。
それは権力の移行だと。
ある夕暮れ遅く、サラがリリーのオフィスのドアをノックした。
「ずっと話し合いを避けてきたわね」
サラはストレートに言った。
リリーはパソコンの画面から顔を上げずに答えた。
「仕事が忙しかっただけだわ」
「違うわ」
サラは毅然と言い切った。
「あなたは心に傷を負って、逃げているだけ」
その言葉を聞いて、リリーは手を止めた。
やがて顔を上げる。
「もう誰も私を信じてくれなくなったの」
リリーは静かにつぶやいた。
サラは一歩近づいた。
「そんなことない。彼らはただ不安に駆られているだけなの。会社の成長があまりに急激で、人はつい安心できるものにすがりたくなる。経験、肩書き、統率力 —— そういったものにね」
「じゃあ私には、そのどれも備わっていないっていうの?」
リリーが問い返した。
「あなたはそれとは別の、かけがえのない存在なのよ」
サラは言った。
「この会社がこの世に生まれた原点そのものが、あなたなの」
二人の間に沈黙が訪れた。
「でも厳しい現実を言わせてもらうわ」
サラは続けた。
「もしあなたが変化に適応しようとしないなら、彼らはあなたを飛び越えて、勝手に物事を進めるようになるわ」
その言葉はリリーの心に、強く、重く突き刺さった。
その夜遅く、リリーはついに自宅へ戻った。
ネイサンが待っていた。
部屋は暗めの灯りに照らされ、ひっそりと静まり返っている。
「少し話をしよう」
彼が切り出した。
リリーは頷き、カバンを置いた。
ネイサンはしばらく彼女の様子を見つめてから口を開いた。
「ずっと私を心から遠ざけてきたね」
「色々悩みを抱えて、対処するのに精いってただけなの」
リリーは返答した。
「その悩みに、私も寄り添いたいんだ」
ネイサンは言った。
「順調で楽しい時だけ私を頼るなんて、嫌だよ」
リリーは視線を逸らした。
「そんな言い方は理不尽だわ」
柔らかい声でつぶやいた。
「うん、理不尽だと思う」
ネイサンは同意した。
「でも、今の二人の心の距離も、同じくらい理不尽なことだよ」
彼は一歩近づいた。
「私は君の敵じゃない、リリー」
「分かってる」
リリーはか細く囁いた。
「なら、心を開いて打ち明けてくれ」
その瞬間 ——
リリーはすべてを話しそうになった。
心の底に潜む不安、自信の揺らぎ、自分が築き上げてきたすべてが、指の間からこぼれ落ちていくような喪失感。
だが何かが彼女を思いとどまらせた。
プライドかもしれない。
心身の疲労かもしれない。
弱い自分を見せることへの怖れかもしれない。
「少しだけ、一人で考える時間が欲しいの」
リリーは最後にそう告げた。
ネイサンはゆっくりと頷いた。
だが彼の瞳の色は、以前とは変わっていた。
怒りでもなく、落胆でもない。
もっと穏やかで、
もっと重たい、言葉にできない何かが宿っていた。
その夜、二人は同じベッドに横になっていた。
だが生まれて初めて、
二人の間に埋めようのない心の溝ができてしまったように感じた。




