第 88 章 提案
役員会議室はいつもより冷え込んでいた。
リリーはガラス張りの長テーブルの上座に座り、まだ目を通しきれていない資料の山に指を軽く置いていた。
周囲にはカーター・エンタープライゼスの重役たちが座っている。顔見知りもいれば、急成長に伴って新たに迎え入れた役員もいる。
今日は何かが違っていた。
誰かが口を開く前から、彼女はその雰囲気を肌で感じ取っていた。
その時、新たに取締役に就任したダニエル・リーブスが咳払いをした。
「組織体制に関する提案を話し合いたい」
彼は穏やかな口調で両手を組み、言った。
「カーター社がここまで規模を拡大した今、グローバル業務統括社長を就任させる時期だと我々は考えている」
リリーはすぐに反応しなかった。
だが心の奥では、何かがきつく締めつけられるような感覚に襲われた。
「社長職ですか?」
リリーは抑えた口調で繰り返した。
「その役職には具体的にどんな職務が含まれるのでしょう?」
ダニエルはためらうことなく彼女の視線を受け止めた。
「グローバルな日常業務全般を統括する役職です。それによってあなたは、企業理念の構想、提携交渉、長期的な経営戦略に専念できるようになります」
聞こえは理にかなっていた。
あまりにも理屈っぽく、都合の良い話だった。
ジェイクは座席で身動ぎし、明らかに居心地の悪さを隠せない様子だ。
サラは微動だにしなかったが、リリーは彼女の顎に力が入っているのに気づいた。
「既に候補者を決めているのでしょう」
リリーは疑問形ではなく、断定した。
一瞬の間が空いた。
そして ——
「はい」
ダニエルは答えた。
「マイケル・ハリントン氏です。フォーチュン 100 にランクインする大手テクノ企業の最高業務責任者を歴任し、豊富な国際経営経験を有しています」
ついに本心が露わになった。
単なる支援ではない。
支援の体裁を装った、事実上の交代案だ。
冷静な表情の下で、リリーの心に静かな嵐が巻き起こり始めた。
「でははっきりさせましょう」
リリーはゆっくりと言った。
「私が築き上げたこの会社の実務を、他者に任せたいというわけですね」
「いいえ」
ダニエルは穏やかに訂正した。
「会社の規模拡大を支えるための補佐です」
その言い分の境界線は極めて曖昧で、ほとんど意味をなさなかった。
リリーは椅子にもたれ、部屋の一同を見渡した。
視線を逸らす者もいれば、彼女の反応を慎重に窺う者もいる。
これは単なる提案ではない。
リーダーとしての資質を試される試練だった。
その夜、リリーはすぐに家に帰らなかった。
マンハッタンの街を一人歩き、街の明かりが疲れた瞳に映り込む。
ニューヨークの活気はいつも彼女に力を与えてきたが、今夜はただ圧迫感を覚えるばかりだ。
スマホがバイブした。
ネイサンからだ。
彼女はためらってから電話に出た。
「もしもし」
いつも通り温かい声が受話器から響いた。
「疲れた声だね。大変な一日だった?」
リリーは静かに息を吐いた。
「業務全体を仕切る人物を、外部から迎え入れようとしているの」
一瞬の沈黙が訪れた。
「君はどう思う?」
ネイサンは慎重に問いかけた。
「私は……」
リリーは言葉を探し、言葉を途切らせた。
「もう私には、この会社を率いる力がないと、彼らは思っているのだと思う」
「そういう意味じゃないよ」
ネイサンは優しく諭した。
「会社が大きくなりすぎて、もう一人で抱えきれない規模になっただけかもしれない」
リリーはわずかに眉をひそめた。
「つまり、あなたも彼らの意見に賛成なの?」
「そう言ったわけじゃない」
彼は返した。
「ただ…… 君を交代させるためじゃなく、君が築き上げたものを守るための措置なのかもしれない、と言っているんだ」
電話の向こうに沈黙が広がった。
久しぶりに ——
ネイサンが完全に自分の味方ではないと感じた。
少なくとも、彼女が期待していた形の味方ではなかった。
「少し考えさせて」
リリーは静かに言った。
「リリー、待って ——」
だが彼女はそのまま電話を切った。




