第 121 章 苦渋の決断
その夜、リリーとネイサンはいつものカフェに座っていた。すべてが複雑になる前、二人が気楽なひと時を過ごした思い出の場所だ。薄暗い照明と、周囲に漂う穏やかな話し声が、まるで二人だけの世界を作り出している。ほんの一瞬だけ、リリーは心の力を抜いて安らぐことを許した。
「疲れてるね」
ネイサンは柔らかく、心配を滲ませた口調で言った。
「会社の方は、どうなってるの?」
リリーはこめかみを揉み、ストレスからくる頭の疼きを感じた。
「もう……抱えきれないほど重いの、ネイサン。サンパウロの案件は崩れかけてる。政府の新たな関税のせいで、拡大計画を前に進めるのがほぼ不可能になった。取締役会は成果を迫ってくるけど、理念を犠牲にしてまで応える方法なんて、私には分からない」
ネイサンはテーブル越しに手を伸ばし、彼女の手を優しく握りしめた。
「君はいつも、何が正しいか分かってる。カーター企業を誠実さの上に築いてきたのは君だ。誰にも、その道を見失わせてはいけない」
「見失わないよう頑張ってるわ」
リリーは感情を滲ませた声で答えた。
「だけど圧力はあまりに強い。会社を裏切りたくないし、私たちに信じて投資してくれた人たちを失望させたくもないの」
ネイサンは身を乗り出し、真剣な面持ちで彼女を見つめた。
「君は失敗なんてしない。だけど何もかも一人で背負う必要はない。全ての重圧を抱え込もうとしてるのは分かるけど、君には信頼できるチームもいるし、僕もいる。この決断を一人で下すことはないんだ」
リリーはネイサンの瞳を見つめ、感謝の思いが胸に溢れた。難しい決断を迫られる時も、深夜の連絡に疲れ果てる時も、先行きの見えない不安な時も、彼はずっとそばにいて支えてくれた。そして今、これまで以上に自分自身で決断を下さなければならないと悟った。その選択はカーター企業の未来だけでなく、自分自身の人生の行く先をも定めるものになる。
「無理に進めるわけにはいかない」
リリーはゆっくりと言葉を紡いだ。
「サンパウロの拡大計画はいったん延期する。理念を犠牲にする価値なんて、どこにもない。取締役会には私から説明する。どんな非難を受けても構わない。短期の利益のために、これまで築き上げてきたすべてを捨てるつもりはない」
ネイサンは微笑み、親指で彼女の手の甲をそっとなでた。
「君は正しいことをしてる。これからもずっと、僕が側で支え続けるよ」
その夜、ベッドに横になったリリーの頭の中は、取締役会の反応、企業の未来、これからの進め方で駆け巡っていた。容易ではない決断を下した。間違いなく代償は伴うだろう。だがその選択は、初めから自分を導いてきた信念に、忠実なものだった。
もうリリーは、ただカーター企業のためだけに闘っているのではない。利益だけを追うのではなく、より大きな使命を持つ企業を守るために闘っているのだ。ネイサンが傍にいてくれる今、自らの手で企業を正しい方向へ導く自信が、これまで以上に強く湧いてきた。
明日もまた困難な一日が待っている。だが長い間ぶりに、自分自身に正直な決断を下せた気がした。




