4話
朝、鳥の鳴き声で目が覚めた。
薄い毛布越しでも、春先の冷たい空気が分かる。
ユーマはゆっくりと身体を起こした。
古びた小屋の天井。
軋む床。
壁の隙間から差し込む朝日。
(……夢じゃないな)
森で目覚め、魔物を倒し、この村に来た。
昨日の出来事が、現実として身体に残っている。
立ち上がり、軽く肩を回す。
違和感はない。
むしろ——軽い。
「……よく動くな」
思わず苦笑する。
四十五の身体なら、朝はもっと鈍かった。
関節も、筋肉も、言うことを聞くまでに時間がかかる。
だが今は違う。
二十歳の身体は、最初から動ける。
扉を開けると、朝の村が広がっていた。
畑へ向かう男たち。
洗濯物を干す女たち。
井戸で水を汲む子供たち。
昨日よりも、視線が柔らかい。
完全に信用されたわけじゃない。
だが、拒絶はされていない。
(……悪くない)
「起きてたんだ」
振り返ると、ナキが立っていた。
木の籠を抱えている。
朝日を背にしたその姿は、昨日よりも柔らかく見えた。
「朝ごはん、持ってきたわ」
差し出された籠から、温かい湯気が立ち上る。
パンと、具だくさんのスープ。
「……ありがとう」
ユーマは素直に受け取った。
「ちゃんとお礼言うのね」
ナキが少しだけ意外そうに笑う。
「作ってもらったものは、大事にしたい」
ナキは一瞬だけ目を丸くして、それから小さく頷いた。
「昨日は眠れた?」
「ああ。屋根があるだけで、十分すぎるくらいだ」
「大げさ」
「本音だよ」
ナキがくすっと笑う。
その笑顔を見て、少しだけ気が緩んだ、その時だった。
「おい、誰か手を貸してくれ!」
村の入口の方から声が上がる。
見ると、荷車が斜面で傾いていた。
車輪が泥に沈み、男たちが何人も押しているが動かない。
「またか……」
ナキが小さく息を吐く。
「よくあるのか」
「うん、ああなると大変で……」
ユーマは少し考え、籠をそっと地面に置いた。
「ちょっと見てくる」
「え、ユーマ?」
すでに足は動いていた。
荷車の前で男たちが苦戦している。
「離れてもらっていいか」
「は? 一人でやる気か?」
疑いの視線。
ユーマは穏やかに頷いた。
「持ち上げるだけだ。危なくはしない」
男たちは顔を見合わせ、半信半疑で下がった。
ユーマは荷車に手をかける。
(……重さは、こんなものか)
脚に力を込める。
ぐ、と持ち上げた。
「……え?」
車輪が泥から外れる。
そのまま静かに前へ押し出すと、荷車はあっさりと元に戻った。
沈黙。
「う、動いた……」
「一人で……?」
ユーマは軽く息を吐いた。
「もう大丈夫だ」
男たちは慌てて頭を下げる。
「助かった、ありがとう!」
「気にしないでくれ」
その言い方も、どこか柔らかかった。
遠くで見ていたナキが、小さく呟く。
「……やっぱり、普通じゃない」
⸻
昼頃には、自然と仕事を手伝う流れになっていた。
壊れた柵の補修。
水桶の運搬。
倒れた木の移動。
ユーマは淡々とこなす。
頼まれたことは断らない。
だが、余計なこともしない。
その姿勢は、少しずつ村人の警戒を解いていった。
⸻
井戸のそばで水を飲んでいると、ナキが隣に来た。
「ねえ、ほんとに何者なの?」
「ただの働き手だよ」
「それで済ませる気?」
ユーマは少し考えてから答えた。
「昔はいろいろやってた。力仕事も、商売も」
「商売?」
「物を売る仕事だな」
ナキは不思議そうに笑う。
「全然そんな風に見えない」
「よく言われる」
少しの間。
ナキがぽつりと聞く。
「……家族は?」
ユーマは空を見た。
「いない」
「……」
「作らなかった、が正しいかもな」
ナキは何も言わない。
ただ、少しだけ近くに立つ。
「……一人って、平気なの?」
静かな声だった。
ユーマは少し考える。
「慣れてただけかもしれないな」
本音だった。
寂しさを考える前に、日々が過ぎていった。
「……そっか」
ナキの声は、どこか優しかった。
⸻
その時だった。
「魔物だ!!」
叫び声。
空気が一変する。
ユーマは反射的に顔を上げた。
畑の方。
黒い影が二つ。
猪型の魔物。
そして——
その先に、小さな女の子。
転んで動けない。
「まずい……!」
距離がある。
間に合うか——
(いや、行く)
ユーマは地面を蹴った。
風を切る。
速い。
だが——
(遠い)
魔物が先に届く。
牙が振り下ろされる。
その瞬間、
ユーマは腕を伸ばし、女の子を引き寄せた。
「っ——!」
牙が肩をかすめる。
鈍い痛み。
だが構わない。
(大丈夫だ、まだ動ける)
魔物を見る。
青い流れ。
首に集中する魔力。
「……そこか」
近くに落ちていた木の棒を拾う。
振る。
正確に、首元へ。
一撃。
流れが断たれる。
もう一匹。
突進。
今度は迷わない。
踏み込み、拳を叩き込む。
沈黙。
動かない。
⸻
静まり返る畑。
ユーマは息を整え、腕の中の子供を見る。
「大丈夫か」
女の子は震えながら頷いた。
「……うん」
「よく耐えたな」
ゆっくりと立たせる。
母親が駆け寄ってきた。
「ありがとう……本当に……!」
何度も頭を下げる。
周囲の村人たちも、言葉を失っていた。
やがて、一人が言う。
「助かった……」
「いてくれてよかった」
その声が、少しずつ広がる。
ユーマは小さく息を吐いた。
肩がじんわりと痛む。
だが——
それ以上に、胸の奥が静かに温かい。
ナキが近づいてきた。
「……ケガしてる」
「かすり傷だ」
「強がらないで」
布を取り出し、そっと当てる。
その手は、優しかった。
ユーマは少しだけ目を細める。
周りを見る。
壊れた畑。
守られた命。
安堵する人々。
そして、隣にいるナキ。
「……悪くないな」
ぽつりと漏れる。
ナキが小さく笑う。
「何それ」
「今のところは、って意味だ」
少しだけ間を置いて、続ける。
「……守れるなら、それでいい」
ナキは驚いたようにユーマを見た。
だが、何も言わなかった。
ただ、少しだけ嬉しそうに笑った。
⸻
この世界に来た理由は分からない。
帰れるかも分からない。
それでも——
今、この場所には、
自分が手を伸ばせば届くものがある。
(……なら)
守る理由は、それで十分だった。




