3話
夕暮れの村を、ユーマはナキと並んで歩いていた。
トンボはその少し前を歩きながら、村の人間に見つかるたびに大声で叫んでいる。
「聞いてくれよ! オレ、今日魔狼に襲われたんだぞ!」
「また森に入ったのか!」
「馬鹿野郎!」
「今度は本当に死ぬぞ!」
村の大人たちは口々に怒鳴るが、トンボはまるで気にしていない。
「でもな! ユーマが助けてくれたんだ! 魔狼を三匹倒したんだぞ!」
その言葉を聞くたび、人々の視線がユーマへ集まる。
驚き。警戒。疑い。感謝。
ユーマはその視線を受け止めながら、軽く肩をすくめた。
「……人気者だな、俺」
ナキが一瞬だけ驚いて、少しだけ口元を緩める。
「トンボが勝手に広めてるだけでしょ」
「だろうな」
軽いやり取り。
それだけで、空気が少し柔らぐ。
村は想像していたより大きかった。
木造の家が何十軒も並び、家畜小屋や畑、井戸もある。
畑には麦のような作物が植えられており、村の女たちが収穫作業をしていた。
鍛冶場らしき建物からは鉄を打つ音が聞こえる。
干された獣の毛皮。
薪を積み上げた小屋。
道端で遊ぶ子供たち。
土の匂いと、夕飯の匂いが混ざっている。
どこか懐かしい景色だった。
だが、日本とは違う。
家の造りも、服装も、道具も、どこか違う。
何より、この世界には魔物がいる。
魔石も、魔鉱石もある。
ここは自分の知っている世界ではない。
ナキは前を向いたまま口を開いた。
「……あんた、本当にどこから来たの?」
「遠い場所だ」
「そんなの見れば分かる」
少し間。
ユーマは小さく息を吐いた。
「日本って知ってるか?」
「ニホン?」
やはり通じない。
ユーマは苦笑する。
「まあ、知らなくて当然か」
ナキが少しだけこちらを見る。
「……なんか、変な感じね」
「よく言われる」
「自覚あるんだ」
「一応な」
ナキが小さく笑った。
さっきより、自然な笑いだった。
やはり綺麗だ、とユーマは思った。
目鼻立ちは整っているし、肌も白い。
長い黒髪も艶がある。
何より、怒った顔も笑った顔も妙に印象に残る。
トンボが振り返る。
「もうすぐだぞ!」
村の中央付近には、他より大きな家が建っていた。
木造だが頑丈そうで、門もある。
見張り台のようなものまであった。
「ここが村長の家」
ナキが言う。
トンボは勢いよく扉を開けた。
「村長ー!! 帰ったぞー!!」
奥から、低い声が返ってくる。
「うるさい!」
出てきたのは、大柄な男だった。
五十代くらいだろうか。
腕が太く、髭を生やしている。
いかにも頑固そうな顔だ。
「……また森に入ったのか、トンボ」
「ごめん」
「ごめんで済むか!」
男は怒鳴りかけたが、トンボの後ろに立つユーマに気づいた。
目が細くなる。
「誰だ」
「ユーマ! オレを助けてくれた!」
「助けた?」
トンボは興奮気味に今日の出来事を話した。
魔狼に襲われたこと。
ユーマが現れたこと。
一人で三匹倒したこと。
話を聞き終えた村長は、腕を組んでユーマを見た。
「本当か?」
「ああ」
「武器も持たずに、魔狼を三匹倒した?」
「結果だけ見ればそうなる」
「……信じられんな」
村長だけではない。
周囲に集まっていた村人たちも、半信半疑の顔をしていた。
無理もない。
突然現れた正体不明の男。
聞いたこともない国の名前。
怪しまれない方がおかしい。
村長は鋭い目を向ける。
「どこから来た」
「分からない」
「分からない?」
「気づいたら森にいた」
「ふざけてるのか」
空気が張り詰めた。
トンボが慌てて前に出る。
「でも本当に助けてくれたんだ! ユーマがいなかったら、オレ死んでた!」
ナキも口を開く。
「……トンボが無事だったのは事実。少なくとも悪い人じゃないと思う」
村長は黙る。
周囲の村人たちもざわついていた。
しばらくして、村長は大きく息を吐いた。
「……分かった」
その一言で空気が少し緩む。
「正体は分からん。怪しいのも事実だ」
村長は真っ直ぐユーマを見た。
「だが、トンボを助けた恩はある」
「……」
「しばらく村にいることは許可する」
トンボが「やった!」と飛び跳ねた。
「ただし」
村長の目が鋭くなる。
「妙な真似をしたらすぐ追い出す。いいな」
「ああ、それで構わない」
村長は少しだけ意外そうな顔をした。
もっと反発すると思っていたのかもしれない。
「住む場所は……」
村長は腕を組み、ゆっくりとナキへ視線を向けた。
「お前の家の離れ、空いていただろ」
ナキが小さく目を見開く。
「え?」
「一番都合がいい。お前の家なら村の中心にも近いし、何かあった時も呼びやすい」
「でも……」
ナキは言葉を濁した。
断りたいわけではない。けれど、すぐに頷いていい話でもない。
若い女が一人。
そこに幼い弟妹。
そして、今日初めて会った正体不明の男。
弟の恩人ではある。
だが、それとこれとは別だ。
ナキは視線を伏せた。
その一瞬の戸惑いを、ユーマは見逃さなかった。
小さく息を吐く。
「いや、それは断る」
場の空気が止まる。
だが、声は柔らかい。
トンボが目を丸くする。
「え?」
ユーマは少しだけ困ったように笑った。
「さすがに、いきなり世話になるのはな」
強くは言わない。
だが、線は引く。
「若い女性と子供がいる家に上がり込むほど、無神経じゃない」
ナキの表情が変わる。
警戒ではない。
“意外”に近い感情。
ユーマは淡々と続けた
「俺はトンボを助けただけだ。信用されたわけじゃない。それなのに同じ敷地に住むのは、ナキたちの方が落ち着かないだろ」
「……」
「俺はこの村の人間じゃない。どこの誰かも分からない。そんな男が家のすぐ隣に住むなんて、普通は怖い」
トンボが口を開きかける。
だが、ユーマは先に言った。
「お前は気にしなくていいって言うだろうな」
「う……」
「子供はそう言う。でも、そういうのを気にするのが大人の役目だ」
トンボは少しだけ口を尖らせた。
ユーマはさらに村長へ向き直る。
「それに、魔狼の魔石と素材があるはずだ。三匹分あれば、数日の宿代くらいにならないのか?」
村長は顎に手を当てた。
「魔狼三匹分の素材か……牙、爪、皮、魔石。確かにそれなりの額にはなるな」
「村に空き家か、使っていない倉庫でもあるなら十分だ。屋根と壁があれば寝られる」
「そんな場所でいいのか?」
「野宿よりはましだ」
ユーマは何でもないことのように言った。
その声音に、村長はわずかに目を細める。
トンボが慌てて言った。
「でも兄ちゃん、そんなの気にしなくていいって! 姉ちゃんだって嫌がってないし!」
ユーマは即答した。
「気にする」
その声には、少しだけ強さがあった。
「俺は四十五年生きてきた」
その瞬間、村人たちがざわつく。
「四十五……?」
「嘘だろ」
「どう見ても二十そこそこだぞ」
だが、誰も笑わなかった。
ユーマの空気は、若者のそれではない。
焦りがない。
必要以上に喋らない。
誰かにどう見られるかより、自分がどうあるべきかを優先している。
それは若さではなく、積み重ねた年月が作る空気だった。
ユーマは淡々と言う。
「若い女の家に転がり込む男なんて、ろくなもんじゃない」
トンボが苦笑した。
「兄ちゃん、変なところで真面目だな……」
「変じゃない。普通だ」
「いや、村の男なら喜んで住むと思うぞ」
「だから、ろくなもんじゃないって言ってる」
場に小さな笑いが漏れた。
少しだけ空気が和らぐ。
ナキはしばらく黙っていた。
やがて、小さく口を開く。
「……そんなこと気にする人、初めて見た」
ユーマは肩をすくめた。
「気にしない方がおかしい」
ナキはユーマを見る。
最初は、ただ怖かった。
魔狼3匹を無傷で倒したことや、
何を考えているのか分からない目も。
けれど今は、少しだけ違った。
この人は、自分の都合で距離を詰めてくる人じゃない。
踏み込んでいい場所と、踏み込むべきじゃない場所を知っている。
だからこそ――
少しだけ、安心できる。
ナキは無意識に肩の力を抜いていた。
村長は大きく息を吐く。
「……分かった。空き家が一つある。ちょっと前まで住んでるやつもいた。寝るだけなら問題ないだろう」
「助かる」
「魔狼の素材は村で買い取ろう。相場より少し色はつける。トンボを助けた礼も込みだ」
「十分だ」
「案内はナキ、お前がしろ」
「……分かった」
ナキは頷いた。
ユーマは軽く頭を下げる。
「世話になる」
村長は苦笑した。
「妙な男だな、お前は」
「よく言われる」
トンボが吹き出す。
ナキも、少しだけ笑った。
その横顔は、ほんの少しだけ安心したように見えた。
村長の家を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
ナキが先を歩き、トンボがその隣を跳ねるようについていく。
ユーマは少し後ろを歩いた。
しばらく無言が続いたあと、ナキが小さく口を開く。
「……ありがとう」
ユーマは視線だけ向ける。
「何がだ」
「さっきのこと、気を遣ってくれたんでしょ?」
「さっきも言ったが当たり前のことだ、礼を言われる類のものじゃない」
やがて、村の外れに近い場所へ出る。
古い木造の小屋だった。
小さいが、屋根も壁もまだしっかりしている。
扉を開けると、中には古い机と棚、干し草の残った寝台が一つ。埃は積もっているが、寝るだけなら十分だった。
ユーマは中を見回し、小さく頷く。
「悪くない」
「本当に?」
「ああ。雨風しのげるだけで十分だ」
ナキは少しだけ困ったように笑う。
そして少しだけ真面目な顔に戻った。
「食事は私が持ってくる」
「いや、そこまで世話になる必要は――」
「ある」
ナキは珍しく、はっきりと言った。
「トンボを助けてもらったお礼、まだしてないから」
ユーマは言葉を止める。
ナキは少しだけ視線を逸らした。
「私の料理結構いけるのよ」
トンボも大きく頷く。
「オレも持ってくる! 兄ちゃん、腹減ってるだろ!」
ユーマは二人を見た。
ユーマは小さく息を吐き、わずかに口元を緩める。
「……じゃあ、遠慮なく世話になる」
ナキは小さく頷いた。
「うん」
そう答えた声は、最初より少しだけ柔らかかった。
ナキとトンボが帰ったあと。
ユーマは一人、小屋の外に出た。
夜の村。
静かだ。
どこからか虫の声が聞こえる。
遠くで犬のような鳴き声。
普通の夜。
――のはずだった。
ユーマはふと、森の方を見る。
暗闇。
何も見えない。
だが――
「……妙だな」
小さく呟く。
理由ははっきりしない。
だが、引っかかる。
しばらく目を凝らす。
(……気配が薄い)
魔物の気配がない。
それ自体はおかしくない。
だが――
「少なすぎるな」
ぽつりと漏らす。
この規模の森なら、もう少し“いる”はずだ。
風が吹く。
葉が揺れる。
だが、それだけだ。
気配が、動かない。
「……静かすぎる」
違和感は、それだけ。
だが、確かにあった。
ユーマはしばらくその場に立っていた。
(……様子を見るか)
すぐに結論は出さない。
それが、長く生きてきたやり方だった。
小屋に戻る。
だが――
その違和感だけは、頭の片隅に残り続けていた。




