第109話 「あの日」の回想
市場の入口を抜けると、空気が一段と濃くなった。
焼き菓子の甘い匂い、革の油、乾物の塩気、花の香り──それぞれが天幕の下でほどけては混ざり、肌にまとわりついてくる。踏み慣らされた石畳の上を、買い物袋を抱えた女たちや、商人と値切り合う客たちが忙しなく行き交っていた。
ロイドは隣のルーシャの歩幅に合わせて、ゆっくりと歩を進めた。
フードは被らせていない。先日までなら念のためにと目深に被せていたところだが、教会の動きが落ち着いてきた今、この町の中でならそこまで神経質になる必要もないと思ったからだ。陽の下で白銀の髪をそのまま晒して歩く彼女の姿は、ロイドにとってまだ少し新鮮だった。
目当ての香辛料屋は、市場の少し奥まったところにある。天幕の下に木箱をいくつも並べ、赤、黄、茶と色とりどりの粉や粒が、小さな山を作っていた。近づくだけで、鼻の奥が焼けるような辛味と、胃の底がじわりと温まる甘い香りが、同時に立ち上る。
店主は、見覚えのある中年の女性だった。エプロンの裾で手を拭いながら、ほかの客を威勢よく捌いている。
「はいよっ、胡椒はこっち。そっちの赤いのは辛いから気を付けな!」
太い腕で袋の口を縛って、銅貨を受け取り、次の客へと手を伸ばす。流れるような動きだ。
その視線が、ひょいとこちらへ向いた。
途端に、目が丸くなって、すぐ破顔する。
「あれ、あんたらじゃないか! 久しぶりだねえ」
声が大きいから、周囲の客までつられてこちらを見る。ロイドは小さく会釈を返して、天幕の下に足を踏み入れた。
「ちょっと遠出してたんだ」
「そうかいそうかい。ルーシャちゃんも元気にしてた?」
「はい。おばさんもお変わりなさそうで、よかったです」
ルーシャが嬉しそうに頭を下げる。
ちゃん付けで呼ばれるのは、ロイドにはまだ少しむず痒い。けれど当のルーシャは、柔らかく頬を緩めていた。ここまで親しく名前で呼んでくれる相手が少しずつ増えてきたのが、嬉しいのだろう。
注文はいつも通りだ。岩塩の粗挽きに、黒胡椒。乾かした根菜の粉。保存の効く香草を数種類。ルーシャが指先で選んでいき、おばちゃんが小気味よく小袋に詰めていく。
最後に、帳場の上に並んだ袋の隣へ、おばちゃんがひとつだけ余分の小袋をぽんと乗せた。
「それと、これはおまけ」
「え?」
ロイドが怪訝な顔を向けると、おばちゃんはにやりと口の端を持ち上げた。
「あんたら、影狼退治だけじゃなくて、ミンガラムも救ってくれたらしいじゃないか。うちの娘の嫁ぎ先、あの辺りの隊商宿でへ。瘴気が晴れて商売に戻れたって、手紙寄越したんだよ」
「ああ……」
ロイドは軽く頬を掻いた。なるほど、と頭の中で筋が繋がる。
依頼はクロンを通した非公式のものだったはずだが、瘴気が晴れれば動くのは隊商だ。隊商が動けば噂も運ばれる。人の口に戸は立てられないというのは、どうやら本当らしい。
「ほんと、いつも世話になってるね。町の方じゃ、あんたらのこと〝なんでも屋〟って呼ぶより、そろそろ別の名前で呼ぶ奴が出てきそうだよ」
「……勘弁してくれ。仕事でやっただけだ」
ロイドは軽く肩を竦めて流した。
口にしてみて、自分の語気が思ったより固くなっていたことに気付く。
英雄扱いは、どうにも居心地が悪かった。勇者の称号が誰かに与えられて、その補佐としてどれだけ削られてきたか。ユリウスのあの冷たい瞳が、脳裏の端をちらりと掠めて消えた。
あいつと同じ響きで呼ばれるのだけは、御免だ。
おばちゃんは何かを察したらしく、深く追及してはこなかった。
「謙虚だねえ。いいさいいさ、また寄っとくれよ」
代金を支払って、袋を受け取る。
おまけの小袋には、薄い桃色の乾いた花弁が入っているようだった。甘い匂いがふわりと立つ。煮込みに少し落とすと風味が変わる、とおばちゃんが早口で付け加えた。
店を離れ、人の流れに戻る。
少し歩いたところで、ロイドはふと隣を窺った。
ルーシャが、妙にいい顔をしていた。口元が緩んでいて、歩くたびに白銀の髪がふわりと揺れる。何というか──黙っていても幸せが滲み出しているような、そんな横顔だ。
「……何だよ」
つい、訊いてしまう。
ルーシャは一度こちらを見上げて、はにかむように首を少し傾げた。
「いえ。こうして皆さんが喜んでくれているのを見ると、やり甲斐のあるお仕事だなって。それに……」
「それに?」
「その日のことを、少し思い出してしまって。何だか、嬉しくなったんです」
軽い口調だった。でも、言葉の選び方がわずかに控えめで。
ロイドは一拍遅れて、その「その日」が何を指しているのかを理解した。
(……影狼を倒した時か)
さっきのおばちゃんの言葉から、彼女はきっとあの夜のことを思い出したのだろう。
谷間の焚火、飛び散った黒い血、自分ひとりで背負おうとして暴走しかけた〈呪印〉。後ろから抱き留めてくれた細い腕と、泣き叫ぶような声。そして──その夜のうちに、互いの想いをぶつけ合って、結ばれたのだ。
そこまで思い出させられると、芋づる式に他の記憶まで付いてきた。
触れ合った肌の、思ったより高い体温。毛布の中で押し殺すように漏れた小さな吐息と、握り返してきた指の力加減。髪から微かに漂う洗髪剤の香りと、一心不乱にお互いを求め合い、重ね合わせた唇まで。
耳の裏が、じわりと熱くなっていく。
昼日中、それも市場のど真ん中で呼び起こすには、あまりにも心臓に悪い記憶だった。
「……バカ」
思わず、小声で呟く。
「こんなとこで、何言ってんだよ。俺も思い出しちゃっただろ」
文句のつもりだったのだが、口に出してみるとどうにも格好がつかない。
ルーシャは一瞬きょとんとして、それからこちらの言葉の意味を飲み込んだらしい。じわ、と頬に赤みが差す。
それでも彼女は視線を逸らさず、悪戯っぽく笑った。
「えへへ。お揃いですね」
「……お揃いは、ちょっと違うんじゃないか?」
思わずツッコミが口をついて出た。思い出すに至った経路がまず違う。ルーシャは感謝されたことから思い出したのであって、ロイドはルーシャの顔から思い出させられた側だ。
だというのに、彼女はくすくすと肩を震わせていて、悪びれるふうもない。
このあたりの無自覚な攻撃力は、相変わらず本当に心臓に悪かった。
ロイドは顔を逸らすように、隣の露店へ目を投げる。何を見ているのかわからないふりでもしていないと、表情がもたなかった。
それでも──と、心の中で独り言ちる。
こういう重たくなりかねない話題を、こんなふうに軽やかな言葉で口にしてくれるルーシャの明るさには、救われているのも事実だった。あの夜のことを否定したいわけではない。ただ、真正面から言葉にされると、照れくさくてどうしようもないだけで。
隣を歩く白聖女は、まだ嬉しそうにはにかんでいる。
ロイドは前を向き直し、ほんの微かに口角を上げた。
(……まあ、お揃いでいいのかもな)
声には、出さなかった。




