第110話 別行動の提案
香辛料屋を離れてからも、市場の賑わいは途切れなかった。
ルーシャの冬用の服を、と言い出したのはロイドの方だ。本音を言えば、小物屋に行くための口実が欲しかった。衣服を選ぶ時間が長ければ長いほど、その流れで「他も見て回ろう」と持ち掛けやすい。そう踏んで、中央通り沿いの『旅衣のヨナス』へと足を向けた。
ここの店主とは、この町へ来たばかりの頃からの馴染みだ。ルーシャが初めて聖衣を脱いで普段着に替えた店でもある。
ガラスの嵌まった扉を押し開けると、店の奥から相変わらずの丸太のような腕をした女店主が顔を出した。
「あらま、ルーシャちゃんじゃないの。久しぶりねえ」
「おばさん、ご無沙汰しております」
ルーシャが丁寧に頭を下げると、店主はからっと笑って手を振った。
「そろそろ冬ものでしょ? 厚手のいいのが入ってるよ」
言うが早いか、店主は奥の棚からあれこれと引き出しを開けて、冬用のワンピースやら肩掛けやらを台の上に広げ始めた。
ロイドが毎度感心するのは、この店主の手際の良さだ。ルーシャの背格好も肩幅も、もう頭の中に入っているらしい。いちいち採寸し直すこともなく、すっとあたりをつけて広げてくる品が、どれも妙にルーシャに似合いそうな色味をしていた。
「ルーシャちゃんも、だいぶ顔に柔らかみが出てきたわね。前に来た時は、どこか遠慮がちだったのにさ」
「そ、そうでしょうか」
「うん。見てりゃわかるわよ、そんなの」
店主の軽口に、ルーシャの耳がほんのりと赤くなる。
ロイドはわざと視線を逸らして、店の隅の棚を眺めるふりをした。こういう冷やかしに真正面から応じるほどの胆力は、生憎と持ち合わせていない。
やがて、ルーシャが一枚の紺色のワンピースを手に取って、肩にあててみせた。
「これ、どうでしょう?」
「……悪くないな」
ロイドはそう答えるのがやっとだった。
仕立ての良し悪しなど、正直よくわからない。ただ、紺色の生地が白銀の髪と白い肌によく映えていて、そのまま着て出ても綺麗だろうな、と思った。思ったけれど、それをそのまま口にすると店主に冷やかされる気がしたので、喉の奥で飲み込んだ。
しかし、店主は見逃さなかった。にやりとして、ルーシャの肩越しにこちらへ目配せを寄越してくる。全部お見通し、という顔だ。
やり辛い。
結局、そのワンピースと、もう一枚の白い厚手の上着が買い物袋に入った。ついでに、ロイドの袖口のほつれた上着も、同系色のものに買い換えた。ルーシャが「袖のほつれが」としきりに気にしていたので、観念した形だ。自分で繕えばいいだけの話だったのだが、彼女がそれで安心するならそれでいい。
店を出る頃には、陽が少しだけ西へ傾いていた。屋根の縁に落ちる影が、来た時より長い。
それからは、近い店を順に覗いた。
乾物屋の主人には「よう、元気そうじゃねえか」と肩を叩かれた。花屋の老婆には、おまけの摘み草を握らされる。蝋燭屋の主人はルーシャの顔を見るなり「いい品が入ったんだよ、ルーシャちゃん」と蝋燭を差し出す。続く主人の冗談にルーシャが口元を押さえて笑うと、蝋燭屋は照れたように鼻の頭を掻いた。こらこら蝋燭屋を惚れさせるんじゃない、と思ったが、見逃しておこう。ルーシャに悪気はないのが困ったものだ。
どの店でも、ルーシャは丁寧に頭を下げ、穏やかに言葉を返していた。
(……本当に溶け込んできたな)
ロイドは袋を抱え直しながら、隣の〝白聖女〟をそっと眺めた。
初めてこの町を歩いた頃は、フードを目深に被せ、人通りの少ない時間を選んで買い物をしたものだった。教会の影に怯えて、誰とも目を合わせないように努めていた。
それが、今はどうだ。顔を覚えられ、名前で呼ばれ、気さくに冗談を投げかけられる。彼女がこの町でひとりの「ルーシャ」として歩けるようになった──それだけで、ここまで生きてきた意味があるようにも思えた。
小物屋に行く踏ん切りは、結局なかなかつかなかった。
ふたりきりなのだから、少し離れて回ればいいようなものだが、普段と違う距離を取ろうとすると、その段階でもう不自然だ。「ちょっとあっちを見てくる」と切り出すには、どうにも理由が弱い。
それに、ルーシャが隣で嬉しそうに喋るものだから、ロイド自身がその場を離れ難くもあった。
市場中央の広場まで戻ってきた頃には、両手にそこそこの荷物が下がっていた。
広場の中心には、石造りの古い噴水がある。青緑に曇った銅の鳩が口から水を吐き、しぶきが石畳の縁で陽を弾いていた。
ロイドは縁に腰を下ろし、荷物を足元にまとめて置いた。
「少し休むか。足、疲れただろ」
「はい。では、少しだけ」
ルーシャも、ロイドの隣に少しだけ間を空けて腰を下ろした。
水の撥ねる音と、遠くの露店の売り声が混じって、耳元でゆるく流れていく。噴水のふちの石はひんやりと冷たくて、何だか気持ちがよかった。
さて、とロイドは心の中で切り出し方を考える。
この広場から南へ少し下れば、例の小物屋がある並びだ。今から「ちょっと武器屋を覗いてくる」とでも切り出せば、それらしい理由にはなる。ルーシャには少しの間、広場のベンチで待っていてもらって──。
そう段取りを組み立てて、口を開きかけた時だった。
「あの……ロイド?」
先に声を出したのは、ルーシャの方だった。
こちらを見上げる顔が、どういうわけか、ほんの少し気まずそうに伏せられている。
「ん? どうした」
「その……ちょっと、買いたいものがあるので。別行動にしませんか?」
ロイドは、思わず瞬きを一度、二度とした。
……別行動?
こちらとしては願ったり叶ったりだったが、ルーシャの方から言い出してくるとは思ってもみなかった。
とはいえ、二つ返事で飛びつくのも不自然だ。ロイドは努めて平静な顔を作り、首をわずかに傾げた。
「買いたいもの? 俺が一緒だとまずいのか?」
あくまで何気なく、軽く確かめる体で訊ねる。
ルーシャは少しだけ迷ったように視線を泳がせてから、こちらをちらりと窺った。
「その……少し、恥ずかしいので」
ぽつりと落とされた声は、耳の先まで赤くなっていた。
膝の上で指をもじもじと絡めて、見つめ返してくるのに妙に勇気が要りそうな表情をしている。
(ああ、なるほど)
ロイドは心の中で納得した。
女性特有の身の回りの品、というやつだろう。確かに、そういったものをロイドの前でじっくり吟味するのは、彼女の性格からすれば相当に気後れする話だ。
敢えてそれ以上は追及しない。しない方が、大人の対応というものだろう。たぶん。
しかし、こうなってみると皮肉なものだった。こちらはこちらで、彼女には見られたくない買い物を内緒で済ませたかったのだから。それが、向こうから別行動を切り出してくれるとは。
面映ゆいような、おかしいような、よくわからない感情が胸を擽る。
「わかった。じゃあ、少しの間だけ別行動にしようか」
ロイドは頷いて、広場の噴水を指差した。
「三十分後に、ここで待ち合わせ。それで大丈夫か?」
「はいっ」
返事は、弾むようだった。
さっきまでの気まずそうな表情が嘘のように、ルーシャは満面の笑みを浮かべてみせる。立ち上がる動作さえ妙に軽やかで、こちらが拍子抜けするほどだ。
(ずいぶん楽しみにしているみたいだな)
何をそんなに買いたいのか、すぐには見当もつかなかった。ただ、その弾んだ様子が珍しくて、ロイドはつい口元を緩ませてしまう。
「じゃあ、また後でな」
「はい。ではまた」
ルーシャは小さく手を振って、人波の中へと消えていった。
白銀の髪が、午後の陽に透けて、露店の天幕の向こうへ吸い込まれていく。
その背中を見送り、ロイドはひとつ息を吐いて立ち上がった。
さあ、こっちも仕事だ。
ロイドは広場から南へ折れた。
記憶を辿れば、あの並びは角からふたつめの天幕だったはずだ。人通りは市場の中央ほど多くはなく、足の運びに余裕があった。
角を曲がってすぐ、薄茶色の天幕が飛び込んでくる。
(お。あった)
ロイドは内心でほっと胸を撫で下ろす。
以前見た時のままだった。露店の台には、細々とした女物の装飾品が並び、陽を反射してちらちらと光を返している。
近づいて覗き込んで、今度は別の意味で呻きそうになった。
(多すぎだろ)
髪留め、耳飾り、小ぶりの鏡、刺繍を施した飾りリボン、色とりどりの石を留めた指輪。女の買い物につきものの細かな品々が、所狭しと並んでいた。
どれが良くて、どれがそうでないのか、さっぱりわからない。
それでも、引き返す気はなかった。
ロイドは腹を括って、一つずつ吟味を始めた。
派手すぎず、地味すぎず。普段使いに違和感がなくて、それでいて贈り物として恥ずかしくないもの。何より、彼女の白銀の髪に映えるものでなければ、意味がない。
やがて、台の奥に並んだ髪留めのひとつに手が止まった。
素朴な銀細工だ。花弁の形を丁寧に打ち出してあり、中央に小さな石がひとつだけ嵌め込まれている。淡い水色の石。彼女の浅葱色の瞳よりも、ほんの少し薄い──初夏の朝の、空のような色だった。
手のひらに乗せると、見た目より軽くて、細工の丁寧さが指の腹から伝わってくる。
(……これかな)
ルーシャの髪は、いつも真っ直ぐに下ろされている。時々、料理や作業の折に後ろで軽くまとめることがあるが、その時に使っている髪留めは古いものだ。
これなら、あの銀髪によく合うだろう。
「贈り物ですか?」
店の奥から、女主人が覗き込むように声を掛けてきた。
白髪混じりの髪をきっちり結い上げた、優しそうな初老の女性だ。
「あー……まあ、そんなところだ」
ロイドが喉の奥を詰まらせながら答えると、女主人はふっと目尻に皺を寄せて笑った。
「お相手に、きっとよくお似合いですよ」
それ以上は、何も訊いてこない。こちらの気恥ずかしさを察してくれたのか、手早く薄い紙で髪留めを包み、小さな紙袋に収めて差し出してきた。
ロイドは代金を払い、紙袋を外套の内ポケットへそっと滑り込ませる。
胸のあたりに、紙袋の四角い輪郭がわずかに浮かぶ。その小さな重みが、妙に生々しかった。
店を離れて数歩も歩くと、ふう、と自然に深い息が漏れる。
(思ったより緊張してたんだな)
戦場で何十匹の魔物を相手にした時より、今の方が手のひらに汗をかいている気がする。
だが、まだ終わりではなかった。
紙袋ひとつだけをぶら下げて広場へ戻れば、ルーシャにまず間違いなく「何を買ったんですか?」と無邪気に訊かれるだろう。彼女には変な嘘を吐きたくなかった。
となれば、上から被せる買い物をしておくに限る。
ちょうど角を挟んだ向かいに、馴染みの武器屋があった。
剣や革鎧が雑多に並ぶ中、ロイドは手早く砥石と、剣の手入れ用の油を手に取る。どちらも家にまだ残ってはいるが、多めに持っておいて損はないはずだ。これで「他にもついでで色々買った」という体裁が取れる。
勘定を済ませ、砥石と油の小瓶を布袋に入れてもらった。袋はしっかりとした重みで、中身を詮索される心配もなさそうだ。
(我ながら、小細工が過ぎるな)
苦笑が漏れた。
ルーシャのほんのちょっとした驚き顔を見るためだけに、ここまでするとは。
考えてみれば、少し前の自分だったら絶対にしなかった類の行動だ。呪いに蝕まれて他人を遠ざけ、贈り物どころか贈る相手すらいなかった頃の自分に聞かせたら、鼻で笑うに違いない。
だが、今の自分は、進んでそうしている。
ロイドは外套越しに、内ポケットの紙袋の輪郭をそっと指の腹で確かめた。
小さくて、軽くて、それでいて何よりも大事なもの。
ひとつ頷いて、ロイドは広場へ引き返した。




