第104話 夕暮れの帰路
遅めの昼食を終えてからも、もう少しだけ作業を続けた。
残っていた木箱を部屋に運び込み、棚の位置を微調整する。フランの謎コレクションは結局部屋の隅にまとめて積むことになり、エレナが「後で自分で片付けなさいよ」と釘を刺していた。フランは「はーい」と返事だけは素直だったが、たぶん片付けない。それは全員がわかっていた。
ルーシャが余った布を使ってカーテンの仮留めをし、ロイドが玄関の蝶番を増し締めする。窓に布が掛かっただけで、がらんとしていた部屋が少しだけ住居らしくなった。カーテン一枚で印象は随分と変わるものだ。
ひとまず今日の作業は終了とした。完璧とは言えないが、住める形にはなっている。細かいところは、明日以降に少しずつやればいい。
日が傾き始めていた。
空の色が変わってきたのを見て、ロイドは立ち上がった。
「そろそろ帰るか」
「そうですね」
ルーシャが頷いて、エプロン代わりにしていた布を畳む。
玄関先まで出ると、フランとエレナが見送りに出てきた。
「明日からもよろしくねー!」
フランが大きく手を振った。その元気の良さは、引っ越し作業で一日中動き回った後とは思えない。この体力はどこから来るのだろう。
「あまり気を遣わないでね。自分たちのことは自分たちでやるから」
エレナは穏やかに微笑んでそう言った。
気遣いと自立を両立させるあたりが、いかにもエレナらしい。勇者パーティーにいた頃から、彼女はこういう人だった。周りに目を配りつつ、自分の足で立つことを忘れない。ロイドは、そういうところを信頼していた。
「おう。何かあったら遠慮なく言え」
ロイドは軽く手を上げて応え、ルーシャと並んで歩き出した。
帰り道は、来た時と同じ緩やかな坂道だ。
ただ、朝とは景色がまるで違っていた。
夕焼けが、廃村を染めている。空は西から順に橙、朱、薄紫と重なって、沈みかけた陽が木々の輪郭を金色に縁取っていた。崩れかけた石垣や蔦の這う廃屋の壁にまで夕陽が差して、寂れた集落がどこか暖かみを帯びて見える。
風が吹いた。草の匂いと、微かに土の湿った匂いが混ざっている。影が長く伸びて、ふたりの足元に揺れていた。
歩いているうちに、自然と手が触れた。
指先が掠めて、そのまま絡まる。どちらから繋いだのかは、わからない。わからないくらい自然だった。
ルーシャの手は、小さくて温かい。
呪いに蝕まれた腕を、怖がらずに握ってくれた手だ。この手にどれだけ救われてきたか、数えきれなかった。
『たとえ誰かがそれを〝呪い〟だと言っても、あなたが誰かを守るために使っているなら、それは〝優しさ〟だと思います。少なくとも、私はその〝優しさ〟で救われましたから』
あの日、差し伸べてくれたこの手がなければ。
きっと、ロイドは今もひとりだっただろう。
しばらく無言で歩いた。
言葉がなくても、繋いだ手のひらから温もりが伝わってくる。それだけで十分だった。
夕陽が、ふたりの輪郭を橙に染めている。
「ロイド」
ルーシャが、ぽつりと呼んだ。
「今、幸せですか?」
不意の問いだった。
ロイドは、すぐには答えなかった。
答えはわかっている。わかっているのに、言葉が喉に詰まった。
幸せかと聞かれて、真っ先に浮かんだのは、少し前のことだった。
パーティーを追放され、金も食料も奪われ、魔剣だけを手にあてのない夜道を歩いていたあの日。空腹と疲労で意識が朦朧として、それでも足を止めたら死ぬから、歩き続けるしかなかった。
幸せなんて言葉は、自分とは無縁のものだと本気で思っていた。
それが今はどうだ。隣に大切な人がいて、帰る家がある。近所には仲間が住み、明日も当たり前のように朝が来ることを疑わずにいられる。
あの頃の自分が聞いたら、嘘だろう、と笑い飛ばすに違いない。でも──それが今や、現実になっている。
「……ああ。幸せだよ」
声に出してみると、その言葉は思ったよりも自然に響いた。
ルーシャは何も言わなかった。
ただ、繋いだ手を、きゅっと握り返してきて。
ロイドも少しだけ力を込めて、握り締める。
それ以上の言葉は、要らなかった。
家に着く頃には、空は紫と藍の境目に差し掛かっていた。一番星がひとつ、東の空に瞬き始めている。
玄関の戸を開けて、ふたりで中に入る。朝出た時のままの室内に、夕暮れの残り光が斜めに差し込んでいた。
「明日からはもっと賑やかですね」
ルーシャが振り返って、笑った。
「そうだな」
返しながら、ロイドは思った。
賑やかなのも悪くない。四人でテーブルを囲む昼食は楽しかったし、フランに振り回されるのも、エレナの落ち着いた気遣いも、嫌いではない。
でも──こうして、ふたりで帰ってくるこの時間が、やっぱり一番好きだ。
ルーシャが台所に立って、夕飯の支度を始めた。竈に残り火があるか確かめて、鍋を出す。水を張る音、野菜を刻む音。日常の音が、静かな部屋に小さく響いていく。
ロイドは暖炉の前にしゃがみ込んで、薪をくべた。乾いた薪に火が移り、ぱちぱちと小さな音を立てる。やがて炎が安定して、部屋の中にじわりと暖かさが広がった。
「ルーシャ」
ふと、台所に向けて声を掛けた。
「はい、何でしょう?」
ルーシャがすぐに台所から顔を出した。
「……今日も風呂、一緒に入る?」
少し冗談っぽく。半分くらいは本気で、訊いてみた。
すると──。
「あれは、特別な日だけです」
少し悪戯っぽく笑って。彼女はまた、台所の中に戻ったのだった。
「ちぇっ。ダメか」
さすがに連日はダメだったらしい。
ロイドはわざとらしく落ち込んでみせて、窓の外へと視線を向けた。
窓の外は、もうすっかり暗い。
ただ、遠くに小さな灯りがひとつだけ見えた。
エレナたちの家だ。
あのふたりは、初めての家でどんな夜を過ごすのだろうか。
そんなことを考えながら、ふと目を閉じる。
ザクソン村の夜に、灯りがひとつ増えた。
それが、ただただ嬉しかった。




