第101話 ふたりでお風呂
かぽーん。
湯桶を縁に置いた時の、乾いた木と湯気が混ざったみたいな間の抜けた音が、浴室に弾んだ。
それが妙に心地よくて、ロイドは肩から力を抜こうとした。実際、身体の芯は戦いの疲れをまだ抱えている。骨の奥にまで染みた緊張が、ようやくほどけ始めたところだ。
──なのに。
胸のあたりだけが、落ち着かない。
鼓動が、湯に沈めても誤魔化せないくらいはっきりしていた。熱のせいではないし、のぼせでもない。
その原因は、隣にあった。
バスタオル一枚に身を包んだルーシャが、浴槽の中で横に並んでいた。肩が触れるほど近い距離で湯に浸かっていて、湯面が揺れるたびに彼女の体温が伝わってきた。
見ないのも不自然だし、見れば見たで落ち着かない。
どうしてこうなったか……それを説明するには、少し時間を巻き戻す必要がある。
ミンガラム村での帰還騒ぎを、ほんのひと息で切り上げた後、ロイドたちはすぐにグルテリッジへ戻った。
村に残るのも悪くないが、用事もあるし、何よりルーシャの疲れが目に見えていた。人に囲まれたままでは、性格的に彼女は休めない。
グルテリッジへ向かう道中で食事を済ませ、ザクソン村跡地の手前でエレナとフランと別れた。ふたりは町へ、ロイドたちはそのまま我が家へと帰った。
家に着いた時点で、やることはもう決まっていた。
風呂に入って寝る。それだけだ。
いつも通り、精霊珠で水を生成し、温める。湯気が立ち、すぐにハーブの香りが浴室に満ちていった。
湯の温度を確かめて、さっさと入って寝る……はずだった。
いざ入ろうという時に、ルーシャが小さく咳払いをしたのだ。
何か言いたげに唇を開いて、閉じて、また開いて。結局、目だけが宙を彷徨っている。
その仕草に、ロイドは嫌な予感より先に「かわいいな」と思ってしまって、顔を逸らした。
そして、彼女はこう言ったのだ。
「その……たまには、一緒に入りませんか?」
一瞬、聞き間違いかと思った。
だが、振り向けばルーシャは目を逸らし、耳まで赤くしている。冗談を言っている顔ではなかった。真面目に言って、勝手に照れている。
無論、断る理由はなかった。
そして──今に至る。
ロイドは先に身体を洗い、浴槽に入った。
その間、ルーシャが洗い場で髪や身体を洗っているのを、初めて一緒に入った時と同じように目を閉じてやり過ごしていた。湯気の向こうで水の音がして、石壁に反響する。頭の中では「見るな」と言い聞かせているのに、耳だけが勝手に拾ってしまうから余計に落ち着かなかった。
彼女が「入りますね」と小さく言って浴槽へ入ってきて、ロイドはようやく目を開けた。
だが、さすがにちょっとのぼせ気味だ。湯の熱というより、別の熱が顔に上っている。
ちゃぷちゃぷ、と湯舟の中でお湯が揺れる音が浴室に響いていた。
その間、なるべくルーシャの方を見ないようにして、天井の木目を眺める。今更遠慮するものでもないのだけれど、見たら見たで色々歯止めが利かなくなりそうだったからだ。
沈黙が続いたせいか、ルーシャがぽつりと言った。
「こうして一緒に入るの、久しぶりですね……」
「まあな。初めて風呂を沸かした時以来じゃないか?」
返すと、ルーシャが「もうそんなになりますっけ」と小さく笑う。
その笑いがくすぐったくて、ロイドは咳払いで誤魔化した。
「ああ。お前が一緒に入りたがらなかったからな」
「そ、それはッ、その……恥ずかしいですし」
ルーシャの声がどんどん小さくなった。顔が真っ赤なのは、湯舟に浸かっていることだけが理由ではないだろう。
そういえば、初めて一緒に入った時もルーシャの方から提案してきたくせに、こうして恥ずかしがっていた。
自分から誘っておいて、毎回自分から自爆している気がする。そのくせ、断られると思っているような不安そうな目をするから、たちが悪い。
思い返せば、最初に一緒に風呂へ入った時もそうだった。
あの時は、男と女が一緒に暮らすことの覚悟を示すため、と以前の告白で言っていたように思う。ロイドと結ばれる覚悟があの時にはもうあった、と。
今から思い返せば、随分と遠回りしてしまったものだ。お互い両想いで一緒に暮らしていたのに、ずるずると時間だけが過ぎてしまった。たぶん、怖かったのはロイドの方だ。呪いのせいにして、自信がなくて。踏み込むのを先延ばしにしていたのだと思う。
ロイドは湯面を見つめたまま、少しだけ口角を上げた。
「それで?」
「え?」
「恥ずかしいのに、何で一緒に入ったんだ? お風呂はダメだったんじゃなかったっけ」
恋人関係になってからも、恥ずかしいからお風呂に一緒に入るのはダメ、と言われていた。
ロイドにしてみれば、嬉しい反面、よくわからない線引きだ。引くなら最初から引けばいいのに、引いたかと思えば今日みたいに突然取り払ってくる。
「えっと……」
ルーシャは言い淀み、口元を隠すように鼻の下まで湯に浸けた。
湯気の向こうで睫毛が揺れている。呼吸が止まったのがわかった。言うべきかどうか、真剣に悩んでいるようだ。
しばらくそうしてから、ようやくぽつりと言った。
「特別、だったからです」
「特別?」
「だって……初めて〈共鳴〉したじゃないですか」
照れ笑いを浮かべながら、ルーシャがそっと湯の中でロイドの手を握った。
指がそっと絡んでいって。ロイドも握り返した。
「そうだな……」
瘴印王との戦いで、ロイドたちは初めて〈共鳴スキル〉を発動させた。
もちろん、〈共鳴スキル〉自体初めての経験だ。
結ばれた時から、彼女とは共鳴しているような感覚はあった。黒と白が混ざり合い、お互いを受け入れていくような感覚。何もしていないのに、身体能力や魔力が底上げされていた。
ロイドはそれを、結ばれたことによる変化だと思っていた。だが、そうではない。あくまで土台であって、スキルとしての〈共鳴〉を発動したのは、あの決戦が初めてだったのだ。
ルーシャは繋いだ手に、少しだけ力を込めた。
「あれ、凄く嬉しかったです」
「俺も」
短く返すと、ルーシャがそっとロイドの肩に頭を乗せた。
濡れた白銀の髪からは、ほんのり洗髪剤の匂いがする。湯気と混ざって、落ち着かないくらい芳しかった。
ふたりとも、これまで〈共鳴〉には縁がなかった。
ロイドは呪いを抱えたせいで他人を遠ざけ、ルーシャは戦闘経験がほとんどない。信頼を預ける相手がいなければ、そもそも〈共鳴〉など起きるはずがなかった。それが、パーティーを追放された理由でもある。
だが、ルーシャと結ばれることで──ようやく、誰かの心に届いたのだ。
しばらく湯の音だけが続いて、白聖女が小さく呟いた。
「……私たちは、前世とかそういった時から、結ばれていたのでしょうか?」
唐突に聞こえたが、ロイドも同じことを考えていたから、驚きはしなかった。
神殿の壁画や、瘴印王が残した言葉が頭をよぎる。エレナの言う『黒き呪いと白の祈り』もそうだ。偶然にしては、引っかかるものが多すぎた。
「どうなんだろうな」
それは、わからない。
ただ、壁画や瘴印王の口ぶりを思い返す限り、いくつか前の代の聖女は、おそらくロイドと似たような呪いを持った剣士とともにいた。そうとしか思えなかった。
だが、それを言葉にするのはどこか怖い。今のこの温もりが、伝説の部品みたいに扱われる気がした。
「じゃあ、私たちが出会ったこととか、私がロイドのことを好きになったのは……予め、決まっていたということなんですか?」
ルーシャはどこか不服そうだった。
不思議なくらい、拗ねている。湯の中で口元がむくれているのがわかった。
「嫌、なのか?」
ロイドが訊くと、ルーシャは頷いた。
「だって……何だか、私がロイドを好きな気持ちを否定されたみたいじゃないですか。私は、ロイドと出会って、一緒に過ごして……この人だったらって思って、好きになったのに。それが最初から決まっていたと言われるのは、やっぱり納得できません」
そこまで言うと、彼女は再び湯の中に口まで沈んでしまった。眉間に皺を寄せて、どこか険しい顔をしている。
その横顔が、いっそ愛おしい。ロイドは呆れたように笑った。
「ばか。そんなもん知るかよ。前世がどうとか、伝説がどうとか。どうでもいいだろ」
言ってから、ルーシャの肩をぐっと抱き寄せた。
湯が大きく揺れて、ちゃぷん、と音が立つ。近づいた距離に、ルーシャが一瞬びくっとした。
「俺はお前と出会って救われたし、好きになった。そこには、他の理由なんて何もねーよ」
それは嘘偽りのない本音だった。
仮にルーシャがルーシャでなければ、ここまで信用することはなかっただろう。心を開くことも、好きになることもなかった。
彼女が彼女だったから。ロイドの呪いに怯まず、優しさだと言ってくれたから。受け止めて、一緒に笑ってくれたから。
だから、好きになったのだ。伝説や前世のせいにされてたまるか。
「ロイド……」
ルーシャはゆっくり顔を上げた。湯気の向こうで、瞳が潤んでいるように見える。
そして、小さく頷いてみせた。
「……私も同じです。ロイドだから、好きになりました」
言ってから、彼女はこちらに身体を向けて、両腕をロイドの首に回した。
バスタオル越しに、彼女の柔らかなものがロイドの胸に押し付けられる。
ロイドは喉を鳴らしそうになり、必死で息を整えた。湯の熱だけが原因ではない。
悪戯っぽく笑って、白聖女が言った。
「私たち、ずっと両想いですね」
「……何を今さら。こんなこと言ってるから、エレナたちにバカップルだなんだってバカにされるんだ」
「そうでした」
ルーシャはくすくす笑ったかと思うと、物欲しげにロイドをじっと見つめた。どこか蠱惑的で、普段より少しだけ大人びている。
「どうした?」
「たくさん頑張ったので……今日は、甘えたいです」
ルーシャの声は小さいのに、妙にはっきり聞こえた。
彼女がそう言えるようになったことが、ロイドには何より嬉しかった。聖女としてでも、誰かのためでもなく、自分のために甘えたいと言っている。
そんな風に彼女が甘えられるようになったことこそが、一番の変化なのかもしれない。
「ああ、いいよ。好きなだけ甘えな」
そう言うと、ルーシャはそっと目を閉じた。
そして、ゆっくりと唇を寄せてくる。
ロイドも瞳を閉じて──そっと、唇を重ねた。
湯気ごしに触れた彼女の唇は柔らかくて、ほんの少しだけ震えていた。
離れた後、ルーシャは潤んだ瞳でこちらを見上げて、小さく笑った。耳まで赤いのに、嬉しそうで。少しずるい笑顔だ。
前世がどうとか、伝承がどうとか、そんなものはどうだっていい。
ふたりが出会って、ふたりが結ばれた。それだけで十分だった。




