第99話 再封印完了
戦闘が終わると、手のひらに残っていた重みがするりと抜けた。
終わったのだ、と身体が遅れて気付く。
気が緩み切る前に、ロイドは右手の甲へ目を落とした。
〈呪印〉は熱を失い、黒炎の名残も消えている。まだ完全に冷えたわけではないが、暴れようとする脈動はなかった。
この神殿で溜めた瘴気を、殆どさっきの一撃で使い切ったのだろう。それに、ルーシャの白い縁取りが、最後まできちんと〝締めて〟くれたのも大きい。
広間の中心、台座の上には、ただの骸骨が横たわっていた。紫の灯りは消え、王冠は光を失った飾り物になっている。あれほど空間を捻じ曲げていた気配が嘘みたいに薄かった。
床の巨大な円紋様も、もはや音沙汰ない。沈み込んでいた圧が抜けて、腐った甘さも灰の匂いも少しずつ消えていった。肺の奥に貼りついていた嫌な膜が、呼吸のたびに剥がれ落ちていくのがわかる。
ルーシャがゆっくりと歩き出し、広間の床紋様を見下ろした。祈りの場というより、縫い合わせの跡が残る傷口みたいだ。彼女はそこへ跪き、胸に五芒星を描いて短い祈りを落とした。
「どうか、安らかに」
それは誰に向けての祈りなのかわからない。
ただ、白い粒が一瞬だけ散って、床の溝に吸い込まれていった。
エレナとフランはというと、やはりかなり無理をしていたのだろう。ふたりとも安堵の笑みを浮かべているものの、顔色がかなり悪い。
「さて……帰るか」
ロイドが言うと、三人がそれぞれ頷いた。
足を動かすだけなのに、妙に重い。疲労が遅れて身体の末端へ染み込んできた。だが、それは決して嫌な重さではない。
来た道を戻り、扉──いや、境界のあった通路へ向かう。瘴気の循環も途切れ、壁の紋様へ吸い込まれていた黒い流れも止まっている。
歩くほどに、空気が普通に近づいていく。冷気が刺さるでもなく、腐った甘さが絡むでもない。ただの外気が肺に入ってくるのがわかった。
境界を越えると、ロイドは思わず深く息を吸い込んだ。
湿り気のある土の匂い。苔の匂い。森の匂い。生き物の気配。
廃墟の中故に、決して綺麗な空気ではない。だが、それでも──当たり前のものが、今はやけに沁みた。
外に出ると、さっきまで瘴気に覆われていたせいで薄暗かった空が、晴れていた。
神殿の崩れた天井や裂けた壁の隙間から陽光が差し込んで、石の床にまっすぐな光の筋が走っている。埃の粒がきらりと舞った。
エレナが眩しそうに目を細めた。
「太陽って、こんなに眩しかったっけ」
「生きてるーって感じがするねー!」
フランは大げさに胸を膨らませ、空気を吸い込んでから吐いた。
ロイドはそれらに対して、特に返事をしなかった。
まだ、全てが終わったわけではない。
封印の核──祠へ行って、傷口を縫い止め直さなければならない。
「ルーシャ、最後の封印。できるか?」
「はい」
ルーシャが静かに頷く。
少し声音にも疲れが滲んでいる気がするが、もう少しだけ頑張って貰わねばならなかった。封印の儀を成せるのは、彼女だけだ。
四人で祠の方へ向かうと、空気はさらに軽くなった。鳥の声が遠くから戻り始めている。さっきまで黙り込んでいた木々が、風に揺れて葉擦れの音を立てていた。
ロイドは周囲の変化を肌で拾った。
瘴気の匂いが薄く、足元の土が黒く沈んでいない。小さな草の芽が、かすかに上を向いていた。
瘴印王が倒れたことで、森が息をし直しているのだろう。
祠の方はというと、相変わらずだった。
封印の石盤は割れ、紋様は欠けている。そこから瘴気が染み出していた痕が残っていた。今は噴き上がってはいないが、放っておけばまた広がるかもしれない。それに、また瘴印王のような魔物の巣にならないとも言い切れなかった。
「では……始めます」
ルーシャが石盤へ手を当て、深呼吸をする。
彼女の指先は冷たい石に触れているのに、浅葱色の瞳はまっすぐ前を向いている。
(これで、ようやく終わるな)
ロイドはそう思い、剣の柄に手を添えて立った。ルーシャのすぐそば。彼女に何かあれば、誰より早く動ける距離だ。
エレナは後方で術式の補助に回り、フランは周囲を警戒するように目を配った。
儀式中、ルーシャはどうしても無防備になる。もし魔物の残党が出るとしたら、このタイミングだ。
〝白聖女〟は地面に膝をつくと、胸の前で十字を切って、静かに祈りを捧げた。
柔らかな光があたりに満ちて、石盤の紋様に白い線が走る。そして、それらの光が割れ目に沿ってゆっくりと馴染んでいった。
ロイドは、そんな様子をじっと眺めていた。
その華奢な背中に、どれだけのものを背負わせてしまったのだろうか。そして、これからも背負わせてしまうのだろうか。
呪いの制御にはどうしても彼女の力が必要不可欠だからこそ、ついそんなことを考えてしまう。きっと、彼女はそんなことを一切気にしていないのだろうけども。
やがて……光がすっと沈んだ。
祠の周囲を風が一度だけ通り抜ける。
儀式が終わった合図だった。
「あっ……と」
ルーシャが立ち上がろうとして、足元をふらつかせる。
「あ、おい」
ロイドは反射で腕を伸ばし、ルーシャの肩を抱くように支えた。
「だ、大丈夫です。ちょっと立ちくらみがしただけですから」
強がりながらも、声が少し弱かった。
近くで見ると、彼女の睫毛が微かに震えている。汗も、ほんの少しだけ浮いていた。明らかに魔力の使い過ぎだ。
尋常ならざる魔力を持つ〝白聖女〟も、さすがに今日は限界を迎えたようだ。
ロイドは息を吐いて、眉を寄せた。
「嘘を吐け」
「……実は、ちょっぴり疲れました」
ルーシャは眉根を寄せて、困ったような笑みを浮かべた。
「当たり前だ。無茶ばっかりしやがって」
叱っているつもりなのに、声の底に安堵が混ざっているのが自分でもわかった。
無茶をしたのではない。させてしまったのだ。
今回の戦いが瘴気を操るものが主だったというのもあるが、ルーシャの負担が大きすぎた。
彼女に手を差し出して、ぶっきらぼうに言う。
「ほら。支えててやるから」
「では……少し甘えさせて頂きますね」
言うと、ルーシャはロイドの腕を抱えるように抱き寄せた。
そんなふたりを見て、少し離れた場所でエレナとフランが視線を交わしていた。
エレナは肩を竦めて、「また始まった」という顔をしていて、フランもそれに苦笑いで答えている。
「……はいはい、お熱いことで」
「仲いいねぇ、ほんと」
そんな声が聞こえた気がするが、聞こえなかったふりをして、空を見上げた。
自分の耳が熱いのがわかる。
「ロイド、耳が赤いですよ?」
「やかましい。何でお前は恥ずかしくないんだよ」
「恥ずかしいですけど……もう慣れました」
悪戯っぽく笑って、ルーシャはロイドの腕に体重を預け直した。
森の空気は軽く、鳥の声は確かに戻っていた。祠の石盤は静かだ。
ようやく本当に──終わった。
恋人の体温を感じながら、ようやくそんな実感が持てた。




