第98話 決着
黒炎が右腕の周囲で揺らめくたびに、広間の空気が薄く鳴った。音として耳に届くわけではない。ただ、床の円紋様がわずかに遅れて脈打つのが見えた。こちらの呪いの熱に、神殿そのものが身構えているかのようだった。
ロイドは一度、右手を見下ろした。
〈呪印〉の刻まれた皮膚の下で、黒炎となった瘴気が渦を巻いている。膜、通路の流れ、スカルハウンド・ロードの残滓、そしてこの広間の粘り──それらがひとつの塊となって、今にも噴き出しそうに膨れ上がっていた。
暴れたがっている。喰ったものを吐き返し、壊したがっていた。
だが、ロイドはそれを〝放つ〟のではなく、〝握る〟つもりだった。
呪いを道具にするのではない。呪いも含めて自分だと認めた今だからこそ、制御する覚悟が生まれる。黒炎は、その覚悟の形だった。
視界の端で、紫の灯りが静かに揺れていた。
瘴印王は、表情のない骸骨のまま、こちらを見ていた。ただ、さっきまであった余裕の色が、随分と薄くなっている。ここまで辿り着く間、奴はずっとロイドたちを監視していた。これまでこちらを消耗させるような罠を数多く配置していて、万が一辿り着かれることがあったとしても、何とかなると思っていたのだろう。
だが、ロイドの黒炎を見てからは明らかに反応が変わっている。焦っているのだ。
その一方で、あの空間をずらす能力は力技ではどうにもならない。このまま黒炎を纏って斬りつけたところで、結果は変わらないだろう。
届かせるには、条件を満たす必要があった。
そして──そのカギは、ルーシャだ。
「ルーシャ。今からこいつをあの野郎にぶつける。俺の剣に……お前の力を乗せたい。できるか?」
ロイドはちらりとルーシャを横目で見て訊いた。
ただ、剣に彼女の魔力を付与するのではない。この〈呪印〉の力を一切弱めずに、聖なる力を付与してほしい、という意図も含んでいた。
並大抵の技術ではない。彼女の聖なる力は本来、呪いを消すために用いられるのだから。
しかし、ルーシャは迷わなかった。瞬きひとつ分の間も置かず、即答する。
「はい。ロイドが斬る瞬間に合わせればいいんですよね?」
「……ああ」
さすがだな、とロイドは苦笑いを浮かべた。ロイドが言葉にできなかった部分まで、形にして返してくれている。
言葉にしなくても伝わるし、説明しなくても理解してくれる。こんな人がいるだなんて、思いもよらなかった。黒炎の熱の奥で、胸がじんわりと温くなる。
ルーシャはそれに気づいたみたいに、にっこりと微笑んだ。
笑顔は穏やかなのに、その浅葱色の瞳の奥は揺らいでいない。聖女という役割ではなく、ロイドの隣に立つ〝ひとりの女性〟としての覚悟がそこにあるような気がした。
「何があっても、もうロイドに暴走なんてさせませんから。安心してください」
「……頼りにしてるよ」
ロイドがそう返すと、ルーシャは目を細めて、ゆっくりと頷いた。
背中を押された気分だ。〈呪印〉の力を用いれば、また暴走するかもしれないという恐怖は常にあった。仲間がいれば、尚更だ。
だが、今はもう、その恐怖を気にせずに踏み込める。もう、ひとりで呪いを抱えているわけではないから。一緒にその呪いを支えてくれる人がいるから。
そう思った瞬間、黒炎が静かに安定した。燃え盛るのではなく、芯の強い火に変わる。
ロイドは黒炎を纏わせた〝ルクード〟を構え直して、頬を吊り上げた。
「お前の幻想ごと、ぶち殺してやるよ」
ロイドのその宣言に、瘴印王の紫灯が僅かに跳ねた。
危険を察知したのだろう。骸骨の王冠が鳴るように震え、周囲の瘴気が一斉にざわめく。
柱の影が裂け、骨が立ち上がった。
今度は先ほどの比ではない。骨兵が地面から生えるように次々と召喚されていった。数で道を潰して、ロイドの接近を遅らせるつもりなのだろう。
遠回りさせている間に空間ずらしを完成させ、黒炎の勢いを削ぐ。そういう算段が透けて見えた。
「さぁて、と」
「あいつらの相手は、私たちが引き受けるわ」
ロイドの左右に、フランとエレナが並んだ。
ふたりとも、表情には疲れが見え始めている。〈共鳴スキル〉の影響だろう。あれは互いのスキルを何倍にも引き上げる代わりに、身体への負担が大きいのだ。
「そのえっぐいので、絶対にあいつをぶっ倒してよね」
「もうあたしらも、結構ふらふらだからね?」
エレナの言葉には毒が混じっていて、フランの声は笑っているようで少し震えている。
それでも、一緒に戦ってくれようとしていた。それが何とも嬉しくて、少し照れくさい。だからこそ……絶対に、負けるわけにもいかなかった。
ロイドは瘴印王から目を離さないまま、釘を刺した。
「あんまり無茶はするなよ」
「はっ。もう十分無理してるっての」
「いっくぞ~! 全部出し切ってやる!」
フランが叫んだ直後、ふたりは同時に動いた。
骨兵の群れへ、真正面から飛び込んでいく。
数に呑まれるのではなく、散らすために。中央に、道を開けるために。
フランの鉄槌が唸り、骨が砕ける乾いた音が広間に響いた。
エレナは広範囲魔法で骨兵を蹴散らしていく。
(よし……)
ロイドは精神を集中させて、〈呪印〉が蓄えた呪いを〝ルクード〟へ流し込んでいく。
必要なのは、断ち切るための〝一閃〟。斬撃一回で、奴を仕留めなければならなかった。
黒炎が右腕から剣へ吸い込まれるように移り、〝ルクード〟の黒がさらに深く沈んだ。
周囲の瘴気が〝吸われる〟ように薄くなり、空気ごと軽くなっていく。轟音ではなく、無音の圧。
(さあ……勝負だ)
ロイドは瘴印王を睨みつけ、エレナとフランが開けた道を一気に駆け抜けた。
骨兵の剣が振られても、呪霧が伸びても、足を止めなかった。
その背で、ルーシャが胸に五芒星を描いた。
「母なる光よ。黒き刃に、穢れを断つ意志を与え給え!」
白聖女が短い祈りを落とす。その祈りは刃そのものではなく、黒炎の〝輪郭〟へ向かった。
白い光が、黒刃の周囲に輪郭を象っていく。黒を消すのではなく、否定するのでもなく、《縁取って守る》ような白だった。
魔剣〝ルクード〟が、黒と白の二層を纏っていく。呪いの剣が、聖なる魔法剣へと変わっていった。
黒は貫通。白は補正と制御。ふたつが噛み合って、刃の〝座標〟が定まった。
これなら……届く。その確信が持てた。
そこで瘴印王が身の危険を悟り、広間の圧を跳ね上げた。
紫灯が燃え、瘴気が叫ぶように渦を巻く。
『またこれを見せられるか。いいだろう……来い。今度こそ、その刃に打ち勝ってみせよう』
床から呪槍が生えた。天井からは瘴気針が降る。さらに、足元に呪縛線が再び伸びてきた。
攻撃を重ね、道を潰し、ロイドの命を真っ直ぐ奪おうとしてくる。あらゆる攻撃を一度に叩き込んでくるその圧は、さっきまでとは比べものにならなかった。
「ちょ……さすがにやりすぎでしょ」
「ロイド、避けてー!」
エレナとフランが慌てて前に出ようとした。
しかし──その前にルーシャが一歩、歩み出る。
「ロイドには、触れさせませんから」
その宣言と同時に、五芒星を指先で描く。
すると、〈魔法障壁〉がロイドの周囲に複数立ち上がった。
ただ守るだけの壁ではない。叩き落とす壁だ。
呪槍は弾かれ、瘴気針は散らされ、呪縛線は光の膜で滑って途切れていく。ルーシャの動きに迷いはなかった。
(……ルーシャ。やっぱり、お前は最高の女だよ)
思わず、ロイドは口元に笑みを浮かべる。
彼女はロイドが避けないことを知っていたのだ。〝斬るべき瞬間〟のために、余計な回避を挟まないことを察していた。
それはロイドも同じだ。ロイドも、ルーシャが守ってくれるとわかっていたし、だからこそ、避けるつもりがなかった。
攻撃を見て避けるのではなく、支援が来る前提で一直線に突き進む。こんなこと、彼女を信頼していなければ絶対にできないことだ。
そして、再び瘴印王の前へ至った。
骸骨の表情は変わらない。だが、紫灯の揺れ方がさっきとは違った。恐怖が混ざっているように見える。王冠の下で、瘴印王の意思がざわついているのがわかった。
「ふっ……そんな外見してても怯えるんだな」
『黙れ! 汝の攻撃は届かぬ』
瘴印王が例の空間ずらしを発動した。
床の円紋様が脈打ち、距離が歪む。刃が核から逸れる──はずだった。
だが、もう〝届かない〟ことは知っている。
だからこそ、今回は斬る位置を変えた。
狙うのは核ではない。空間そのものだ。
「……断ち切る」
ロイドは呟きとともに踏み込み、刃を振るった。
黒炎が推進力となって斬撃が伸びる。同時に、ルーシャの聖なる光が刃の座標を固定した。空間ずれの干渉を弾き返して、初めて破れる。
黒が圧となり、白が制御となり、ふたつが重なって一本の〝真っ直ぐな線〟を描いた。
その瞬間、ロイドの右腕とルーシャの祈りが同時に脈打ち……ふたりは導かれるようにして、声を合わせる。
「「──〈共鳴・聖呪〉」」
黒と白の光が刃の上で同調し、噛み合い、溶け合っていく。
それは、呪いでも祈りでもなかった。その両方を束ねた一振り。そんなものが、今ロイドの手の中にあった。
『せ、〝聖呪剣ルクード〟……』
瘴印王が呻くようにして言った。
ロイドが持つ剣のことを言っているようだ。
『また、私はその剣に敗れるのか』
絶望と諦めのような声が、瘴印王から漏れてくる。
その言葉の意味は、ロイドにはわからなかった。
壁画のこと、『あの時』という言葉、そして今の〝また〟。
全部繋がっているのだろう。だが、今はいい。
そんなものは、ロイドたちには関係がなかった。
「知るか。お前の幻想に、付き合ってられるかよ」
ロイドは迷いを振り切るように刃を握り直し──するりと〝聖呪剣〟を刺し込む。
今度は確かに、骨の核へ届いた。
そのまま刃を押し込み、核の〝中心線〟を断ち切っていく。
ロイドの瘴気が裂いた傷口から、ルーシャの光が内側へ流れ込んだ。核の奥で白が膨れ上がり、中から砕けるように罅が走る。
核が、中央から真っ二つに割れた。
『ッ……無、念』
瘴印王の眼底にあった紫の灯りが沈んで、白に包まれていく。
残ったのは、ただの動かぬ骸骨だけだった。
周囲の骨兵も、糸が切れたように崩れ落ちる。
床の円紋様の脈動が止まり、空気が軽くなった。腐った甘さが薄れ、灰の匂いも遠ざかっていく。
神殿が、ようやく息を吐いた。
「ほんとにやった……!」
「わー! やったー!」
エレナとフランが声を上げた。フランは鉄槌を掲げ、エレナは信じられないという顔で笑っている。
ロイドは剣を鞘に収めて、ルーシャへ向けて親指を立てた。
ルーシャもそれに応えるように小首を傾げて、嫣然と微笑む。
ロイドにとってもルーシャにとっても、初めての〈共鳴スキル〉だ。
だが、意外にもそれが使えたことに、あまり感動はなかった。
きっと、そんなものがなくても互いに信頼し合っていることがわかっていたからだ。
〈共鳴スキル〉は、信頼関係の上にあるおまけでしかない。
それを、改めて理解した。
「ロイド」
「ん?」
「早くうちに帰りたいですね」
ほんのりと頬を締めて、ルーシャが呟いた。
「……ああ」
ロイドは頷くと、ふたり見つめ合って──照れた笑みを交わす。
そんなふたりをフランが茶化して、エレナが呆れて。ふたりして恥ずかしくなって。
さっきまで死闘を繰り広げていたとは思えないような時間だった。




