第97話 決意と覚悟
ロイドは浅い呼吸のまま、視線を走らせた。
床の円紋様、その溝をなぞる瘴気の筋、石柱の影に溜まる黒い澱み、台座へ向かって収束する濃淡……どれもが意味を持ち、どれもが罠としてこちらへ牙を剥いていた。
そこに答えはありそうにない。
(……どこだ。どこにある)
舌の奥で苛立ちを噛み砕いていると……ふと、ロイドの視線が自然と自分の右手へ落ちた。
〈呪印〉。手の甲から手首、そして腕へ、骨の内側に沿うように刻まれた黒い紋が、熱を持って脈打っていた。その熱は痛みとは違い、獲物を前にした獣の興奮に近い。
そして、握った魔剣〝ルクード〟。〈呪印〉と同じ色を持つ黒刃は沈んだ光を返し、微かな唸りを帯びている。
そこで、ロイドの中に、ひとつの考えが落ちた。
(……待てよ?)
この神殿へ入ってから、〈呪印〉はずっと喰ってきた。
瘴気の毒を含んだあの嫌な薄皮。通路に漂っていた腐った甘さ。スカルハウンド・ロードの残滓。広間に満ちる粘りと重さ。
喰ったものは、確かに身体の内側へ沈み込んでいった。呪いの器へ、燃料として溜め込まれている。
だが──未だそれらは、まだ使われていない。
右手の奥に、それらがまだ居座っている感覚がある。押し込められ、封じ込められ、蓋の裏で渦を巻き続けていた。
もし、それが溜まっているのだとしたら。
(……爆発させることだって、できるんじゃないか?)
この場を支配する瘴気の流れを、こっちの呪いでひっくり返せることだって可能なはずだ。空間を折り畳むなら、折り畳まれた距離ごと叩き割るほどの〝圧〟と〝呪い〟をぶつけてやればいい。刃が届かないのなら、刃そのものに瘴気を喰った呪いの熱を纏わせて、距離の誤魔化しごと全て破壊する。
脳裏で、これまでの〈呪印〉の暴走のイメージが上がった。あの力を、今ならもっと高めた状態で使えるはずだ。
だが同時に、不安でもあった。
〈呪印〉は使い勝手がいい道具ではない。呪いだ。燃料にした瘴気が濃ければ濃いほど、呪いは強くなる。そして強くなった呪いは、制御を拒む。
以前もそうだった。力を引き出した瞬間、呪いはロイドの意思を置き去りにして、仲間を傷付けた。ルーシャだって傷付けそうになったことがある。
ルーシャだけが、この呪いを抑えることができた。
だが今回はどうだ。そもそも瘴気を喰うなどというのは、今回が初めてだ。その状態で力を解放させたことは、これまで一度もない。果たしてその状態でもこれまで通りルーシャが抑え込めるのだろうか? もしそれができなければ、ルーシャもエレナもフランも、呪いの暴走のままに傷付けてしまうかもしれない。
(それなら突破はできそうだけど……どうする?)
腹の底が、重く沈んだ。
選択肢は少ない。小細工を破るには、小細工の上を行く理不尽が必要だった。
そう思った時──円の中心で、瘴印王の眼窩がふっと深く光った。
淡い紫が、濁りを増す。灯りの輪郭が鋭くなり、視線というより刃のようにこちらへ突き刺さった。
頭蓋の内側へ、直接声が打ち込まれてくる。骨を震わせ、思考を揺らし、呼吸の拍まで奪っていく。
『黒き呪いよ。汝は所詮、呪いの受け皿だ。生きていても孤独なだけだ。ここで我に喰われ、一部となるのが汝の幸せであろう?』
瞬間、〈呪印〉が跳ね上がった。
右手の熱が爆ぜ、皮膚の裏側が焼ける。嫌悪と興奮と、無性な飢えが混ざった不快な脈動が、腕を通って胸へ上ってきた。
精神攻撃の類だ。
(くそ、聞くんじゃねえ……ッ)
拒否しようとした時には、もう遅かった。
視界が僅かに歪み、床の紋様が波打つ。空気の重さが増したわけではないのに、胸の奥が沈んで息が詰まった。
その時脳裏に蘇ったのは、ユリウスからパーティーを追放された時の光景だった。
目を逸らす仲間と、ユリウスの見下した視線。
役に立たないと切り捨てられ、自分の居場所が消えていく感覚。
剣を握る意味ごと否定され、取り残され、ひとりで立たされる孤独。
そして……それは、ただの記憶ではなかった。
ユリウスの姿が、徐々にルーシャへと変わっていく。
ルーシャから見下され、そしてエレナとフランもそれに同調する。
嫌だ。
やめろ。
独りにしないでくれ。
そんな思いが痛みとして蘇り、今この場で現実になる錯覚に変わる。
崩れ落ちそうになった、その刹那──。
「ロイド!」
ルーシャの声が、真っ直ぐに頭の中に入ってきた。
それだけで、ロイドは意識を取り戻す。
次いで、白い指が右腕に触れた。触れた箇所から結界が澄み、視界の濁りが洗い流されるように薄れていく。
目の前に、ルーシャがいた。心配そうに眉を寄せ、泣きそうな目でこちらを見ている。
その後ろに、エレナとフランも不安そうにこちらを見つめていた。
(ああ……そうだったな)
自分は、もうひとりじゃない。
恋人がいる。
仲間がいる。
切り捨てられて終わる場所ではない。今のロイドには、守るべきものと、並んで戦ってくれる人間がいる。
だから──。
「……黙れ死に損ないの化け物が。俺は器でもないし、孤独でもない」
ロイドは顔を上げ、瘴印王を睨み返した。
紫の灯りの向こうにいる災いへ、腹の底の言葉を叩きつける。
「それに──こいつも、忌むべきものじゃない」
呪いの刻印が刻まれた右腕を、天へ翳す。
皮膚の隙間から、黒いものが滲み出していた。これまで喰ってきた瘴気が抑え切れなくなったように、呪いの内側から溢れ出してくる。
黒が手の甲を這い、手首を撫で、腕へと伸びて滲んでいく。
ロイドの喉が、自然と笑いの形になった。
怖さが消えたわけではない。だが、もう腹は括られていた。
「こいつは俺の相棒で──俺そのものなんだよ」
滲んでいた黒が、爆ぜる。〈呪印〉から噴き上がった瘴気が、黒炎へと変化を遂げた。
熱を持ち、光を喰い、空間を焦がすような、呪いの火。
右腕の周囲だけ空気の密度が変わり、床の円紋様がびくりと震えた。
「な……なんだと」
紫の灯りが、ほんの僅かに揺らいだ。
ロイドは黒炎を纏った右手を握り込み、魔剣〝ルクード〟の柄へ添えた。
(全部……壊してやる)
その決意が、黒炎の芯で静かに燃え続けていた。




