第96話 謎
「では、戦う気とやらを見せようか」
瘴印王はロイドの悪態を薄笑いで受け流し、手のひらを伏せる。
すると、巨大な円の紋様がどくんと脈打った。
床の溝を走っていた瘴気が、一本の意思を持ったように収束する。黒い鎖線──鎖の形をした線──が、円から外へと伸び、ロイドの足元へ絡みついてきた。
掴まれた、という感覚ではない。地面が、急に重くなったのだ。
踏み込んでいるはずの石床が、泥に変わったみたいに沈む。いや、泥より厄介だ。泥なら抵抗を押し切れる。だがこれは、呪いが質量を持った、という感覚だろうか。目に見えない鉛が足首に巻きつき、膝の裏を引きずり落としてくる。
膝が沈み、背骨がぎしりと鳴った。
「逃げて! それに捕まったらいくらあなたでも終わるわよ!」
エレナの声が飛んだ。
もう捕まってるんだけどな、と思いつつも、遅いとも思わなかった。実際、今のこれは避けられる種類のものではない。仕掛けが足元に来た時点で、既に踏んでいるのだから。
「どうやら、そうっぽいな」
ロイドは苦笑いをして、短く返した。息が浅い。肺に入る空気が、また錆びた味に変わっていた。
だが、このまま絡めとられてやるわけにもいかない。
ロイドは魔剣〝ルクード〟を下段に落とした。狙うのは足首でも鎖でもなく、床の紋様──黒い鎖線が湧き上がっている導線そのものだ。
黒刃が石床へ叩きつけられ、乾いた火花が散った。
石が削れ、紋様の溝が抉れる。そこから瘴気が噴き上がり、鎖線が一瞬だけ迷うみたいに震えた。
重みが、僅かに抜ける。
「ロイド!」
ルーシャの声が合図のように響くと同時に、足元に薄い結界が滑り込んだ。
白い光の膜だ。ここを足場にして逃げろということらしい。
ロイドは頷き、沈んだ足を引き抜いた。
抜いた直度に呪いの重みが追いすがるように足首へ絡んだが、結界の滑りがそれを弾いた。まるで油を塗った板の上を蹴るように、足がするりと逃げる。
そのまま跳躍し、ようやく呪縛陣から脱出できた。
重さが抜けた勢いで、身体を前へ飛ばした。
(舐めた真似ばっかしやがって……!)
ロイドは着地と同時に再接近した。
黒刃を一閃、今度こそ核へ叩き込んだ。
だが──また、あの感覚が来た。
空間がズレる、独特の気持ち悪さ。腕の伸びが届くはずの長さに達しているのに、刃が空を噛むような、噛み合わない手応えになる。近いのに、遠く感じてしまうのだ。
(クソが……何だよこれ。皆が突破口を作ってくれてんのに、まだ届かないのかよ!)
歯の奥で、舌打ちが鳴る。
フランが雑魚を引き付け、エレナの干渉で壁も揺らいでいた。ルーシャの結界で動きは通せている。ここまでは上出来のはずだ。それなのに、肝心の一手が足りない。
(闇雲にやっても削られるだけだな)
ロイドは判断を切り替えた。
突っ込めば突っ込むほど、あのズレで時間だけを喰われる。そこから反撃を受けて、こちらは体力や魔力、神経を削られてしまうのだ。こちらのテンポを崩し、じわじわ削り、最後に一撃で終わらせる。
ロイドは一旦引くことを選んだ。
ルーシャとエレナの位置まで戻り、フランもそれに合わせて下がる。四人の距離を詰めて、戦線をリセットした。
「作戦会議か? まあ、それもいいだろう」
その様子を見下ろしながら、瘴印王が声を落とした。
余裕綽々といったところだろう。紫の灯りが揺れるたび、柱の影で骸骨兵が起き上がった。
ロイドはそれを無視して、仲間へ視線を寄せた。
「おい、エレナ。どうすりゃいい? お前の知識で何とかならないか」
自分の口からその言葉が出たことに、ほんの一瞬だけ驚いた。
そう。観念して、無意識にな仲間を頼っている。少し前の自分なら考えられなかったことだ。
だが、ひとりで抱え込んで何とかなる相手でもないことは、もはや自明だ。
「どうすりゃいいって、私に訊かれたって……」
エレナは唇を噛み、床の紋様と瘴気の流れを見た。
円の外周から中心へ。中心から台座へ。台座から空間へ。瘴気は川のように循環していた。いや、循環ではない。どこかで折り畳まれている。
そこで、エレナの目が僅かに見開かれた。
「さっき、あいつは『届くと思ったか?』って言ってたわ」
「……? ああ、そうだな。それがどうした?」
ロイドが眉を寄せると、エレナは言葉を選ぶように一度息を吸った。
「『当たる』ではなく『届く』。つまりは……本来は当たるもの、なのよ。でも、剣は届いてない」
その一言で、ロイドの背筋に冷たいものが走った。
当たっていないのではなく、届いていない。感覚の正体が、やっと輪郭を持ち始めた。
そこで、ルーシャもはっとしたように息を呑む。
「わかりました! 瘴気の流れで距離そのものを誤魔化してたんですね?」
「そういうことよ」
エレナは頷いた。
瘴気が床の円紋様を脈打たせ、空間を折り畳む。近距離を遠距離に見せかけいる、或いは刃先が届く最後の一寸だけをずらしていたのだ。だから斬ったはずが、核へ入らない。
「なるほどな」
思わず声が出てしまった。
ロイドの中で、いくつもの違和感が一本に繋がっていく。近いのに遠く感じて、踏み込んでいるのに進んでいない違和感。刃が触れたはずなのに手応えがない不愉快さ。
理解した瞬間、逆に腹が立った。なんという小細工だ。
だが、最上位クラスの魔物に小細工を使われては、もはや腕力だけではどうにもならない。
「それがわかったってさぁ……! どうすればいいの!?」
フランが悔しそうに歯噛みした。
そう。それが問題だ。正体がわかっても、割り方がなければ意味がない。
瘴印王は相変わらず動いていなかった。余裕のまま雑兵を補充し、床を脈打たせている。
(今は、向こうも余裕をぶっこいてる。ここがチャンスなんだ)
ロイドは息を浅く整えながら、次の一手を探した。
床の紋様。瘴気の流れ。柱の影。台座の位置。どこかに、糸口があるはずだ。
この隙に策を組まなければ、本当に終わってしまう。
何とかするしかなかった。




