五十八柱目 エンディング
一切の光を通さない完全な闇。それはまさに真の闇と呼ぶに相応しい。
決して照らし出せる光など無いはずの暗闇で、仄かな白い煙のようなものが見えた。
それは煙のように、あるいは一筋の希望の光といわんばかりの目印となった。
「クロ、見えるか?」
「み、見えるっす! あれを辿っていけばいいんすか!?」
「間違いない、俺の中の愛欲がアレを求めている。あれを辿れクロ」
「うっす!」
ぐんぐんと闇の底へと沈んでいく。
一縷の望みを辿り、俺たちは急速潜航の果てにリステアがいると信じて。
恐らく、これはリステアの神気。
リステアの類稀なる聖女としての素質は、真の闇の中でさえ輝きを失わないらしい。
そして、俺たちはようやく辿り着いた。
突然、泥のような重さの闇が途絶え、広いドーム状の空間に出た。
天井を突き破ったのだろう、床は更に下の方にある。
二人の姿もまた、そこにあった。
「リステアッ!」
「レクト!」
俺はクロの足を手放し、一直線にリステアの元へと落ちていく。
落下に五秒ほどかけ、ようやくリステアの側に着地する。
「無事か!? 怪我は、状態異常は!?」
「大丈夫ですレクト。少し目印に血を要しましたけど、行動に支障は無いレベルです」
「血? じゃああれは……」
そうか、あれはリステアの血液か。
見ればその左手からかなりの血が滴っている。
「見せて」
「はい」
リステアの手を取ると、なるほど深く入れたな。
とりあえず魔法で治療するか。
「愛欲によりて、健闘を讃え、その傷を癒し、あるべき姿へと返す」
傷は即座に塞がる。何事もなかったかのように。
「ありがとうございます」
「まったく……俺が来る前に死んじゃうかもしれないとか考えないのか」
「きっと、私が死ぬよりも先に迎えに来てくれると信じていましたから」
抱き締めたくなる微笑みを見せるので、俺は遠慮なく抱き締めることにした。
ちゃんと暖かい。生きている証拠だ。
温もりは命を実感させ、胸の大きさからくる反発力は心地よい。
「なぜ来た」
「……空気の読めない奴」
振り返ると、神は困惑した表情で立っていた。
円形の場所、リステアと対面するように立っていた神は、解けない問いを俺に投げかける。
「なぜって、最愛の人を追いかけるのに理由が要るか。最愛だからだよ」
「だからといって、己の身を投げ出すほどか。他の何かで代用はできないのか……」
「出来ないね。リステアに代わりはいない」
「分からない。私には分からない」
何が分からないのか、俺も分からない。
俺にとっては至極当然なことをしただけだからだ。
「欲は己の身を満たすものではないのか。なぜ欲のために己の身を投げるのだ」
「ああ、そういう疑問か。それも簡単だ。それが愛欲だからだ」
相手を満たすことで、己も満たせる愛欲ならではだろう。
「まあどうでもいいが。それより、リステアは返してもらうぞ」
「愛欲……そうか、それならば、私の心配もいらないのかもしれない」
「何の話だよ」
ただでさえ神様なんて何を考えているのか分からないのだ。
いや、分かる必要などないのだが、こうも小出しにされると最後まで聞きたくなる。
「自己犠牲の愛。おそらくこの世で最も尊く、最も悲しい愛の形、悲劇の代名詞」
「自己犠牲? 神様よ、そいつは勘違いだ。俺は滅私奉公してるわけじゃねえ。愛しいもののためなら犠牲になっても構わないが、有象無象のクソのために手間をかけてなんかやれない。俺とお前の違いはソコだろ?」
「ああ、確かにそうだ。私は、誰も犠牲になる必要のない世界を望んでいたというのに」
「命さえあればいいなんて原始的すぎるんだよ。俺たちはもう欲望と享楽のために生きていいはずだ。それが自由だ」
もはや神に庇護される必要などない。
人は勝手に人の道を敷き、その先を行く。
なら俺は俺の道を行くだけだ。
誰かが邪魔をするならばそいつを捻じ伏せ、押し通るまで。
「もういいだろそれで。人の思いが強ければ、悪魔も助力は惜しまない。代償は要求するだろうけどな」
その思いが人々を護ろうという善であれ、人々を犯そうという悪であれ、悪魔は人の思いと報酬にあわせて力を貸す。
そうやって人は欲望を満たしながら、死ぬまで活きる。
「じゃあな神様、せいぜい人間がどこまでやれるか、世界の底から眺めているがいい」
「待て、もう一つだけ」
なんだ、まだあるのか。さっさと済ませてくれ。
そろそろリステアとゆっくりお茶でもしたい気分なのだから。
モリオンの剣を自分の闇から取り出して、神とリステアを繋ぐ見えない肉を切りながら、耳を傾ける。
「お前はこれからどうする」
「どうするもこうするも、リステアと末永く幸せに、悪魔たちと面白おかしく活きて行く」
「人の身で神を継ぎし者。お前は既に人間には戻れない。最愛の聖女とていずれ死ぬ。だがお前は死ねない」
「その心配はいりません」
リステアは凜とした声で宣言した。
「私はレクトの妄想より生まれた者。この命が幾度転輪しようとも、必ずまたレクトの元へと帰り着いてみせます。同じ姿で」
「ブッキーに言えば死んだ瞬間に魂保管してくれるだろうから、そんなことする必要ないぞ」
リムルの無粋ながらありがたい情報提供に密かに感謝しながら、俺はようやく断腸を終える。
「やりようはいくらでもあるし、最悪草の根を分けてでも探し出すさ。お前が言うとおり、時間はいくらでもあるからな」
「……人の欲とはなんと深く、底知れぬものか」
もう話すことはないという風に、神は溜息を零す。
「精々、哀れな私を楽しませてくれると嬉しい」
「なに、退屈はしないだろうさ。人間は底知れないからな」
「レクト、私に捕まってください。私ならこの闇の中を浮かび上がることが出来ます」
そういえばリステアの血は全てが沈む闇の中でさえ上に昇っていた。
そうか、闇の重さよりリステアの浮力が勝るのか。
「ただ、圧で潰されてしまうので」
「そこは俺とリムルでなんとかしよう。クロ、今度は昇りだ」
「浮力がある分、楽だといいんすけどね」
俺はリステアを片腕で抱きながら、クロの片足を掴む。
リステアも同じように掴んでバランスを取り、リムルはやはり俺にしがみつく。
「レクト、ダクネシアは永遠に天上にあることを代償に私を永久に沈めた。この犠牲、無駄にしてくれるな」
「無駄にはならねえさ。じゃあな神様」
沈みゆく神に見送られながら、俺たちはクロが羽ばたく度に浮上していく。
やがて、視界は再び闇に閉ざされた。
浮力と羽ばたきが合わさって、急降下した時と同じか、それ以上の速度で上昇していく。
「リステア、怖いか?」
「いいえレクト。怖れる理由などありませんから」
ブッキーの魔鎖もあるし、戻れないということはないだろう。
だが、俺は万が一のことが頭を過ぎって不安になる。
「私にはレクトが居ますから。それに、レクトには私が居ますが、悪魔の方々もいます。そうなると、私はますます安心です」
「なるほどなぁ」
ふと、俺の繋がっている魔鎖が引っ張られるような感触がした。
ブッキーたちは俺たちが上がってくるのに気付いたのだろう。
釣り上げられるような力で、地上へと上がる速度は更に速まっていく。
次の瞬間、唐突に目に差し込んでくる光で思わず目を閉じる。
「まぶし……うぅ、明度の差がありすぎる……あだっ!」
浮遊感に襲われたかと思えば、次の瞬間には地面に転がっていた。
ふと起き上がり、周囲を見回すと、隣にはリステアとリムルが同じように投げ出されていた。
闇の中では自分の声さえ聞こえなかったが、もう自分の鼓膜が音に震えるのを感じる。
容易に息が出来る空気の軽さと感触。光に照らされるとりどりの色。風が運んでくる土や木の匂い。
「よく戻ったレクト。戦果は……上々のようだな」
クロは墜落するかのような雑さで着地して倒れこみ、よほどキツかったのだろう呻きながら荒く呼吸している。
「ひーっ! もう無理っすぅ!」
「サンキュー、クロ。ナイスファイトだった。リステア、リムルは大丈夫か?」
「はい、私は大丈夫です」
「こっちも特に問題ないな」
損耗は軽微、最高じゃないか。
まったく酷い手間をかけさせられた。
にしても、やけに静かだな。
「ブッキー、戦争の方はどうなってる?」
「戦争ならとっくに終わった」
「な、なに?」
「お前が潜ってから、今日まで一週間が経過している。安心しろ、縋るべき神を失った正教の奴等は敗退した。そのタイミングでエリザベスが一方的に停戦したので、こちらも退いた。次はこっちが向こうに挨拶ししに行く番だろう」
そうか、もうそこまで終わったのか。というかあの闇空間では時間の流れが遅いのか。
見ると、すでに地に空いた黒点はなく、空は一点の曇りなく快晴。太陽も明るい。
「つかれた……」
「ボーンもよく維持してくれた」
「結局、私はあんまり役に立てなかったわねー……」
おや珍しい。フェチシアが本当にへこんでる。
「らしくないなフェチシア。お前ならこの後だろ。ご褒美に私と一晩じっくりたっぷりねっぷりどっぷり……とか言い出しそうなのに」
「いやだって、あんたはもう……いや、いいわ。それより私はともかく、ちゃんと契約どおり役目を果たした奴の分の報酬は考えといた方がいいわよ」
「報酬ねぇ……」
「ま、当然だな! ということで相棒、私と旅に出るぞ!」
リムルはまた、夢見る子供のような眩しい笑顔で言う。
小悪魔に触発されたか、周りの奴等が次々と報酬を要求し始める。
「あっ、じゃあ私あれっす。宝石集めしたいっすけど。金銀はもう十分貯めたんで」
「私はお前の物語を本にする許可を貰いたい」
「肉! お腹いっぱいほしい!」
「わ、私はもうイマジナリーフレンドの創り方を教えてもらったので、これはその恩返しということで……」
ボーンはともかく、他の奴等は警戒しないといけない。
こいつらの要求を目的だけ聞いて許可するととんでもない方法でも平気でやる。
さすが悪魔と言うか、やはり倫理観が人間とは遥かにずれてるので、内容はきちんと精査する必要がある。いやマジで。
「報酬の話は悪いけど後だ。この仕事が終わったら死ぬほど自由だから、それまで待ってろ」
「まっ、お前死ねないけどな!」
ハードでブラックなデビルズジョークである。
きついジョークを浴びせられた口直しに、リステアを見る。
「何はともあれ、リステアが無事でよかった」
「レクト……」
身を起こして、リステアと顔を見合わせる。
ふとリステアはこちらに擦り寄って、その身をこちらに預けてきた。
「すみません、その……」
「ああ、いいよ」
綺麗な銀の髪を撫でながら、縋りつくように顔を胸に埋めてくるリステアを受け入れる。
「レクト、私はあなたに嘘をつきました」
「んー?」
「私はもういいと、助けなくていいと。嘘です。助けて欲しかった。どうにかして欲しかった。どうにかしてくれると信じていた」
「んっ」
「でも、あの闇の中で気付きました。これはどうにもならないと。もしかしたら悪魔と協力して何かしらの手段を見出すかもしれない。それでも、この闇がずっと続くことの不安の方が遥かに大きかった」
無理もない。アレを作った俺ですら思った。
そう考えると、あの神はさすがというべきか、腐っても神って感じだ。
「あなたを道連れにしないために、あなたを遠ざけたことを後悔しました。私はあなたに嘘の愛を捧げてしまいました」
「んぅ」
「レクト、私は……」
「んーっ!」
俺は思わずリステアを抱き寄せながら地面に寝転がる。
「れ、レクト?」
「ああ、そんなお前だから愛おしいんだよなぁ!」
「で、ですが……」
「偽りだなんて言うな。思いもしないことを口にするような奴じゃないことくらい、俺が一番良く知ってる。その瞬間、お前は俺を愛するが故に庇った。それだけでお前の愛は尊い」
俺の愛を遠慮したのも、俺を愛するが故だ。それ自体はむしろ褒め称えるべきだ。
「そしてその後悔もまた愛の証明でもある。何も恥じることはない。それに、あのままだったら本当に二人一緒に闇の中で神様の隣で心中する羽目になっていただろうし、結果的にリステアの愛が最善の結果をもたらしてくれたわけだ。まさに愛の力だぞこれは、誇れ誇れ」
「愛の、力……?」
「お前が俺を愛した結果。お前が抱く愛の結果だ。この偉業を誇らずして何を誇る?」
俺を見上げた青い瞳。
濡れた頬を指で拭ってやると、リステアは微笑んだ。
「いいえ、レクト。誇るべきは偉業ではなく、私が今も貴方を愛し続けていることです。それ以外、私には何も要りません」
「そうか、そうだったな」
誇るべき偉業なんて俺たちには要らない。
ただ愛欲のままに、愛する者のために、欲し、与える。
それこそが俺たちの持つべきものだ。それ以外に要るものなんてない……のは昔の話か。
愛に迫るほど深く、七つの欲望は愛に彩られ、愛は欲望に飾られる。
「リステア、そろそろ次に行こう。永遠の愛、エンドロールにはまだちょっと早い」
「はい、レクト」
神は遥か冥府の底へと墜ちた。
魔神は天上へと昇り、その頂に座した。
人々は誰もが意思と我欲の元に対等になる。
理不尽には万の力をもって抗い、不条理には悪魔の契約をもって降す。
言うなれば、俺はその先駆けだろう。
「さあ、仕上げだ野郎共」
大罪司りし魔を率いて、最愛の聖女と共に、俺は進む。




