第9話「破断と凱旋」
豪奢な大理石の床に靴音が反響し、数千本の蜜蝋が放つ甘い油の匂いが大広間を満たしていた。
建国記念舞踏会。 天井の巨大なクリスタルシャンデリアは燦然と輝き、壁一面を飾る金箔が眩いばかりの光を乱反射させている。
中央の大階段を降りてきたジュリアンとミレーヌの周囲には、すでに大勢の貴族たちが集まり、取り巻きたちの追従の声が飛び交っていた。
「ご覧になって、ミレーヌ様のあの細さを!」 「まさに妖精の如き儚さ……ジュリアン様の美意識の賜物ですわね」
媚び諂う言葉を浴び、ジュリアンは傲慢に顎を突き上げていた。 しかし、その横に立つミレーヌの表情は、もはや微笑みとは呼べないものだった。
唇は紫色に変色し、額には脂汗が滲んでいる。
喉が詰まったような掠れた呼吸音を漏らしながら、必死にジュリアンの腕にすがりついていた。
限界まで引き絞られた鯨骨の檻が、彼女の肋骨と内臓を容赦なく圧迫し、悲鳴を上げさせているのだ。
「ジュリアン様……わたし、もう……息が……」
「しっかりしろ、ミレーヌ。全貴族が我々を見ているのだぞ。これこそが伝統の勝利だ」
ジュリアンはすがる彼女の指を無理やり引き剥がし、壇上の中央へと押し出した。 より多くの賛辞を浴びようと、彼女を優雅に旋回させようとした、その時だった。
――バキィィィィンッ!
耳をつんざくような、すさまじい破断音が大広間に響き渡った。
「ぎゃあっ……!?」
ミレーヌの口から、淑女のものとは思えない絶叫が迸った。
肉体を極限まで締め上げていた極太の鯨骨が、限界を超えた張力に耐えきれず、彼女の体幹の中で真っ二つにへし折れたのだ。
破断した骨組みの切っ先が、内側へ向かって肋骨を激しく突き刺す。
メキメキと鈍い音が連続し、ドレスの縫製が背中から一気に弾け飛んだ。 飛び散る留め金。裂ける絹布。
「痛い! 痛い痛い痛いっ! 息が、吸えない……助けてぇっ!」
ミレーヌは自らの腹部を掻きむしりながら、大理石の床へ無様に倒れ伏した。
激痛と低酸素のショックで眼球は白目を剥き、過呼吸で泡を吹きながら、醜態を晒して痙攣している。
「ひっ……!?」 「な、なんだこれは!?」
優雅だった広間は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと変貌した。 貴婦人たちが悲鳴を上げて後退り、男たちが狼狽して足を止める。
「み、ミレーヌ!? 馬鹿者、立て! 早く立たんか、恥を晒すな!」
ジュリアンは倒れた婚約者を介抱するどころか、己の見栄を傷つけられた激怒で顔を真っ赤にし、床の彼女を足蹴にせんばかりに怒号を浴びせた。
だが、ミレーヌは「あ、ぎ……」と掠れた呻き声を最後に、完全に意識を失って動かなくなった。
広間を支配したのは、重苦しい沈黙と、冷え切った嫌悪の視線だった。 これが、ジュリアンが誇った「至高の美」の正体。
他人の肉体を破壊し、尊厳を奪って成り立つ、ただのグロテスクな暴力。
その混乱の極限――。
ファァァァン――と、厳かなトランペットのファンファーレが、会場の高殿から鳴り響いた。
『――エレオノーラ王妃陛下、お成り!』
近衛兵の凛とした布告とともに、上階のバルコニーの巨大な扉が左右へと開かれた。
ざわり、と広間が息を呑む。 階段の最上段に姿を現したのは、国母たるエレオノーラ王妃その人だった。
その瞬間、広間中の空気が凍りついた。
王妃が纏っていたのは、誰も見たことのない奇跡のドレスだった。 夜空を切り取ったかのような深い群青色の薄絹。
歩みを進めるたび、裾から肩へと流れる幾何学の刺繍が、淡く神秘的な白銀の燐光を放っている。
鉄骨の武骨さも、鯨骨の重苦しい拘束感も、そこには微塵もない。
風を孕んでふわりとしなやかに波打ちながら、王妃の豊かで優美なプロポーションを、完璧な黄金比で際立たせていた。
堂々と、羽のように軽やかに大階段を降りてくる王妃。 深く満たされた呼吸のゆとりが、彼女の表情に絶対的な威厳と慈愛を宿らせていた。
床に転がるミレーヌの醜態とは、天と地ほどの隔絶。 これこそが、真に高貴なる者の姿だった。
そして――。 王妃の斜め後ろに従い、共に階段を降りてくる一人の女性の姿を捉えた瞬間、ジュリアンの瞳が狂乱に揺れた。
「……な……に……?」
群青のドレスの裾を整え、凛とした足取りで歩く私。 手挟んだ銀針のブローチを胸元に光らせ、私は前を向いて歩いていた。
階段の踊り場。 壇上へ進む直前、私の真横に控えていたサイラスが、そっと私の腰に逞しい手を添えた。 薄い布越しに伝わる、確固たる熱。
彼は居並ぶ全貴族の視線を物ともせず、大広間の隅々にまで届くような、深く澄んだ声で告げた。
「世界で一番美しい、クラウディア」
その声には、迷いも恐れもなかった。 ただ一人の男が、最愛の伴侶へと捧げる、至高の賛美だった。
私の頬がカッと熱くなる。 けれど、その言葉が私の背中を強く、誇り高く押し上げてくれた。
王妃が壇上の中央へと歩み出た。 冷淡な眼差しが、床に倒れ伏すミレーヌと、立ち尽くすジュリアンへと落とされる。
「見苦しいな、アウエルシュテット侯爵令息」
王妃の凛冽な声が、静まり返った広間を切り裂いた。
「人を傷つけ、呼吸を奪い、死地へ追いやる拘束具を『伝統』と偽り、我が宮廷を穢した罪は重い。己の虚栄のために他者を踏み躙るような浅薄な装いなど、真の美徳ではない」
王妃は美しく腕を掲げ、私の手を取った。
「見よ! これこそが、人の生命を輝かせ、気品を極限まで高める真の正装である! 我が纏うこの奇跡のドレスを仕立てた特命デザイナー――クラウディア・フォン・ラングレーを、余は心より称賛する!」
大歓声が、爆発するように広間を埋め尽くした。 婦人たちの感嘆のため息と、紳士たちの惜しみない拍手が雷鳴のように降り注ぐ。
かつて私を「下品」と嘲弄し、冷笑を浴びせてきた貴族たちが、今や手のひらを返し、羨望と畏敬の眼差しで私を仰ぎ見ていた。
胸のすくような、圧倒的な快感。 私は職人の矜持を胸に、しっかりと顎を引き、堂々とその喝采を受け止めた。
「そ、そんな……そんなはずはない!!」
その喝采を切り裂くように、ジュリアンの絶叫が響いた。 髪を振り乱し、血走った目で私を指差す。
「嘘だ! 何かの間違いだ! そいつは僕に捨てられた、骨組みすら扱えない下品な悪役令嬢だぞ!? 平民の分際で、王妃陛下を誑かしたに違いない! おい、クラウディア! 僕の前に跪け! 僕を無視するなぁぁぁっ!!」
錯乱したジュリアンが、壇上の私へと掴みかかろうと駆け出した。
だが、彼が私の足元に触れることすら叶わなかった。
ガキンッ!
重厚な金属音が響き、サイラスが抜く手も見せぬ速さでジュリアンの前に立ち塞がったのだ。
剣の鞘でジュリアンの鳩尾を正確に打ち据え、そのまま冷徹に床へとねじ伏せる。
「王妃陛下の御前であるぞ。不敬者が」
サイラスの氷のような冷たい声が降る。 間髪を入れず、近衛兵たちが殺到し、ジュリアンの両腕を背後から力任せに取り押さえた。
「離せ! 僕は侯爵家の長男だぞ! 父上、父上ぇっ!」
床に顔を押し付けられ、泥濘のように喚き散らすジュリアン。 その惨めな姿に、周囲の貴族たちから一斉に嘲笑と冷罵が浴びせられた。
「見苦しい……」 「あれが名門の跡取りとは、呆れたものね」 「自滅したのだわ、あの愚か者は」
冷淡な嘲笑の嵐の中、気絶したミレーヌは救護班によって担架で運び出され、ジュリアンは衛兵たちに引きずられるようにして広間から連行されていった。
かつて私を夜会の壇上で断罪した男たちの、あまりにも無惨で、完全な破滅。 私の胸には、もはや彼らへの怒りすら残っていなかった。
ただ、隣に立つサイラスの逞しい体温と、手の中に握りしめた一針の重みだけが、誇らしく息づいていた。




