第8話「王妃からの特命」
(まさか、再びこの王宮の門をくぐることになるとは思ってもみなかった)
深いフードを目深に引き下げながら、私は王宮北側にひっそりと佇む通用門を抜けた。 かつてラングレー伯爵令嬢として誇らしげに馬車で乗り入れた正門ではない。
木々に囲まれた薄暗い石造りの裏門だ。 案内役を務めるのは、先日工房を訪れた筆頭女官長、カテリーナ夫人本人だった。
私のすぐ背後には、仕立て道具一式を納めた革鞄を抱え、周囲の気配に鋭く神経を尖らせるサイラスがぴたりと追従している。
「クロエさん、こちらです。陛下がお待ちです」
カテリーナ夫人の足取りは、驚くほど軽やかだった。 かつて胸を押さえて苦悶の表情を浮かべていた面影はどこにもない。
背筋は優美に伸び、肌には艶やかな生気が蘇っていた。
その劇的な変化に最も早く気づいたのが、彼女の主であるエレオノーラ王妃その人だったのだ。
重厚な樫の木の扉が静かに開かれ、私たちは王妃の私的執務室へと迎え入れられた。 磨き抜かれた寄木細工の床。
豪奢だが無駄な装飾を排した格調高い部屋の中央、深紅の長椅子に腰掛けていた女性が、ゆっくりとこちらへ視線を向けた。
エレオノーラ王妃。 この国の服飾文化と宮廷儀礼の頂点に君臨する最高決定権者だ。 その双眸は冷徹なまでの知性と、すべてを見透かすような威厳を湛えていた。
「面を上げなさい、エトワールの工房主」
静かだが、部屋の空気を一変させるような声音。 私はフードを外し、床に片膝を突いて深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります、王妃陛下。平民の仕立て屋、クロエと申します」
「……形式的な臣従の礼はよい。カテリーナの身体を見れば、其方の腕前はすでに明白だ」
王妃は立ち上がり、静かな足取りで私の前へと歩み寄った。 その視線が、私が持参し作業台の上に広げた一着のドレスへと注がれる。
それは、白銀の絹地に銀星蚕の魔導糸を織り込んだ、真新しい試作ドレスだった。 従来の儀礼服のように、何十本もの鉄骨や鯨骨で威圧するような厚みはない。
手触りは滑らかで、驚くほど薄く、しなやかだ。
「……骨組みが、一本も入っていないな」
「はい。人体の骨格と筋膜の走行に沿って、極細の魔導糸による幾何学刺繍を縫い込んでございます。着用者の体内を巡るわずかな魔力と共鳴し、布地自体が張力を制御いたします。鉄や骨で内臓を損なうことなく、理想の曲線と威厳ある立ち姿を保持いたします」
私は顔を上げ、王妃の瞳をまっすぐに見据えて淀みなく告げた。 王妃はしばし沈黙し、白銀の生地にそっと指先を滑らせた。
「現在、宮廷内ではジュリアン侯爵令息を中心に、極限まで胴を絞り上げる過酷な正装が推奨されている。だが、その結果はどうだ」
王妃の声に、冷たい怒りが滲んだ。
「昨日の建国記念舞踏会のリハーサルにおいて、超極細コルセットを強要された名門の令嬢たちが、三人続けて昏倒した。うち一人は肋骨の骨折と内臓破裂の疑いで、いまだ意識が戻らぬという。宮内庁よりアウエルシュテット侯爵家へ厳重警告を下したが、あの浅薄な令息は反省するどころか、職人たちに『もっと締め上げろ、見栄えさえ良ければ呼吸などどうでもいい!』と怒号を飛ばしているそうだ」
王妃は眉をひそめ、吐き捨てるように言った。 その醜態は、私の想像を遥かに超えていた。 見栄のために他人の生命すら踏み躙る。
ジュリアンという男の底知れぬ愚かさに、背筋が寒くなるほどだった。
「これ以上、我が国の淑女たちを無益な虚飾の犠牲にするわけにはいかない。伝統とは、生きる人間を窒息死させるための檻ではないはずだ」
エレオノーラ王妃は私の肩に手を置き、力強く言った。
「クロエ。明後日に迫る建国記念舞踏会――我が纏うべき正装ドレスの製作を、其方に命ずる」
「……! 私が、陛下の正装を……?」
「そうだ。其方の技術で、身体を解放し、真の気品を宿すドレスを示してみせよ。宮廷の旧弊を打ち破る、最高の一着を」
建国舞踏会は、国内外の全貴族、さらには諸外国の使節までが一堂に会する、王国最大の式典だ。 その頂点に立つ王妃の正装を、名もなき平民のお針子が手掛ける。
それは、失敗すれば国家反逆罪にも等しい重責であると同時に、これ以上ない最高の舞台だった。
「――謹んで、拝命いたします」
私は迷うことなく、深く頭を下げた。 私の腕一本で、この国を縛り続ける歪んだ美意識を根底から覆してみせる。
胸の奥で、職人としての誇りと武者震いが、激しく燃え上がっていた。
◇
王妃からの特命受諾と同時に、宮内庁の最奥にある特設工房が私たちのために開放された。 王室直属の最高級資材、厳選された銀星蚕の魔導糸が惜しみなく運び込まれる。
しかし、残された時間はわずか四十時間。 舞踏会の幕が上がるまでに、王妃の身体にミリ単位で追従する奇跡の正装を完成させなければならなかった。
宮廷の外では、ジュリアン派閥の焦燥が狂気へと変貌していた。 相次ぐ昏倒騒ぎと宮内庁からの厳重警告を受け、アウエルシュテット侯爵は激怒。
ジュリアンが勝手に結んでいた下位貴族への資金援助を即時凍結したのだ。
その煽りを真っ向から受けたのが、私の実家であるラングレー伯爵家だった。
侯爵家からの経済支援打ち切りを通告された父エドワードは、連日屋敷で頭を抱え、破綻寸前の家計を前に青ざめて震えているという。
保身のために娘を切り捨てた父は、その目先の利権ごと、共倒れの泥沼へと引きずり込まれようとしていた。
そんな外の騒乱をよそに、私は工房で一睡もせず銀針を握り続けた。
チク、チク、チク――。
静謐な部屋に、運針の規則的な音だけが響く。 幾重にも重なる幾何学文様が、王妃の威厳を象徴する群青色の絹布の上で、淡い銀の燐光を放ちながら定着していく。
◇
そして――建国記念舞踏会の当日。
王宮の控室。 完成した正装ドレスに最後の縫い留めを終えた私は、針を置き、深く息を吐き出した。 指先が微かに震えていた。 疲労のせいだけではない。
これから幕を開ける大勝負の重圧が、冷たい緊張となって私の全身を包んでいた。
「……手が、冷たくなっている」
背後から近づいたサイラスが、私の両手をそっと包み込んだ。 熱い、大きな手のひら。 彼の体温が、冷え切っていた私の指先へ、じわりと染み渡っていく。
「サイラス……」
「大丈夫だ、クラウディア」
サイラスは私を安心させるように低く、力強い声で告げた。 そして、彼は躊躇うことなく、私の冷えた手の甲へと深く口づけを落とした。
チュ、と微かな皮膚の触れ合う音。 吸い寄せられるような熱い口づけに、私の心臓が大きく跳ねる。
サイラスは顔を上げ、揺るぎない覚悟を宿した青い瞳で、まっすぐに私を見つめた。
「お前の技術は、誰よりも正しい。……何が起きようと、俺が必ずお前を守る。だから、前だけを見て胸を張れ」
迷いを断ち切るような、絶対の誓い。 その言葉と手の甲の熱が、私の胸にあった最後の恐怖を跡形もなく吹き飛ばしてくれた。
「……ええ。行ってくるわ、サイラス」
その頃――。 舞踏会の主会場である王宮の大広間では、音楽が高らかに鳴り響いていた。
「皆様、ご覧あれ! これが真の宮廷の美、至高の芸術だ!」
割れんばかりの歓声の中、中央の大階段の上に立ったのは、ジュリアンとミレーヌだった。 ジュリアンは誇らしげに胸を反らせ、周囲の貴族たちを見下ろしている。
その隣に立つミレーヌのドレスは、常軌を逸した細さに締め上げられていた。
限界を超えた鯨骨コルセットにより、胴回りは子供の腕ほどに細く圧縮され、その顔は白粉でも隠しきれないほど土気色に沈んでいる。
視線を独占せんと、誇らしげに階段を降り始める二人。 自分たちの破滅が、すぐそこまで迫っていることにも気づかずに。




