第7話「旦那様の理性崩壊」
私は、作業台の前に置かれた姿見の前で、ゆっくりと両腕を頭上へ伸ばした。
生地が擦れ合い、微かな衣擦れの音が静かな奥室に響く。 徹夜で縫い上げた接客用の普段着――それは、これまでの貴族服の常識をすべて覆す一着だった。
骨組みは一本も入っていない。 極上の肌触りを持つ淡い灰桜色の薄布に、銀星蚕の魔導糸を人体の筋膜に沿って縫い込んである。
羽のように軽く、肌に吸い付くようなフィット感。
どこにも締め付けがないのに、魔力刺繍の張力制御によって背筋が自然と伸び、胸元から腰、そしてヒップへと至る女性らしい滑らかな曲線が、布地の上から鮮明なまでに浮き彫りになっていた。
「ん――っ……完璧。動きやすいし、呼吸も吸い放題ね」
深く息を吸い込み、鏡の前でくるりと回ってみる。 薄い布地が身体のラインにぴったりと寄り添い、動くたびにしなやかに波打つ。
これなら長時間の接客も、細かな運針も苦にならない。
「よし。明日からこの普段着で、店頭に出て接客することにしましょう!」
一人で満足げに頷き、鏡に向かって笑顔を作った、その時だった。
ガチャリ。
工房の奥室へ通じる木製の扉が、乱暴に開け放たれた。 買い出しから戻ったばかりのサイラスだった。
手に荷物を抱えたまま入ってきた彼は、私の姿を見るなり、信じられないものを見たかのようにその場に硬直した。
「あ、サイラス、おかえりなさい! 見て、ようやく完成したのよ。私の新しい接客着! 骨組みなしでこのシルエット、凄いでしょ?」
私は嬉しさのあまり、無邪気にサイラスへと駆け寄ろうとした。 だが、彼の様子は尋常ではなかった。
バサリ、と床に荷物が取り落とされる。 サイラスの顔から血の気が完全に引いていた。
大きく見開かれた青い瞳が、私の首筋、鎖骨、薄布越しに豊かな起伏を晒す胸元、きゅっとくびれたウエスト、そしてしなやかな腰のラインへと――まるで獲物を捉える獣のように、恐ろしいほどの熱量で舐めるように動いた。
「……サイラス……?」
異様な気迫に圧され、私は思わず足を止めた。 サイラスは無言のまま、背後へ手を伸ばした。
バタンッ!
激しい音を立てて扉が閉ざされ、すぐさま金属質の鋭い音が響いた。 カチャリ。 彼が、部屋の内側から鍵を掛けたのだ。
「え……? どうして鍵なんて――」
問いかける暇などなかった。 大股で踏み込んできたサイラスが、私の手首を掴んだ。 そのまま、有無を言わさぬ力で引き寄せられ、私は壁際へと押し込められた。
「きゃっ……!?」
背中に冷たい壁が当たるのと同時に、サイラスの分厚く鍛え上げられた胸板が、私の身体を隙間なく塞いだ。 逃げ場のない完全な密着。
彼の両腕が私の頭の両脇の壁に叩きつけられ、私は彼の腕の檻の中に閉じ込められていた。
「サ、サイラス……!? な、なにを――」
「……本気で言っているのか?」
頭上から降ってきたのは、低く、地を這うような掠れた声だった。 肩が激しく上下している。
これほど取り乱したサイラスを、私は幼少期から一度も見たことがなかった。
「その姿で……明日から、店頭に立つだと?」
「え、ええ……とても軽くて動きやすいし、工房主としての実用性も証明できると思って……」
「実用性……?」
サイラスの口から、乾いた笑いが漏れた。 だがその青い瞳の奥では、昏い炎が狂おしいほどに燃え盛っている。 彼が顔を近づけてくる。
至近距離で浴びせられる熱い呼気に、私の肌が粟立った。
「自分の身体が、他人の目にどう映るか……少しは自覚しろ」
「え……?」
「布一枚だぞ」
サイラスが、私の腰のくびれへと無骨な手を滑り込ませた。 薄い生地越しに、彼の指先の温度が直に皮膚を灼く。
骨組みがないせいで、私の身体の丸みも、体温も、筋肉のしなやかさも、彼の手のひらにあからさまに伝わってしまっていた。
「肋骨の形も、腰のカーブも、息をするたびに揺れる胸も……全部、剥き出し同然だ。そんな扇情的な姿で、平民街の男どもの前に立てるわけがないだろう……!」
「せ、扇情的だなんて……! 私はただ、人体の美しい骨格を保つための立体裁断を――」
「俺を殺す気か、クラウディア!」
サイラスが絞り出すように叫んだ。 騎士としての彼が、初めて私を「クロエ」でも「クラウディア様」でもなく、ただの女として呼び捨てにした。
ぐいっ、と彼の腕が私の腰を引き寄せる。 二人の身体が、隙間なくぶつかり合った。
彼の硬い胸板と、私の柔らかい胸が押し潰され、互いの心臓の激しい鼓動が重なり合う。
腰に回された彼の手に力が込められ、逃れることなど到底許さないとばかりに強く、強く抱きすくめられた。
「あっ……!」
熱い。全身が火照る。 普段は冷静沈着な元騎士の、抑え込んできた理性が音を立てて崩壊していくのが、肌を通してありありと伝わってきた。
その頃――。 アウエルシュテット侯爵邸の執務室では、激しい罵声が飛び交っていた。
「――この莫大な請求書は一体なんだ、ジュリアン!!」
机の上に叩きつけられたのは、貴族御用達の高級仕立て屋から届いた、目眩のするような金額の請求書の山だった。
アウエルシュテット侯爵が、激怒のあまり顔を真っ赤にして息子のジュリアンを睨みつけている。
「ミレーヌ嬢のドレスの新調代、さらに彼女が失神して損壊した会場の調度品弁済費……! お前が推奨する極細ドレスのせいで、夜会ごとに令嬢たちが倒れ、我が侯爵家にどれほどの苦情が寄せられているか知っているのか!」
「父上、しかし! あれは真の伝統の美を追求した結果でして……!」
「黙れ! 美のために家の財政を傾け、貴族たちの反感を買ってどうする! これ以上の醜聞を晒すようなら、お前の廃嫡も考えねばならんぞ!」
青ざめたジュリアンは、震える手で床に散らばる請求書を拾い集めることしかできなかった。
自らの誇る「美意識」が、自らの足元を急速に崩し始めていることに、彼はようやく怯え始めていた。
◇
薄暗い工房の奥室。 壁際に押し込められた私の耳元へ、サイラスの唇が触れそうな距離まで落ちてきた。
じわり、と唇が私の耳朶に触れる。
「っ……あ……!」
甘く、痺れるような刺激が走り、私は思わず小さく身悶えた。 サイラスは逃がすまいと私の腰をさらに深く抱き寄せ、耳元を甘く、小さく噛んだ。
「ひゃ……っ、サイ、ラス……!?」
「そんな姿で外に出すか……」
低く、切羽詰まった熱い囁きが、鼓膜を震わせる。 噛まれた耳朶から首筋へと、彼の濡れた呼気が這い下りていく。
「俺以外の視界に入るな。……他の男に、お前の一寸の肌も見せたくない」
「で、でも……私、貴方とは……書類だけの、名ばかりの妻で……っ」
震える声でそう言い訳を紡ごうとした唇は、彼の燃えるような青い瞳によって塞がれた。 至近距離で交わる視線。
そこにあるのは、義理でも、護衛の義務でもなかった。
ただ一人の男としての、狂おしいまでの執着と独占欲だった。
「名ばかりだと……本気で思っていたのか?」
サイラスが、私の頬に大きな手を添え、親指で熱くなった私の唇をそっとなぞった。
「この服を着た君を、他の男に見せたくない」
耳元で、はっきりと告げられたその言葉。
契約という名の薄氷が、完全に粉々に砕け散った瞬間だった。 ドクン、と胸が激しく跳ね上がり、私の全身は甘い麻痺と動悸の中に飲み込まれていった。




