第6話「秘密の試着室」
王宮の儀礼服は、過去三百年間にわたり、何一つとしてその基本構造を変えてこなかった。
厳格な階級秩序を可視化するためだけに考案された鉄骨と鯨骨の鎧。
それは宮廷に仕える貴婦人たちにとって、美徳の象徴であると同時に、内臓を苛み続ける拘束具でもあった。
歴代の女官たちがどれほど失神し、肋骨を損なおうとも、伝統という名の絶対法を疑う者はいなかったのだ。
夜の帳が落ちた職人区の路地に、音もなく黒塗りの辻馬車が停まった。
家紋すら塗り潰されたその車体から、深いベールで顔を隠した貴婦人が降り立ち、護衛も連れずにエトワールの裏口をくぐり抜けた。
「……ようこそおいでくださいました。どうぞ奥へ」
藍色のフードを目深に被った私は、招き入れた客を奥の試着室へと案内した。 戸口ではサイラスが、いつにも増して鋭い眼光で周囲の気配を警戒している。
この客の放つ気品と張り詰めた空気は、これまで裏口を訪れたどの下級貴族の侍女とも一線を画していたからだ。
試着室のカーテンを引くと、貴婦人は震える手でベールを跳ね上げた。 現れたのは、五十代半ばの上品な面立ちの女性。
だが、その唇は血の気を失って紫色に変色し、呼吸をするたびに胸元からヒューヒューと痛々しい風切り音が漏れていた。
「……貴女が、あのお針子クロエさんですね」
掠れた声だった。一息を継ぐのすら苦痛なのが痛いほど伝わってくる。
「私はカテリーナ。宮内庁に籍を置く者です」
カテリーナ伯爵夫人。 エレオノーラ王妃の幼少期からの教育係であり、現在も王妃が最も信頼を寄せる筆頭女官長その人だった。
かつて伯爵令嬢だった頃の私でも、直接言葉を交わすことなど叶わなかった宮廷の重鎮だ。
(ここで身元が露見すれば、即座に全てが崩壊する……)
背筋に冷たい汗が伝う。 だが、それ以上に私の目を釘付けにしたのは、彼女の上着の隙間から覗く、異様なまでに締め付けられた胴回りだった。
「侍女たちから聞きました。骨組みのない肌着で、身体の痛みを消し去る奇跡の工房があると。……恥を忍んで参りました。王妃陛下の御前で失神することだけは、女官長としての矜持が許さない。けれど……私の身体は、もう限界なのです」
夫人はそう言いながら、長椅子に崩れ落ちそうになった。 私は咄嗟に彼女の身体を支え、上着の留め金を素早く外した。
「失礼いたします。すぐに楽にさせますから」
現れたのは、過酷極まりない極太の鯨骨コルセットだった。 皮膚には青黒い鬱血の痕が網の目のように広がり、肋骨の下部が無理な圧力で内側へと押し曲げられている。
長年の身体拘束による慢性的な低酸素症。 一歩間違えれば、命に関わる深刻な病理状態だった。
「切ります」
「え……?」
夫人が狼狽する暇もなく、私は作業用の鋏を走らせ、背中の締め上げ紐を一気に断ち切った。
バツン、と乾いた音が室内に響く。 解放された胸郭が大きく広がり、夫人は「ああっ……!」と短く叫び声を上げてその場にへたり込んだ。
「す、吸える……空気が、入ってくる……!」
「そのまま、ゆっくりと深く息を吐いてください。吸うことより、吐き切ることを意識して」
私は夫人の背中にそっと手を当て、乱れた呼吸のリズムを解剖学の知見に沿って誘導した。
荒かった息が次第に落ち着きを取り戻していくのを見届け、私は作業台から極細の魔導糸を通した銀針を構えた。
「カテリーナ様。貴女がお仕えする宮廷の格式を、私は決して傷つけません。威儀を正した優美な立ち姿を保ちながら、今のように深く息ができる肌着をお仕立てします」
私はメジャーを手に取り、彼女の骨格をミリ単位で計測し始めた。 肩甲骨から骨盤へと繋がる筋膜の流れ。 横隔膜が無理なく拡張できる胸郭のゆとり。
それらを完全に計算に入れた型紙をその場で引き、滑らかな白絹の布を素早く立体裁断していく。
チク、チク、チク――。
銀針が布を縫い留めるたび、淡い銀の燐光が走る。 銀星蚕の魔導糸による幾何学刺繍が、人体の筋膜と完全に同期するように布地へと刻み込まれていく。
外見は、ただの薄く優美な絹のインナードレス。
だがその繊維の内部では、局所的な張力制御が働き、骨組みが皆無でありながら、夫人のたるみかけた腰回りを下からふわりと持ち上げ、理想的な姿勢を保持する構造が完成していた。
「……さあ、袖を通してみてください」
縫い上がったばかりの肌着を渡し、カーテン越しに見守る。 やがて、震える手でカーテンが開かれた。
「あ……」
姿見の前に立ったカテリーナ夫人が、自らの身体を見つめて息を呑んでいた。
そこに映っていたのは、無理に絞り上げた歪な細さではない。
背筋が自然と伸び、胸元が豊かに開き、腰回りが流れるような優美な曲線を描く――まさに成熟した貴婦人の理想のシルエットだった。
「痛くない……。どこも、締め付けられていないのに……」
夫人は両手で自身の脇腹に触れ、それから胸を大きく反らせて、深く、深く息を吸い込んだ。 すうぅぅぅ……と、肺胞の隅々まで満ちていく空気。
彼女の青白かった頬に、みるみるうちに健康的な朱が差していく。
「こんなに……こんなに深く息を吸ったのは、三十年ぶりです……! まるで、身体が羽のように軽いわ……!」
夫人の瞳から、大粒の涙が零れ落ち、絹の胸元を濡らした。 彼女はその場に立ち尽くし、何度も胸に手を当てて、呼吸ができるという当たり前の奇跡を噛み締めていた。
「クロエさん、貴女は……貴女は私の命を救ってくださいました。この恩は、宮内庁の筆頭女官長として、決して忘れません」
夫人は深く、深く頭を下げた。 宮廷の中枢で絶対的な権威を持つ貴婦人が、名もなき平民のお針子に捧げた、心からの感謝と畏敬の礼だった。
最高峰の権力の中枢にいる女性の命を、私の技術が救ったのだ。 胸の奥から湧き上がる誇りと達成感に、私はフードの奥で静かに微笑んだ。
◇
「……客であっても、あんまり他人に素肌を晒さないでくれ」
裏口からカテリーナ夫人を見送り、閂を掛け直した直後だった。 背後からかけられた声に振り返ると、サイラスが露骨に眉をひそめて立っていた。
腕を組み、不機嫌そうに視線を逸らしている。
「え? 他人に素肌って……採寸の時のこと?」
「相手が女官長だろうが女性だろうが関係ない。布を合わせる時、お前の二の腕や首筋が露わになっていただろう」
サイラスは低く唸るように言い、ずいと一歩詰め寄ってきた。 影が私を覆う。
「あの至近距離で他人に触れられるのを見るだけで、俺は……気が気じゃないんだ」
「も、もう……サイラスったら。仕立て屋が採寸するのに、肌に触れるのは仕事のうちよ。それに私、ただの名ばかりの契約妻じゃない」
冗談めかして笑おうとした私の言葉に、サイラスの瞳がぎらりと光った。
「契約だろうが何だろうが、俺の妻だ。……他の奴にお前を無防備に見せたくないと思うのが、そんなにおかしいか」
喉元から絞り出された熱い囁きに、私の心臓が跳ね上がった。 まただ。
最近の彼は、護衛騎士という枠を完全に越えて、男としての剥き出しの独占欲を隠そうともしない。
触れ合っていないというのに、彼の視線だけで皮膚がじりじりと灼けるように熱かった。
その時、表通りから新聞売りの威勢のいい声が飛び込んできた。
「号外だよ、号外! 昨夜の有力貴族の夜会で大スキャンダル! ジュリアン侯爵令息が推奨する新作ドレスを纏った名門令嬢が、舞踏の最中に喀血して昏倒! 救護魔導師が駆けつける大騒動に発展!」
新聞売りの叫び声に、私たちは顔を見合わせた。
ついに始まったのだ。 見栄のために限界を超えて締め上げられたドレスの破綻。 美の名を借りた拷問が、社交界の表舞台で血と混乱を招き始めている。
ジュリアンの提唱する「伝統の美」の化けの皮が、急速に剥がれ落ちようとしていた。
そして――。
「……サイラス。これから、さらに注文が増えるわ」
カテリーナ夫人が宮廷へ戻れば、この肌着の真価はすぐに王室の耳にも届くはずだ。 平民街の店頭にも、噂を聞きつけた客が押し寄せるに違いない。
「私も、ちゃんとした接客用の普段着を一着、縫い上げるわ。エトワールの工房主として、恥ずかしくない服をね」
私は作業台へ向かい、極上の伸縮性を持つ魔導糸を手に取った。
骨組みを一切使わず、人体のラインを最も美しく、最も軽やかに引き出す――私だけの新しい普段着を作るために。




