第5話「覆面の工房主」
一体いつから、この薄暗い路地裏にこれほど長い人の列ができるようになったのだろう?
工房の二階、小窓の隙間から階下を見下ろした私は、思わず小さく息を呑んだ。 開業からわずか一ヶ月。
朝霧がまだ晴れきらない早朝だというのに、『アトリエ・エトワール』の木製看板の前には、すでに何十人もの平民女性たちが静かに並んでいた。
パン屋のマルタ女将の口コミから始まった評判は、市場で働く女たち、仕出し屋の賄い婦、洗濯女たちの間で瞬く間に広がり、今や注文帳の頁は向こう二ヶ月先まで埋まり尽くそうとしていた。
トントン。
不意に、工房の裏口の扉が、控えめに、だが切迫したリズムで叩かれた。 表の騒がしい喧騒とは違う。 人の目を避けるような、密やかなノックの音。
「……来たな」
背後に立ったサイラスが、低く呟いた。 元騎士の勘は、そのノックの主が平民ではないことを即座に見抜いていた。
「準備はいいか、クロエ」
「ええ」
私は頷き、作業台に置いてあった深いレースのベール付きフードを被った。 目元までをすっぽりと覆い隠す、藍色の布。
私がラングレー伯爵家の元令嬢であることは、平民街はもちろん、貴族街の誰にも知られてはならない。
もしジュリアンたちに嗅ぎつけられれば、どんな理不尽な妨害を仕掛けてくるか分からなかった。
だからこそ、私は奥の採寸室でのみ顧客と対面し、顔を決して晒さない「覆面の腕利きお針子」を通すことに決めていたのだ。
サイラスが裏口の閂を外すと、分厚い外套を頭から被った若い女性が、滑り込むように入ってきた。 外套の裾から微かに覗くのは、上質な絹の仕立て。
身のこなしの端々に染み付いた礼法からして、下級貴族の家に仕える上級侍女であることは明白だった。
「……ここが、息ができるという噂の肌着を縫ってくださる工房で間違いないでしょうか」
侍女は周囲を怯えたように見回し、フードの奥の私を見つめた。 その声音は震えている。
「はい。アトリエ・エトワールの工房主、クロエです。どうぞ奥の採寸室へ」
案内された薄暗い小部屋で、侍女は外套を脱ぎ、胸元に手を当てて深く頭を下げた。
「我が主、男爵家の令嬢様からの極秘の依頼でございます。お嬢様は……ジュリアン侯爵令息が推奨される極細の正装を無理に身につけられ、毎夜の社交界で肋骨を軋ませ、呼吸すらままならず衰弱しておられます。どうか、表には見えない肌着として、身体を支え、息ができる補正衣を仕立ててはいただけないでしょうか」
侍女の差し出した寸法帳には、過酷なコルセットのせいで歪められた、痛々しい数値が記されていた。
「お任せください。外見のドレスのラインを一切崩さず、内側から肺と肋骨への圧迫を完全に受け流す構造でお作りします」
私は銀針と魔導糸を手に取り、素早く型紙の計算を始めた。 貴族の正装は、鉄骨や鯨骨で外側から肉体を押し潰す。
ならば、その内側に纏う肌着に、人体の筋膜と骨格を保護する魔力刺繍を幾何学的に配置すればいい。
外からの過剰な圧力を分散させ、呼吸に必要な胸郭の動きを最小限の空間で確保する。
それは、解剖学の知識と魔導糸の張力制御がなければ絶対に成立しない、私だけの立体構造だった。
数日後、裏口から納品された肌着を受け取った侍女は、数週間後に再び工房を訪れた。 その顔には、歓喜の涙が浮かんでいた。
「お嬢様が……お嬢様が、舞踏会の最中に一度も倒れることなく、笑顔で踊りきることができたのです! 『まるで奇跡の羽を纏っているようだ』と、お嬢様は涙を流して喜んでおられました……!」
噂は、下級貴族の侍女たちの間で密やかに、だが爆発的な勢いで伝播していった。
ジュリアンが主導する過酷な「極細コルセット至上主義」の影で、身体を壊しかけていた下位貴族の令嬢たち。
彼女たちの間で、エトワールの肌着は「息ができる秘密の奇跡」として、裏のメガヒットを記録し始めたのだ。
平民街の普段着と、貴族街の裏注文。 二つの太い柱によって、工房の金庫には銀貨が積み上がり、破綻寸前だった私たちの経済基盤はわずか一ヶ月で完全に確立された。
銀星蚕の魔導糸も、ギルドを介して安定して仕入れられるようになった。
だが、それは同時に、殺人的な激務の始まりでもあった。
◇
「……ふう」
夜更け。 最後の針を止め、私は重い息を吐き出した。 指先が痺れ、肩が鉛のように重い。 連日の徹夜続きで、視界がかすんでいた。
「クロエ、もう針を置け。スープが温まったぞ」
サイラスが、湯気の立つ粗末な陶器の深皿を二つ、作業台の端に置いた。 具材は、近所の八百屋がまけてくれた硬い根菜と、干し肉を煮込んだだけの質素なものだ。
だが、香草の素朴な香りが、疲弊した身体に染み渡るように心地いい。
「ありがとう、サイラス」
スプーンを手に取り、熱いスープを口に含む。 野菜の甘みと塩気が、胃の腑をじんわりと温めていく。
作業台を挟んで向かい合い、黙々とスプーンを動かすサイラスの姿を見つめる。
豪華な銀食器も、着飾った召使の給仕もない。 かつての伯爵邸の食卓と比べれば、信じられないほど慎ましい食事。
けれど、ここには嘘も、見栄も、誰かを陥れようとする悪意もない。
ただ、今日を生き抜いた手応えと、互いへの信頼だけがある。
まるで、本物の夫婦として何年も寄り添ってきたかのような、穏やかで甘やかな安らぎがそこには流れていた。
「……そういえば」
サイラスがふと、スプーンを置いて口を開いた。
「昼間、貴族街に仕入れに行った伝令ギルドの男から聞いたんだが」
「ジュリアンたちのこと?」
「ああ」
サイラスの瞳に、冷ややかな侮蔑の色がよぎる。
「ミレーヌ・バロワの様子が尋常ではないらしい。ジュリアンに気に入られようと、さらに無理なコルセットの締め上げを続けたらしく……連日の激しい内臓痛と呼吸苦で、屋敷の自室で侍女たちに当たり散らし、癇癪を起こして暴れているそうだ」
「……やっぱり」
私は小さく首を振った。 人体が耐えられる圧力には限界がある。 内臓が悲鳴を上げれば、自律神経が乱れ、激しい腹痛や肌荒れを引き起こすのは当然の生理的帰結だ。
「肌もひどく荒れ果て、化粧でも隠しきれない状態らしくてな。ジュリアンはジュリアンで、そんなミレーヌの不機嫌を『淑女の我儘』と切り捨て、さらに細いウエストの衣装を着るよう職人に怒鳴り散らしているらしい。召使たちの間では、すでに愛想を尽かす者が出始めているそうだ」
見栄のために自らの身体を破壊し、互いを道具としてしか見ない者たちの、自業自得の破滅への序曲。 私はただ、深い溜息をついた。
あの二人の浅ましい執着に、これ以上割く感情など残っていなかった。
「……身体を壊す前に、気づけばいいのにね」
「あいつらは気づかんさ。自ら破滅の穴へ飛び込んでいるんだ」
サイラスは吐き捨てるように言うと、私の空になった皿を片付けた。
その直後だった。 緊張の糸が切れたのか、激しい睡魔が津波のように押し寄せてきた。
作業台の横に置かれた長椅子に腰を下ろした瞬間、私の意識は急激に暗闇へと沈み込んでいった。
◇
「……クロエ?」
遠くで、サイラスの呼ぶ声が聞こえた。 まぶたが重くて、持ち上がらない。 身体が、まるで水底に沈むように動かなかった。
ふわり、と身体が浮き上がる感覚。 サイラスの逞しい両腕が、私の背中と膝裏を掬い上げ、軽々と持ち上げたのだ。
「っ……あ……」
寝ぼけた頭で、小さく声を漏らす。 サイラスの硬い胸板に、私の顔が押し付けられた。 布越しに伝わる、彼の激しい体温と、力強い心音。
奥の寝室へと運ばれる間、サイラスの歩調は驚くほど静かで、揺れひとつなかった。
ベッドの上にそっと下ろされると思った、その瞬間。
サイラスの動きが、ぴたりと止まった。
「……っ」
彼の太い腕が、私の背を抱いたまま、離れない。 それどころか、彼の顔がゆっくりと私の首筋へと近づいてくるのが分かった。
ぎゅう、と抱きしめる力が強くなる。 サイラスの額が、私の首筋に埋められた。
「……あ……サイ、ラス……?」
微かに目を開けると、至近距離に彼の濡れたような青い瞳があった。 彼の荒い呼気が、私の剥き出しの鎖骨と首筋の薄い皮膚に、直接吹きかかる。
熱い。焼けるように熱い。
彼が息を吸い込むたびに、私の首元の体温が奪われ、代わりに彼の熱狂が注ぎ込まれていくようだった。
「……どれだけ無茶をすれば気が済むんだ、お前は」
耳元で、掠れた低音が震えていた。 怒りと、狂おしいほどの愛しさが混ざり合った、切羽詰まった男の声。 サイラスの唇が、私の耳朶をかすめるほど至近距離で蠢く。
「……こんな細い身体で、全部背負い込んで……」
首筋に押し当てられた彼の吐息に、私の背骨が甘く痺れ、全身の力が抜けていく。 幼馴染の護衛騎士。 書類上の、名ばかりの夫。
そのはずなのに――彼の放つ濃厚な熱と独占欲は、もはや私の知る「護衛」の境界線を完全に踏み越えていた。
サイラスは長い沈黙の後、断腸の思いで自らを律するように、ゆっくりと腕を解いた。
私の上に毛布を掛け直すと、彼は乱れた呼吸を整えながら、背を向けて部屋を出ていった。
残された寝室の中、私の心臓は、激務の疲労とはまるで違う理由で、激しく鐘を打ち鳴らしていた。
◇
その数日後の昼下がり。
大通りに面した高級馬車の中から、路地裏の『アトリエ・エトワール』の看板をじっと見つめる鋭い視線があった。
金糸の刺繍をふんだんにあしらった豪奢な外套を着た老紳士――貴族御用達の高級服飾ギルド会頭が、不審と警戒に満ちた眼差しで、絶え間なく続く平民たちの行列を凝視していた。
「……平民の粗雑な模倣品、だと? そんなものが、これほどの熱狂を生むはずがない」
会頭の呟きは、間もなく訪れる嵐の予兆のように、冷たく通りに溶けていった。




