第10話「名ばかり妻の卒業」
「――聞いたかい? 王宮から出た公式布告のこと!」
朝陽が差し込む平民街の職人区に、パン屋のマルタ女将の弾んだ声が響き渡った。
工房の表先を整えていた私の耳に、広場の鐘の音とともに告発官の朗々たる声が届く。 舞踏会の翌朝、王都全域に掲示された王室布告は、国中を震撼させるものだった。
――アウエルシュテット侯爵令息ジュリアンは、王妃への不敬および宮廷儀礼の品位失墜の責任を問われ、侯爵家継承権を永久剥奪。即日王都を追放され、過酷を極める辺境鉱山領の監査官へと左遷降格処分。
――バロワ男爵令嬢ミレーヌは婚約を即時破棄され、虚飾の正装が引き起こした損害賠償により生家は破産、本人は地方の修道院へ永久幽閉。
――さらに、侯爵家から賄賂を受け取り、平民街の魔力刺繍衣服の査察報告を不当に隠蔽・改竄していた魔導監査局長は、王家監査官の抜打ち査察により官職を剥奪され、地下牢へ投獄。
悪意と虚飾で他者を踏み躙ってきた者たちへの、逃れようのない完全な断罪だった。
そして、布告の最後には、ひときわ大きくこう刻まれていたのだ。
『職人区の仕立て工房「アトリエ・エトワール」を、王室直轄の御用達工房に認定する』
それは、いかなる上位貴族であっても手出しを禁じられる、絶対的な不可侵権限の付与を意味していた。
「本当におめでとう、クロエさん! 街の誇りだよ!」
マルタ女将や近隣の職人たちが笑顔で手を振ってくれる。 私も心からの感謝を込めて会釈を返した。
店先には、午前に予定されている御用達認定証の公式授与式のため、白銀の甲冑を纏った王室近衛兵たちが威風堂々と駐留し、工房の周囲を厳重に警備していた。
その時だった。
「どけ! そこをどかんか、無礼者どもめが!」
大通りから怒号を撒き散らしながら、身なりを乱した中年の男が血相を変えて突進してきた。 かつて私を無一文で追放した実父、ラングレー伯爵エドワードだった。
父の顔は青黒く土気色に汚れ、着古した上着の襟元は激しく乱れている。 侯爵家からの資金援助を絶たれ、破綻の瀬戸際に追い詰められた末の、哀れな姿だった。
父は近衛兵の列を無理やり押し通ろうとして阻まれ、工房の中に立つ私を見つけるなり、窓越しに指を突きつけて喚き立てた。
「クラウディア! おお、我が愛娘クラウディアよ! やはりお前はラングレーの血を引く誇り高き娘だ! さあ、すぐにその王室御用達の権利書と工房の経営権を実家へ差し出すのだ! 我が伯爵家の名義にすれば、お前を正当な後継者として実家へ戻してやろう!」
目先の利権に狂った、あまりにも浅ましい強奪の目論見。 私は静かに工房の扉を開け、土間から冷ややかな視線を父へと向けた。
「お断りいたします、ラングレー伯爵」
「な……当主に向かって何を言うか! 親の恩を忘れたか!」
「親など、私にはもうおりません」
私は淡々と、揺らぎのない声で告げた。
「私は公証魔導院の正規手続きを経て廃嫡・除籍された、完全な平民です。そしてここは、職人ギルドの親方特権によって不可侵を保障された独立工房。貴方に指一本触れさせる筋合いはありません」
「黙れ! 未婚の娘の身柄は、実家が管理する権利がある! 力ずくでも連れ戻して――」
父が逆上して掴みかかろうと腕を伸ばした瞬間。
ガシャアンッ!
近衛兵たちの槍が交差し、父の首元を寸前で挟み込んだ。 一歩踏み出した近衛隊長が、冷徹な声で宣告する。
「王室御用達工房への不法侵入、ならびにギルド不可侵協定の重大な侵害――明白なる不敬の徒として、ラングレー伯爵エドワードの身柄を拘束する」
「な……近衛がなぜ平民の味方を!? 放せ、私は伯爵だぞ!」
「王室直属の工房に対する威嚇行動は、王妃陛下への不敬とみなされる。伯爵、貴殿の家には王家より『監督義務違反およびギルド不可侵協定違反』として、領地半分の没収が決定された」
「領地半分没収……!? そ、そんな馬鹿な……我がラングレー家が……破滅してしまうぅぅっ!」
哀れな絶叫を響かせながら、父は近衛兵たちに両脇を抱えられ、泥に塗れて引きずられていった。 私を捨て、私から奪おうとした実家の、あまりにも自業自得な没落。
遠ざかる父の背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。 私を縛っていた過去の呪縛は、今、完全に消え去ったのだ。
◇
近衛兵たちが表の警備へ戻り、工房の中には静けさが戻っていた。
私は作業台の前に立ち、引き出しの奥から一枚の書類を取り出した。 平民街に来た日、公証人役場で作成した『契約結婚の誓約書』だ。
身元を守り、工房を借りるための、名ばかりの夫婦関係を記した紙片。
「……サイラス」
呼ぶと、奥室から彼が静かに歩み寄ってきた。 その青い瞳には、いつもの冷静な光の奥に、隠しきれない躊躇いと緊張が滲んでいた。
「クラウディア。……もう、身元を偽る必要もなくなったな」
サイラスは机の上の誓約書を見つめ、どこか寂しげに眉を下げた。
「王室御用達の工房主となったお前を、実家も、貴族の連中も二度と脅かすことはできない。俺の書類上の立場も形骸化した。……約束通り、この契約結婚は解消して――」
「解消なんて、しません」
私は遮り、彼の手首を両手でしっかりと握りしめた。 サイラスが目を見開く。
「クラウディア……?」
「私ね、鈍感だったわ。貴方がずっと、どんな思いで私の隣にいてくれたのか……護衛という言葉の裏に隠してくれていた熱い気持ちに、ずっと甘えていただけだった」
胸の奥に溢れる想いが、熱い雫となって視界を滲ませる。 私は左手の薬指に填められた、あの安価な真鍮の指輪を撫でた。
「身分を守るためでも、義理でもない。私は……サイラス、貴方の隣にいたい。貴方と二人で、これからの服を作っていきたいの。私を、本当の妻にしてくれますか?」
「っ……!」
サイラスの喉が大きく上下した。 彼の瞳から一切の迷いが消え去り、激しい感情の波がその相貌を覆い尽くす。
「……言ったはずだ」
サイラスは机の上の誓約書を無造作に掴むと、力任せに真っ二つに引き裂いた。 床に散らばる偽りの紙片。
「俺には最初から、お前以外の誰かを愛する気など欠片もないと」
次の瞬間、ふわりと私の身体が宙に浮いた。 サイラスが逞しい両腕で私を抱き上げ、作業台の端へとそっと座らせたのだ。
「あっ……サイラス……!」
作業台の上で私の太ももの両脇に彼の手が置かれ、至近距離で閉じ込められる。 サイラスは私の左手を取り、古い真鍮の指輪をゆっくりと引き抜いた。
代わりに彼がポケットから取り出したのは、白銀の細工が施された、夜空の星のように淡く輝く一対の指輪だった。
銀星蚕の魔導鉱石を溶かして、彼自身が密かに鍛え上げていた本物の誓いの証。
「契約の妻は、今日で終わりだ」
サイラスは私の薬指へ、新しい銀の輪を滑り込ませた。 肌に吸い付くような完璧な重み。
そして、彼は私の頬を大きな両手で包み込み、熱い額を私の額へと押し当てた。
「愛している、クラウディア。一生かけて、お前を愛し抜く。俺の命のすべてをお前に捧げる」
「サイラス……っ」
重なる吐息。 言葉を紡ぐ間もなく、サイラスの唇が私の唇を塞いだ。
深く、激しく、甘やかな口づけ。 これまでの苦難も、抑え込んできた想いも、すべてを溶かし去るような熱情が注ぎ込まれていく。
作業台の上で、私は彼の広い背中に腕を回し、その引き締まった身体を強く抱きしめ返した。
名ばかりの妻を卒業し、真の夫婦として結ばれた至上の幸福が、全身の隅々まで満ち溢れていく。
◇
やがて唇が名残惜しそうに離れると、サイラスは愛おしそうに私の目尻の涙を親指で拭った。 その顔には、少年のような晴れやかな笑みが浮かんでいた。
「さあ、開店の準備をしよう、俺の奥さん」
「ええ、私の旦那様」
東の窓から、祝福のようなまばゆい朝陽が作業場いっぱいに降り注いでいた。 埃ひとつない作業台の上に、私たちは二人で新しい極上の布地を広げた。
誰の身体も傷つけず、生きる人の生命を輝かせる、新しい服を仕立てるために。
手を取り合う二人の指先で、真新しい銀針が、希望に満ちた未来を映してキラリと煌めいた。
(完)
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