第2話「追放と忠誠」
(ああ、最初からこの人は、娘の言葉など一度も聞く気配すらなかったのだわ)
書斎の重苦しい空気の中、私は机の向こうに座る実父を見据えながら、静かにそう確信していた。
ラングレー伯爵エドワード。 私の父であり、この家の絶対君主として振る舞ってきた男の顔は、怒りと恐怖で醜く歪んでいた。
王立魔導郵便の刻印が押された書状が、樫の木の机の上に叩きつけられている。
アウエルシュテット侯爵家から届けられた、夜会の顛末を告げる公式の抗議文だった。
「身の程知らずめが……! なんということをしてくれたのだ、クラウディア!」
父の怒号が、四方を囲む本棚を震わせる。
「アウエルシュテット侯爵家との婚姻が、我が家にとってどれほどの利権をもたらすはずだったか、貴様はまるで理解しておらん! ジュリアン様が推奨される伝統の装いを『危険だ』などと侮辱し、あまつさえミレーヌ様を逆恨みして悪辣な言葉を浴びせただと!? 夜会の壇上で扇子をへし折るなど、正気の沙汰ではない!」
「侮辱などしておりません」
私は姿勢を正したまま、抑揚を抑えて答えた。
「私は服飾の構造と医学的見地から、あの過剰な鯨骨コルセットが内臓を押し潰し、肋骨を損なう恐れがあると事実を申し上げただけです。ミレーヌ様の呼吸は明らかに狭窄を起こしておりました。あのままでは倒れると、危険を警告したにすぎません」
「黙れ! 言い訳など聞くか!」
父は机を強く叩いた。 その瞳に映っているのは、娘の真意でも、医学の正しさでもない。 ただ、上位貴族の不興を買ったことに対する底知れない恐怖だけだ。
「事実がどうあれ関係ない! 侯爵家が『悪役令嬢による嫉妬と侮蔑だ』と断定されたのだ! 我が伯爵家が存続するためには、侯爵家の怒りを鎮めるほか道はないのだぞ!」
父は震える手で羽ペンを握り、別の書類を引き寄せた。 王立公証魔導院の紋章が刻まれた、正式な廃嫡・除籍届だ。
上位貴族からの婚約破棄に伴う「品位毀損」を理由として、当主の署名ひとつで娘の貴族籍を剥奪する手続きの書面だった。
「貴様のような家の面汚しを、これ以上ラングレーの名の下に置いておくわけにはいかん。今この瞬間をもって、貴様を廃嫡とする。貴族籍を抹消し、我が家から即日追放処分とする!」
「……わかりました」
私の即答に、父は一瞬、呆気に取られたように動きを止めた。 縋り付き、泣いて許しを請うとでも思っていたのだろうか。
だが、こんな腐りきった家に未練など欠片もない。
「謹んで、追放をお受けいたします。除籍届の受理手続き、どうぞお進めください」
「ふ、ふん……強がりを! 身一つで放り出され、平民街の泥水を啜って生きるがいい! 金も、ドレスも、持っていくことは一切許さん!」
父は吐き捨てるように言うと、震える手で公証院への届け出に署名し、さらにもう一枚の紙にインクを走らせ始めた。
見れば、それは侯爵家へ宛てた『全責任を娘に帰す謝罪文』だった。
額に油汗をびっしりと浮かべ、背中を丸め、殴り書きのような文字で平身低頭の詫び言葉を連ねている。
かつて娘の前で傲慢に振る舞っていた伯爵の威厳など、そこには微塵もなかった。
ただ上位貴族の機嫌を損ねまいと怯え、我が身可愛さに震える、哀れで惨めな矮小な男の姿がそこにあるだけだ。
私は冷めた視線を父から外し、退室しようと踵を返した。 その時だった。
バサリ、と鈍い音が書斎に響いた。
私の斜め後ろに控えていたサイラスが、懐から取り出した羊皮紙を、無言のまま父の机の上に叩きつけたのだ。
「……な、なんだこれは?」
父が不快そうに眉をひそめ、その紙へ視線を落とす。
「騎士辞任届でございます」
サイラスの低く、冷徹な声が書斎の空気を切り裂いた。
「当主様。私は本日付で、ラングレー伯爵家専属護衛騎士の任を辞退いたします」
「な……貴様、気でも狂ったのか、サイラス!」
父が椅子から腰を浮かせ、甲高い声を張り上げた。
「王国騎士団の試験で次席を取った貴様を、我が家がどれほど目をかけて召し抱えてやったと思っている! 平民の出でありながら、伯爵家の専属騎士という地位を捨てると言うのか!?」
「私の剣は、クラウディア様をお守りするために捧げたものです」
サイラスの声音には、揺らぎの一片もなかった。 青い双眸が、氷のように研ぎ澄まされた光を湛えて父を射抜く。
「クラウディア様がこの家を出られるのであれば、私がここに留まる理由は一切ございません。即日、退職させていただきます」
「サイラス……!?」
私は息を呑み、思わず彼の腕に手を伸ばしかけた。 何を言っているのか。
下級士族の出である彼が、騎士団の試験で次席という輝かしい成績を収め、どれほどの努力を重ねてこの地位を掴んだのか、私はずっと傍で見てきたのだ。
伯爵家の庇護を失えば、彼の騎士としての前途は完全に断たれてしまう。
「待って、サイラス。馬鹿なことはやめなさい! これは私の問題よ。貴方が将来を捨てる必要なんてどこにも――」
「お止めにならないでください、クラウディア様」
サイラスは私へ向き直ると、静かに、だが決して引かない力強さで私の言葉を遮った。 その瞳の奥にある熱の深さに、私は息を詰まらせた。
「貴女を一人で市井へ行かせることなど、俺には絶対にできません」
敬語の端から、二人きりの時にしか見せない幼馴染としての声音が、微かに零れ落ちていた。
「ええい、勝手にしろ!」
背後で父が顔を真っ赤にして喚き散らした。
「揃いも揃って恩知らずな屑どもめが! 行け、今すぐ消えろ! 我が家の敷居を二度と跨ぐな!」
◇
屋敷の裏門から出た時、街を濡らしていた夜雨はすっかり上がっていた。
私は着の身着のまま、ドレスの上からサイラスの上着を羽織っていた。
持ち出しを許されたのは、私が肌身離さず持っていた銀針と、前世の記憶を頼りに育てていた銀星蚕の魔導糸が数巻だけ。
貴族の身分証はすでに書斎で没収され、私は法的に完全な平民となっていた。
すう、と深く息を吸い込む。
雨上がりの澄んだ夜風が、胸を満たしていく。 埃っぽい書斎の空気も、香水にまみれた社交界の悪臭も、ここにはない。
すべてを失ったはずなのに、私の肺に流れ込んでくる空気は、生まれて初めて触れるほど清らかで、甘やかだった。
重厚な貴族街を抜け、石畳の道を歩き続ける。 やがて、整然とした街並みは雑多な灯りと生活の匂いが漂う平民街へと移り変わっていった。
深夜の職人区は、酒場から漏れる喧騒と、濡れた木造家屋の匂いで満ちていた。
サイラスが手配してくれたのは、大通りから少し入った路地裏にある、質素な安宿だった。
ギルド連合が治安を守る職人区の宿は、簡素だが清潔で、貴族の追手が踏み込めない独特の落ち着きがあった。
鍵を開け、軋む木製の扉を押して部屋に入る。 置かれているのは、古びた木製の丸テーブルと椅子が二脚、そして簡素なベッドが一つだけ。
壁のオイルランプに火を灯すと、狭い室内が橙色の柔らかい光で照らされた。
「……サイラス」
私は上着を脱ぎ、椅子に腰を下ろすことも忘れて彼を振り返った。 胸を押し潰すような罪悪感が、堰を切って溢れ出そうになっていた。
「どうして、あんな無茶をしたの? 貴方は優秀な騎士よ。あの家に残っていれば、あるいは別の貴族家へ移籍していれば、引く手あまただったはずなのに……。私なんかに付き合って平民に落ちるなんて、あんまりだわ」
「貴女『なんか』ではありません」
サイラスは即座に否定した。 そして、彼は静かに歩み寄り――私の足元に、音もなく片膝を突いた。
「サイラス……?」
見上げる位置になった彼を見下ろす。 サイラスは手袋を外した大きな手で、私の冷えた右手をそっと両手で包み込んだ。
そして、躊躇うことなく、私の指先へと自身の額を押し当てた。
「っ……」
触れ合った指先から、彼の皮膚の熱と、激しい呼気が直に伝わってくる。 騎士が主に捧げる臣従の礼。
だが、その仕草には、主従という枠組みでは到底説明のつかない、狂おしいほどの熱情が滲んでいた。
「俺は、ラングレーの家名に仕えていたのではありません」
額を私の指に押し当てたまま、サイラスが掠れた声で囁く。 漏れ出る熱い吐息が、私の指の腹を撫で、全身へ粟立つような熱を広げていく。
「冷遇され、誰にも認められなくても、血を滲ませながら針を握り続けていた……貴女のその手だけを、お守りしたかった。貴女が平民になるのなら、俺も平民でいい。貴女の傍にいられるなら、騎士の地位など塵と同じです」
「で、でも……」
「頼むから、俺を拒まないでくれ、クラウディア」
サイラスがゆっくりと顔を上げた。 普段の冷静沈着な表情はそこになかった。 青い瞳が濡れたように揺れ、痛々しいほどの懇願の色を帯びている。
至近距離で見つめられ、私の心臓が跳ね上がった。 彼の熱い手が、私の指先をすがるように、壊れ物を抱くように握り締めている。
「俺を、貴女の隣に置いてください。貴女の盾として、この命を使い切らせてほしい」
その言葉の重さに、私は言葉を失った。 彼がどれほどの覚悟で私を選んでくれたのかが、痛いほどに胸を打つ。
「……サイラス。貴方って本当に、頑固ね」
私は小さく息を吐き、もう片方の手で、彼の広い肩にそっと触れた。
「わかったわ。でも、護衛としてだけ貴方を縛るつもりはないわよ。ここからは、対等な相棒よ。私と一緒に、新しい服を作ってくれる?」
サイラスの顔に、初めて安堵の光が差した。 彼は私の指先にそっと唇を触れさせそうな距離まで引き寄せ、名残惜しそうにその手を緩めると、すっと立ち上がった。
しかし、その表情はすぐに、別の張り詰めたものへと変わっていた。
「……クラウディア、明日の朝一番で、やらなければならないことがあります」
「え? 明日の朝?」
首を傾げる私を、サイラスは真剣な眼差しで見つめ返した。 ランプの灯りに照らされた彼の横顔が、わずかに赤らんでいるように見えたのは気のせいだろうか。
「この平民街で貴女が工房を開くため、そして……伯爵家からの理不尽な身柄引き渡しを完全に防ぐための手段です」
サイラスは喉を一度鳴らし、深く息を吸い込んでから、思いもよらない言葉を口にした。
「俺と、結婚してください」




