第1話「扇子は折られた」
私は、両手の中に納まる象牙の骨組みへ、静かに指を掛けた。
細やかな透かし彫りが施された、母の形見でもある扇子だ。 指先を滑らせれば、冷たい感触が皮膚を通して伝わってくる。
視界の先には、きらびやかなシャンデリアの光を背負った男が立っていた。
「聞こえなかったのかい、クラウディア? 君のその姿だよ。吐き気を催すほど下品極まりない」
壇上の中央で、ジュリアン・フォン・アウエルシュテット侯爵令息が嘲笑を浮かべている。 彼の腕には、小柄な令嬢がすがりついていた。
バロワ男爵令嬢、ミレーヌだ。
ミレーヌは身に纏った豪奢なドレスのウエストを両手でなぞりながら、扇の陰で勝ち誇った笑みをこぼしている。
その胴回りは、異様なほどに細かった。 人間が息をするための内臓がどこへ押し込められたのか疑うほど、無残に絞り上げられている。
唇は微かに青ざめ、浅い呼吸を繰り返しているというのに、彼女の瞳には優越の光だけがぎらついていた。
「伝統あるアウエルシュテット侯爵家の夜会に、あのような骨組みすらまともに入っていない布切れ一枚で現れるとはね。我が家の格式を泥で塗る気かい?」
ジュリアンが甲高い声で会場中に響き渡るように告げる。
「鉄骨や鯨骨で威儀を正すことこそが、高貴なる者の義務だ。それを『呼吸ができない』『内臓を圧迫して危険だ』などと……みっともない言い訳を並べ立て、あまつさえミレーヌの崇高な美意識を誹謗中傷するとは言語道断! 己の怠惰を正当化する下劣な女め」
広間を埋め尽くす貴族たちの視線が、針のように私へと突き刺さる。 扇子で口元を隠した婦人たちがひそひそと囁き合い、男たちは侮蔑を隠そうともせずに鼻を鳴らした。
「まあ、なんてだらしないシルエットなのかしら」 「ラングレー伯爵家のお嬢様は、正装の作法すらご存じないのね」
「あんな緩んだ腰回り、平民の野良着と変わりませんわ」
嘲弄のさざ波が広がる。 私はただ、背筋を伸ばして壇上を見据えていた。
私の着ているドレスには、鉄の板も、硬い鯨の骨も一本たりとも入っていない。
前世で服飾のパタンナーとして過労死するまで布と針に向き合い、この世界に転生してからも人体の構造を誰よりも学んできた。
肋骨をへし折り、肺を押し潰して得る細さなど、美しさでもなんでもない。ただの自傷行為だ。 そう誠意を持って諫言した結果が、この茶番だった。
ミレーヌは私の言葉を「美しく装う私への嫉妬」と歪めて社交界に吹聴し、ジュリアンはその浅薄な嘘を喜んで飲み込んだのだ。
「クラウディア・フォン・ラングレー! 我が侯爵家は、君のような品位なき悪逆の徒を妻に迎えるわけにはいかない!」
ジュリアンが胸を張り、大仰に腕を広げた。
「今この場をもって、君との婚約を完全に破棄する! これより我が隣に立つにふさわしい真の淑女は、このミレーヌただ一人だ!」
「まあ、ジュリアン様……!」
ミレーヌが甘ったるい声を上げ、ジュリアンの胸元へ倒れ込むように寄り添った。 極限まで締め上げられた胸元が、激しく上下している。 気道が狭窄している証拠だ。
少し動くだけで酸素が足りず、立っていることすら限界なのだろう。 周囲の貴族たちは、その危うい佇まいを「可憐な儚さ」と持て囃し、喝采の準備を始めていた。
ジュリアンは下卑た笑みを浮かべ、私を見下ろす。 床に跪き、涙を流して許しを請う私の姿を期待しているのが、その濁った瞳からありありと伝わってきた。
私の背後で、冷たい金属音が微かに鳴った。
振り返らなくてもわかる。 私の背後に直立する専属護衛騎士――サイラスだ。 彼の腰の佩剣が、鞘の中でわずかに滑り出していた。
全身から立ち上る気配は、もはや護衛のそれではない。
主を侮辱された激怒と、壇上の二人を今すぐにでも叩き斬らんとする鋭利な殺気が、彼の大きな体躯から濃密に放たれている。
彼が剣を抜けば、この場で反逆罪に問われ、命を落とすことになる。 そんなことは、絶対にさせない。
私はすっと息を吸い込んだ。 肺胞の隅々まで、なんの障害もなく清らかな空気が満ちていく。 骨組みのない私のドレスは、私の自然な呼吸を一切邪魔しない。
そして――。
パキィィィンッ!
乾いた、鋭い破断音が、広間の隅々にまで響き渡った。
冷笑に包まれていた大広間が、一瞬で静まり返る。 ジュリアンが目を丸くし、ミレーヌの青白い顔が強張った。
私の両手の中で、薄く繊細に削り出された象牙の親骨が、真っ二つにへし折れていた。 美しく透かし彫りされた扇面が、無残に裂け、垂れ下がっている。
私は折れた扇子を、壇上の足元へ無造作に投げ捨てた。 カラン、と乾いた音を立てて象牙が転がる。
「……な、なにを……」
ジュリアンが上擦った声を漏らした。 私はドレスの裾をわずかに持ち上げ、完璧な角度で、だが一片の敬意も込めずに会釈した。
「謹んで、お受けいたします」
澄んだ声で、はっきりと告げる。
「アウエルシュテット侯爵令息ジュリアン様。貴方からの婚約破棄の申し出、このクラウディア・フォン・ラングレー、異存なく受諾いたしました」
「な……っ!?」
「弁明も、懇願もいたしません。ご自身の隣に立つ者の命すら顧みず、歪んだ見栄に溺れる殿方など、こちらから願い下げでございますから」
「き、貴様……っ! 僕を、侯爵家の僕を愚弄する気か!?」
ジュリアンが顔を真っ赤にして壇上から身を乗り出した。 その額には青筋が浮かび、先ほどまでの気取った優雅さは見る影もなく消え失せている。
「僕を無視するな! 誰のおかげで社交界にいられたと思っている! 伯爵家の分際で、この僕に恥をかかせてただで済むと――」
私はもう、彼の言葉を待たなかった。
踵を返す。 ジュリアンに背を向け、一歩を踏み出した。
ざわり、と広間が揺れる。 上位貴族に背を向け、壇上に言葉を返さず退出するなど、前代未聞の不敬だ。
だが、私を縛る婚約は、彼自身の手によって今この瞬間に消滅した。
これ以上、あの男の醜態に付き合う義理などどこにもない。
毅然とした私の歩調に気圧されたのか、嘲笑っていた貴族たちが左右へと波のように割れていく。 誰もが息を呑み、声を失っていた。
折れた扇子の破断音と、私の靴音だけが、天井の高い大広間に規則正しく響いていた。
横へ並んだサイラスが、肩を怒らせ、拳を激しく震わせているのが見えた。 手甲の中で、爪が皮膚に食い込むほど強く握りしめられている。
青い瞳は怒りの炎で灼けつき、今にも壇上へ引き返してジュリアンを両断しかねない気迫を宿していた。
私は歩みを緩めることなく、そっと左手を伸ばした。 そして、震える彼の大きな右手を、下から包み込むように無言で握った。
「っ……!」
サイラスの呼吸が一瞬、完全に止まった。 ぴたりと強張った彼の指先から、熱い体温が伝わってくる。
視線を合わせることはしない。 ただ、指先に力を込め、もう大丈夫だと伝えるように引いた。
「行こう、サイラス」
前を向いたまま、小さな声で囁く。 サイラスは喉を微かに鳴らし、溢れ出そうだった殺気をすっと呑み込んだ。
握られた私の手を、壊れ物を扱うような慎重さで、だが決して離さないとばかりに強く握り返してくる。
背後から、ジュリアンの見苦しい怒号が聞こえていた。
「おい! 待て、クラウディア! 衛兵、衛兵を呼べ! 僕の前に引きずり戻せ!」
衛兵が動く気配はない。 私的な婚約破棄の壇上において、公式な犯罪事実もない令嬢を、侯爵令息の私怨だけで拘束する権限など近衛にはないからだ。
ミレーヌが「ジュリアン様、苦しいですわ……」と呻く声が微かに混ざり、やがてそれも遠ざかっていった。
重厚なエントランスの扉を押し開け、私は夜会の会場から外へと踏み出した。
夜の冷気が、火照った頬を撫でる。 香水と蝋燭の脂が混ざり合った、あの息の詰まる大広間の空気とは違う。
澄み渡った風が、喉を通り、肺の奥深くまで染み渡っていく。
胸がすくような、圧倒的な解放感だった。
もう、あの男のために笑う必要はない。 命を削るようなコルセットを賛美し、偽りの美を競い合う歪んだ社交界に、へつらう必要もなくなったのだ。
隣を歩くサイラスは、まだ硬い表情を崩していなかったが、その歩幅はしっかりと私に合わされていた。
握り合っていた手は、夜風の中で自然と離れたものの、彼の指先が名残惜しそうに私のドレスの裾をかすめたのを肌で感じた。
「……クラウディア様」
夜道に出たところで、サイラスが低く、押し殺した声で口を開いた。
「あのような男のために、貴女が傷つく必要など……」
「傷ついてなんかいないわ」
私は立ち止まり、夜空を見上げて微笑んだ。
「むしろ、清々したわ。あんな無能の隣で一生息を詰まらせて暮らすなんて、まっぴらごめんよ。これでようやく、私の服が作れる」
サイラスは驚いたように目を見張り、それから、困ったように眉を下げた。
「……貴女は、昔からそうです」
その声音には、騎士としての畏まりと、幼い頃からの深い情愛が滲んでいた。
だが、安堵に浸っていられる時間は長くはなかった。 夜道を馬車で揺られ、辿り着いた先。
我が家であるはずの、ラングレー伯爵邸。 その重厚な鉄門は固く閉ざされ、冷酷な漆黒の威容をもって、夜の闇の中に立ち塞がっていた。
門番の姿はなく、敷地内には異様な静寂が澱んでいる。 父が、すでに事態を把握している証拠だった。




