第3話「名ばかりの契約」
金槌が鉄を叩く甲高い金属音と、挽きたての木屑の匂いが、朝の冷たい大気の中を満たしていた。
石畳を踏み鳴らす荷馬車の車輪、客を呼び込む威勢のいい露店商の声。 平民街の職人区は、貴族街の静寂とはまるで異なる、剥き出しの生命の熱気で脈打っている。
路地を行き交う人々は誰もが粗野な作業着をまとい、生きるために自らの手足を忙しなく動かしていた。
「――つまり、形式上の婚姻届を出すことで、実家からの強制的な身柄引き渡し権を完全に消滅させる、と」
私は歩きながら、隣を行くサイラスを見上げた。 彼が昨夜、安宿で告げた驚くべき提案の内容を、頭の中で整理する。
「ああ」
サイラスは周囲に警戒の視線を配りながら、低く落ち着いた声で頷いた。
「貴族法の上では、除籍された元令嬢であっても、未婚のまま市井を彷徨っていれば『保護』の名目で実家や後見人が強制連行する法的抜け穴が残されている。だが、平民として正式に婚姻を結べば、法的な所属は完全に新しい家庭へと移る。伯爵家が私兵を使ってお前を連れ戻そうとすれば、それはギルド法と平民保護法への重大な侵害になる」
「それに、工房の賃貸も……ね」
「その通りだ。職人区の店舗付き物件を借りるには、ギルドに登録された世帯主の身元保証が必須だ。俺は元士族としての退役証明と身元保証がある。俺たちが夫婦として登録すれば、親方特権の庇護下にある廃工房を合法的に借り受けられる」
理路整然とした説明だった。 感情を差し挟む余地のない、極めて合理的で完璧な防衛策。 だが、私の胸の奥には、ちくりとした痛みが広がっていた。
「……でも、いいの? サイラス。私を助けるためだけに、書類上とはいえ結婚なんて。貴方の将来の結婚相手に、傷がつくことになるわ」
幼い頃から私を不器用に見守り、私のために騎士の栄光すら投げ打ってくれた彼を、今度は偽装結婚の片棒に担ぎ上げる。 その申し訳なさに、思わず俯きそうになる。
「俺の将来の相手、か」
サイラスが足を止め、路地の片隅で私を見下ろした。 その瞳の奥に宿る暗い熱に、私は息を呑む。
「余計な心配だ。俺には、お前以外の誰かと人生を共にする気など、端から微塵もない」
「え……?」
「――書類上の契約の話だ」
私が固まっていると、サイラスはわずかに視線を逸らし、咳払いを一つ落とした。
首筋がほんの少し赤らんでいるように見えたが、彼はすぐにいつもの引き締まった表情を取り繕った。
「目的は工房の確保と、お前の身柄の完全な保護だ。余計な感傷は捨てろ。行くぞ」
職人ギルドの立ち会いの下、公証人役場の重い木製扉をくぐる。 インクと古い羊皮紙の匂いが立ち込める薄暗い窓口で、私たちは数枚の書類に署名を行った。
私の名前は、貴族の家名を捨てたただの「クロエ」。 そしてサイラスの姓を連ね、公証人の魔導印が書類に淡い光を灯す。
『――これにて、サイラス・ハルデン、ならびに妻クロエの婚姻が公的に受理されました』
係官の無愛想な宣言によって、私たちの関係は、法的に「夫婦」となった。 形式上、書類上だけの、名ばかりの夫婦。
「これを」
役場の窓口の隅で、サイラスが手のひらを開いた。 そこに乗っていたのは、装飾も宝石もない、極めて質素な真鍮の指輪だった。
市井の職人が嵌めるような、安価なものだ。
「平民街でも、所帯持ちの女が指輪をしていないと余計な勘繰りをされる。……手を出せ」
促されるまま、私は震える左手を差し出した。 サイラスの大きな指が、私の指先に触れる。 無骨で固い指先が、私の薬指へとゆっくりと真鍮の環を滑り込ませた。
冷たい金属の感触のあとに、彼の指先から移った熱が、じんわりと皮膚に広がっていく。
左手の薬指に収まったその輪を見つめると、言いようのないむずがゆさと、背中が粟立つような緊張が込み上げてきた。
「似合っている」
短くそう呟いたサイラスの声は、どこか硬かった。
役場の分厚い扉を押し開け、再び大通りへと出る。 ちょうど正午を迎え、通りは行き交う職人や商人たちでごった返していた。
重い木箱を担いだ屈強な男たちが、怒号を上げながらすれ違っていく。
「うわっ……」
荷車を避けた拍子に、大柄な人夫の肩が私の身体をかすめそうになった。 思わず身を縮めた、その瞬間。
ぐいっ、と強い力で引き寄せられた。
「あっ……!」
気づいた時には、私はサイラスの逞しい胸元にすっぽりと抱きすくめられていた。 彼の太い腕が、私の腰を隙間なく抱き寄せている。
「前を見ろ。ぼんやり歩くな」
頭上から降ってきたのは、低く咎めるような声だった。 だが、その声はわずかに震えている。
近い。近すぎる。 薄いシャツ越しに、彼の引き締まった筋肉の硬さと、驚くほど高い体温が直に伝わってくる。
トクン、トクン、と彼の胸の奥で激しく打つ鼓動が、私の胸骨にまで響いてくるようだった。
「サ、サイラス……近すぎ……」
「離れるな。人混みで逸れたらどうする」
サイラスは腰に回した腕を緩めるどころか、さらに力を込めて私を自らの体へと密着させた。
まるで、周囲の男たちの視線から私を完全に覆い隠そうとするかのような、頑ななまでの抱擁。
人混みの喧騒の中、私の耳元に彼の熱い呼気が吹きかかり、思考が真っ白に染まっていく。
「……っ」
互いに息を詰め、密着したまま数歩を進む。 彼の腕の拘束から解放されたのは、大通りを外れ、人気のない細い路地へと滑り込んだ時だった。
サイラスはぱっと腕を解き、背を向けた。 肩が微かに上下している。 私もまた、燃え上がるように熱くなった頬を手で押さえ、乱れた呼吸を整えるのに必死だった。
名ばかりの契約結婚のはずなのに、この距離感は、あまりにも心臓に悪すぎる。
「……着いたぞ。ここだ」
サイラスが立ち止まったのは、路地の突き当たりにある、二階建ての古びた木造建築の前だった。
看板は外され、窓ガラスは埃をかぶっているが、一階の作業場は十分に広く、奥には居住用の小部屋が備わっている。
かつて仕立て屋が営まれていたという廃工房だ。
鍵を開けて中へ足を踏み入れる。 うっすらと埃の匂いが立ち込めていたが、雨漏りの跡もなく、頑丈な作業台が中央に鎮座していた。
「掃除をすれば、すぐに使えるはずだ。奥の部屋にはベッドが一台しかないが……俺は作業場の床で寝る」
「えっ、それは駄目よ! 貴方にそんなことさせられないわ。交代で使うか、何か敷物を――」
「俺は騎士だ。野営には慣れている。お前がベッドを使え。……これは譲らん」
サイラスは眉根を寄せ、有無を言わさぬ口調で私の抗弁を封じた。
相変わらずの過保護さに、私は小さく溜息をつきつつも、どこか温かい安心感に包まれるのを感じていた。
ふと、役場からの道すがら、酒場のテラス席から漏れ聞こえていた貴族街の噂話が脳裏をよぎる。
――アウエルシュテット侯爵邸で、新しい婚約者のミレーヌ様が、前婚約者の残していった私物をすべて庭に集めさせたらしい。
――「こんな骨組みも入っていない、平民の雑巾のような悪趣味なゴミ、目にするだけで反吐が出ますわ!」と笑いながら、下僕たちに油を注がせて焼き捨てさせたそうだ。
――侯爵令息のジュリアン様も、「これで我が家の空気が清められた」と拍手喝采していたとか。
浅ましい。 怒りを通り越して、乾いた笑いすら漏れそうだった。 他人の服をゴミと嘲笑い、自らの虚栄心のために燃え上がる炎を眺めて歓声を上げる。
あの二人が誇る「美意識」の底の浅さが、どれほどのものか。
衣服の本質を、着る者の身体を守り生かすという誇りを、何一つ理解していない証拠だ。
「……何がゴミよ」
私は埃を払った作業台の前に立ち、懐から大切に取り出した銀針と、銀星蚕の魔導糸を取り出した。
光を吸い込んで淡く白銀に煌めくその極細の糸を、手のひらの上で転がす。
左手の薬指には、真鍮の指輪。 背後には、窓の外を鋭い眼差しで見張り、私を守るために控えているサイラスの背中がある。
もう、あの息の詰まる鳥籠の中の令嬢ではない。 私はここで、私自身の腕一本で生きていくのだ。
作業台の上に広がる木目を指先でなぞりながら、私は前世の記憶――解剖学に基づいた立体裁断の数々と、この世界の魔導糸が持つ張力制御の理論を、頭の中で精密に編み上げていった。
「見ていなさい、ジュリアン。……本当の服がどういうものか、私が教えてあげるわ」
強く握りしめた銀針の冷たさが、私の決意を静かに研ぎ澄ましていった。




