35話 ルバスベリーとフィーリア
それからの2週間は穏やかに過ぎた。
ずっとやってきたように、ダンスや立ち居振る舞いの課題点を直しつつ、クロードさんとミリアーナさんに作ってもらった舞踏会の出席者リストを読み込んで名前や家族構成、領地の情報を覚える。時々シェリルちゃんとお茶をして、時々夜に抜け出してジェイクに会いに行く。そんな日々だ。
デビュタントが近づいてきたので、セドリック殿下とお会いしてダンスをする日も多い。こちらに殿下が来訪されたり、私が王宮へ参じたり。
王宮を訪問した際に、お願いしてもう一度ステラリリィの腕輪を見せてもらったこともあった。相変わらず私には南国の海のように澄んだ深い青に輝くように見えるけれど、他の人にはそうは見えないらしい。立ち会った妖精学者の方々も首を傾げていた。
私の夢に出てくる女の子の声も前例がないらしい。
次期王妃は妖精様に選ばれしお方なのですな、と少し羨ましそうな顔で言われたおべっかには、曖昧な微笑みで返すしかなかった。
記憶を取り戻す兆しはない。日々は淡々と過ぎて社交デビューの日が近づいてくる。
このままデビュタントを迎え、その後本格的に始まる王子の婚約者としての社交も私がこなすことになるのだろうか。私の努力は、デビュタントの一日をなんとかごまかしてやり遂げるためだけのものだ。この付け焼き刃の浅い知識と経験とでは、繰り返される社交には耐えられない。
記憶を取り戻して、アンジーちゃんに体を返さなくちゃいけない。
みんなの大事なアンジーちゃんの体をお借りして、私はたくさんの得がたい経験とたくさんの思い出をもらった。もう死んでしまっているはずの私はこの体に長居せず、この時間に感謝して体を返すべきだ。
ジェイクの顔が浮かんだ。
申し訳ないなと思うけれど、彼も私も、この関係はほんのいっときのものだと理解している。
この想いだけは、私だけのものだ。
これだけを持って、私は綺麗に消えていきたい。
そう覚悟を決めているのに、私は何も思い出せない。
屋敷の中をあちこち見て回り、使用人たちの仕事場まで覗きにいった。けれど、使用人たちに粗相でもしてしまったかと恐縮させて迷惑をかけただけだった。
行商や商人たちに異国の品をいくら持ってきてもらっても、家の図書室や王宮から借りてきた本をどれだけ読んでも、こっそりと街にでかけてみても、何も引っかかるものはない。ただ楽しい思い出が増えただけだ。
漏れそうになるため息を飲み込んで、私は本のページをめくった。
万策尽きた私は図書室の本を片っ端から読んでいる。私の記憶ではなくアンジーちゃんの記憶が引っかかったりしないかな? という思惑だ。体に染み付いた記憶があると感じたことはないので、あんまり意味のない行為かもしれない。でも何もしないのは嫌で、無駄かもと思いつつも難しい歴史書を開いていた。
「そろそろ休憩にいたしませんか?」
「そうね……」
メアリの呼びかけに私は本を閉じた。書き物机からソファに移動した私の目の前に、爽やかな香りの紅茶とケーキが置かれる。
「初摘みのルバスベリーのケーキだそうですよ」
「お庭のルバスベリー? やっと収穫の時期になったのね」
お皿の上にちょこんと乗ったケーキには、たっぷりクリームがかかっている。その上に瑞々しいルバスベリーがいくつも散りばめられていた。
硬い蕾を見たときから、ずっと食べるのが楽しみだった。私はごきげんにその赤い実を口へ運んだ。
甘酸っぱい味が口いっぱいに広がる。
それと同時に、今まで感じたことのないほどの頭痛に襲われた。頭を思い切り殴られたかのような痛みとともに、頭の中に様々な映像が浮かんでは消える。
「お嬢様!? お嬢様…!! だれか、だれか、侍医を!!」
メアリの取り乱した声が遠くに聞こえる。
ああ、そうか、私は——。
思い出した。
思い出してしまった。
私は、フィーリア。
ファミリーネームのない、ただの、フィーリア。
私は違う世界の日本という国で16歳まで生きた遠野莉愛の記憶を持ってこの世界に生まれ落ちた。
この世界では私が生まれた時に母は死に、父はいなかった。死んだのか、逃げたのか、それは私には分からない。私にとって叔母にあたる人がそう言っていたのを聞いただけだから。
母が死んだために一応赤ん坊の私を引き取った叔母だけど、私が物心つく頃になると邪魔になったようで私は山の中に置き去りにされた。
私は山をさまよい歩いた後、孤児院を奇跡的に見つけてそこにお世話になることになった。私のことを心底憎いという目で見る叔母のもとには帰る気にはならなかったのだ。
フィーリアという名前は、孤児院の門を叩いた私に名前がないのを知った院長のマーシィ先生がいくつか名前の候補を挙げてくれて、その中から選んだ名前だ。前世の『莉愛』と一番似ていたから。春に孤児院の周りにたくさん咲く花の名前だ。
孤児院に入って平穏に過ごせるかと期待したけれど、現実はそううまくは行かなかった。孤児院は貧窮していて、子供たちがお腹を満たすには到底足りない量の食事しか出なかった。いつも同じ、芋や野菜の切れ端と穀物の薄いお粥。マーシィ先生が共に食事を取るときはみんなお行儀よく食べるけれど、いつもずっとマーシィ先生がいるわけではない。そうなると、飢えた子供たちの間で奪い合いが始まるのだ。下手に16歳の莉亜の記憶がある私は必死に生きる幼い子供たちと食事を奪い合う気にはなれず、奪われるがままの私は彼らにとって恰好の獲物だった。
孤児院での生活はいつもお腹をすかせていて苦しかったけれど、ルバスベリーの実る初夏だけは楽しみだった。マーシィ先生に連れられて孤児院の裏にある森へよく恵みを採取しに出かけていたのだけれど、その森にはルバスベリーがたくさん自生しているのだ。その実が熟すのをみんなで今か今かと待ちわびて、そしておなかいっぱい食べるのだ。
ルバスベリーの時期はともかく、他はずっとお腹が空いてみじめで苦しくて、部屋の隅でうずくまってじっとしていた。泣くことはしなかった。だって泣くのは疲れるしもっとおなかが空いてしまうから。
ずっと考えていたことはこれだけだ。
「どうせなら貴族のお嬢様に転生したかった。それか、前の記憶なんてなかったら良かったのに」




