34話 これで最後に
毎日従順に薬を飲み続けているからか、メアリの監視が甘くなった。薬をちゃんと飲んだふりをして捨てる。おやすみなさいとメアリに微笑みかければ、メアリは何も怪しまずに私を寝室へ見送った。
ごめんね、メアリ。もうこれで最後にするから。
今日は以前のように脱走を黙認されていないので、当然脱走のための準備はされていない。靴もショールもしまってある場所はわかるけれど、土汚れがついたらばれてしまう。
まあいいか、裸足で行こう。どこかで足を洗えばいいもんね。
洗った後の足を拭くためのハンカチだけ持って、私は部屋を抜け出した。
ジェイクにお別れを言って、けじめをつける。
もう私として過ごすのはおしまい。
そして、記憶を取り戻すまでの間をアンジーちゃんとして完璧に過ごして、この世にさよならしよう。
ずっと、それを伝えようと思っていたのに、話す約束をしていたのに、ずいぶん遅くなっちゃった。
外はもうだいぶ暖かくなってきたけれど、裸足で踏みしめる土はひんやりと冷たい。こんな風に夜のお庭を楽しむのも最後だ。そう思うと少し切なくて、月に淡く照らされた花たちをじっくりと眺めながらゆっくりと歩いた。
ルバスベリーのアーチは、花の季節が終わって実が膨らみ、赤く色づき始めている。もう少しで収穫の頃だろう。
いつものようにこつんと小石を窓に当てると、すぐにジェイクが出てきた。
「ひさしぶり。ジェイク」
「おひさしぶりで……お嬢様、なんてお姿で!」
私の姿を見るなり、くしゃりと顔を歪ませたジェイクは、次の瞬間には私の足元を見て慌てふためいていた。その姿がおかしくてくすくすと笑ってしまう。
「お湯を持ってきますからね、絶対に動いてはいけませんよ! わかりましたね?」
「はぁい。おとなしくしてるね」
大慌てで私の椅子を持ってきたジェイクに座らされた。そんなに大騒ぎしなくていいのに。綺麗に整備された公爵家の庭には、素足で歩いたところで怪我をするようなものは落ちてないんだから。
しばらくすると湯気の立つお湯の入った桶を持ってジェイクが家から出てきた。
「お嬢様は本当に……おてんばですね。元気になられたようで安心しましたけれども」
「たくさん心配かけてごめんね。毎日のお花とっても嬉しかった」
「いいえ、喜んでいただけてよかった」
桶にちゃぷりと足を浸けると、ちょうど良い湯加減だった。
どうやって話を切り出そうかな、と悩みつつ、ちゃぱちゃぱと小さく足を動かす。
「ほら、お嬢様、足を上げてください。お湯を変えますよ」
足元の湯が新しい綺麗なものに変えられる。
あたたかくって、やさしくて、心地良い。
「ジェイク、最近私のこと面倒で手がかかるなって思ってない? 私な高貴なお嬢様だってわかってる?」
「もちろんわかってますよ」
「ほんとかな。例えば私がジェイクと同じ庭師の一人だったらこんな風にした? 鬱陶しく思ったんじゃない?」
そう問いかけると、私の足元に屈んでお湯の調整をしていたジェイクが顔を上げた。透き通る緑の目がこちらをまっすぐ見て、ふっと細くなる。
「同じ庭師だったらよかったのに、と思っていますよ」
ジェイクの言葉が上手く飲み込めない。理解するのに少し時間がかかった。その間の間抜けた顔を、ジェイクは視線をそらさずにじっと見ている。
「それ、たぶん不敬だわ」
思わず目を逸らす。私もそうだったらよかったと思う、だなんて口が裂けても言えない。泣きそうになってしまったのを堪えるので精一杯だった。話題を変えたくて、私は本題を切り出すことにする。
「ねぇ、ジェイク。この前、話したいことがあるって私言ったでしょ。聞いてくれる?」
「はい、ぜひ。——少々お待ちを」
足元の冷めてきたお湯が取り払われて、足が柔らかいタオルで包まれる。そして、洗ったばかりのものだからこれで我慢してください、と言って長靴を履かせてくれた。
ジェイクも椅子に座るように勧めて、隣に座ったところで私はふたたび口を開いた。
「この前、王宮に行った時、馬車酔いで倒れたっていうのは嘘でね。ステラリリィの腕輪を見せてもらってたら何故か光り始めて、それを見ているうちに倒れちゃって。それから目を覚ますまでの間に妖精の声を聞いたの」
「そんなことが……」
突飛な話にジェイクが戸惑っている。そりゃそうだよね。私だって他の人が急にそんなことを言い始めたら困惑する。それでも私はお構いなしに話し続けた。
「その声がね、毎晩毎晩眠ると聞こえるの。記憶を取り戻せって声が。記憶が戻ったら、私は元のアンジェリカになる。あなたのことも忘れてしまうの」
私は記憶喪失なのではなく違う世界の死んだ人間だったらしいけれど、気づいたらアンジーちゃんの体を乗っ取っていたのだ……とはさすがに言えない。そんなことを言ったらもう本当に頭がおかしくなったと思われて話を聞いてもらえなくなる。
ジェイクが何かを言おうとして口を開く。何も聞きたくない。遮るように私はさらに言葉を重ねる。
「だから、これでジェイクに会うのは最後にしようと思って。元のアンジェリカはここには通っていなかったでしょう? じゃあ私ももうしない方がいいの」
だから、さようなら。
そう言って立ち上がろうとした私をジェイクが手で制止する。
「……最後なら……最後に、ホットミルクを飲みませんか」
小さな、低い声だった。懇願にも似た声に、振り切ることも出来ず私は頷く。
しばらくしてジェイクは2つ、湯気をくゆらせるホットミルクを持ってきた。
受け取るとミリスティカの少し清涼感のある甘い香りが広がる。
お砂糖たっぷりの甘い甘いホットミルク。甘さの中に少しだけミリスティカの刺激が加わった、私の大好きな味。
「……作りながら考えたんですけど……ここに来る終わりは、記憶を取り戻した時でもいいんじゃないですか」
眉間にしわを寄せ苦痛に耐えるような表情で、ジェイクは絞り出すようにそう言った。
「記憶を取り戻して、花に興味をなくして、ここに来なくなって、それでいつのまにか終わり、じゃだめなんですか。……でも、もし今、もうあなたがここに来たくないのなら、俺ともう顔を合わせるのが嫌だというのなら、今日で終わりにしましょう。どうなんですか」
ずっと下を見ていたジェイクがこちらをじっと見る。嘘は許さないと言われているようだった。
何度も口を開いて、閉じて。自分の言おうとしていることが言っていいことなのか悪いことなのか分からない。ジェイクはそんな私の言葉をじっと待っている。
「…………いやなわけ、ないじゃない。ほんとはずっと、毎日、お話したいよ」
私が私のままで過ごせる場所。私を受け入れてくれる人。元のアンジーちゃんに戻ってほしいと願わない人。それを手放したいと思うわけがない。
この呟きは、彼の耳に届いただろうか。それとも、一緒に落ちる涙に溶けてしまっただろうか。
「でも、だめなの。私は元のアンジェリカとしてしっかり振る舞わなきゃいけないの。ずっとずっとなりきっていないと、ボロが出てしまうの」
「……俺は俳優ではないし、お嬢様のようなそういう経験もないですけれど……、でも、誰もいない寝室だとか、この夜の庭だとか、特定の場所でだけ気を抜いて、ほかはきっちり演技する、でいいと思いますけどね。記憶を取り戻すのがいつになるのかわかりませんけれど、息抜きがないと潰れてしまいますよ。そうなってしまっては今までの努力の意味がないでしょう?」
甘美な響きだ。私が私でいてもいいと言ってくれている。甘えてしまいたい。でも、でも——
「………………でも、そんなの許されない気がする」
「許されなかったら、俺も一緒に謝りますから」
軽口なのはわかるけど、少し心が軽くなる。少し息がしやすくなったような気がする。
「おかあさま、すっっごくこわいよ」
「怖い人には怒られ慣れてますから。任せてください」
「なにそれ」
気がついたら、2人で笑っていた。
これでいいのか分からない。わからないけれど、どうかこの人の前でだけは、私が私でいることを許してほしい。
入れ替わりが終わって死ぬその時には、どうかお別れを言う時間がありますように。そう祈った。




