31話 限界 〜ジェイク視点〜
アンジェリカお嬢様が王宮でお倒れになられた。
使用人たちの間でまたたく間に広がったその話に、いても立ってもいられず見舞いの花を贈った。毎日花を届けているのだから、これでおこがましいと非難されることはないだろう……たぶん。
おしゃべり好きな使用人たちの話によると、王宮で婚約者の王子様とご一緒に過ごされていた時にお倒れになったという。
王子様がついていながら何をやっているんだ。
不敬極まりないことを考えて苛つきながら、自分なら……と考える俺自身の図々しさに失笑する。
父さんには毎日のように苦虫を噛み潰したような顔で「お嬢様との距離を誤るな、決して思い上がるな」とくどくど釘を差され、その度に「分かってる!」と返事している割にこのざまだ。
お嬢様が記憶をなくされ、デビュタントにご不安を抱えていらっしゃる今だけの関係。記憶を取り戻され、以前のアンジェリカお嬢様に戻ったらもう俺のもとに来られることはないだろう。記憶を失ったままだとしても、王子様とご結婚されるのだから当たり前に俺とどうにかなる未来なんてない。わかってる。そんなことはよくわかってるよ。
寝る前に勉強しようと思ったけれど、気がつけばお嬢様のことを考えていてノートにインクのシミを作るばかりだ。今日はさすがにお嬢様がここに来ることもないだろうしもう寝るか……とノートを閉じたところで窓の方からコツンと小さな物が当たる音が聞こえた。
がばりと立ち上がってカーテンを開けると、そこには所在なさげに佇むお嬢様の姿があった。目が合って、お嬢様はへにゃりと眉を下げた。
「こんばんは、おじょうさ……ま」
慌てて外に出て挨拶しようとしたけれど、お嬢様のやつれた姿に言葉を失う。一週間ほどお見かけしなかった間に何があったのか。お嬢様は出会った最初の頃のように途方に暮れたような迷子のような顔で瞳を揺らしていた。
「ここんばんは、ジェイク。その……えっと、う、植えたお花を、見に、きたん、だけど……」
返事をするお嬢様の目にはみるみるうちに涙が溜まっては溢れて頬に落ちていく。声はとぎれとぎれで、最後はもうほとんど嗚咽だった。
「ごめん、なさ……なんか、とまら、なくて」
「ここでは無理に泣き止まなくていいんですよ。さ、こっちへ」
ひっくひっくと子供のようにしゃくり上げながら、なんとか泣き止もうと何度も手で涙を拭う。そんな彼女の手を引いて、いつもの椅子へと座らせ、ハンカチを差し出した。ぴかぴかの新品ではないから本当はお嬢様に差し出せるものではないけれど、何も拭くものがないよりはいいだろう。
お嬢様が泣いている間、俺には何もできない。
涙を拭いてあげることも、抱きしめて落ち着かせることもできない。
俺がただの庭師じゃなくて王子様だったら。
お嬢様が貴族のご令嬢じゃなくて使用人のメイドだったら。
そうしたら、泣いてる横でただ突っ立ってるだなんて情けないことにはならなかったのに。
庭師の仕事には誇りを持っているけれど、今は、お嬢様との関係でだけは、この身分差が憎かった。
しばらくして、お嬢様は泣き止んだ。すんすんと鼻を啜りながら、泣き疲れたのか虚空を見つめてぼんやりとしている。
「ホットミルクを作ってきましょうか」
お嬢様のいつものお気に入り。気分が安らぐと言っていたから今日もホットミルクの出番だと思い提案したけれど、お嬢様はゆるゆると首を横に振って、俺の服の裾を指先で遠慮がちに掴んだ。
「…………置いて行かないで。ずっととなりにいて」
「はい。ずっとおそばにいますよ」
お嬢様はそのあと、時折ぽろぽろと涙をこぼしてはまたぼんやりとするのを繰り返し、そのうちにうとうととし始めた。
「お嬢様。こんなところで寝ては身体に障ります。部屋へ戻りましょう」
「……うん」
ずっと握りしめていた俺の服から手を離して、ゆるりとした動きでお嬢様は立ち上がったけれど、ふらふらとして危なっかしい。
「屋敷の入口まで送りますから、お手を」
王子様ならきっと流れるような動きでエスコートするんだろうけれど、残念ながら俺にはよく分からないので手を繋ぐ。
お嬢様が躓いて転んだりしては大変だから。決して俺の欲望を満たすためではなく。
お嬢様の細くて柔らかい手が、俺の手をきゅっと握り返す。その手を引いて、ゆっくりと屋敷の方へ向かった。
もう夜も深いから、わざわざ庭を見るやつはいないはずだ。だから、俺とお嬢様がこうして一緒にいる姿を誰かに見られることはないだろう。
たとえ万一誰かに見られたとしても、夜の散歩に出られたお嬢様を屋敷まで送っていた、で問題ないはずだ。お嬢様の醜聞にはならない。
「ごめんなさい」
屋敷の入口まであともう少し、というところで、お嬢様がぽつりとそうつぶやいた。
「なにがでしょう。謝ることなんてなにもなかったですよ」
「でも、だって、私、ただただ泣きじゃくって。こんな遅い時間まで付き合わせてしまって……」
「そういう時は、ありがとうでいいんですよ。私で良ければ、いつでもどれだけでも付き合いますよ」
「……ありがとう。…………あのね、こんど、会いに行ったら話したいことがあるの。聞いてくれる?」
「もちろん。お待ちしてますよ」
そう答えると、お嬢様はようやく、はにかむような笑顔を浮かべた。まだ目には涙が光っているけれど、彼女が笑えたことにほっとする。
じゃあね、ありがとう、と扉をくぐるお嬢様を見送って、庭の奥へと踵を返す。
あー……明日の説教はさらに長くなりそうだな。
でも後悔はなかった。お嬢様の苦しみが少しでも和らいだなら、それでよかった。




