第七十三話:お兄さま、うごかないで
殿下が眠っていたのは、ほんの数分の間だけだった。
眠っていた、という表現が正しいかはわからない。急に気を失ったあとすぐに目を覚まし、その後またすぐに眠りについた。
殿下の寝顔を見つめながら、私は先ほど聞いた話を何度も反芻する。
転生も、こことは異なる世界も、ゲームのこともよくわからない。だが、それでも、殿下は嘘をついていない。それは確かだ。
三年後に殿下は処刑され、その時にルナフレア様もエリーゼ様も死ぬ。その未来を、これまで一人で抱えておられた。
そう考えると、これまで理解不能だった殿下の行動の端々が繋がってくる。偽造された印章を見た時の手の震えも、帳簿で見知らぬ支出を見つけ顔色を悪くしていたことも、何度もめんどくさいと言いながらも結局最後まで調査を諦めなかったことも。
殿下は帳簿上の不正を恐れていたのではない。自分が知っている未来に、少しずつ現実が追いつき始めていることを、心の底から恐れていたのだ。
「エスメラルダ?」
第三皇子宮に向かう途中、ヴィルヘルム殿下が尋ねた。
「はい」
「さっきから黙ったままですけど、やっぱり僕のこと、頭がおかしくなったって思ってます?」
「それについては判断自体を保留にしております」
「保留ってなんですか」
「こことは異なる世界があることの検証方法が見つかるまでは、判断できないです」
「確かにそれは、ないですね」
殿下は困ったように笑う。その笑顔を見て、やはり目鼻立ちが陛下にそっくりだと改めて思った。
第三皇子宮の階段をのぼっていると、ルナフレア様の寝室から、エリーゼ様の声が聞こえてきた。
「あ、お兄さま、帰ってきた?」
おそらくは、階段をのぼる足音で気づかれたのだろう。
「ただいま帰りました」
殿下がルナフレア様の部屋の扉を開けようとするも、鍵が掛かっている。
「ちょっとまって!」
扉の奥から、エリーゼ様の声が聞こえた。
「なにをしてるんですか?」
「いいから、ちょっと待ってて!」
エリーゼ様の言葉に、殿下と私は顔を見合わせる。しばらくして、鍵が開いた音がしたかと思うと、エリーゼ様が扉を開けた。
「おかえりなさい。お兄さま」
「ただいま戻りました」
「ヴィルヘルム、お帰りなさい。今日は遅かったわね」
ルナフレア様が、寝台で上半身を起こしたまま言った。そばにはエリーゼ様が座り、その背後にはメイド長のカリナと同じくメイドのサクラとミコトが控えていた。
「ちょっと仕事が長引いてしまいまして」
殿下は私の方をちらりと見て、頭を掻く。実は寝てました、とは言えないのだろう。口止めのために見られたと悟り、私は無言で頷いた。
「またおしごと? お兄さま、おしごとしすぎじゃない?」
エリーゼ様が呆れたように言った。
「僕もそう思います。早く引き籠もって、積んでる歴史書を気が済むまで読み耽りたいです。ぐうたらしたいです」
「殿下」
メイド長のカリナが、笑顔で殿下に詰め寄る。殿下の発言を、エリーゼ様の教育上よろしくないと思ったのだろう。殿下はすぐに「冗談です」と返した。その二人のやりとりを見て、エリーゼ様が楽しそうに笑う。
「で、何をしてたんですか?」
殿下が近づくと、エリーゼ様が膝の上に置いていた画版を胸に抱え隠した。その拍子に、羽ペンが床に落ちる。
「ないしょです」
「何を書いてたんですか? 僕にも見せてください」
「あとで」
「えー。今、見たいなー。母上はもう見たんですか?」
殿下が尋ねると、ルナフレア様はエリーゼ様を気にしながらも、小さく頷いた。
「母上には見せてるんでしょ? だったら僕にも見せてください」
「お母さまはいいの」
「なんで?」
「お母さまだから」
私は吹き出しそうになるのを、死に物狂いで耐える。
「母上。母上からも言ってください」
見るからに殿下はムキになっている。
「私に言われても困ります。エリーゼがあとでと言ってるのですから、待っていればそのうち見せてくれますよ」
「母上まで……」
殿下はわかりやすく落ち込んだ。大人気ない。
見るからに落ち込んだ様子の殿下を見て、サクラとミコトの肩も震え出した。笑いを堪えているのだ。
「エスメラルダにはみせてあげる」
そう言ってエリーゼ様が、画版を抱えたまま私の方に駆け寄る。
「え? なんで」
殿下がエリーゼ様に尋ねた。
「エスメラルダだから」
「理由になってないよ」
エリーゼ様が部屋の隅に私を誘導し、殿下に見えないようにその画版の表を私に向けた。
その画版に貼られた白い紙には、何人かの人間の姿が描かれていた。中央には寝台の上に女性(おそらくルナフレア様)が、その右隣に小さな女性(おそらくエリーゼ様)、寝台の奥には三人の黒い服の女性(おそらくはカリナ、サクラ、ミコト)がいる。エリーゼ様らしき人物の隣には私らしき女性と、そして殿下らしき男性が描かれていた。
ただ、殿下らしき人物だけ、他とは違った。顔がまだ、描かれていないのである。他の人物はきちんと目鼻口が描かれているのだが、殿下らしき姿の人物はのっぺらぼうだった。
「じつはね。まだお兄さまのおかおが、かけてないの」
エリーゼ様が私にだけ伝えるつもりで言ったつもりだが、その声は部屋中に響いていたと思う。
「だから、殿下には見せられないのですね」
「うん」
「僕だけ顔がないんですか?」
エリーゼ様の声を聞いた殿下が、私たちの方に足を向ける。
「みないで!」
エリーゼ様が反射的に画版を胸に隠す。
「見てませんよ。こんなに距離があったら、見えるわけないじゃないですか」
「けど、みようとした」
「僕だって見たいですよ。ちょっとくらい、いいじゃないですか」
「だめー!」
いつの間にか三人の侍女がエリーゼ様の前に立ち塞がる。殿下は一歩下がった。
「わかりました。見ません。見せたくなったら、教えてください」
殿下は諦めたのか、ルナフレア様の寝台そばの椅子に腰掛けた。エリーゼ様は満足そうに頷く。
「お兄さまのかお、むずかしいの。すぐ、こうなるから」
そう言ってエリーゼ様は、両手の親指で自身の眉を上げ、同時に人差し指を使い眉間にシワを作る。その顔はいつも殿下が困っている時に見せる表情にそっくりで、私は笑いを堪えきれなくなる。
「ぶべらっ」
思わず変な声で吹き出してしまった。
「エスメラルダまで、笑わないでください」
殿下が困ったように言った。
「申し訳ございません」
「全然申し訳なさそうじゃないんですけど」
「ふふ」
ルナフレア様も笑った。
「ヴィルヘルム。エリーゼは、あなたのことを本当によく見てます。あなたは昔から、何か困りごとがあるとすぐにその顔をします」
「そうですか?」
殿下が不服そうに頬を膨らませる。
「そうよね?」
「「「はい。なさいます」」」
ルナフレア様が尋ねると、メイドのカリナ、サクラ、ミコトが同時に頷いた。
「多勢に無勢ですよ」
殿下が困り顔で言った。その顔がエリーゼ様が作った表情と瓜二つだったので、部屋中の皆が一斉に声を上げて笑った。
「お兄さま、そのままでいて」
「え?」
エリーゼ様が画版を構え、殿下の前に立つ。殿下の顔をじっと見つめ、羽ペンを器用に動かす。
「お兄さま、うごかないで。うごいたら、へんなかおになるよ」
「えー。だってもう、変な顔でしょ? これ」
「もっと、いつものかおして」
「いつもの顔?」
「こまってるかお」
「僕、いつもこんな顔してます?」
殿下がまた困り顔で言った。また笑い声が起こる。エリーゼ様だけは、困り顔の殿下を一生懸命観察し、紙の上に線を重ねる。
この時間がいつまでも続けばいい。私は心からそう思った。
この幸せを邪魔する奴は、死んでも許さない。
私は改めて、そう心に誓った。




