第六十七話:最後まで行く
「南東部を流れる、クニオニール河はわかるか?」
「クニオニール大橋が架かる、あの大河ですよね?」
皇帝陛下の問いに、私は即答した。
「そうだ。まさしくその場所に、とある渡し場があった。大橋が架かる以前、百年以上前の話だ。それまでは、船頭が小舟で人と荷を運んでいた。南方、東方の国との交易の拠点でもあったその渡し場は国にとっても重要な拠点だ。その渡し場を維持するために、帝国は毎年少なくない金を出していた。それは今も変わらん」
「渡し場の維持のためですか? 大橋の維持ではなく」
「そうだ」
「橋ができたのであれば、もう不要なのでは」
「その通りだ。だが、慣習という名の悪習が残っている」
「どういうことでしょうか?」
「わかりやすく言えば、渡し場は無くなったが、金だけが出続けている」
私は、陛下の言葉の意味を理解するのにしばらくの時間を要してしまった。
「百年以上、ですか?」
ありえない、と思いながらも、頭に湧いた疑問を口にする。
「正確には百二十年以上だがな。渡し場は無くなったが、その予算項目は残り、その金を管理する役職も残った。長い歴史の間で余の先祖が手を打ったが、別の項目で河川管理費としてまとめられた。項目が変わっただけだ。大橋の管理費は別である。そしてまた、その大河が氾濫した時期に特別予算が組まれ、それが河川管理費に加えられた。現場で働く者、河川管理費を扱う役人らでも、当初の渡し場を知る者は皆無だというのにな」
「私は騎士で、そういった国の予算に関しては門外漢ではありますが」
「遠回しに言わんでいい。率直に言え」
「その予算は、都度見直すべきなのではないでしょうか?」
「本来ならな。予算が足りていれば、翌年から予算は縮小されるべきだ。だが、帳簿上では予算をきっかり使い切っている。まあおそらくは帳尻を合わせるために予算を使い切っているのであろうことは、こちらも理解できる。だが、毎年、いつも平和に年を越せるとも限らない」
「と、言いますと?」
「戦争が起こる、飢饉が起こる、疫病が流行る。その都度、適正な制度、予算、人員が必要になる。事が収まったとしても、それが全て綺麗に片付くには時間がかかる。そうこうしている間に、新たな問題が発生する。予算を縮小しようとしても新たな予算がつき、現場ではそれを減らさないよう、試行錯誤しながら有益に使う。いや違うな。有益だと見せかけて使っている。結果、予算は膨らむ一方だ」
「それを三百年続けた結果が、今の、この帝国の制度、という事でしょうか」
私がそう言うと、陛下はまた口角を上げた。そこでようやく、私は気がついた。なぜ、一国の最高権力者を前に、こうも落ち着いて話ができるのか。
似ているのだ。皇帝陛下の顔とヴィルヘルム殿下の顔が。目鼻口の造形が、そっくりなのだ。今更それに気がついた。
「余が知らぬ金の流れや慣習もある。おそらくは、知らぬ役職すら存在しているだろう」
「皇帝陛下でも、ですか?」
「皇帝とは、この帝国の全てを把握している者のことではない」
陛下は振り返る。その背後には、このヨーラルシア大陸全土を描く、古風な地図が飾られている。その中央にあるのは、ヴェルグガルド帝国だ。
「皇帝とは、この帝国の全ての責任を負う者のことだ」
私は口を開く事すらできなかった。皇帝なら、この国の最高権力者なら、何でも自由にできると思っていた。だが、実態は大きくかけ離れていた。
ふと、頭に疑問がわいた。
「それで、第三皇子殿下に帝国の監査を依頼されたのですか?」
「あやつが自分の宮の帳簿を調べ始めたのは、余の命令ではない。あれは勝手に経費を削り、おかしな数字を見つけ、その結果、軍事費にまで首を突っ込んだのだ」
そうだ。それで私が派遣されたのだ。護衛兼監視役として。
「自分の皇子宮の帳簿から軍事費の穴まで見つけた。俺はあやつのその能力を買って、帝室会計の相談役に置いた。いくつか同じような穴を見つけ、多少帳簿が綺麗になればいいくらいに思っていた。ところがあやつは、余の予想を遥かに超える成果を出した。次から次へと、面白いように不正を暴いていきおった」
陛下は小さなため息を吐いた。だがその顔はどこか嬉しそうだった。
「それが余にとって都合よく働いたのは事実だ。余が帳簿を開けば皆が警戒するが、あやつが帳簿を開いても誰も警戒しない。派閥もなく、政治的な野心もない。宮廷では、引き籠りの浪費皇子と呼ばれていたのだからな」
隣でクラウドが小さな咳払いをした。笑ったのを隠したのかもしれない。
「だが、少々優秀すぎた。不正を行っていた者が、あやつの能力の高さに気づき始めた。そうなると、出る杭は打たれる。まさに今、その懸念は確信に変わった」
私が想像していた以上に、陛下が殿下の事を想っていた。それがわかった途端、私は目眩を覚え、その場に跪いてしまった。
「どうした? 大丈夫か」
「すみません。ただの立ち眩みです」
「ただの立ち眩みで、そんなに涙を流すのか?」
「え?」
陛下に言われ、私は自分の目尻に触れる。指先が熱い。ポタポタと、床に水が落ちる音が聞こえた。そこで初めて、大量の涙が流れていることに気がついた。
「何でしょうか。これは」
私は、隣に立つクラウドを見上げる。クラウドが慌てて胸元からハンカチを取り出し、私に差し出した。私はそれを受け取り、流れ出る涙を拭う。だが、拭っても拭っても涙は止まることなく、むしろその勢いは増すばかりだった。
この涙を止めるために、最後に泣いたのはいつだろうかと、過去の記憶に想いを馳せる。すぐに思い出した。幼少期、確か今のエリーゼ様と同じくらいの歳の頃……母と別れた時だ。あの時私は、どうやって涙を止めただろうか。
クラウドと陛下がおろおろしているのがわかったが、自分ではどうしようもできず、ただ感情に身を任せることにした。
しばらくしたのち、不意に涙が止まった。クラウドからもらったハンカチは、びしょびしょになっていた。
「誠に申し訳ございません。陛下の執務室を汚してしまい……。この処罰は、いかようなものでも受けますので」
ハンカチ以上に、びしょびしょに濡れた床に跪く。
「よいよい。もう、大丈夫か?」
明らかに動揺した様子をみせながら、陛下が私に声をかけた。
「ご心配おかけしました。もう、大丈夫です」
不思議と、晴れ晴れとした気分になっていた。なぜこれほどまでに号泣したのか、理解はできていないが。
「一つ、お聞きしたい事があります」
「ああ。何だ。何でも言え」
陛下が何度も頷きながら言った。認めたくないが、女の涙は武器なのだと初めて実感した。
「ヴィルヘルム殿下を監査役から外されるお考えは、ございますか?」
私の問いに、陛下が急に真顔に戻る。
「お前は、任を解けばあやつが安全になると思うか?」
「少なくとも、今よりは」
「もう、敵に目をつけられている」
「ですが、続ければさらに危険になります」
「まあ、そりゃそうだ。だが、こちらが引いたところで、相手まで引く保証はどこにもない」
「引かない保証もありません」
「まあ、そうだな」
「それでも殿下に、監査役を続けさせるのですか?」
「ああ」
即答され、頭に血がのぼったのが自分でもわかった。
「殿下は、陛下の都合のいい道具ではございません」
「そんなことは百も承知だ。あれは余の息子だ。それくらい、余が一番よくわかっておる」
その声の質は軽かった。だがそれは一国の長が発した言葉ではなく、一人の父が感じたことのように聞こえた。
「とは言え、余も判断を誤ったのかもしれぬ。止めるつもりなら、もう少し早くに止めるべきだった。だが今となってはもう遅い。いつの間にかもう、回帰不能点を大幅に越えている。それなら、もう最後まで行くしかない。クラウド、お前も動かす。個別の案件もまとめさせる。ただ、表向きは今まで通り無干渉を貫く」
「陛下が動きながらも殿下のみが動いているように見せ、敵を油断させる。ということでしょうか?」
「相手が誰であれ、余の意向を自らばらすのは悪手以外の何物でもない。余は三百年続いたこの国の膿を、全て出し切るつもりだ」
陛下はそこで、改めて私に視線を向けた。
「そのためなら余は、喜んであやつを使うぞ。エスメラルダよ」
「はっきり言いますと、その言い方は不快です」
「エスメラルダ」
クラウドが嗜めるが、陛下はむしろ嬉しそうだった。
「ならば、お前はヴィルヘルムを守れ。それがお前の役目だ」
「陛下に言われなくても、そのつもりです」
「エスメラルダ」
クラウドが呆れたように言った。陛下はさらに嬉しそうに笑う。
「これくらいの気概がなければ、あやつの護衛など務まらぬわ」
褒められているのか呆れられているのか定かではない。だが、一つだけはっきりした。殿下を狙う者が何者であれ、それはもうただの偶然では済まされない。そのことは、陛下もクラウドも十分理解している。
一つ、私の疑問が片付いた。あとはもう一つ。ヴィルヘルム殿下だ。あの方の本当の目的が何なのか。私はそれを、知る義務がある。




