第六十四話:久しぶりの親子
エスメラルダの視点です。数話続きます。
帝国騎士団本部に向かう馬車の中、私は自分で書いた報告書を読み直していた。
帝国宰相府会計室から第三皇子宮に過年度支出補填分として届けられた、金貨六千八百枚。だが第三皇子宮には、それだけの金を立て替えた記録など存在しなかった。それどころか、殿下が金を受け取る前から、会計室には受領済みとする完了報告書まで用意されていた。
殿下が受け取れば存在しない支出が存在したことになる。受領を拒めば殿下の都合で返金を拒否したという記録が残る。どちらを選んでも、第三皇子ヴィルヘルムの名が帳簿に残る仕組みになっていた。
私は報告書から顔を上げる。馬車の窓から見える帝都はいつもと何も変わらず、露店には人が集まり、荷馬車が石畳を行き交っている。
ほんの数時間前まで、殿下もいつも通りだった。少なくとも、受領補助者の欄に記されたエリーゼ様の名前を見るまでは。
あの瞬間、殿下の手が止まった。紙を持つ指に力が入り、呼吸が浅くなった。私は騎士として、剣を抜こうとする人間の肩や肘だけではなく、恐怖に直面した人間の表情を知っている。
殿下は何かを恐れている。それも、異常なほどに。そのことには以前から気づいていた。偽造された印章を見つけた時にも殿下の手は震えていた。だが、あれは罪を犯した人間がその露見を恐れる震えではなかった。
だから私は、あの時からずっと殿下を見てきた。帳簿を調べる度に、何かを見つける度に、殿下は安心するどころか次に何が出てくるのかを恐れているように見えた。
まるで、何かとてつもない怪物に襲われるような、そんな怯え方をしていた。
そして今日、エリーゼ様の名を書面で見た殿下の顔は、それまでとも違って見えた。初めて危険を知った人間の顔ではなく、恐れていたものが、とうとう目の前まで来た。そんな感じだ。少なくとも、私にはそう見えた。
だから私は、殿下に言った。
――殿下が抱える秘密について、お話ししたいことがあります。
今夜、殿下が何を隠しているのか訊くつもりだ。ただ、一方的に話せと言うつもりはない。私にも殿下に話していないことがある。その秘密を打ち明けることで、彼の心を開く。
そしてもう一つ、確かめておかなければならないことがある。
◇ ◇ ◇
父である帝国騎士団長クラウドは私の報告書を最後まで読むと、もう一度最初の頁に戻った。二人しかいない執務室は静かで、久しぶりの親子の再会の場所としては冷たすぎる場所だった。
「金貨六千八百枚か。現物は?」
「監査局の管理下で封印し、宮廷内の保管用金庫に移しました。会計室の担当者を立ち会わせるまで開封しないよう、殿下が指示されました」
最後に父と、親子らしい会話をしたのはいつだろうか。実の父に対してこのような敬語がスラスラと出てくるくらいには、もう久しく親子の会話は交わしていない。
「金貨を持ってきた会計官は?」
「宮廷衛士が事情聴取中です。運送を担当したトゥクナルハ家からも、契約時の書類を提出してもらっています」
クラウドは短くうなずいた。
「会計室には起票者ならびに決裁者の名を提出させろ。第六皇女殿下の名を受領補助者に入れた者については、こちらからも別で洗わせる」
そこまで言うと、クラウドは報告書を閉じた。
「それだけですか?」
クラウドの手が止まった。
「どういう意味だ?」
「それでは、私たちが行っている調査と大差ありません。関係者を捕らえてそれで終わり、ですか?」
クラウドはしばらく私を見つめていたが、やがて報告書をぽんと机に投げやった。
「言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「では申し上げます。いつまでこれを続けるおつもりですか?」
今回だけではない。オーバールック橋では正規の補修材を装った粗悪な木材が送られ、その先の軍糧庫では兵へ届けられるはずの食糧が抜かれていた。殿下が調べる先々で、帳簿と現実が食い違っている。これはもう、偶然では済まされない。
「それぞれ適切に処分はしているだろう」
「それは存じています。拘束された者もいますし、取引を止められた商会もあります。処刑された者もいる。それでもまだ、同様の事件が起きているのも事実です」
私は机の上の報告書に視線を移す。
「一つを正せば別の場所で同じようなものが見つかり、一人を捕らえれば、その者は上から命じられただけだと言う。我々は、いつまでそれを一件ずつ処理すればいいのでしょうか? 今回は存在しない立替金が作られ、第三皇子に金貨六千八百枚を受け取らせようとした。そのうえ、年端もいかぬエリーゼ様まで巻き込もうとしているのですよ?」
口にしながら、先ほど見た殿下の顔が浮かんだ。
「これはもう、帳簿のつけ間違いでも一人の官吏の横領でもありません。皇族に対する攻撃です。場合によっては、謀反とさえ呼べる」
「分かっている」
「だったら」
「分かっていると言っている」
クラウドが低い声で返した。その言い方で、私はようやく気づいた。彼も腹を立てているのだ。
「ならばなぜ、本格的な捜査を行わないのですか?」




