第五十六話:はやくかえってきてね
夜会から一夜明けた朝、僕は第三皇子宮の玄関で外套の襟を直していた。
昨夜は返納金という言葉が頭から離れず、よく眠れなかった。本音をいうと、今日は一歩も外に出たくない。昨夜の大広間での色々な人とのやりとりを反芻していると、頭がパンクして思考が正常に働かない。こんな日は何も考えず、本を読んで箱庭いじりに耽りたい。
「殿下、大丈夫ですか?」
迎えにきたエスメラルダが尋ねた。彼女は相変わらず姿勢がいい。
「大丈夫に見えないですか?」
「見えないから聞いています」
僕は玄関前の姿見で、自分の顔をチェックする。目の周りにクマができていた。
「昨日は少し遅くまでいすぎました」
「疲れる前に帰る、という選択肢もあったと思いますが」
「流石に、主役の姉上より先に帰るのは気が引けます」
「そういう常識はあるんですね」
「それ、どういう意味ですか?」
エスメラルダはずっと真顔だったが、突然、歯を出してニコリと微笑んだ。おちょくられている気がした。
「お兄さま」
背後から声をかけられた。その声だけで誰かわかる。
「おはよう。エリーゼ」
「おはようございます」
エリーゼがメイド長のカリナとともに階段を降りてくる。カリナの手には、綺麗に畳まれた衣服があった。見覚えのある柄で、すぐにそれが昨夜僕が着ていた礼服だと気づいた。
「殿下、一つご報告がございます」
カリナが踵をピシャリとつけ、両手に持った礼服を僕の前に差し出す。
「朝から仰々しいですね」
「昨夜お召しになった礼服の飾り紐の留め具が、一つございません」
「飾り紐の留め具?」
僕はカリナが持つ礼服の袖口を確認する。すぐに右手袖口にある装飾品が、左手側にはないことに気がついた。
「いつからですかね」
「私が受け取った時には、すでに外れていたようでした」
「すみません。気づきませんでした」
「服装に無頓着な人であれば、気づかれなくても仕方がないと思います」
責められているのか慰められているのか、判断に困る言い方だった。
「しばらく夜会に出る予定はないと思いますが、急な招待があった時に困りますね。何か、代わりの装飾品をつけてもらうことはできますか?」
「できますが、問題はそこではございません」
カリナがそう言うと、エスメラルダが大きく頷いた。僕はまだ意味がわからない。
「というと?」
「殿下の礼服についていた装飾品です。仮にそれが、どこかの犯行現場に落ちていたとしたら、どう思われますか?」
僕はすぐに理解した。
「……僕のせいにされますね」
「はい。それだけで罪が決まるわけではございませんが、少なくともなぜ殿下の物がそこにあるのか、しかるべき説明が求められます」
誰かが僕の礼服の装飾品を拾った場合、それが僕がその場にいた証明になる。悪意を持ったものがそれを悪用することは、想像に難くない。
黒幕を探すと決めたばかりなのに、これでは相手の思う壺だ。
「迂闊でした。これ、急いで探した方がいいですよね」
落ちているとしたら、大広間から第三皇子宮までの回廊のどこかだろう。いや、ひょっとしたら夜会が開かれた大広間の中かもしれない。僕は急いでカリナが持つ礼服の袖の装飾品を記憶する。
「すでに帝室儀礼局に拾得の照会を出しております」
僕が駆け出そうと足の裏に力を入れかけたところで、カリナが言った。さすがだ。仕事が早い。僕は焦った気持ちになったと同時にほっとした。
「面倒になる前に見つかるといいのですが」
面倒、という言葉の重さは人によって違う。だがカリナが面倒という時は、大抵、本当に面倒なことになる時だ。
「お兄さま」
カリナの傍に立っていたエリーゼが、僕を見上げて言った。
「はい」
「きょうは、すぐかえってくる?」
「ええ。そのつもりです」
エリーゼは少しだけ目を細めた。
「そのつもりってのは、かえれたらかえる、くらいのきもちじゃない?」
本音をつかれ、僕は思わず背筋を伸ばす。
「鋭いですね」
「エリーゼ、まってるから。はやくかえってきてね」
「わかりました。今日は書類の確認のみの予定なので、終わり次第すぐ帰ります」
この時はまだ、本当にそのつもりだった。
◇ ◇ ◇
庭園回廊を抜け、エスメラルダとともに内廷門へ向かう。朝の宮廷の石畳はまだ冷えていて、歩くたびに二人の靴音がよく響いた。
その靴音に別の誰かの音が重なる。門の反対側から、小さな人影がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「あ」
僕は思わず声を上げる。人影が四つ。手前の二人は同じ背丈に同じシルエット。着ている服もほぼ同じで、唯一違うのは髪の分け目とその色だ。
黒髪の第四皇子ルーカスと、金髪の第五皇子レオンだった。




