第五十四話:第四皇子ルーカスと第五皇子レオン
「だから、井戸は先に直した方が得だったんだよ」
手洗いを済ませて戻る途中、聞き覚えのある声が耳に入った。僕は洗った手をハンカチで拭きながら、声の主を探す。
「いや、得かどうかだけで決めると、法が軽くなるよ」
同じような声だが、どこか違う。僕は声の主を発見した。少し離れた広間の壁際に、年若い二人の皇子がいた。同じ背丈に同じ顔、髪の色が黒髪と金髪で分かれている以外、僕もいまだに判別がつかないことがある。
黒髪の第四皇子ルーカスと、金髪の第五皇子レオンだった。
ルーカスは濃い緑の礼服をきちんと着こなし、手元の小さな冊子に目を落としている。まだ子どもの顔なのに、眉間だけ妙に大人びていた。レオンはその隣で、菓子皿の上の焼き菓子を一つ取り、半分に割って中身を確かめている。食べたいから割ったというより、材料を調べている顔だった。
「この場合は法よりもまず人だって。水が出ない区画は、人が離れる。離れなかったとしても、いつか暴動が起きる。どちらにしても、街は廃れてしまう。廃れてしまえば、税が減る。だから、直す方が先、法はあと」
レオンが焼き菓子を観察しながら言った。
「その『あと』ってのはいつまで? 法を整備しないと、また同じことが起きるよ」
ルーカスが冊子を見ながら言った。
「法じゃなくても仕組みを作ればいい。市内整備課が不正をしない仕組みを」
「じゃあ、誰がその仕組みを作るの? 市内整備課自体に作らせるつもり?」
「それだとまた新たな抜け道を作るだろうな。市内整備課の上の組織……帝都市政局が作るのがいいだろうね」
「そんな権限あるの?」
「なければ権限を与えればいい。それは宰相府か貴族院の仕事になると思うけど」
しばらく聞いていたが、とても十二歳の会話とは思えない。
「あ」
不意に、お菓子から目を上げたレオンと視線が交わる。
「ヴィルヘルム兄上」
ルーカスも冊子を閉じ、きちんと一礼した。
「ヴィルヘルム兄上。ご無沙汰しております」
「二人とも、久しぶりですね」
僕はそう返しながら、少しだけ前世の記憶を探る。
第四皇子ルーカスと第五皇子レオン。僕の記憶では、二人はやがて別々の形で帝国を動かす皇子になる。ルーカスは貴族院と法制度。レオンは交易と通貨。だが今の二人はまだ十二歳で、本来なら政治の中心に立つ年齢ではない。
そのはずなのに、話している内容はすでにこの国を憂えていた。
「井戸の件、聞きましたよ」
ルーカスが言った。
「噂が早いですね」
「噂ではなく、市内整備課の裁定写しを見ました。第四妃宮に回ってきていたので」
「もう回っているんですか」
「皇族の外出に関わる市中案件だからでしょうね」
なるほど。僕が街で水を戻した話は、もう書類になって各宮に知れ渡っているらしい。噂は、僕本人よりも活発的だ。
レオンが、半分に割った焼き菓子を口に入れた。
「でも兄上、あの対応は良かったと思うよ。水売りを罰するだけだと、水が出ないままでみんなが困る。その場で井戸を直させたから、万事うまく行ったんだ」
「僕はそこまで考えてませんでしたよ」
「考えてなくても、結果的にそうなったんならそれでいいんじゃない?」
「いや、その考えは楽観的すぎる」
ルーカスが静かに首を振った。
「仮に結果が良かったとしても、手続きが曖昧なままだとまた次の悪事が生まれる」
「だから、罰と記録が必要なんだろ」
「誰が何の罪で罰して、誰が記録を取るのかが大事なんだよ」
「じゃあそれは誰がやればいいっていうの?」
「そりゃ、ヴィルヘルム兄上だろ」
「兄上を便利な役所にしちゃ駄目だよ」
そこで二人は、同時に僕を見上げた。
「そう。僕は役所じゃない」
「じゃあ、何ですか?」
「ただの第三皇子です。できれば部屋の中にいたい」
レオンとルーカスが同時に吹き出した。
「じゃあ兄上は、部屋の中にいるために、外で悪事を暴いているのですか?」
「悪事だと思って暴いてるわけじゃありません。帳簿でおかしな箇所を見つけて辿っていくと、大抵が悪事と繋がっていただけです」
「なるほど、目的と結果が違うんですね」
「けど、結果的に悪事を暴いている」
「まあ、結果的にそうなってますね」
僕はそう結論づける。
「ですが、それはとても大事なことだと思います。帝国の平和、ひいては今の生活を維持するために必要なことかなって」
「確かに。帰る場所を守るために、隠れている悪事を正す。結果的にですけど、そうなってると思います」
ルーカスとレオンの言葉に僕は開いた口が塞がらなかった。十二歳の発言ではない。
だが、十二歳だからこそ、真っ直ぐに言えてしまうのかもしれない。
「そもそもこの国、仕組みが大きすぎるんだよ。そりゃ、数百年の歴史があるから仕方ないと思うけど。上から下まで、中抜きが多い。水も麦も馬も石も、色んなものに色んな人が群がってる。そのくせ、貴族院の監督権とか各宮の予算権、商会の登録に返納金の戻し先……ぜーんぶ、別々の箱に入っている。別々の箱に入っているから、誰も全体を見ないし、見ようともしない」
「それを今、見ようとしているのが兄上の監査局ですよね」
急に水を向けられ、僕は口籠る。
「まあ、それらを全部正すには、仕組みごと変える必要がありますね」
僕はこれまでの発言を整理して、何とか考えをまとめた。この子達は、僕がこの数日で目の当たりにしたこの国の嫌な部分を、ずっと議論していたのだろうか。
そう考えると、末恐ろしい気持ちになった。
「いっそ全部。ひっくり返す? 必要なら僕たち、クーデターでも起こすよ」
レオンが笑った。釣られてルーカスも笑う。
「なんてね」
僕が口を開こうとしたところで、レオンが舌を出して笑う。仕草は子供っぽいのだが、発言が危険すぎる。
「ただ、仕組みを変えたいというのは事実です。この国をよくするために、古い決まりはどんどん改めていくべきだと思う」
「兄上はどう思います?」
僕は、僕を処刑台に送り込もうとする黒幕を探すと決めたばかりだ。そこに国の仕組みを変えたい十二歳の双子が現れた。味方に見える。だが将来、この二人は第一皇子第二皇子に引けを取らない人物になることを、僕は知っている。全くもって、安心はできない。
悪意を持って私腹を肥やす人間も怖いが、善意で国を変えようとする人間も十分に怖い。
「国の仕組みを変えたいとまでは思っていません。思っても、できないだろうからね。僕にできるのは、帳簿を見ることくらいです」
「それ、十分怖いよ」
ルーカスが笑った。
「だって帳簿は、誰が何をしたのか、全部残ってるんでしょ?」
「全部ではありません」
僕は広間を見た。
ワイドアウトが貴族らと穏やかに話しているのが見えた。ユリウスとマチルダの母、第二妃ミディールの姿もある。ルシルギルがオブラディン公と杯を交わし、タイザンがルドルフと何やら神妙な面持ちで話し合っている。スパイクは商人らしき集団の話の中心で笑いを起こしていた。
「帳簿に残らないものもあります」
僕がそう言うと、ルーカスとレオンがゆっくりとうなずいた。
「だから、夜会に来たんですね」
二人が同時に言った。声は共鳴し、一人の言葉よりもより強く耳に残った。




