第五十話:命とエリーゼ
宰相ワイドアウトが、白い手袋の右手を差し伸べた。
僕は反射的にその手を握り返す。僕の笑顔は固まったままだった。正直なところ僕は、この宰相が一番目が離せない。
「夜会に顔を出されるとは、珍しいですね」
「婚約のお披露目の場合は万が一婚約が解消された時に気まずくなりますから、顔を出さないようにしてるだけです」
「まあ最近、実際にありましたからね」
おそらくはフローラ第二皇女のことを言っているのだろう。僕の耳に入っているのだ。彼の耳に入っていてもおかしくはない。
「今日は、妹君とお母様はおいでにならなかったのですか?」
「妹はまだ七歳ですからね。夜も遅いですし。母はまだ体調が芳しくなく、こういう人が多いところは」
「ああ、そうでしたね。 品質の悪い薬草を卸していた業者もありましたが、殿下に対処いただきました。その後、ルナフレア様のお体のご様子はいかがですか?」
「ええ。薬湯の質も目を見張るほど上がって、以前よりは起き上がっている時間が増えました」
「それはよかった」
ワイドアウトは優しく微笑んだ。警戒していた僕は肩透かしを食らった気分だ。
「そういえば」
ワイドアウトの目が光る。
「殿下は今、裁定の写しを集められているとか」
「最近、いくつかの事件に巻き込まれてまして、その容疑者たちが結果的にどう裁かれるのか、見届ける必要があると思いまして」
「それはまた、正義感に溢れることで」
ワイドアウトが柔らかい声で言った。
「父上より監査局を任されておりますゆえ、ことの報告の際に顛末を知らぬでは面目が立ちませんので」
「なるほど。それはそうですね。ですが返納金など不正処分周りについては、いずれ帝国宰相府で整理いたします。監査局は監査に集中なさってください。その後の後始末は、我々宰相府にお任せいただければ」
「それは助かります。思いの外、監査すべき内容が多くて僕の首も回らなくなってきたところでした。ですが、返納金は、どこに戻すべきかは各所の確認が必要だと思います」
「もちろんです。だからこそ、広い権限を持つ部署が取り仕切る必要があるのです」
ワイドアウトは軽く目を伏せた。
彼は、正しいことを言っている。それは僕でもわかる。だが、どこか引っかかる。
「宰相」
秘書らしき男が背後からワイドアウトに近づき耳打ちする。
「申し訳ございません。隣国の王族の対応がございますゆえ、こちらで失礼させていただきます」
ワイドアウトは僕に一礼すると、秘書らしき男とともにその場を後にした。
「一国の宰相と、仲良さげに政治談義されていましたね」
エスメラルダが隣に立ち、言った。
「今のどこが仲良さげに見えたんですか?」
「冗談です」
「じゃあ、本当はどう見えてました?」
「もう、ピリピリしてました」
「ですよね」
「ただ、ほとんどの人たちからしたら殿下の株がさらに上がったはずですよ」
エスメラルダが周囲を見渡す。その視線の先を追う。いつの間にか、僕たちの周りに人だかりが出来ていた。
「聞いてたか? ワイドアウト宰相とヴィルヘルム第三皇子が、帝国の制度について熱い議論を交わされていたぞ」
「ああ。最近の殿下の噂は本当だったんだな」
「殿下の噂?」
「知らないのか? この帝国の悪を暴く、暴れん坊皇子だよ」
「暴れん坊皇子?」
「しー、声が大きい」
「なあに、聞こえやしないって」
いや、聞こえてるから。
周囲の貴族たちのヒソヒソ声が嫌でも耳に入る。
「懲らしめてきましょうか?」
エスメラルダが、こちらをちらちらと見て囁いている、恰幅のいい貴族に向かって指を鳴らした。
「いや、いいですいいです。これ以上、おおごとにしないでください」
「ああいう輩は、今のうちにわからせてあげないと、あることないこと言いふらしますよ」
「だからって、暴力は良くないです。暴力は」
「暴力は振るいませんよ」
「じゃあ、何をするつもりですか?」
「懲らしめるだけです」
だめだ。会話にならない。
「まあ、ああいうのは気にしなければいいですから」
僕がそう言うと、エスメラルダが目を丸くする。
「気にならないのですか?」
「そりゃ気になりますよ。けど、あえて気にしないという選択肢もあります」
「それでいいのですか?」
「気にすべきことは、他にたくさんありますので」
「他に、と言いますと?」
「たとえば、命に関わることとか、エリーゼのこととか」
そう言ったところで、背後から声が聞こえた。
「命とエリーゼが同率か。君らしいな」
声だけで、誰が来たのかわかった。
振り向くと予想通り、第二皇子ユリウスがいた。




