第四十八話:お噂はかねがね
帝城の大広間に入ると、まずその匂いに圧倒された。
人がつけている香水の匂いと壁に飾られた花の匂い、テーブルに並べられた豪勢な料理、葡萄酒の匂い。雑多な匂いが混じり、鼻腔を通じて僕の中に入ってくる。
広間の天井には神々しく光り輝くシャンデリアがいくつも吊るされ、丁寧に磨かれた床の上に集まる数百人はいるであろう人々を照らしている。壁際の楽師が奏でる音楽とともに、集まった貴族たちの談笑が耳に入る。顔を合わせた貴族たちは皆、にこやかに挨拶を交わしていた。
この、にこやかに、というのが一番怖い。
帳簿なら、数字が合わない時点で疑える。だが人間の笑顔は、その見た目と合っていない。どこまでが礼儀でどこからが悪意を含んでいるものなのか、その外面だけでは判別がつかない。
「殿下、お顔が固いです」
エスメラルダが小声で言った。
「顔を柔らかくしたら、帰ってもいいですか?」
「ご冗談を」
「それなら、このままでいきます」
僕の右後ろにはエスメラルダ、左後ろにはカリナが控えている。エルヴィスは控え席に回っていた。招待客ではないが、監査局の書記官として随行を許可した。彼にはある任務を任せてある。
書記官まで連れてくる必要があるのかと問われれば、今日に関しては必要だ。
黒幕を探すと決めたのだ。そのためには、誰が誰と話し、誰が僕らを見ていたのかを記録しておく必要がある。
大広間の奥には、今日の主役であるマチルダ第三皇女がいた。
金色の髪を結い上げ、淡い薔薇色の礼装を纏っていた。笑うたび、周囲の貴族たちが自然と目を向けた。華やかな人だ。第二妃ミディールを母に持つ、第二皇子ユリウスの妹だ。兄のユリウスと同様、自ら光を放ちしかもそれに気づいていない、陽の中心にいるような人に見えた。
「あらヴィルヘルムじゃない」
マチルダが僕に気づいて手を上げた。僕が一歩下がると、背中で止まる。振り返るとエスメラルダが立っていた。
「殿下」
「わかってるよ」
逃げ場はない。僕は渋々、マチルダの元に歩み寄る。
「姉上。この度はご婚姻、おめでとうございます」
「ありがとう。あなたまで来てくれるなんて、嬉しいわ」
「招待状をいただきましたので」
「招待状を送っても、いつも無視するくせに」
マチルダが楽しそうに笑った。僕は返答に困る。
「第三皇子殿下。お目にかかれて光栄です」
マチルダの隣に立つ体格のいい男が、僕に向かって丁寧に頭を下げた。
「グラナルディス教国王弟の、オブラディン・グラナルディスと申します」
「こちらこそ、オブラディン公」
オブラディン公の年はルドルフ第一皇子より少し上くらいだろうか、白と灰を基調にした礼装の胸元には教国の聖印が下がっていた。物腰は柔らかく穏やかな様子だが、視線がよく動いていた。僕の立ち振る舞いを観察しているのかもしれない。
「お噂はかねがね」
「噂?」
「帳簿を見ただけで悪人を炙り出し、次々に処刑台送りにされているとか」
オブラディンは笑顔のまま言った。
「ずいぶん物騒な噂ですね」
「違うのですか?」
「……まあ、間違ってはいませんが」
僕は先日見た裁定告示の内容を思い出していた。
「ずいぶんとお詳しいですね」
「婚姻は我々二人だけの話だけではありませんからね。自然と、国と国の耳が近くなるものです」
「そういうものですか?」
「ええ。殊更、優秀な人物の噂は出回るのが早い」
オブラディンは礼儀正しく笑った。マチルダが手に持っていた扇を閉じる。
「ヴィルヘルム。夜会で大切なことを一つ、あなたに教えてあげるわ」
「大切なこと、ですか?」
マチルダは扇を掌で叩く。パン、と軽い音が響く。
「褒め言葉には気をつけなさい」
「褒め言葉?」
「褒めながら近づいてくる人ほど、何か見返りを求めているものだから」
マチルダはオブラディンを横目に言った。オブラディンは笑顔のまま、首をすくめた。
「僕、今、褒められてました?」
「誰にでもできることではありません。優秀であるが故に、その能力の稀有さに気づけていないだけです」
オブラディンはまだ、笑顔のまま言った。
「まあ、気をつけなさい。人は自分のことを見てないようで見てるから」
マチルダはそう言いながら、広間の正面に視線を向ける。
その視線の先、正面上座の一段高い席に、父上が座っていた。
この国を統べる皇帝としての父は、家族としての父とは別人に見える。白金の冠も、濃い色の外套も、左右に立つ親衛隊も物々しい。
「あー! マチルダ、おめでとう! あら、これが旦那様? やだ、ちょーイケメンじゃない」
体格のいい、派手なドレスの令嬢が現れ僕とマチルダの間に入り、そのままお互い目配せをして会話を終える。そのまま、自然と視線は正面の父上に戻る。
不意に、父の隣に立つ親衛隊の一人がこちらに向かって右手を挙げた。大柄な騎士だ。何となく、親近感のある顔立ちをしていた。その視線は僕ではなく、僕の隣に立つエスメラルダに向いていた。エスメラルダはそれに気づくと、軽く頭を下げた。
「知り合い、ですか?」
僕が尋ねるとエスメラルダが浅いため息を吐いた。
「父です」




