第四十六話:お兄さまも、しざいになるの?
レッドループ水工の職人は、思ったよりも早く現れた。
赤茶けた髪の男で、腰には工具袋を下げている。こちらを見て顔をこわばらせたが、井戸の滑車を見るとすぐに眉をひそめた。
「これ、うちが納めた滑車じゃありませんな」
「分かりますか?」
「当たり前です。ひと目見たらわかります。うちの滑車は軸に赤い輪の焼き印を入れてますから。うーん、これは古い滑車を削って油を塗っただけっぽいな」
職人は滑車を見つつ、指で縄を擦る。
「あー、縄も古い。水桶も一つしかねえな。三つ納めたはずなんですが」
「納めたはず、ということは?」
「うちの若いのが、市内整備課の倉庫に届けてるはずです。受取の控えもありますよ」
係員の喉仏が動いた。
構図が見えた。レッドループ水工が納めた新しい滑車・縄・水桶は、井戸へ取り付けられていない。どこかで止められ、札にだけ修繕済の印が押された。結果、住民は壊れた井戸の前で水を買わされている。
「新しい滑車はどこですか?」
僕が聞くと、係員は答えなかった。水売りの男が、荷車ごと少し後ろに下がる。
「エスメラルダ」
僕が言うと、エスメラルダが水売りの男の前で仁王立ちした。
男は何かを言いかけたが、すぐに口を閉じた。エスメラルダが荷台の布を剥がすと、水桶の奥に木箱が一つ隠れていた。箱の側面には赤い輪の焼き印が施されていた。
「うちの納品箱です」
職人の顔色が変わった。
箱を開けると、まだ綺麗な滑車と縄が入っていた。水桶も三つある。
「なるほど。整備課が井戸を直す道具を水売りに横流し。井戸を壊れたままにして、水を売っていたわけですね」
水売りの男が首を振る。
「お、俺は頼まれただけで……」
「誰に頼まれたんですか?」
男の視線が市内整備課の係員に移った。係員は汗を拭う。だが拭っても拭っても、汗がとめどなく出てきているようだった。
「修繕済みの処理は却下します。古い滑車は証拠として押さえます。レッドループ水工の納品分は有効として、取り付け作業は別で記録してください」
「で、殿下……私は」
係員がか細い声で言った。
「言い訳は、整備課の上役と監査局で聞きます」
係員がその場で膝をついた。
だが、ここで終わると井戸は壊れたままである。
「あの、職人さん」
「は、はい」
「今、直せますか」
「道具があれば……」
「滑車と縄はここにあります。取り付ける前に焼き印と状態だけ記録させてください」
僕が目配せすると、カリナがメモを取り始めた。職人は一瞬だけ目を丸くし、それから大きく頷いた。
「わかりました。今から直しやす」
群衆からざわめきが起こった。誰かが「いいぞ! やれやれ!」と大声を出し、誰かが「おい水売り! 金返せ!」と水売りに詰め寄る。
「返金は後で対応してもらいましょう。まずは井戸の修理です」
僕が言うと、エリーゼが隣でうなずいた。
滑車の交換は、思ったよりもすぐに終わった。職人が井戸上の軸を抜き、新しい滑車をはめて縄を通す。新しい水桶を設置し、それを下ろすと底の方で水が跳ねる音がした。職人がそのまま、ゆっくりと縄を引き上げる。引き上げられた桶の中には、綺麗な水がたっぷりと入っていた。
「おおおおっー!」
周囲の群衆の喝采が通りに響いた。最初に水を受け取ったのは、さきほどの女の子だ。彼女は両手で桶を抱えたまま、「ありがとう」と笑顔で言った。派手な笑顔ではなかったが、感謝の気持ちが満ち溢れた笑顔だった。
「お兄さま」
「はい」
「お水、かえってきたね」
ほっとした様子で、エリーゼが言った。
「そうですね」
僕は正直、生活に必要すぎて、水の存在にありがたみを感じることがなくなっていた。だが帝都の一角では、水一つとってもままならない人々がいることを、改めて学んだ。
通りの熱は、さっきの処刑告示の掲示板前とは少し違っていた。誰かの死に興奮を覚えるのではなく、水が戻った喜びで湧き上がる。僕にはその方がずっといい。
◇ ◇ ◇
【南市井戸端の噂話】
「おい、聞いたか? 第三皇子、今日は街の井戸の様子まで確認しにきたらしいぞ」
「嘘だろ。どこの井戸だよ」
「隣の区画だって」
「あー、あの壊れた井戸か」
「壊れてるのに修繕済みの札を見て、その場で職人を呼びつけたとか」
「で、どうなったんだ?」
「井戸を直して、水を汲めるようにしてくれた」
「いい話じゃないか」
「いい話なもんか。今度は水源を抑えに来たって噂されてるぞ」
「水はやべぇだろ」
「まあけど、壊れた井戸を直してくれるなら、ありがたい黒幕ではあるな」
◇ ◇ ◇
第三皇子宮に戻る頃には僕の靴は汚れ、ふくらはぎがパンパンになっていた。日頃の運動不足が祟ったのだ。
エリーゼも歩き疲れたのか、最後はエスメラルダに抱えられた。僕が抱えると言ったのだが、カリナに「殿下はご自分の足でお戻りになることだけに集中なさってください」と止められた。信頼が薄い。
監査局の戻ると、エルヴィスが書類を積んで待っていた。
「殿下。市中の掲示板に貼られていた裁定告示はご覧になられましたか?」
「何で知ってるんですか?」
「帝都の噂は馬車より早いんですよ」
それは本当に困る。エルヴィスは手に持っていた数枚の写しを、机に並べた。
【黒樺材木商会:帝室取引停止、返納命令、資産差押え】
【同商会主バルド:軍務殿裁判にて死罪】
【ハクシカ薬舗:薬草納入停止、賠償命令】
【軍糧課長ヤンジ:官職剥奪、北方軍糧偽装により軍務殿裁判にて死罪】
【魔術院用度係ジンマン:職務停止、魔術院裁定待ち】
【第二皇子宮事務取次ルーベン・サージェント:解任、拘束】
【バーランド男爵:爵位剥奪、財産没収、軍務殿裁判にて死罪】
【ザイオン厩舎長:軍務殿裁判へ送致】
街で聞いた噂は少し大げさで、少し間違っていた。だが、全部が全部嘘というわけでもなさそうだ。
それにしても。
「こんなに、死罪になるんですね」
僕が言うと、エルヴィスはうなずいた。
「オーバールック橋の詐称と軍糧偽装はどちらも北方の補給線を危うくしたためです。事故が起きれば、兵の命が失われるどころか、北方の警備が手薄になり、国が傾きかねませんからね。バーランド男爵の件も、軍馬の隠匿から書類偽造と魔術院備品の不正使用、虚偽請求に加えて、第一皇子の軍務に直接損害を与えたことで、極刑となったようです」
悪いことをした人間が罰せられる。その制度自体は間違っていない。だがその罰が死罪とは、あまりにも重すぎるように思えた。
広場で「処刑はいつだ」と叫んでいた民衆の声が、まだ耳の奥に残っていた。
エリーゼが、僕の袖を掴んだ。
「お兄さまも、しざいになるの?」
監査局の空気が瞬時に固まった。カリナが口を開きかけた。エスメラルダの視線が少し鋭くなる。エルヴィスの書類を持つ手が震えた。
僕はすぐに笑えなかった。
「ならないように、努力しています」
ようやく、それだけ言えた。
エリーゼは納得したのかしていないのか分からない表情で、僕を見つめた。
「じゃあ、エリーゼも、どりょくします」
「何をですか?」
「お兄さまが、しざいにならないように」
その言葉は励ましというには少し幼く、約束と呼ぶにはどこか頼りなかった。だが、彼女の気持ちが、痛いほど僕に伝わった。
僕は今日、この目で帝都の街並みを見た。白石が敷かれた大通りも細い裏道も、処刑告示に群がる人々も、修理された井戸も。
帳簿上では見えなかった、その向こう側にある誰かの生活を垣間見た気がした。そして、おそらく処刑台の向こうにも、それを見物する誰かの顔があることがわかった。
「エルヴィス」
「はい」
「これまでの裁定写しをまとめてください。誰がどの不正で、どう裁かれたのか。噂ではなく、公式の記録で見たいです」
「かしこまりました。すぐに手配します」
エルヴィスの羽ペンが走る。エリーゼは僕の机の端に小さな紙を置いた。
【お兄さまはしざいにならない】
「なんですかこれは」
「おいちゃだめ?」
「だめです。ものすごく、縁起が悪い」
エリーゼは少し考え、紙を裏返した。その裏に、たどたどしい字で書き直す。
【お兄さまは、どこにいってもかならずかえってくる】
僕は、その紙をすぐにはどかすことができなかった。
エリーゼにしては長い文だった。
どこに行っても、必ず帰ってくる。
これはただの励ましではない。必ず守らなければならない、約束だ。
処刑される未来があるのは僕だけではない。母上もエリーゼも、処刑台に連れて行かれてしまう。小さな妹がこんな手紙を書く世界を、このままにしておいていいはずがない。
このままではダメだ。
目の前の不正を一つずつ片付けているだけでは間に合わない。いつか、処刑台にのぼることになってしまう。それならば。
こちらから、黒幕を探す。
僕を陥れようとする黒幕を探し出す。必ず見つけ出す。
処刑台の夢を、ただの夢で終わらせる。僕はそう、心に誓った。




