第四十五話:では、無視されますか?
通りの角を曲がったところで、小さな女の子が木桶を両手で抱えている姿が見えた。井戸の前だ。
桶の中は空ではない。半分ほど水が入っていた。七歳のエリーゼより少し年上くらいの女の子だった。だがエリーゼに比べその腕は痩せ衰え、桶を抱えるには重そうで、歩くたびに水が地面に溢れていた。
「お水がこぼれてる」
エリーゼが言った。
女の子は共同井戸の前で立ち止まり、壊れた滑車を見上げた。井戸の横には、木札が掛かっていた。
【南市三番共同井戸】
【修繕済】
僕は井戸に近づいた。縄を引いてみるも、びくともしなかった。井戸の石組みは古いが崩れてはいない。問題は井戸ではなく、滑車にあるようだ。よく見ると縄を通す部分が欠け落ち、手をかけ力を入れるとぎしりと嫌な音がする。桶を落とす方の縄も古く、所々擦り切れている。小さな結び目がいくつもあった。とても使えたものではない。
「これで修繕済み?」
思わず大きな声が出てしまった。近くにいた男が顔を上げた。荷車には蓋つきの水桶がいくつも並んでいる。
「旦那ぁ、そこの井戸は使いにくいですぜ。うちの水なら、今なら銅貨三枚」
「銅貨三枚」
前世でいうなら、三百円くらいだろうか。
「お水、買わないとだめなの?」
エリーゼが桶を抱える女の子を見ながら言った。この子はこの井戸で水を汲んでいない。壊れているから汲みようがない。おそらくはこの商人から水を買わされたのだろう。
「井戸が使えれば、買わなくていいはずです」
そう。ここは共同井戸だ。市民なら誰でも無料で水を利用できるはずだ。だが滑車が壊れているため、井戸が使えない。そこに都合よく水売りの男が商売をしている。
「井戸が使えれば、ね」
水売りの男が言った。
「ここには修繕済みと書かれていますが」
「みたいですね。ですが水は汲めない。けど水は欲しい。じゃあどうします、旦那?」
ものすごく腹の立つ言い方だった。
「殿下、裏に検収印がございます」
カリナが井戸の札を手にとって言った。札を裏返すと、そこには小さな印が押されている。
【帝都市内整備課 検収済】
【請負 レッドループ水工】
うーん。
整備課は検収済み、請負はこのレッドループ水工という業者か。どうやら、帳簿を見る必要がありそうだ。僕がため息をつくと、「どうなさいましたか?」とカリナが顔を覗き込む。
「今日は休みのはずだったんですがね」
「では、無視されますか?」
カリナが真顔で言った。そう言われると、答えはもう一つしかない。
僕はエスメラルダを見る。
「市内整備課の詰所はここから近いですか?」
「この先の角にあります。私が呼んできましょうか?」
「いえ、あなたはここにいてください」
僕は水売りとエスメラルダをちらりと見ながら言った。
「承知しました」
エスメラルダは通りを歩いていた警備兵に声をかけた。警備兵は一瞬固まり、エスメラルダに耳打ちされたあと、急いでその場を駆け出した。どんな指示を出せばあんなに必死の形相になるのだろうか。聞きたかったが、今はそれどころではない。
水売りの男が、水が入った荷車の柄を握った。
「旦那ぁ。揉め事なら余所でお願いしますよ」
「揉め事ではありません。修繕済みの井戸が使えない理由を確認しているだけです」
「検収済の札がありますよ」
「だから、確認するんです」
男は舌打ちしかけて、エスメラルダの視線に気づいたのか、すぐに口を閉じた。
しばらくすると、先ほどの警備兵が薄い茶色の制服を着た男を連れて戻ってきた。男は手に帳面を持ち、額には汗を浮かべていた。市内整備課の係員だろう。井戸の前で膝に手をつき、呼吸を整えている。全速力で走ってきたのだろう。気の毒だが、無料で使える井戸の前で水を買わされる人に比べたらそうでもない。
「こちらの井戸ですが、修繕済みですか?」
僕が尋ねると、係員は札と僕の顔を交互に見た。
「記録上は……そうですね。修繕済みでございます」
「現物は使えませんよ」
「ええと、修繕のあと、市民の使い方が荒いこともありますので……」
「市民が壊したとでも言うのですか?」
話にならない。僕は人知れず深く息を吸い込み、吐き出す。
「請負のレッドループ水工を呼んでください」
「今からですか?」
「修繕済みなら、すぐ確認できますよね?」
「あの、さっきから聞いてたら、あなた、一体何なんですか? 何の権利があって、この井戸が修繕済みかどうか確認されてるんです?」
係員の態度が急変する。
「こっちだって忙しいんですよ。検収済みの印が付いてるってことは、修繕済みってことです。そんなことでいちいち呼び出されてたら、仕事になりませんよ。ねえ」
係員は助けを求めるように周りを見た。だが集まってきた人々は皆、井戸の方を見ている。さきほど掲示板の前にいた人たちの顔もあった。
「だ……第三皇子殿下だ」
誰かの声がした。
しまった、と思った時にはもう遅い。興奮していつの間にかフードが下がっていた。ざわめきが一気に広がる。
「あれがヴィ、ヴィルヘルム殿下か? あの、けちな部署の」
「こんな通りの井戸まで見に来てるのか?」
「水源を抑えに来たのか? 今度は水の黒幕にでもなるつもりか?」
黒幕の使い方が雑だ。
「え? あなたが、あの、だ、第三皇子……?」
係員の顔が急に青ざめた。僕のお忍び時間が終わった瞬間だった。




