第四十二話:お兄さまに、ごほうびです
カスケード号を北門外の軍馬管理区へ戻す準備は、その場で始まった。
ハンスが短く合図すると、第一皇子の騎士二人がバーランド男爵の両脇に立った。男爵は何か言いかけたが、ルドルフの鬼のような視線を受け、口を閉じた。
ザイオン厩舎長は裏口から逃げようとしていたらしく、少し遅れて連れてこられた。襟元には藁がつき、顔色はさっきより悪くなっていた。
回収された十二個の小型結界石は一つずつ布袋に入れられた。その一つひとつを、ユリウスが指で軽く叩く。
「よし。全部本物だね」
ユリウスが布袋を見下ろしながら言った。
「これで、万事解決ですね」
僕が言うと、ユリウスは笑みを深くした。
「本当、舐められたもんだよ」
「そんなことを言う割には、笑顔ですね」
「そう見えるかい?」
「はい」
「僕は今、かなーり機嫌が悪いよ」
ユリウスが笑顔でそう言うので、余計に怖かった。
軍馬医ヘルマンは、偽造署名の被害を受けた参考人として、軍務殿預かりになった。カスケード号用として請求されていた特別飼葉については、その納入先と使用先を洗い直すことになった。書類上の処理だけなら、難しいことではない。
だが、盗まれたのは飼葉代だけではない。四か月のあいだ、ルドルフは愛馬の死を信じ込まされていた。
移送用の馬具が整うまで、カスケード号にはムーンライズ厩舎の前で砕き大麦が与えられた。カスケードはゆっくりと慎重に、口を動かしていた。ルドルフはその傍らに立ち、それを優しい視線で見つめていた。
「ヴィルヘルム」
不意にルドルフが僕の名を呼んだ。
「はい」
「俺は、カスケードが死んだと聞かされていた」
「はい」
「戦場でもない場所で、俺の愛馬を盗まれた」
ルドルフの手がカスケード号の首に触れても、馬は嫌がらなかった。
「北方で兵が奪われる前に、この帝都で馬を奪われていたわけだ」
返す言葉がない。ユリウスも、隣で黙っていた。いつものように茶化すことも、綺麗な言い回しで場を和らげることもしない。銀灰色の髪が厩舎の薄暗い光を受けて、少し冷たく見えた。
「兄上」
ユリウスがルドルフに向かって言った。
「なんだ?」
「この馬を守るためなら、僕は喜んで結界石を貸しましたよ」
ルドルフの、カスケードを撫でる手が止まった。
「実際には守っていなかった」
「ええ。だから、無性に腹が立っています」
ユリウスは、そこでようやく笑った。
「僕は楽しいことが好きです。逆に、こういうのは大嫌いです」
ルドルフがユリウスを見つめた。
「ならば、嫌いなものは潰せ」
「兄上がおっしゃると、余計に物騒ですね」
「事実だ」
「ええ。今回は同意します」
怖い兄と軽やかな兄が、珍しく同じ方向を向いている。その真ん中に僕がいる。
帰りたい。
「ヴィルヘルム」
「はい」
「顔を上げろ」
ルドルフは命令口調だった。僕は反射で顔を上げた。
「カスケードは生きていた。それを見つけたのは、お前だ」
「僕は帳簿を見ただけです」
「お前が帳簿を見てくれたおかげで、俺の馬が生きて戻ってきた」
僕は何か返そうとして、口を開けた。だが、言葉が出てこなかった。ルドルフが目を伏せた。
「受けた借りは忘れん」
礼ではない。第一皇子としての、命令に近い宣言だ。それでも、処刑台の夢で僕を断罪する側にいた兄の声とは、少しだけ違って聞こえた。
「兄上」
ユリウスが片手を上げる。
「僕の結界石の件も、その借りに入れていただけませんか?」
「お前は勝手についてきただけだろう」
「その言い方はひどいなぁ。僕も傷ついたんですよ、主に面子が」
「ならば、魔術院で適切に処理しろ」
「それはもちろんそうします。ただ、カスケード号にも僕の結界石にも、ムーンライズの名前が出てきています。軍務殿だけでも、魔術院だけでも綺麗には片づきません」
「何が言いたい」
「しばらくは兄上と僕とヴィルで、同じ台帳を見た方が早いということです。ねえ、君もそう思うだろう? ヴィル」
ユリウスはそこで僕を見た。
「僕に振らないでください」
「そもそも、君が帳簿で気づいたからだ」
「見つけたくて見つけたわけじゃありません。皆さんが帳簿をきちんと見ないからです」
ルドルフが、ほんの少しだけ眉を動かした。
「帳簿を見ても、項目が多すぎて何が何だか正直わからん」
「兄上はそういうこと、大きな声で言わないでください」
僕がルドルフに突っ込みを入れると、ユリウスが柄にもなく大きな声を出して笑った。
ハンスが無言で僕を見た。ノアもだ。エスメラルダの視線も感じる。
護衛三人分の視線を浴びながら、僕は心の中で最大級のため息をついた。
◇ ◇ ◇
【貴族院裏庭の噂話】
「聞いたか? 死んだはずの第一皇子の愛馬が、貴族院裏で生きていたらしい」
「カスケード号だろ?」
「しかも第二皇子の結界石で隠されてたんだと」
「第二皇子が隠蔽に加担してたのか?」
「どうやら違う。その結界石は借りパクされてて、それを見つけたのが第三皇子らしい」
「で、結局、最終的にどうなったんだ?」
「愛馬は第一皇子の元に、石は第二皇子の元に、帳簿は第三皇子の元に戻ったんだと」
「じゃあ、全部元通りになっただけじゃないか」
「元通りだが、借りができる」
「なるほど。貸しを作ったってことか、第一皇子と第二皇子に。やることが本当にもう黒幕だな」
◇ ◇ ◇
夜、監査局の机に戻ると、エリーゼが待っていた。
「お馬さん、生きてた?」
「生きていました」
エリーゼはほっとした様子で、ふうと息を吐いた。後ろに手を組んで何やらもじもじしている。
「どうしましたか?」
僕が尋ねると、エリーゼが後ろから小さな紙箱を差し出した。
「これは?」
エリーゼが箱を開けると、中にはカットされたシフォンケーキが入っていた。甘い林檎の香りがした。
「お馬さんにあげる」
エリーゼの背後にいたカリナが驚いた表情を見せた。
「お馬さんは食べないかな」
「じゃあ、お兄さまに」
「僕も夕食前だからなぁ」
エリーゼはむっとして頬を膨らませる。エスメラルダが、僕の手元とエリーゼの顔を見比べてから、静かに言った。
「殿下は今日、よく働かれました。疲労回復には甘いものがいいそうですよ。一つくらいなら、よろしいかと」
普段は夕食前の間食を止める人間が、今日は許可を出した。エリーゼの顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ、お兄さまに、ごほうびです」
エリーゼは仰々しく、両手でシフォンケーキの入った紙箱を僕に向ける。
「ご褒美と言われると、断りづらいですね」
僕はシフォンケーキを受け取とり、一口食べる。柔らかい生地が舌の上でほどけ、林檎と蜂蜜の匂いが口の中に広がる。甘さは控えめでちょうどいい。
帳簿の中で曖昧だった馬がちゃんと生きていた。その事実を、改めてシフォンケーキと共に飲み込んだ。
談笑していると、エルヴィスが机の端に別の紙を置いた。
【第一皇子宮通達】
【カスケード号 生存確認受理】
【北門外軍馬管理区へ復帰】
【関係者拘束および飼養費精査】
「先ほど第一皇子宮から届きました。ルドルフ第一皇子がカスケード号の件を正式に受理されたようです」
お礼状ではない。ただの通達書だ。だが、今の僕にはその方がありがたかった。変にお礼を言われたら、どう返せばいいか分からない。通達書であれば、何が決まってこれから誰が動くのかだけを確認すればいい。
今回、僕が何もしていなければ、この小型結界石とカスケード号の隠蔽は巡り巡って僕のせいにされていただろう。
処刑台の夢に出てくるルドルフ第一皇子は、僕を断罪する側の人間だった。だが、この通達書は、僕ではなく不正の方に向いている。
第一皇子の黒い印を見ていると、胸の奥にこびりついていたものがほんの少しだけ剥がれた気がした。認められた気がしたのだ。これで僕は、処刑台の夢から解放される。はずだ。そう思わなければもうやってられない。
僕は、今度こそ明日の予定表を見ないことにした。
明日はゆっくり休む。最近、働き詰めだ。第一皇子と第二皇子という、僕の生殺与奪権を持つ二人と行動を共にしていたせいで、通常業務よりはるかに疲労度が高い。
決めた。明日は監査局を閉鎖して、箱庭作りに勤しもう。
僕は心にそう決めて、机の上の予定表を裏返した。




