番外:エリーゼ(がお兄さま)のために①
エリーゼ第六皇女が小さな外套を抱え、自室から出てきた。片袖だけ通しかけていて、裾が床を引きずっていた。きょろきょろと周囲を警戒している。
「エリーゼ様」
私が背後から声をかけるとエリーゼ様は振り返り、外套を背中へ隠した。だがその背中はとても小さく、外套を隠しきれていない。
「どうしたの? カリナもどこかにおでかけ?」
「いいえ。私はエリーゼ様の様子を見に参りました」
「エリーゼ、なにもしてないよ」
「これからするつもりでございますね」
私がそう言うと、エリーゼ様は目を逸らされた。彼女の気持ちは痛いほどわかるが、第三侍女室の室長として、見逃すわけにはいかなかった。
ここ数日、エリーゼ様の兄であるヴィルヘルム殿下は朝早くから書類を抱えて外出し、夜になるまで戻らないことが増えていた。戻られた時の顔は平静を装ってはいるものの、その袖口は汚れ、手袋には事務仕事ではつかないであろう染みが残っている。
殿下は毎度「大丈夫です」とおっしゃるが、大丈夫な人は帰ってきてすぐに机に突っ伏して大きなため息をついたりはしない。
エリーゼ様はそんな殿下の様子を毎日、一番近くで見ていた。
「ちょっと、お兄さまのようすをみにいこうとおもって」
「殿下は今日も監査局のお仕事です」
「またお外?」
「はい」
「エリーゼもいく」
「いけません」
「なんで?」
「エリーゼ様は、まだ小さいからでございます」
エリーゼ様は唇を固く結び、じっと足元を見つめる。
「お兄さま、ひとりだとたいへんそう」
「エスメラルダが一緒ですから、大丈夫ですよ。殿下の護衛ですから、何かあれば彼女が守ります。実務に関してはエルヴィスがいるので、その点も安心です」
「でも、エリーゼもいっしょにいたい」
その言葉に、私は返事に詰まった。エリーゼ様が潤んだ瞳で私を見上げている。
「エリーゼ様がご一緒されれば、殿下はお仕事の前に、エリーゼ様をお守りしなければなりません」
「なんで?」
「それは、まだエリーゼ様が小さいからでございます」
「そればっかり」
「ですが、事実でございます」
「ちいさいエリーゼがお兄さまのおそばにいったら、どうなるの?」
「殿下は嬉しい反面、困ると思います」
「お兄さまがこまる?」
エリーゼ様の肩が小さく落ちた。
「じゃあ、エリーゼだけ、なんにもできない」
私は膝をつき、エリーゼ様と目線を合わせる。
「いえ。できることはございますよ」
「エリーゼに、なにができるの?」
私の慰めの言葉に、エリーゼ様が即座に反応する。
「そうですね。たとえば何か、殿下が喜ぶものを作るとか」
私の言葉に、エリーゼ様の顔が明るくなる。
「よろこぶもの? よろこぶものってなに?」
エリーゼ様が私に顔を近づける。近すぎて眩しい。
私は瞬時に頭を回転させる。ふといい案が思いついた。
「……疲れが取れるような、お菓子とか」
「つかれがとれるおかし?」
「はい。お菓子です。甘いお菓子。殿下も喜ばれると思います」
「お兄さまに、ごほうびとして?」
「はい。エリーゼ様にしか作れない、甘いお菓子のご褒美です」
外套を握っていた小さな手が、ゆっくり緩んだ。
「つくる!」
◇ ◇ ◇
厨房に、第三侍女室のサクラとミコトを呼んだ。サクラは料理屋の娘で、ミコトは帝室の厨房で勤務していた経験があるため、エリーゼ様の補助要員として任命した。
「これより、エリーゼ様が殿下のためにお菓子を作られます」
私の言葉に、エプロンをつけたエリーゼ様が頷いた。台所に届かないので、エリーゼ様の身長に合わせた台座を用意した。
「承知しました」
「作るのはどんな種類のお菓子でしょうか?」
エリーゼ様の両隣に立つサクラとミコトが言った。
「そうですね。持ち運べて柔らかくて、疲れた殿下でも食べやすいものがいいでしょうね」
「ぷりんは?」
「プリンもよいお菓子ですが、箱に入れて渡すには少々難しゅうございます」
「じゃあ、ふわふわなおかし?」
「ふわふわなお菓子」
私はエリーゼ様の言葉を頼りに、脳内のレシピ帳を高速でめくる。
「シフォンケーキはいかがでしょうか」
エリーゼ様の右隣で、サクラが手を挙げた。
「しふぉんケーキ?」
「卵の泡で膨らませる、柔らかいお菓子です」
左隣のミコトが補足する。
「それを食べたら、お兄さまはよろこんでくれるかな?」
「はい。とても喜ばれると思います」
「つかれもとれる?」
「少なくとも硬い焼き菓子よりは食べやすく、疲れにくいと思いますよ」
私が言うと、エリーゼ様が目を大きく見開いた。
「じゃあ、それにする! エリーゼがぜんぶつくる!」
エリーゼ様が、その小さな両手を作業台に置いて高らかに宣言した。その右隣に立つサクラが私を見た。左隣のミコトも私を見る。
これ、どうするんですか?
そんな彼女たちの心の声が私の脳に届いた。私は少し考えた後、頷いた。
「はい。エリーゼ様に全部作っていただきましょう。ただし、火と刃物を使う作業は、私どもにお任せください」
「エリーゼ、ぜんぶやりたい」
「全部を一人でなさると、時間がかかってしまいます。エリーゼ様は料理長として、私どもに指示をお出しいただければ」
「りょうりちょう? エリーゼが、りょうりちょう?」
「はい。エリーゼ料理長でございます」
エリーゼ様はしばらく真剣に考えてから、こくりとうなずいた。
「わかった。カリナは火、サクラは粉、ミコトは、えーと、ふわふわっ!」
「承知しました」
「粉をお持ちします」
「ふわふわは、私が責任を持ってふわふわにします!」
ミコトの返事は少し怪しかったが、エリーゼ様が満足げだったので、私はそのままにした。
だが、最初の問題は火でも刃物でもふわふわでもなかった。
粉を量る際、エリーゼ様は匙に山盛りによそった。砂糖も山盛りだ。蜂蜜に関しては「甘いほうがお兄さまが元気になる」と言って、もう一匙足そうとした。
ミコトが「蜂蜜は元気になりますし」と言いかけ、私とサクラが同時に睨んでようやくその口を閉じた。
「エリーゼ様。控えめに言って、入れすぎでございます」
「でも、あまいとつかれがとれるよ」
「甘ければよい、というものでもございません。レシピ通りに作らなければ、ケーキは膨らみません。粉が多すぎても、砂糖が多すぎても、蜂蜜が多すぎても、形が崩れてしまいますよ。第一、美味しくなりません」
エリーゼ様は匙を持ったまま、私を見上げた。
「じゃあ、どうしたらいいの?」
エリーゼ様が今にも泣き出しそうな表情で私を見つめている。
「ミコト」
「はっ!」
私が呼ぶと、ミコトが一冊のレシピ帳を両手で抱え、作業台の上に置いた。
「こちらに、百年以上の歴史を持つ侍女室門外不出のケーキレシピがございます。まずは、このレシピ通りの分量で作るのがよろしいかと」
「ぶんりょう?」
「シフォンケーキを作る上で必要な材料の量……数字でございます」
「すうじ」
エリーゼ様が台座の上で背伸びをしながら、レシピを食い入るように見つめる。
「すうじが、だいじ?」
「はい。とても大事でございます」
「お兄さまの、ちょうぼみたいに?」
サクラとミコトが顔を見合わせた。
「はい。殿下の帳簿と一緒でございます。数字がほんの少し違うだけで、美味しくできず、大きく形が崩れてしまいます」
エリーゼ様は器の中の粉をじっと見つめる。
「じゃあ、これもくずれちゃうの?」
「このまま焼けば、おそらくは」
「それはやだ」
「はい」
エリーゼ様の眉が下がり、唇が尖る。
「もういっかい、ちゃんとはかる」
「はい。もう一度、最初から量りましょう」
一度目の生地は練習用にした。案の定、焼いてみるとケーキは中央からしゅんと沈んだ。
「つぶれちゃった。カリナのいったとおりだ」
「はい。分量を間違えてしまったので、膨らみきれませんでしたね」
エリーゼ様は、潰れたケーキをしばらく見ていた。
「お兄さまのしごとって、こういうこと?」
「そうですね。殿下は帳簿の数字を見て、あとで大きな困りごとにならないよう、気をつけておられます」
「じゃあ、エリーゼもちゃんとはからないとね」
小さな声だった。だがその目は先ほどにもまして真剣そのものだった。
「お兄さまのごほうび、こんどはくずれないようにつくる」




