第四十話:君がいれば百人力だ
軍馬医は呼びに向かった兵と入れ違いに現れた。
正確には、隔離厩に併設された医療小屋から出てきた。白い髭を短く刈った老人で、片手に古い革鞄を持っている。
「久しいな。ヘルマン」
ヘルマンと呼ばれた軍馬医はルドルフを見るなり、深々と頭を下げた。
「殿下。申し訳ございません。今まで、直接お耳に入れることができませんでした」
その一言で、厩舎長ザイオンの肩が跳ねた。
「お前も知っていたのか?」
ルドルフの声がさらに低くなる。腹に響く。
「黙っていたわけではございません。異議書は出しました。カスケード号の処分に、私は立ち会っていないと」
「俺には届いていない」
「はい。ザイオン厩舎長のところで止められました。馬疫疑いの処分は、軍馬医と厩舎長の署名で進みます。私一人が口で訴えても、遺骸も移送先も確認できなければ、第一皇子に直接申し上げる証拠が足りませんでした」
ヘルマンは、革鞄を握る手に力を込めた。
「署名は偽造ですか?」
僕が尋ねると、ヘルマンはゆっくりとうなずいた。
「はい。私はカスケード号の処分に立ち会っておりません」
「では、カスケード号は今どこに?」
ユリウスが尋ねた。
「カスケード号は、生きております」
ルドルフの目が見開いた。
頭の中で組み立てていた仮説がひっくり返った。死んだ馬の飼葉代を抜いていただけではない。生きている馬を、死んだことにして別の場所へ隠していたのだ。
ヘルマンは革鞄から小さな布を取り出した。青い房飾りだった。
「これは?」
「カスケード号の馬具につけていた飾りだ」
僕の問いに答えたのはルドルフだった。ヘルマンは頷いた。
「四か月前、カスケード号は馬疫の疑いありとして、この隔離厩に移されました。ですが私は、以後の診察は不要、近づくなとザイオン厩舎長から命じられました」
「カスケード号は、処分されたのではなかったのですね」
「はい。私は処分に立ち会っておりません。病厩の中には入れませんでしたが、夜になると餌と水が運び込まれていました。処分済みの馬にする世話ではありません」
「そして二か月前の夜、医療小屋から荷車が出るのを見ました。門前で止めようとしましたが、上からの命だと押し切られました。その時に落ちたのが……」
「この房飾りということですね」
僕はヘルマンが持つ青い房飾りを見て言った。
「カスケード号は、どこに?」
「荷馬車の屋号は巧妙に隠されていましたが、微かに見えた荷車の側板に、月の紋章が施されていました」
「月の紋章……」
「ムーンライズ」
エルヴィスとエスメラルダの声が重なった。
「ムーンライズの線が強そうだね。貴族院裏にはムーンライズ牧場の分厩がある。貸出控えに出ていた場所だ」
ユリウスの言葉に、ヘルマンは目を伏せた。
「夜間の搬出で、私が追えたのはそこまででした」
「ヘェルマァァンっ! 貴様ぁ!」
ザイオンが叫んだ。
「私は署名していない」
興奮するザイオンに対し、ヘルマンの声は静かだった。
「カスケード号は胃が弱い。飼葉は細かく刻んだ上等の干し草に、湯でふやかした砕き大麦を少し」
ヘルマンは飼葉桶の方を見た。
「馬房には常に塩舐め石を吊るしている。汗を多くかいた日は、舐めた回数まで厩務員が記録する。普通の軍馬用の粗い干し草だけでは、あの馬はすぐ腹を壊す。なのにこの台帳では、カスケード号用の特別飼葉を軍馬厩で受け取った扱いになっている」
ヘルマンは僕を見た。
「殿下。カスケード号がまだ生きているなら、その飼葉はそこに運ばれているはずです」
つい先ほどまで抜かれているだけに見えた飼葉代が、急にカスケード号の居場所を示す手がかりに変わった。急すぎて胃が痛い。
「笑っている場合か」
ルドルフが、ユリウスを見て言った。ユリウスは確かに笑っていた。
「兄上。これが笑わずにいられますか。僕の結界石の控えにも、ムーンライズの名がありました。魔術院の石に兄上の馬、それがまだ続く。ずいぶん広く、長く続く不正です。だが、尻尾が見えてきた」
よく見るとユリウスは笑っているのだが、その目は黒く沈んでいた。僕はその温度差に、思わずぞっとする。
「僕はね、自分の物を勝手に使われるのが死ぬほど嫌いなんですよ。ただ、それ以上に、大事な人の大事なものを奪う行為は許せないです」
そう言ってユリウスは、ルドルフを見た。
「ムーンライズ厩舎へ行く」
ルドルフは一拍置いて、短く命じた。
「ヴィル、君も一緒に来るだろう?」
ユリウスが僕の肩に腕を回した。
「ここまできて、行かないって選択肢はないでしょう」
本当は帰りたい。だがその気持ち以上に、真実を明らかにしたい気持ちが強い。
「よかった。君がいれば百人力だ」
手垢のついた褒め言葉だが、それは意外と僕の気持ちを高揚させた。




